『書くことについて』(スティーブン・キング)のレビュー
これは持論ですが、およそ本を読む人というのは心のどこかで「自分も本を書きたい」と思っているはずじゃないでしょうか。
私自身がその一人であります。
小説まがいのものを書いたり、構想だけが頭の中でうねっているのをベッドに入ってから練ったり貼ったりしているのですが、なかなかそれを文章という形に落とし込むのは難儀なもので、いまだにできていませんから、たとえ巧拙の差があるにせよ、曲がりなりにも物語をひとつ作り上げられる人には畏敬の念を抱かざるを得ません。
そんな小説家ワナビの人たちのバイブルとしていい感じの本だったので、ご紹介します。
スティーブン・キングは1947年生まれのアメリカ人作家で、多くの作品がたびたび映画化されている、アメリカを代表するエンタメ小説作家のひとりでしょう。
かくいう私も映画は見ているのですが、原作小説は読んでいません。
というのも、だいたい上下巻、多いものだと3巻以上になっていて、かなりボリューミーなんですよね。
なので、いまだに尻込みしています。
ただ調べたところ、「後味悪すぎ映画」として有名な『ミスト』は短編集に入っているようなので、近々、コイツは読んでみようかなと思いました。
さて、本書はそんなスティーブン・キングがタイトルの通り「書くこと」についてあれやこれやと語る一冊となっています。
当然ながら、書くものは「小説」です。
著者も、この本の読者は小説を書きたがっている、小説家になりたがっている人間であると想定して書いています。
本書は「もくじ」がないのでちょっとわかりにくいのですが、ぜんたいとして次のような構成になっています。
「履歴書」
スティーブン・キングの幼少期からいかにしてヒットメーカーになったのかをつづったエッセーパート。
とりあえず、医者の言う「ちょっと痛いですよ」は「すごく痛いから覚悟しろ」という意味であることは間違いないですね。
読むとわかりますが、何度も何度も出版社に送りつけてはNGをくらい、それでもめげずに送り続けています。
これはハリポタシリーズのJ・K・ローリングも同じです。
「何かを書くときには、自分にストーリーを語って聞かせればいい。手直しをするときにいちばん大事なのは、余計な言葉をすべて削ることだ」
このとき、グールドはほかにも含蓄のある言葉を口にした――ドアを閉めて書け。ドアをあけて書きなおせ。言いかえるなら、最初は自分ひとりのものだが、次の段階ではそうではなくなるということだ。原稿を書き、完成させたら、あとはそれを読んだり批判したりする者のものになる。運がよければ、批判するより読みたいと思う者のほうが多くなる。
そのあと、小休止というか「書くこととは――」という文言のあとに、気分転換的な文章が入ります。
(書くこととは)ずばりテレパシーである。
(中略)本書が刊行されるのは二〇〇〇年の夏の終わりか秋のはじめくらいになるだろう。たとえ予定どおりにことが運んだとしても、あなたは私より時間的に少し後ろにいることになる。でも、そこはきっと見晴らしのいいところにちがいない。そこで、あなたは私からテレパシーを受けとることになる。もちろん、そこにいなくてもいい。本は持ち運びのできる魔法の道具だ。
(中略)
あなたはお気に入りの受信地にいて、私はお気に入りの発信地にいる。われわれは霊媒師のように空間だけでなく時間もへだてて交感しなければならないが、実際のところ、それはそんなにむずかしいことではない。われわれがディケンズやシェイクスピアを読んだり、脚注さえあればヘロドトスを読んだりすることができるとすれば、一九九七年と二〇〇〇年のへだたりなどどうということはない。
「道具箱」
小説家が使いこなすべき道具箱……つまり言葉や文法のルールについて述べられているパートです。
キングはアメリカ人なので当然ながら英語の文章の書き方について述べられているのだけれど、根本的な部分で印象的なメッセージも多々あります。
下手な文章の根っこには、たいてい不安がある。自分の楽しみのために書くなら、不安を覚えることはあまりない。そういうときには、先に言ったような臆病さが頭をもたげることはない。だが、学校のレポートや、新聞記事や、学習能力適正テキストなどを書くときには、不安が表に現れる。ダンボは魔法の羽根で空を飛ぶ。われわれが受動態や副詞にすがるのは、この魔法の羽根の助けを借りたいからだ。が、ここで忘れてはならないのは、ダンボは生得のものとして魔法の力を持っており、羽根がなくても空を飛べるということである。
あなたは自分のことがよくわかっているはずだ。自身を持ち、能動態でどんどん書き進めていけばいい。それで何も問題はない。"彼は言った”と書くだけで、読者はそれがどんな口ぶりだったのか(早口か、ゆっくりか、嬉しそうにか、悲しそうにか等々)わかってくれる。もし読者が沼でもがいていたら、もちろんロープを投げなければならない。が、だといって、九〇フィートの鉄のケーブルで打ちのめすようなことがあってはいいわけはない。
いいものを書くためには、不安と気どりをすてなければならない。気どりというのは、他人の目に自分の文章がどう映っているかを紀にすることから始まる、それ自体が臆病者のふるまいである。もうひとつ、いいものを書くためには、これからとりかかろうとしている仕事にもっとも適した道具を選ぶことだ。
「書くことについて」
最後のパートであるこちらでは、文章というよりも「物語」を紡ぎ出すためのコツが述べられています。
キングはプロットはあまり重視していないようです。
あと、小難しい言葉遣いも嫌いだし、余計な装飾(とくにそれが陳腐でありきたりなものであればあるほど)も嫌いです。
あとは、作家を目指すものの心構え的なことも述べられています
作家になりたいなら、絶対にしなければならないことがふたつある。たくさん読み、たくさん書くことだ。私の知るかぎり、そのかわりになるものはないし、近道もない。
私は本を読むのがそんなに速いほうではない。それでも、一年に七十冊から八十冊は読む。そのほとんどは小説だ。読みたいから読むのであって、何かを学ぶためではない。たいていは夜、書斎の青い椅子にゆったりと腰掛けて読む。繰りかえしになるが、読みたいから読んでいるのであって、小説の技法やアイデアを学ぶためではない。それでも、読めば必ず得られるものはある。手に取った本にはかならず何かを教えられる。概して優れた作品より、できの悪い作品のほうが教わるものは多い。
私の考えでは、短篇であれ長篇であれ、小説は三つの要素から成りたっている。ストーリーをA地点からB地点へ運び、最終的にはZ地点まで持っていく叙述、読者にリアリティを感じさせる描写、そして登場人物に命を吹き込む会話である。
プロットはどこにあるのかと不思議に思われるかもしれない。答え(少なくとも私の答え)は"どこにもない"である。プロットなど考えたこともないと言うのは、一度も嘘をついたことがないと言うのと同じだ。けれども、どちらもその頻度をできるだけ減らそうとはしている。プロットに重きを置かない理由はふたつある。第一に、そもそも人生に筋書きなどないから。どんなに道理的な予防措置を講じても、どんなに周到な計画を立てても、そうは問屋がおろしてくれない。第二に、プロットをよく練るのと、ストーリーが自然に生まれでるのは、相矛盾することだから。この点はよくよく念を押しておかなければならない。ストーリーは自然にできていくというのが私の基本的な考えだ。作家がしなければならないのは、ストーリーに成長の場を与え、それを文字にすることなのである。この点を理解していただけるなら――少なくとも理解しようとしていただけるなら、われわれはきっとうまくやっていける。そうでなく、おまえは狂っていると言うのなら、それはそれで仕方ない。そんなふうに言われるのは初めてのことではない。
まあもちろん、小説の書き方に正解とか不正解とかがあるわけではないし、必ずしもキングの言葉が正しいというわけではないでしょう。
ただ、少なくともキングが小説家として成功を収めているのは事実だし、そのキング本人が言っていることは傾聴に値するのではないかなと。
あと、普通に一冊のエッセーとしておもしろい(最後に仕掛けというか、オチもあるし)ですしね。
後記
マンガ『刷ったもんだ!』を読みました。
元ヤンかつオタクの女性が中規模?の印刷会社に就職して、そこで印刷にまつわるいろいろなことを学んでいくというお仕事マンガです。
私は仕事柄、印刷会社の人とはそれこそ毎日のように連絡を取り合うのですが、基本的には渉外を担当している営業の人としか話さないので、じつは印刷会社のなかでどういう仕事が行われているのかということはよくわかっていませんでした。
このマンガではそのあたり、印刷会社の人たちが普段、どういう仕事に従事しているのか、さらには印刷に関するさまざまな知識をわかりやすく教えてくれるので、個人的にはけっこう勉強になりましたね。
あとは絵柄もきれいで、登場するキャラクターたちも個性豊か(名前にだいたい色が入っています)なので、読んでいて楽しいです。
主人公とかほかのキャラクターのバックグラウンドストーリーもまだいろいろありそうなので、楽しみ。
今回はこんなところで。
それでは、お粗末さまでした。