本で死ぬ ver2.0

基本的には本の話。でもたまに別の話。

『ブルシット・ジョブ』(デヴィッド・グレーバー著)のレビュー

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アルベール・カミュの随筆『シーシュポスの神話』には、神々の怒りを買ったシーシュポスが、ひたすら山の山頂に岩を運び続ける罰を与えられるという話があります。

でもシーシュポスが苦労して山頂に岩を運んだ瞬間、岩は絶対に山のふもとまで転がり落ちてしまいます。何度やっても、この結果は変わりません。

 

シーシュポスの神話 (新潮文庫)

シーシュポスの神話 (新潮文庫)

  • 作者:カミュ
  • 発売日: 1969/07/17
  • メディア: 文庫
 

 

私たちが日々やっていることも、このシーシュポスとなんら変わらないのかもしれません。

自分がやっている仕事に意味があるのか……という思いを抱いたことがある人は少なくないのではないでしょうか。

少なくとも私はけっこう頻繁に感じます。

そもそも本なんて生活になくても死なない嗜好品みたいなもんですし、古今東西の名著が古びることはありませんから、商品は増え続けるばかりです。

すでに世の中にありとあらゆるコンテンツは出尽くしている感がありますから、あえて無理くり新しい本をつくる必然性は高くないでしょう。

とくに、「そろそろ新しい企画を考えて会社に提案しないとなあ」と考えながら書店をぶらついていると、山のように積まれた新刊書籍を前にして「すでにこんなに本が出ているのに新しい本を作ることに意味なんてあるんだろうか」などという思いが去来して虚しくなってきたりします。

といっても、その一方で新しい企画を思いついて本を作りはじめると楽しくなってきてしまうのも事実で、虚無感と一時的な熱狂を行き来しつつ、そんな自分の感情に折り合いをつけながら働いている毎日です。

ほかの業界のことはよくわかりませんが、おそらく、多くの業界で働く人が私と同じように「別に自分の仕事がなくなっても社会(とか会社)は回るよね」と考えている人は少なくないんじゃないかと思います。

そういうあまり表面に現れてこないモヤモヤを言語化してまとめたのが、たぶんこの本なのでしょう。

 

 

ブルシット・ジョブというのは、サブタイトルにもなっていますが、「クソどうでもいい仕事」という意味です。

 

ブルシット・ジョブとは、被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態である。とはいえ、その雇用条件の一環として、本人は、そうではないと取り繕わなければならないように感じている。

 

ブルシット・ジョブのもっとも厄介なポイントは、上の説明文の最後の一文に尽きるでしょう。

みんな薄々、自分の仕事の無意味さに気づいているけれど、その無意味な仕事によってこの資本主義社会が回っているし、それによって自分は生活するためのお金を得ることができているのだから、口に出すことができない状況なのです。

 

さて本書誕生のきっかけは、文化人類学者の著者が思いつきでウェブマガジンに投稿したブルシット・ジョブの考察からでした。

この投稿をしたところ、サーバーがダウンするほどの大量のアクセスが集まり、多くの人々が「自分の仕事もブルシット・ジョブだ」ということコメントを寄せまくったのです。

ある意味、この本はパンドラの匣を開けてしまったのかもしれません。

 

さて本書は以下のような内容で構成されています。

・ブルシット・ジョブとはなにか

・ブルシット・ジョブにはどんな種類があるか

・ブルシット・ジョブは人間の精神にどのような悪影響を及ぼすか

・なぜブルシット・ジョブは増え続けるのか

・ブルシット・ジョブの増大は社会にどのような影響をもたらすのか

 

ぶっちゃけ、かなりボリューミーで読むのはなかなかしんどい本です。

著者のもとに寄せられた具体的なメッセージを多数紹介しつつ持論を展開していきますが、なんとなく論理がまとまりきれていないような印象も受けます。

たぶん、私たちの仕事の多くが「ブルシット・ジョブ」なのは間違いないだろうけれど、じゃあ私たちはどうすればいいのか、ということはわかりません。

もしかすると今後、AIとか人工知能がさらに進歩して、もっともっと人間が働かなく慣れば、それにともなってブルシット・ジョブは減少していくかもしれないし、逆に、そういったAIなどが人間からさらにエッセンシャルな仕事を奪い、それでも働くことを共用される人々が増えることでブルシット・ジョブの増加につながる未来もありえます。

 

そういえば、新型コロナの感染拡大で、小池百合子都知事が「エッセンシャルワーカー以外は東京に来るな」的な発言をしたことがニュースになっていました。

 

news.yahoo.co.jp

 

新型コロナによって私も打ち合わせとか飲み会がかなり減りましたが、じゃあそれによって仕事にどうしようもなく差し支えがあるかとか、なにかすごく困った事態になっているかというと、そんなことはありません。

できなきゃできないで、なきゃないで、大概のものはなんとかなるもんです。

その意味では、新型コロナという災害はこの社会における「必要」と「不必要」をふるいにかける装置みたいな役割を担っているのかもしれませんね。

この本を読んでなにかがスッキリ解決するとか、そういう類のものではないし、読むのもなかなかしんどい本なのですが、どうせゴールデンウェークもあまり遠出できなさそうなので、この機会に読んでみるのはアリかもしれません。

 

 

後記

ここ最近は「ココロインサイド」というゲームをやってました。

syupro-dx.jp

ファミコンを彷彿とさせる2Dドット絵のアクションアドベンチャーゲームで、ガチャ要素もありますが、無課金のまんま最後のシナリオまで到達できました。 

ココロインサイドという、他人の心のなかに入り込めるスマホアプリを手に入れた主人公が、街で起きているさまざまな問題を解決するという物語です。

シナリオのボリュームがちょうどいい感じですね。

ちょっとしたアクションを必要とするバトルも、シンプルながらほどよい難しさで楽しめます。おもしろかったです。

 

今回はこんなところで。

それでは、お粗末さまでした。

『センスは知識からはじまる』(水野学・著)のレビュー

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センスは知識からはじまる

センスは知識からはじまる

 

 

編集者はある程度のセンスが求められる職業であります。

たとえば本の表紙(厳密にはカバー)。

つくるのはもちろんデザイナーさんですが、デザイナーさんが出してくれた案にいろいろ注文をつけたり、いくつかデザイン案があるなかで最終的にどれにするかを決めるのは編集者に委ねられます。

また、それ以前の「企画コンセプト」や「タイトル」「帯コピー」「章タイトル」から文章の細かい表現に至るまで、書籍の編集者は自分が担当する書籍のさまざまなところで大きな裁量を任されます。(このあたりが雑誌の編集者と書籍の編集者のおおきな違いですね)

 

さて私は現役の書籍編集者をしていますが、基本的に、自分のことをセンスがない人間だと思っています。つまり、自分の感覚をあまり信用していません。

とくに、タイトルを決めるセンスは壊滅的にダメです。

そもそも、私は「自分のセンスは一般人とズレているかもしれない」という思いを抱いていました。だいたい、私が好きになる作品とか雑誌とかはあまり人気が出ないことが多いからです。

単純に、人気のあるものがあまり好きになれないという天の邪鬼な性格のせいもありますが、純粋に自分が気に入ったものはどうも世間では高く評価されないらしい……という経験を何度かしてきました。

ので、自分が編集する本のタイトルを決めるときも、自分が「これだ!これしかない!」と思ったタイトルを上司に提案すると、「え、まじで?」みたいな反応をされることも多いので、私はあまり自分の感覚を信用せずに、上司とか営業部からの「もっとこういうタイトルのほうがいいんじゃないか」という意見を割とすんなり受け入れてしまうタイプであります。

なので、こういう本のタイトルを見ると、ついグサッと刺さってしまうわけですね。

センスが技術であり、それを身につける方法があるのであれば、それはぜひとも学びたい、と考えてしまうわけです。

 

さて、本書の著者、水野学さんはクリエイティブディレクターという仕事をしている人で、具体的には熊本県ご当地キャラクター「くまモン」の企画立案など、企業の広告や各種キャンペーン、あるいは企業価値を高めたりするためのプロジェクトなどを統括するような仕事をしています。そもそも「クリエイティブ」を「ディレクション」するなんて、すごいことです。

 

センスとは、誰にでも備わった身体能力と同じです。

健康な人であれば、誰もが生まれつき走れるし、ジャンプもできる。ただ、そのジャンプがいかなるものになるかは、日々の筋トレや助走のスピードで変わってきます。どれだけセンスを磨き、使いこなせるか――その違いが、センスがいい/悪いということです。

本書では、センスを鍛えるトレーニング方法をお伝えするつもりです。

 

さて、具体的なトレーニング方法についてはぜひ本書を読んでみてほしいのですが、ここでは「センスがいい」とはなにか、そしてセンスの良さを身につけるための基本的なこと……について、水野さんの考え方を紹介していこうと思います。

 

センスがいい商品をつくるには、「普通」という感覚がこのとほか大切です。それどころか、普通こそ、「センスのいい/悪い」を測ることができる唯一の道具なのです。

(中略)

普通とは「いいもの」がわかるということ。

普通とは「悪いもの」がわかるということ。

その両方を知った上で、「一番真ん中」がわかるということ。

「センスがよくなりたいのなら、まず普通を知るほうがいい」と僕は思います。

 

私も編集者をやり始めてそろそろ10年くらいになりますが、この年齢だからこそ、この言葉が持つ意味をよく理解できるようになっている気がします。

本書の冒頭でも書かれているのですが、「センスがいい」といわれる人は、「斬新なものが思いつく」「奇抜なものを思いつく」ような人ではないんですよね。

一見すると凡庸な、パッとしないものなんですが、「王道感」があるんです。

まるで以前からそれがあったような、スルッと人の感覚に馴染む。

 

これは、くまモンを見てもわかると思います。

くまモンはなにか、すごくインパクトのある見た目があるわけじゃありません。

スゴイ一芸があるわけでもない。飛び道具なんて何も持っていないのです。

しかし、キャラクターとして圧倒的な安心感というか、王道感があって、どんな商品やサービスと組み合わせても馴染む。老若男女に親しまれやすい、覚えてもらいやすい。

 

当たり前なのですが、ほかのものと差別化しようとするあまり商品やサービスのエッジを立たせようとすると、それは「わかりにくいもの」「玄人好みのもの」「変態的なもの」になってしまって、いわゆる「普通の人」には受け入れてもらえなくなります。

とくに20代くらいの駆け出しのクリエイターとか編集者だと、どうしても新しいものをつくりたくって、「新しさ」をアピールしたがるものなのですが(そしてそういう磁気は絶対に必要だとも思う)、そういうことをしているとヒットするような商品サービス、あるいは本はつくれないものなのです。

 

これは文章でも同じですね。

文章を書き慣れていない人は、やたら難しい言葉を使ったり、気取った書き方が多くなります。プロフェッショナルは「普通の人」が読みやすい文章をしっかり書いてきてくれます。

これらの根底にあるのは、「視線の方向」にあるともいえるでしょう。結局、斬新で新しいものを生み出したいという考え方は「こんなに新しい、斬新なことを思いついた自分を認めてほしい」「こんなに難しい、気取った書き方ができる自分を褒めてほしい」という感情が背景にあります。でも、こういう気持ちを持っていては、いつまでたってもその道のプロにはなれないですね。視線が自分に向かっていますから。

そうではなくて、視線を自分が作り出したものを最終的に受け取る人に向けて、その人たちが満足するようなものはなにかを考えると、自然とそういうものは「普通」に近づいていくはずなのです。

 

といっても、とにかく平凡で当たり障りのないものを作ればいいというわけでもないのが、やっぱり難しいところです。

それだと最悪、ただ売れているもののパクリになってしまう恐れもありますから、なにかオリジナリティというか、ちょっとだけエッジを立たせなければいけません。

そこのところの塩梅がいまだに私が会得できないところでもありますし、そういう部分は改めて本書で学んでみてほしいのですが、とにかく「普通」の感覚がめっちゃくちゃ大事であるということは、クリエイター系の仕事をしている人であれば覚えておいておきたいところですね。

ちなみに、ヒット作を出すような編集者は流行りものにとりあえず乗っかる人が多いです。ミーハーです。

それは、普通の感覚を身につけるためであるかもしれません。なので私も、相変わらず天の邪鬼なので心から好きにはなれないのですが、とりあえずいま人気の音楽やサービス、マンガ、作品、本などには触れるようにして、コモンセンスを磨くようにしています。

 

後記

コモンセンスつながりで、話題になっている「PUI PUI モルカー」を見ました。

 

 

モルモットが車になっている世界をシュールに描く、ストップモーションフェルトアニメで、1話3分程度で完結するのでサクッと見られます。

基本的にセリフはなくて、ストーリー性みたいなものもありません。ネタは満載ですが、基本的には可愛いモルカーを愛でるアニメですね。

まあ、短くてすぐチェックできるからいいけど、個人的にはそんなにハマる要素がなく、なるほどなあという思いで見ています。

 

ちなみに、『呪術廻戦』もいちおう見ているのですが、どうもギャグテイストのあのノリがあんまり肌に合わないけれど、あれもなるほどなあという思いでなんだかんだ見ています。シリアスパートとバトルシーンの描き方はカッコいいですね。

 

今回はこんなところで。

それでは、お粗末さまでした。

『羊たちの沈黙』(トマス・ハリス著)のレビュー

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羊たちの沈黙(上)(新潮文庫)

羊たちの沈黙(上)(新潮文庫)

 
羊たちの沈黙(下)(新潮文庫)

羊たちの沈黙(下)(新潮文庫)

 

 

※ネタバレ含むので注意

 

今回紹介するのは歴史に名を残すサイコスリラーの傑作、『羊たちの沈黙』です。

映画も大ヒットしたので名前は知っている人は多いと思いますが、意外と原作小説を読んだことがない人も多いのではないでしょうか。

じつは私もそのクチで、小説は読むつもりはなかったのですが、平山夢明さんの『恐怖の構造』を読んでいたら、平山さんがこの『羊たちの沈黙』の小説が大のお気に入りで、数え切れないほど読んだと書かれていたので、それだけ絶賛するのであれば一度くらいは読んでみるべえなと思いたった次第であります。

 

恐怖の構造 (幻冬舎新書)

恐怖の構造 (幻冬舎新書)

 

  

さて、原作小説を読んでみた感想を端的にまとめると、「おもしろいし、見た目よりも読みやすい」といえす。

上下巻に分かれているのですが、文章がうまいのか、展開がスムーズなのか、それともキャラクターが魅力的なのか、サクサク読み進めていけます。

(あるいは、ざっくりとしたあらすじを映画で見て知っているから、というのも大きいかもしれませんが)

 

映画も小説も知らない人のために、あらすじを紹介します。

 

アメリカで女性を誘拐・殺害して皮をはぐ猟奇殺人鬼・通称「バッファロー・ビル」をFBIは捉えられずにいるなか、FBIの行動科学課の課長クロフォードは、訓練生の学生クラリスに白羽の矢を立て、超凶悪犯として収監されているハンニバル・レクター博士へ心理アンケート調査をやってくるように指示をする。

いざレクター博士と会ったクラリスはあっさりアンケートへの回答を断られるが、帰り道、隣の監獄に収監されていた囚人から精液をかけられてしまう。その非礼に怒ったレクターは、その償いとしてバッファロー・ビルの逮捕につながるようなヒントを彼女に出す。

レクター博士の助言に従うことで、少しずつ猟奇殺人鬼「バッファロー・ビル」の正体へと迫っていくクラリス。しかしその一方で、食人鬼として少なくとも9人の人間を食い殺してきたレクター博士も、長年温めていた計画を実行に移すことを考えていた……

 

いわゆる猟奇殺人鬼ものとしてこの作品が異色を放っていたポイントは、「猟奇殺人鬼が2人登場する」ということですね。

そして、悪のカリスマであり、スーパー知的な紳士であり、なに考えているかわからん度ブッチギリのレクター博士が、本来であればサイコサスペンスでもっとも恐れられる存在であるはずの、まだ捕まっていない猟奇殺人犯(バッファロー・ビル)を完全に食ってしまっているということが、また異色な作品である理由です。

 

ここ最近読んだ似た本では、『悪の猿』とか『プラ・バロック』なんかが、やっぱり猟奇殺人機による連続殺人事件が起きるので近いですが、明らかにおもしろさが段違いでした。

 

悪の猿 (ハーパーBOOKS)

悪の猿 (ハーパーBOOKS)

 

 

プラ・バロック (光文社文庫)

プラ・バロック (光文社文庫)

  • 作者:結城 充考
  • 発売日: 2011/03/10
  • メディア: 文庫
 

 

ちなみに、私も読むまで知らなかったのですが、そもそも『羊たちの沈黙』は『レッド・ドラゴン』の続編のような扱いであり、先に『レッド・ドラゴン』が世に出ています。

 

 

私はてっきり、『羊たちの沈黙』がヒットしたから、その前日譚である『レッド・ドラゴン』が作られたのかと思いましたが、そうではなかったみたいです。

映画は『羊たちの沈黙』が1991年公開、その続編の『ハンニバル』が2001年公開、そして『レッド・ドラゴン』が2002年公開となっています。

(2007年に『ハンニバル・ライジング 』というのも公開されていますが、これは黒歴史っぽい感じです)

ただ、よくよく調べてみると、1986年に『刑事グラハム/凍りついた欲望』というタイトルで映画化されており、ビデオ化するときに『レッド・ドラゴン』と改題されたみたいです。

 

刑事グラハム 凍りついた欲望 [VHS]

刑事グラハム 凍りついた欲望 [VHS]

  • 発売日: 1989/01/19
  • メディア: VHS
 

 

実際、『レッド・ドラゴン』はグラハム刑事が主人公の刑事モノっぽい性格が強く、レクター博士は単なる端役だったようでした。

そこから、レクター博士をキーキャラクターに起用し、さらに若くてきれいな女性刑事(候補生)のクラリスを主人公に据えて、女性刑事と猟奇殺人鬼との間に恋人とも敵ともとれるようなふしぎな関係性を構築したのがヒットの要因になったのでしょう。

 

さて、小説を読み終えたあと、どうしてもまた映画が見たくなった私はU-NEXTに一ヶ月だけ加入して、映画を見ました。

(なぜかアマゾンで『羊たちの沈黙』が見られなかった……)

 

羊たちの沈黙(字幕版)

羊たちの沈黙(字幕版)

  • メディア: Prime Video
 

 

映画は映画でおもしろいです。

なによりもアンソニー・ホプキンス演じるレクター博士が完璧すぎました。

でも、小説を読んでから映画を見て気になったのは、じつはもうひとりの超重要登場人物であるクロフォード課長の影の薄さです。

ネットで映画の感想を見ていると、「クロフォードがクラリスに下心ありそうでキモい」という声がありますが、それは言い得て妙というか、映画ではそうとしか受け取られないような描かれ方をしている側面があります。

 

でも、小説を読むとまったく逆です。

むしろ、主人公のクラリスがクロフォードのことを大好きで、なんとかしてクロフォードの役に立とうとがんばろうとするのが、じつは大きな動機になっています。

これは、クラリスが幼少時に大好きな父親を事件で亡くし、ファザコンを引きずっていることが大きく影響しています。

クラリスレクター博士に妙に惹かれるのも、おそらく父と娘の関係に近いようなものがあります。

その意味で、クロフォード課長とレクター博士は2人してクラリスの疑似父親みたいな役割を分担しているわけですね。

 

また、映画ではまるっとカットされていますが、クロフォード課長は病気の奥さんがいて、物語の途中で亡くなってしまいます。(奥さん自体はセリフはない)

クロフォード課長は完全に奥さんラブです。クラリスは眼中にありません。

ただ、クロフォード課長もそれはそれとして腹黒ではあるので、クラリスレクター博士を合わせればなんか起こるだろうということは考えて、仕組んだ張本にであることは間違いないでしょうが。

 

そしてタイトル『羊たちの沈黙』の意味について。

これは「羊たちが屠殺される声」というのがクラリスのトラウマになっていることから、彼女がこのトラウマから解放されたかどうかをチェックするのが「羊たちの声が聞こえなくなったか」になっているからです。

さて、猟奇殺人鬼バッファロー・ビル事件を解決したクラリスのもとに、最後にレクター博士から手紙が届きます。

その手紙を読む限り、

「事件解決で手柄を立てた彼女にはしばらく羊たちの声が聞こえなくなるだろうが、また聞こえてくるから、君はまた頑張ってそれを聞こえないようにしないといけないよ」

というめっちゃ優しい父性あふれるメッセージになっています。

そして最後の最後、おそらくクラリスは若い男とセックスして安らかな眠りに落ち、ファザコンからもちょっと脱却できたよ、というような物語です。

 

チルトンさんは、ご愁傷様です。

 

というわけで、映画は映画でけっこうおもしろいのですが、最終的にはレクター博士のダークヒーローっぷりというか、ピカレスクというか、そういうところが目立つようになっているのですが、小説を読んでみるとまた違う感想が持ててたいへんおもしろいです。

 

後記

 

とあるライターさんのツイートがバズっているのを目にしました。

 

これはすごく共感できることです。

私たちはついつい忙しさにかまけて、本を読むのを後回しにしたり、「もっとゆっくり時間ができてから本を読もう」と考えてしまいがちですが、多分そういうタイミングは訪れないのです。

本は読めるときに読んでおかないと、たぶん一生読みません。

 

そしてこれに私が付け加えるなら、「つまらない本を読むのをやめる勇気」を持つことの大切さです。

ちょっと考えてみたのですが、私の場合、せいぜいで年間に読める本は100冊くらいです(マンガを抜かすと)。

で、残りの人生で頭がはっきりして本が読める時間を40年と考えると、私は残りの人生で4000冊くらいの本しか読めない、ということになるんですよね。

(4000冊も、と考えるか、4000冊しか、と考えるかは主観の違い)

 

いま、日本では年間7万点以上の新刊が刊行されています。

毎年、7万点、です。

私が読める本は、日本に存在する本の0.00~数%でしかないわけです。

 

となると、

「つまらない本を読んでいる時間は1秒もない」

ということがわかります。

 

読書好きな人であるほど、「一度読み始めたら最後まで読みきらなくては」と考えがちですが、それは大きな間違いで、途中でつまらない、これは最後まで読まなくてもいいと感じたら、そこですっぱりと読むのをやめたほうが絶対にいいです。

 

といっても、読み始めて10ページ程度でその本が面白いかどうかを判断するのもあまり懸命とは言えません。

個人的には「3割」をひとつの目安にしています。

とりあえず全体の3割くらいまで読み進めれば、だいたいどういう本かわかるはず。

 

だいたい、おもしろい本というのは冒頭の10ページくらいでしっかり心をつかんでくれることが多いです。

しかしその一方で、最初は読むのが苦痛だけど、読んでいるうちに良くなってくる本もあります。

そういう本も、3割くらいまで読んで読むに耐えるかどうか判断しましょう。

 

ちなみに私は、とくにKidle Unlimitedなどの本では途中で読むのをやめてしまうことが多く、そういうのは読書メーターにも書かなかったりするのですが、今後はほかの人の参考にしてもらうためにも「3割本」と称して残しておこうと思った次第です。

 

今回はこんなところで。

それでは、お粗末さまでした。

『幸せになる明晰夢の見方』(ディラン・ドゥッチロほか著)のレビュー

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幸せになる明晰夢の見方

幸せになる明晰夢の見方

 

 

明晰夢というのをご存じでしょうか。

「これは夢だ」と、夢を見ている本人が自覚しながら見る夢です。

「明晰(めいせき)」というのは「はっきりしている」という意味ですね。

「頭脳明晰」などと使われます。

(ここでいう「夢」とは、将来の夢とかではなく、夜寝ているときに見る夢のことを指します)

 

ふつう、夢を見ている人は、「いま、自分は夢を見ている」とは気づけません。

起きて初めて「あ、夢だったのか」と気づくわけですね。

明晰夢はそんな当たり前を打ち砕き、「なんでも叶う夢の世界で好きなことやろうぜ」という欲深い人間が考え出した概念であります。

そして本書は、そんな欲深い人間のために書かれた本です。

これに比べると、「株式投資で億万長者」とか「愛され女になるコスメテク」なんて、まだまだかわいいというか、他愛のない欲望であるように感じられます。

 

明晰夢を見方を学ぶというのは、株式投資とか愛されメイクのやり方を学ぶよりもよほど不毛で、バカバカしいものです。

夢のなかでいくら自分の自由なことができたって、それは現実世界では毛ほどの役にも立たない、まったく影響を及ぼさないわけです。

こんな本を好き好んで読む人間の気がしれません。

 

さて、この本はアメリカの3人のライターさんがさまざまな文献をベースに、明晰夢の見方のメソッドをオリジナルに編み出したものをまとめた本です。

心理学の先生とか、脳科学の先生が書いたものではないので、科学的エビデンスがどれくらいあるのかは、よくわかりません。

ただ、私自身がこの本の内容をちょっとやてみたところ、変化がありました。

 

私はすごく寝付きがよい人間で、布団にはいると5分もかからずに寝てしまい、築くと朝になっている毎日です。

夢も、たぶん見ているのでしょうが、まったく覚えていないタイプです。

でも、本書の内容を実践したところ、残念ながらまだ明晰夢は見られていないのですが、夢の内容をすごく意識できるようになりました。

起きたあと、自分がどんな夢を見ていたか、それ以前よりもはるかに認識できるようになったのです。

もう少し続けていれば、明晰夢が見られるかもしれません。

 

この本では明晰夢を見るための方法として、夢日記をつけるとか、そういうテクニカルなことを教えてくれています。

でも、私がやったことはシンプルです。

「これは夢かな?」

と、起きている間にちょいちょい考える、ということです。

と同時に、自分の左の手のひらに指を押し付けるということをやってみました。

これは本書の中では「リアリティチェック」とよばれています。

 

マンガとかだと、信じられないことが起きたときにほっぺたをつねる行為をよくやりますよね。

夢だったらつねっても痛みを感じないから、痛みを感じるのであれば夢であると認識できるわけです。

左手のひらに指を押し付けるのもこれと同じで、夢だったら、指が突き抜けるそうです。

だから、起きているときからちょいちょいこの行為をやっていると、いざ夢を見たときにも同じ行為をして、夢かどうか確認しやすくなるということです。

 

これってけっこう、逆説的な話でおもしろいと思いました。

夢を夢であると認識するためには、現実の世界で「これは夢ではない」ということを認識する癖をつけることが大切なのです。

私たちがふだん夢を見て、それが夢であると認識できていないのであれば、私たちは現実生活をしているときに「これは現実である」と認識していないということでもあります。

 

現実すら認識できていないのに、夢を認識できるはずがありません。

たとえば、私は「いつか自分は死ぬ」ということをリアリティをもって考えることができません。

でも現実的には、生きている人間である以上、いつか必ず死んでしまうのです。

 

なお、本書で述べられていることですが、夢のことを「これは夢だ」と認識できても、その夢のなかで思うようなことを起こせるかどうかは、また別の問題です。

たとえば、空を飛ぶという行為を夢のなかでしようとしたとき、すごく大事になるのが「これは夢だから、私は空を飛べる」と"本気で”思うことです。

「夢とは言え、空を飛ぶなんてできるだろうか」という疑念があると、たとえ夢の中であっても空を飛ぶことはできません。

本当はなんでもできるのに、私たち自身の意識がそれをやめさせてしまうのです。

 

じつはこれは現実世界でも起きていることだと自己啓発の世界ではいわれていて、こういうのを「メンタルブロック」といいます。

仕事にしろ恋愛にしろ、現実は夢ほどなんでも思いどおりになるわけではないけれど、「自分はモテる」「自分はこの仕事を成功させられる」と信じ込まないと、その結果を手に入れることはできない、というロジックですね。

もしかすると、明晰夢を見て、明晰夢のなかで自由に行動できるようになるということは、こうした自分の意識を自在にコントロールするための訓練になりうるかもしれません。

もちろんそれが、現実世界でなにか役に立つかどうかは、私にはわかりませんが。

 

ただ、夢のなかの世界ですら、「自分にはできない」「どうせ無理だ」と思ってしまい、夢を楽しめないのはなんだか損な気もします。

明晰夢は脳が休まらなくて精神的に危険とか、そういうこともネットでは書かれていたりするので、のめり込み過ぎには注意ですが、試してみるのはおもしろいかもしれません。

 

 

幸せになる明晰夢の見方

幸せになる明晰夢の見方

 

 

後記

無能なナナ』を見ました。

第1話 無能力

第1話 無能力

  • 発売日: 2020/10/05
  • メディア: Prime Video
 

 

LINEマンガでも読んでいたのですが、けっこうおもしろいです。

舞台は、さまざまな特殊能力を持つ少年少女たちがあつめられた孤島です。

彼らは「人類の敵」とよばれる存在に対抗するため、共同生活をしながら日々鍛錬にいそしんでいます。

そんななか、「人の心が読める」という特殊能力を持った柊ナナという少女が新たに転向してくる、という物語です。

冒頭こそ、よくある異能力バトルマンガかと読者を錯覚させるように話が進んでいきますが、むしろこの作品は推理サスペンスです。

これ以上はネタバレになるので、気になる方はぜひ、とりあえずアニメの第1話を見てみてください。

 

今回はこんなところで。

それでは、お粗末さまでした。

『三行で撃つ』(近藤康太郎・著)のレビュー

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どこかの本で読んだのですが、

「クライアントに感謝されるようでは、カウンセラーとしては二流」

といわれるです。

一流のカウンセリングを受けると、クライアントは、

「お金を払ってカウンセリングを受けるほどの悩みでもなかったな」

と感じるそうです。

カウンセラーは相手の悩みを解消してあげるのが仕事ではなく、クライアントが自分で悩みを解決できるように陰ながら仕向けるのが仕事、ということですね。

 

この話、どの領域でも同じことが言えます。

「話がうまいなあ」と感じさせる噺家は二流だし、「絵がうまいなあ」と感じさせるマンガ家も二流。

受け手に技巧というか、「自分の存在」を感じさせてはいけないということですね。

 

文章もそうです。

読んだ人が「うまい文章だなあ」と、書き手の存在を強く感じさせてしまうのは二流。

一流の文章は、「文章のうまさ」をまったく読み手に感じさせずに、いつの間にか内容にのめり込ませてしまうものを指すのでしょう。

 

その意味で言えば、この本の文章は、まぎれもなく超一流です。

ただ、私がこの文章の超一流さに気づけたのは、ひとえにこの本が「文章術」をテーマにしたものであり、そのカラクリを著者本人が包み隠さず披露してくれているからにほかなりません。

たぶん、著者の近藤康太郎氏のほかの本を先に読んだら、とりたてて「文章がうまい!」とは感じなかったんじゃないかと思います。

 

私は仕事柄、いろいろなライターさんの文章を読みます。

ただ、私は自分で文章を書くのが好きなタイプの編集者なので(そうじゃない編集者もいます)、だいたいのライターさんの原稿を書き直してしまいます。

取材に同席して話を聞いているので、「ここは、この言葉じゃないだろ」「これは論理が飛躍しすぎ」「なんか鼻につくなあ」などと気になってしまうのです。

※本を読んでいても、たまに「なんでここで改行しないんだよ」「ここでこの語尾はないだろ」「一文が長すぎ」などと気になることがあります。

 

でも、ごく稀に、ほんとうに文章のうまいライターさんもいます。

そういう人の原稿は、サントリーウイスキーじゃないですが、「なにも足すところがないし、なにも引くところがない」のです。

こういう原稿が届くと、感動を覚えます。

そしてそういう人の原稿は、サラッと読むといたって平凡です。

でも、だから、いいんです。

 

本書の著者、近藤康太郎さんは朝日新聞編集委員で、7年前に「発狂」し、九州の山奥でライターをしながら猟師などをやりつつ(あるいは猟師をやりながらライターなどをやりつつ)、記者やライター志望の人を育てる教室のようなものも開催している人物です。

 

さすがに、この本のレベルまで文章力を高めるのは、簡単ではありません。

でも、本書の冒頭でも述べられているように、「あの人の文章は、ちょっといい」と言われるレベルには、この本を読み込んで実践すれば、たどりつけるでしょう。

装丁デザインを見ると、すごくスタイリッシュで人文書のような印象を受けますが、どっこい、中身は超実用的で、実践的なコンテンツが盛りだくさんになっています。

 

なお、あんまり比較するのはよくないのですが、私は『三行で撃つ』を読んだ直前に『稼ぐ人の「超速」文章術』を読んでいたので、「同じ文章術の本で、こうも違うものか」と感慨深くなりました。

 

 

べつに『稼ぐ人の「超速」文章術』が悪い本なわけではありません。

こっちの本はもっともっと実用性に特化しています。

「マネするだけでいい文章のテンプレート」とか「書くことをまとめるためのフレームワーク」とか。

とにかく、書かれている通りのことをすれば、サルでも売れる文章が書けるようになる工夫が凝らされています。

これはこれで、価値のある本です。

でも、そういった性質の本ですから、この本を読んで「おもしろさ」を感じたり、この本の文章にのめり込んでしまうような感覚は覚えません。

 

その点で言えば、この『三行で撃つ』という本は、読んでいておもしろいのです。

ここが、ほかの文章術のハウツー本とは決定的に違うところかもしれません。

文章を書く人間にとって大変ためになることが書いてあるのはもちろんのこと、ついつい読み進めてしまう魅力的な文章で書かれている。

ただ、わかりやすい文章を書くのではなく、「ちょっとうまい」文章を書きたい、あるいは文章そのもので金を稼ぎたい、飯を食いたいと考えている人のための本ですね。

 

本書ではそんな人のために、25のテクニックを伝授してくれます。

そのうちの1つを紹介しておきましょう。

 

わが家に集まる塾生たちに、いちばん最初に教えるのは、「常套句をなくせ」ということです。

(中略)

常套句とは、定型、クリシェ、決り文句です。

たとえば、飽きの青空を「抜けるように青い空」とは、だれもが一回くらいは書きそうになる表現です。「燃えるような紅葉」などと、ついやらかしてしまいますね。

新聞記者は一年目、二年目といった新人のころ、高校野球を担当させられるので、高校野球の記事は常套句の宝庫(?)です。

試合に負けた選手は「唇をかむ」し、全力を出し切って「胸を張り」、来年に向けて練習しようと「前を向く」ものです。一方、「目を輝かせた」勝利チームの選手は、「喜びを爆発」させ、その姿に「スタンドを埋めた」観客は「沸いた」。

 

最近テレビのバラエティ番組を見ていて、そこに登場する俳優さんや女優さんは当然ながら自分が出演するドラマやら舞台やらの告知のために出演しているわけですが、だれもかれも「笑いあり涙あり」というフレーズを連発しているのがやたら耳につきました。

これはつまり「エンターテイメントして頼める要素」もあるし、同時に「心を震わせて涙を誘う要素」もあるということですよね。

私なんかはもう「笑いあり涙あり」と言われた時点で安っぽいというか、古臭いなあと感じてしまいます。

常套句を使わないということについては、私も最初に働いた編集プロダクションの社長に自分の書いた原稿を読んでもらうときに散々「陳腐だ」ということを言われまくったので、陳腐にならないようには気をつけるようになりました。

 

よくある言い回しって、本当に文章が書けない人にとってはありがたいものなんですけど、そうした初級者からもう一歩上のステップに上がりたいときには、それを捨てていかなければいけないんですよね。

その意味でかんがえれば、本書は「文章を書くのは苦じゃない」ということが読む上での大前提になるかもしれません。

それを抜きにして、エッセーとして読んでも、おもしろい本だと思いますが。

 

後記

『ソーセージ・パーティ』を見ました。

 

ソーセージ・パーティー (吹替版)

ソーセージ・パーティー (吹替版)

  • 発売日: 2017/02/08
  • メディア: Prime Video
 

 

スーパーで売られているソーセージが主人公のファンタジーです。

スーパーで売られている食材たちは、みんなお客さんに買ってもらって、店の外に連れ出してもらえれば天国のような場所に連れて行ってもらえると信じています。

主人公のソーセージもそう考えていて、隣で売られているバンズの女の子に自分の体を挿入することを夢見ていました。

しかしある日、一度購入されてからスーパーに返品されたハニーマスタードの口から恐ろしい噂が広まります。

じつは、買われていった食材たちは天国に連れて行ってもらえるのではなく、自分のことを買った人間に無残にも食べられてしまう……とハニーマスタードは言うのです。

果たして真実はどちらなのか?

真相がわからないまま独立記念日になった日、いよいよ主人公のソーセージはとあるお客さんに選ばれてカートに運ばれていくのですが……。

 

という話です。

基本的に、下品です。

いえ、中盤くらいまではそんなに、すごく下品というわけでもありません。

ちょっと品のない台詞回しはありますが、そうはいっても大人向けのハリウッド映画で出てきてもべつに違和感はないくらいの下品さです。

ただ、最後の最後、とんでもなく下品な展開になります。

これは下品です。

ちょっと子どもには見せたくない感じの下品さです。

 

ただ、物語としてはけっこう高いクオリティでした。

それこそ、ハリウッドのヒットする脚本のルールに忠実に従い、流れるようにスムーズに物語が進んでいきます。

しっかりヴィランもいて、主人公内面的な成長もあるし、個性的かつ魅力的なサブキャラクターも脇を固めてくれます。

冒険シーンも盛り沢山です。

最後の最後、物語の締め方については賛否両論あると思いますが、私は嫌いじゃないです。

というより、「この物語、こんなことにしちゃって、いったいどうやって収束させるんだろう・・・?」と別の意味でハラハラドキドキしていたのですが、まあ、強引だけどなんとかまとめきったな、という感じでした。

よほど暇な人は、見てみたらおもしろいと思います。

 

今回はこんなところで。

それでは、お粗末さまでした。