本で死ぬ ver2.0

基本的には本の話。でもたまに別の話。

『かがみの孤城』(辻村深月・著)のレビュー

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本をつくる仕事をしていてつねづね思うのは、「売れる本にするのであれば、内容を難しくしすぎてはいけないなあ」ということです。

ビジネス書とか実用書だと、これはとくに顕著です。

そもそも著者はなんらかの道のプロフェッショナルであり、一般の人よりもたくさんの知識と経験を持っているという点で特異な人物です。

だからこそ本を書けるわけです。

私は文芸書の編集者ではないので小説については門外漢ですが、おそらくこの法則は小説にも当てはまるのではないかなと思います。

それを感じたのは、『謎解きはディナーのあとで』を読んだときでした。

 

 

私は東川篤哉さんの小説がけっこう好きで烏賊川市シリーズは楽しく読んでいました。

そんな東川さんの新シリーズが本屋大賞を受賞して売れているということで楽しみにしながらこの本を読んだのですが、ぶっちゃけ、かなり落胆した記憶があります。

なぜ落胆したかというと、烏賊川市シリーズより、トリックもギャグのキレも悪いと感じたからです。

とくにトリックに関しては「まあ普通に考えればこれが真相なんだろうけど、まさかこんな安直なトリックは使わないでしょ。もう一捻りくらいするでしょ」と思いながら読んでいたら、まさかその安直なトリックが真相だったという経験をしたからです。

でもこれは、私がミステリーが好きで、いろいろな推理小説をこれまで読んでいたからこそ、こういう感想になってしまっただけなのです。

ふだんミステリーを読まない人が『謎解きはディナーのあとで』を読むと、ほどよい難易度のミステリーでたいへん楽しめるということですね。

 

小説家とよばれる人々は、おそらくたくさんの本を読んできた読書の玄人、文章の玄人であり、自分が楽しめる作品を書こうとすると、必然的にレベルが上がりがちになります。

でも、そうするともっと読書偏差値の低い人たちには「難しすぎる」と感じられてしまい、なかなか売れない……ということです。

別に私は「売れる本が正義」だとか、「難しい本はダメだ」というつもりはありません。でも、もし出版する目的が、世の中の幅広い人々にたくさん読んでもらう(つまりベストセラーを狙う)ことであるなら、作品のレベルをコントロールする必要はあるということです。

 

これはたぶん本に限った話ではなくて、すべてのコンテンツづくりで共通するのではないかな、と思います。

大ヒットした映画『君の名は。』もそうです。

 

 

ほしのこえ』のときから新海誠監督の作品を見てきた私からすれば、「おもしろいけど、新海誠っぽさは薄くて、なんか普通のエンタメ映画だなあ」と感じましたが、あれもあえて従来の新海誠監督っぽさを薄めて、わかりやすい起承転結・大団円のエンディングをつくったからこそ、あれだけのヒットにつながったのだと思います。

(『天気の子』はもうちょっと新海誠監督っぽい感じのシナリオになっているので、個人的には『天気の子』のほうが好き)

 

たぶんテレビのクイズ番組もそうですね。

「東大王」などはありますが、だれも正解がわからない難しすぎる問題を出題しても、おもしろいと思う人は少ないでしょう。

それよりも、一般人でも半分くらいの人が正解がわかるクイズが出題されたほうが、「おれは答えがわかったぜ」という優越感を抱かせられるし、「たぶん答えはこれだと思うけど、あってるかな?」と確認したくなる衝動を抱かせられるので、人気が出やすくなるんじゃないかなと思います。

 

さて前置きが長くなりましたが、今回紹介する『かがみの孤城』を読んだ感想も、これと近いものを感じました。

 

 

本書は2018年の「本屋大賞」を受賞した作品です。

ちなみに、『謎解きはディナーのあとで』は2011年に本屋大賞を受賞しています。

 

辻村深月さんは2004年に『冷たい校舎の時は止まる』がメフィスト賞に選ばれています。

 

 

『冷たい校舎の時は止まる』は、8人の高校生たちが無人の校舎に閉じ込められるという物語ですね。

こちらのほうがホラーテイストで心理的にエグいものがあります。

そもそもメフィスト賞自体がなかなか玄人向けの、エッジのたった作品が選ばれることの多い賞です。

かがみの孤城』は、7人の中学生が鏡のなかにある(ほぼ)無人の城のなかで過ごすという物語なので、ティーンエイジャーが一般世界から隔絶された環境であれやこれやするというのは、たぶん辻村さんが好きな設定なんだろうと思います。

 

あらすじはこちら。

 

学校での居場所をなくし、閉じこもっていたこころの目の前で、ある日突然部屋の鏡が光り始めた。輝く鏡をくぐり抜けた先にあったのは、城のような不思議な建物。そこにはちょうどこころと似た境遇の7人が集められていた―― なぜこの7人が、なぜこの場所に。すべてが明らかになるとき、驚きとともに大きな感動に包まれる。 生きづらさを感じているすべての人に贈る物語。

https://www.poplar.co.jp/pr/kagami/

 

もうちょっと細かく解説すると、集められた7人の中学生は、狼のお面をかぶった謎の少女から「なんでも願いが1つだけ叶うカギが城のどこかに隠されているから探せ」というミッションを受けます。

1年という制限時間はありますが、別にカギが見つけられなくてもペナルティはないし、いつでも鏡の中の城と現実世界は行ったり来たりできます。

食べ物や私物の持ち込みもOKで、もちろんみんなで協力してカギを探すのも許されています。けっこうゆるいですね。

ただし、1つだけ厳格に定められているルールがあります。

「鏡の城のなかにいられるのは朝9時~夕方5時まで。それ以外の時間に城のなかに残っていると、狼に食べられる」

というものです。

 

というわけで、本作の謎は「カギはどこにあるのか」「なぜこの7人が選ばれたのか」「狼のお面の少女の正体」あたりになります。

とりわけメインとなるのは「7人の関係性」についてです。

ただ、これについては、それこそ感の鋭い人、ミステリーを読み慣れている人であれば、3分の1くらい読めばなんとなく想像がつくんじゃないでしょうか。

その意味では、あんまりラストに意外性はありません。

ただ、読みやすい文章とテンポよく進む物語、適度にのめり込める心理描写などバランスがよく、見た目のボリューム以上にスイスイ読み進めていけます。

早い人なら5~6時間くらいで読みきれるくらいです。

 

で、ここから先はネタバレというか、私の考察が入るので、本書を読んだ人だけ進んでください。

 

ミステリー好きの悪いクセに、「いい人に見える人ほど、じつは腹黒いんじゃないかと疑ってしまう病」があります。

私が目をつけたのは、主人公こころの近所に越してきた東條萌です。

すっごい美人で、主人公こころにもわりと優しい女の子です。

主人公に対するいじめが発生すると、こころとも距離を取るようになってしまいますが、最終的には心境を打ち明ける存在になりました。

 

しかし私は最初っからこの東條萌にきな臭さを感じていました。

それを最初に感じたのは、冒頭、こころが東條萌の家について説明するシーンです。

彼女の家はこころの家と同じように建てられた一軒家で、家の中の間取りも似ているというのです。

ただ違うのは、彼女のお父さんの趣味で海外の童話がいろいろ飾られていておしゃれだということ。

もうこの、「間取りが同じ」というのが臭いですね。

私としては、「なんでこんなに東條萌の家とか彼女の親のことを描写する必要があるんだろう」と感じました。

 

チェーホフの銃」という用語があります。

これはロシアの劇作家アントン・チェーホフが手紙のなかで劇のルールについて書いた部分に由来する言葉です。

「誰も発砲することを考えもしないのであれば、弾を装填したライフルを舞台上に置いてはいけない。」

これを小説に適用するなら、要するに、「物語とまったく関係ないことにスペースを割いたりするな」ということです。

その後、東條萌は鏡のなかの城にも入らないし、メインの登場人物にはならないのですが、冒頭でこれだけしっかり説明するということは、じつは彼女がけっこうなキーパーソンなのではないか……ということを私は考えたのです。

 

で、これは作品のなかではまったく書かれていない推測に過ぎないのですが、私が思いついたのは

「本来、鏡の中の城に招かれるはずだったのは、こころではなく萌だったのではないか」

という説です。

 

この物語で鏡の中の城に招かれているのは、いじめなどで学校に通えなくなってしまった子どもたちです。

主人公のこころも、中学校で同じクラスになったリーダー格の女子から謎の因縁をつけられ、攻撃されて、怖くて家から出られなくなってしまいました。

鏡の城のなかでは、7人の子どもたちにそれぞれ自分の部屋があてがわれます。

それぞれの部屋には、その子どもにあった調度品が置かれていたりします。

ピアノが弾けるフウカだったらピアノが置いてある、という感じですね。

で、こころの部屋に置かれていたのは、なぜかこころの家ではなく、萌の家にあったデンマーク語とかで書かれた童話の洋書だったのです。

となれば、この部屋はそもそもこころではなく、萌のために準備された部屋だと考えられます。

これがなにを意味するのかを考えると、本来、いじめを受けて不登校になる運命だったのは萌のほうだったのではないか、ということです。

 

じゃあなぜ萌はいじめを受けずに済んだのか。

これは後半、心を開いて本音で話すようになった萌とこころの会話のところにヒントがあるように思います。

萌はどうも父親の都合で引っ越しと転校をすることが多く、彼女自身とても大人びて、人間関係もかなりドライに考えていることがうかがい知れます。

また、彼女なりの処世術もすでに身につけているようで、こころに次のようなアドバイスを授けています。

 

「もし、今度、こころちゃんがどこかに転校することがあって、初日、誰も話しかけてくれなかったら、泣くといいよ」

「(中略)そしたら、何人か『大丈夫?』とか『泣かないで』って話しかけてくると思うから、その子と仲良くしなよ。泣くと、単純に目立てるし、構ってもらえるから」

 

また、クラスでこころをいじめていた子どもたちに対しては、次のような意見を述べています。

 

「低く見えるのなんて当たり前じゃん。あの子たち、恋愛とか、目の前のことしか見えてないんだもん。クラスの中じゃ中心かもしれないけど成績も悪いし、きっとろくな人生送らないよ。十年後、どっちが上にいると思ってんだよって感じ」

 

転校生で、すごい美人で、でも心のなかではクラスメイトを見下しているところもある。

すごくうがった見方をすると、もしかすると自分がいじめの対象になりそうな気配を察知した萌は、その矛先が自分に向かわないよう、標的がこころに移るように行動した……のかもしれないと考えてしまうのです。

 

こんなことを考えると、三学期になってからこころの家のポストに投函された萌の手紙の意味も違ったように受け取れてしまいます。

 

家の中に戻って、玄関のドアを背に、封筒を開く。手紙を開く手がもどかしかった。

手紙の中には、たった一言が書かれていた。

 

『 こころちゃんへ

 

 ごめんね。

 

萌より』

 

この「ごめんね。」は、なにに対しての「ごめんね。」なのか。

ふつうに読めば、こころがいじめられているときに自分も無視をしていじめに加担してしまったことに対する罪悪感から出た言葉のようにも思えます。

でも、私の考察に則するとしたら、これは「(私の代わりにあなたがいじめの標的にされちゃって)ごめんね。」というメッセージにも受け取れるわけです。

 

そう考えると、こころは本来であれば「かがみの孤城」に招かれるはずではなかった、8人目の子どもといえるんじゃないかなあと考えてしまうのです。

 

後記

スマホのゲームアプリ「白夜極光」を一通りやってみました。

www.alchemystars.jp

 

まあシナリオは置いといて、ゲームシステムはなかなかおもしろかったです。

チェス盤のようなマス目で同じ色の床を一筆書きでなぞって、敵を撃破していく、パズル的な要素を持ったRPGですね。

キャラクターガチャの排出率もまずまずといった感じで、無課金ながらコツコツやっていたら、現状で強いキャラがけっこう当たったりしました。

それ以外のところはけっこう「アークナイツ」に似ている気がします。

『知識ゼロからの日本絵画入門』(安河内眞美・著)のレビュー

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私は仕事でビジネス実用系の本を作っているので、仕事の一環として最近売れているビジネス書とか実用書とかもよく読むのですが、最近はちゃんと「読む」ことがめっきり減ってきてしまいました。

この理由を考えると、単純に私が年をとってしまったことがあるのかもしれません。

結局、ビジネス書とかハウツー本で書かれていることは同じことの繰り返しであり、既知の情報ばかりになってきてしまったので、「おもしろい」と感じる機会が減ってきてしまったのです。

なので、そういったビジネス書はあくまで仕事のための資料、マーケティングの素材として淡々と「目を通す」だけになりました。

よほどおもしろいものであれば別ですが、そうでなければわざわざレビューを書いたりブログで紹介しようという気にもならなくなりつつあるのは、進歩なのか精神的後退のはじまりなのか、自分では判断がつきにくい部分でもあります。

 

もうひとつ最近感じるのは、長時間集中して本を読むのがしんどくなってきた、ということです。

ベストセラーになった『スマホ脳』でも書かれていましたが、スマートフォンを日常的に使い、細切れの情報を日常的に取得するのが当たり前になった私たちは、長時間に渡ってひとつのコンテンツに没入する集中力みたいなものが失われてきているようです。

なので私も最近は、とくに分厚い本、小難しい本だとなかなか最後まで読みきれなくなるということが増えてきました。困ったもんです。

 

ただ、私は自分がそのような状態になったことが必ずしも悪いことだとは思っていません。

それはなぜかというと、見方を変えれば、「自分の感覚が世間一般のそれに近づいてきた」とも捉えられると思っているからです。

そもそも話ですが、文化庁世論調査によれば年間7冊以上の本を読む人は3%くらいだそうです。

月に1冊でも本を読んでいればそれだけで年間12冊読んでいることになるわけですから、そうすると日本国民の読書量の上位3%以内に確実に入ることになります。

日本人の人口を1億2000万人とすると、3%というのは360万人ですね。

ビジネス書の場合、いわゆるベストセラーとよばれるのは、明確な基準があるわけではありませんが「10万部以上」が目安です。

そもそも日常的に本を読む人の母数が360万人しかいないのであれば、10万部も売れるのがどれだけすごいことかが改めてわかります。

ただ、上で「日常的に本を読む人」という表現をしましたが、それでも「年に7冊」なのです。

ということは、この人たちは月に1冊も買いません。

1ヶ月に買う本の冊数は0.58冊にすぎないのです。

出版社というのは、この「月に0.58冊しか買わない人たちにどうやって選んでもらうか」というフィールドでしのぎを削り、毎日毎日大量の本をつくっているわけですね。

自分で書いていてもなかなかゲンナリしてきますが、なかなかシビアな世界です。

 

編集者という本をつくる仕事をしている人は、どうしても必然的にこの上位3%のなかに入ってきてしまうのですが、これは言い方を変えれば「一般的な人ではない」ということになってしまうのです。

つまり、本に詳しくて本を読むのが好きな編集者が、自分の読みたいと思える本にこだわりすぎると、その内容は本をそんなに読まない一般の人たちの感覚から乖離してしまい、あまり売れない本になってしまう可能性が高いといえます。

その意味で、「長い本を読むのがしんどくなってきた」「本を読む量が減ってきた」というのは、一般の人々の感性がわかるようになってきたという捉え方もできるわけで、売れる本をつくるためには意外と悪くないのかも……という考え方が浮かぶわけです。

(もちろん、最初から本を読む習慣がない人と、ある程度の読書を積み重ねてきてから本を読まなくなってきた人では、感性の違いにズレはあると思いますが)

 

ここまで長々と書いてきましたが、これは要するに最近私が「読書メーター」もこのブログの更新もしていなかったことの言い訳にすぎません。

では本の紹介をしましょう。

 

 

テレビ東京系列の人気長寿番組「開運!なんでも鑑定団」のレギュラー鑑定士としてその筋の人にはおなじみであり、番組内でも日本画を専門的に鑑定している安河内眞美先生による「日本絵画」の入門書です。

とくに用語の使い方については説明されていないのですが、「日本画」ではなく「日本絵画」という言葉が使われている点が意味深長です。

調べてみると、あまり明確な定義はないみたいなのですが、日本人が描けばそれが日本画になるわけではなく、一定の様式とか画材とか、そういうものものの縛りがあるのかもしれません。

 

最近はビジネス書界隈でも「アート」という言葉が使われる機会は多いです。

その嚆矢となったのはこの本でしょう。

 

 

ビジネスとは関係なさそうな「アート」の感覚こそが、じつはこれからのビジネスの世界では大事になるよ、ということを主張する一冊です。

これ以降、ビジネスパーソンに向けて美術の教養を身につけることを目的とした本が数多く出版されることになりますが、そのほとんどは「西洋美術」に終止しています。

 

 

また、ビジネスパーソン向けではないものでも、絵画の入門書は圧倒的に西洋美術のほうが多いです。

でも、日本画よりも西洋画に惹かれてしまうのは私もわかります。

単純に、西洋画のほうがインパクトが強くて派手なんですよね。

最近は伊藤若冲とか河鍋暁斎といった日本人画家の作品も注目されつつありますが、彼らはどちらかというと日本絵画の本流からはちょっと外れた人たちで、言い方は悪いですがゲテモノです。

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伊藤若冲 鳥獣花木図屏風(右隻) 六曲一双 紙本着色 江戸時代 18世紀

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暁斎《惺々狂斎画帖(三)》(20図のうち) 明治3(1870)年以前

もっとオーソドックスなものでも、印象に強く残るのはやっぱり見た目のインパクトが強烈なものばかりですね。

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俵屋宗達筆 紙本金地著色 各 154.5×169.8 cm 江戸時代(17世紀) 京都 建仁寺 国宝

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富嶽三十六景』神奈川沖浪裏 葛飾北斎 東京国立博物館所蔵品

本書ではもちろんこういった絵も紹介するのですが、それとあわせてもっと地味~な、いわゆる「やまと絵」とよばれる平安時代から続く伝統的な日本絵画の作品なども多数紹介されています。

 

さて本書の冒頭で安河内先生はこのように言っています。

 

私はつねひごろ、日本絵画の特徴は「線」にあると思っています。この本に出てくるすべての絵が、筆を用い、一本の線を最小単位にして描かれています。版画も原画は筆で描いていますし、尾形光琳がいくら型紙を使っているといっても、もとは型紙も筆で描いた一本の先からできています。

一本の線を描く。それが木に見えたり、山に見えたり、鳥に見えたり……。日本画の基本は線にあります。それぞれの絵師たちが描く、線に注目してみてください。

 

この線というのはつまり輪郭線のことです。

絵画の人物がなんかを見ていると、たまに「なんかこの絵はマンガっぽいな」と感じることがありますが、そういう場合はだいたい輪郭線をはっきり描いています。

実際の人間には輪郭線なんてありません。

実際の人間は平面ではないからです。

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モナ・リザレオナルド・ダ・ヴィンチ

西洋の絵画でも、ルネサンス以前のゴシックの宗教画とかは別ですが、遠近法が確立されたくらいになると、多くの絵でははっきりとした輪郭線が描かれなくなります。

それに対して日本の絵画は、水墨画だろうが、やまと絵だろうが、浮世絵だろうが、はっきりとした輪郭線で平面的に描かれているものがほとんどです。

これが日本絵画の最大の特徴であるということですね。

 

当然、時代の変化とともに日本の絵画の特徴はどんどん変わっていくわけですが、個人的にこの本を読んでいて「なるほどなあ」と感じたのは、尾形光琳の「燕子花図屏風」です。

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「燕子花図」尾形光琳(おがたこうりん)筆 日本・江戸時代 18世紀 紙本金地着色 6曲1双 (各)縦151.2cm 横358.8cm

この絵は型を使って描かれているといわれています。光琳は染め物・呉服商の次男。型使いは着物の図柄づくりの発想です。屏風の右隻の第2扇と第5扇の絵柄を比べてみてください。つぼみを目で追うと、そっくりであることに気づきます。

(中略)

つまり「絵がうまい」「よく描き込んである」ことを目指しているわけではないのです。この絵は、美しい空間をつくるためのデザイン、意匠です。この屏風のある部屋に身をおくと、リズムが聞こえてくるかのようです。その感覚たるや、ほかの絵師の絵に比べても卓越しています。まさに現代の空間デザイナーの仕事です。

 

なるほどたしかに、そういわれてみると花そものもはのっぺりしているのですが、全体としてみたときに、濃淡の分かれた青と緑の配色が絶妙なバランスで配置してあり、すごくおしゃれなわけです。

背景が金色なので豪奢だし、けっこうハッキリとした色を使っているのに下品には見えず、オシャレに見えます。

絵師というよりも配置の妙、デザイン的なうまさが卓越していますね。

こういうことがわかってくると、日本の絵画をみるのもなかなかおもしろくなるものです。

 

 

後記

Amazonのオリジナル映画『トゥモロー・ウォー』を見ました。

 

トゥモロー・ウォー

トゥモロー・ウォー

  • クリス・プラット
Amazon

 

最初、SFドラマなのかと思ったのですが、単発映画なんですね。

とはいっても2時間20分あるのでなかなかの長さでした。

 

感想を端的に言うと、「エンタメとしておもしろいけど、それ以上ではない」というものでした。

突如、30年後の未来からやってきた人々が「人類がエイリアンに襲われて滅亡しそうだ」と助けを求めにやってくるので、巨大タイムリープ装置を使って現代人たちをどんどん戦力として30年後の未来に送り込み、エイリアンと戦うという物語です。

この設定を読むと、後半のシナリオ的に一捻りや二捻りくらいできそうな感じなのですが、そういう捻りがなかったのがちょっと残念でした。

人が死んだりするシーンはあるものの、「清廉潔白な主人公」「家族愛」「意思疎通のできない凶悪な敵」「円満解決なハッピーエンド」など、家族と一緒でも安心して鑑賞できるファミリームービーで、まあお行儀のよい映画です。

4連休が暇なら、観てもいいかもしれません。

 

今回はこんなところで。

それでは、お粗末さまでした。

『完全版 無税入門』(只野範男・著)のレビュー

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どの本だったかは忘れましたが、先日Amazonでとある本のレビューをザッ見ていて、「著者の主義主張が入っていてよくない」というような書き込みを見ました。

 

私からすれば、著者の主義主張がまったく感じられない本なんて読む必要があるんか?……などと思ってしまいますが、まあ本に求めるものは人それぞれです。

 

 

しかい、じゃあ「著者のキャラが文章に出る」っていうのは具体的にどういうことなんでしょうか。

これは、なかなか説明するのが難しいです。

でも、ちょっとした言い回しや言葉の選び方、具体例の挙げ方といった文章の端々に「その人らしさ」というのは絶対に現れてくるものなのです。

あとは、「余計な一言」ですね。

別に必要ではない、最後の余計な一言に、びっくりするくらい著者の人間性みたいなものを感じ取れたりします。

 

というわけで今回紹介するこの本なのですが

 

 

著者のキャラクターが炸裂しているおもしろい本でした。

税金の本なので専門用語とか小難しい話がどうしても出てきてしまうのですが、会社員なら読んでおいて損はない一冊ですね。

著者のキャラについて説明する前に、まずはこの本の主張について説明しておきます。

 

著者の名前は只野範男(ただの・のりお)です。

これは明らかに「タダ乗り」をもじったペンネームです。

自分は税金を払わないのに、税金によって成り立っている社会の恩恵を受けているような人を「フリーライダー」といいます。

要するに税金を極限まで払わずに日本で生活している自分を自虐した名前であるわけです。

実際、只野氏はサラリーマンのかたわら、副業としてイラストレーターの仕事で年間50~100万円くらい稼いでいましたが、日常生活のあらゆるものをイラストレーターの仕事の経費として税務署に認めてもらい、赤字にしていたといいます。

イラストレーターの仕事が赤字だとなにがいいのか。

イラストレーターの仕事の赤字と、会社からもらう給与所得を合算して、自分の所得を減らすことができるのです。

この結果、只野氏は「所得ゼロ」になり、サラリーマン時代は所得税も住民税も払わないで生活していたということですね。

 

ただし、なんでもいいから副業をして赤字にすればいいというわけではありません。

会社員として得るのは「給与所得」です。

一方、副業で得た収入は「雑所得」か「事業所得」になります。

雑所得では、給与所得と合算して損益通算することができないのです。

つまり、雑所得でどれだけ費用を計上して副業を赤字にしても、本業の収入と相殺して所得税を減らすことはできないってことですね。

大事なのは、自分の副業が「事業所得」であると税務署に認めさせること。

端的にいえば、本書はそのための方法が書かれています。

 

その具体的な方法についてはぜひ本書を読んでみてもらいたいのですが、ここではあえて内容には踏み込まず、著者である只野範男さんの文体について分析してみましょう。

 

もっとも著者らしさが現れているなあと感じたのは、次の箇所でした。

 

この計算式でわかるように、売り上げが同じなら、必要経費がいちばん多くかかった人の課税所得がいちばん少なくなるので、税金もいちばん安くなります。

節税の最強かつ簡単な方法は、レシートなどの証拠物を付けて、必要経費を積み上げることです。当然ですが、友だち、知人からレシートを調達するのは、違法行為です。参考までにいうと、時効は5年です。

 

この文章を読んでみて、どう感じるでしょうか。

私はこれだけでもけっこう個性的な文章だなあと感じます。

どのあたりが個性的か、解説していきます。

 

まずこの文章は「です・ます調」で書かれています。

ふつう、「です・ます調」で書かれた文章は「だ・である調」で書かれた文章よりもやわらかい印象を与えます。

ただ、先の文章を読んで「この著者はやさしそうな人だ」と感じる人はあまりいないんじゃないかなと思います。

文章が短くて断定的なものの言い方をしているからです。

いいか悪いかは別として、けっこう自分本意な文章なんですね。

それがよく現れているのが「この計算式でわかるように」という部分と「当然ですが、」という部分です。

「これでわかってるよね?」というスタンスが透けて見えます。

 

また、「いちばん」「最強」といった断定的な修飾語も特徴的ですね。

「いちばん」なんて、1つの文章で3回も使っています。

こういう言葉って、意外と使うのに勇気が必要だったりします。

とくにこの本が扱っているのは「税金」という、かなり正確性が求められるというか、読者からイチャモンをつけられやすいテーマです。

たとえば「節税の最強かつ簡単な方法」だなんて、そう簡単には言えません。

とりわけ、この著者は税理士でも公認会計士でもないのです。

でも、強い言葉でさらっといってしまう部分に、著者の揺るぎない自信みたいなものを垣間見ることができるわけです。

 

なお、勘違いしてはいけないのですが、上記の2点のような特徴が「悪い」わけではありません。

実際、この本は人気を博して売れています。

大事なのは、こういった文章の特徴が著者の「自信」をさりげなーーく読者に植え付け、文章に説得力があるように感じさせるのに役立っているという点です。

 

そしてこれが極めつけなのですが、最大の特徴は最後の一文ですね。

「参考までにいうと、時効は5年です。」

 

この文章、別に書かなくてもいいんです。

でも、この一文を付け加えるかどうかによって、この段落の文章の述べることの意味がまったく違うものに変わってしまいます。

端的に言うと、この一文を付け加えることによって、

「友だちや知人からレシートを調達して必要経費を積み上げるのは違法行為だけど、5年間バレなければ時効になるから、やるんだったらバレないようにやってね」

というふうに受け取ることもできる……ということです。

この一文があることによって、著者の頭のよさというか、狡猾さがわかります。

そしてこれこそが著者らしさであり、私はこういう文章がけっこう好きなのです。

 

ちなみに、これ次のページもなかなか特徴的な文章です。

 

当然ですが、あらゆる領収書が経費で落ちるわけではありません。経費で落ちるレシートと落ちないレシートがあるのです。

「落ちないレシート」が混在していることが発覚すると、税務署はあらゆるレシートに疑惑の目を向けます。

担当者の追求に対し、理の通った説明ができないと、「あまり調子に乗るなよ」と追徴金というお灸を据えられるかもしれません。

では、どのように必要経費を計上すればいいのでしょう?

経費計上するかどうか、強く迷うものは外し、軽く逡巡するものは入れる、といった「自分なりの選別基準」をつくっていれば、作業がスイスイはかどります。

税務署に「これは経費として認められない」と突っぱねられれば、そのときに外せばいいのです。

「なぜこれが経費なの?」と訊かれて、「わかりません」は最悪の答え。一気に「いい加減な経費計上をしている」と税務署に不審に思われ、すべての経費に疑いの網がかけられてしまいます。

 

もういちいち説明しませんが、前の引用部分から引き続き、言葉選びの端々、文章のリズムから、いかんなく著者らしさが表現されていますね。

文章で自分のキャラクターを表現しようとするとき、べつに難しい言葉や、珍しい表現なんて使う必要はないのです。

ちょっとした部分の積み重ねが、読んでいる人にいつの間にか「その人らしさ」を植え付けていくわけです。

この『無税入門』は中身ももちろんおもしろいのですが、こういった著者の独特なキャラクターが文章の端々から感じられるということがなかなか楽しい一冊でした。

 

 

後記

二ノ国:Cross Worlds」をやってみました。

2worlds.netmarble.com

 

これはいわゆるMMORPGというやつで、ゲームをプレイしていると、フィールド上でなんやかんややっているほかのプレイヤーがたくさんいる世界です。

知り合いと協力してやってもいいし、一人でコツコツやっててもいいというやつですね。

プレイヤーは5つの職業(キャラクター)から1人を選択します。

私はエンジニア(回復補助キャラ)を選びました。

ガチャは「装備」「オトモモンスター(イマージェン)」「コスチューム」の3つがあります。

ガチャはけっこう無料で回す機会が多いですね。

 

さてプレイしてみた感想ですが、設計がうまいというか、とにかく「プレイを中断させないようにする」ための工夫が詰め込まれています。

人間ってタスクがあると達成したくなる習性があるというか、「やり残していることがある」とそれをクリアにしてしないと気持ち悪く感じてしまいがちです。

このゲームの場合、デイリーのタスクとか、1日で階数が制限されているクエストとかがものすごくたくさん用意されています。

それらを1個ずつクリアしていこうとすると、それだけで2~3時間はあっという間にかかってしまうんですね。

しかも、それらをクリアするごとにちょっとずつ報奨というか、アイテムとかお金がもらえたりするから、やっておかないと損みたいな気持ちにさせてきます。

私はこのゲームを3日ほどやってみて、「これはやり続けたら生活がダメになるやつだ」と気付き、サッサとアンインストールしました。

ガチャでまあまあいい装備が手に入ったりもしたのですが、もうやらないです。

 

これはもう何年もいわれていることですが、いまのビジネスは消費者の「可処分所得(自由に使えるお金)」ではなく「可処分時間(自由に使える時間)」をどのくらいゲットできるかを大事にしています。

こういうアプリゲームなんかは、どれだけ長時間プレイしてくれるかによって課金される可能性が変わると思うので、できるだけプレイヤーを長く拘束しておきたいと考えるものなんですね。

もちろん、プレイしていても課金しなければ出ていくお金はゼロ円なわけですが、むしろ大事なのはお金よりも時間なので、こういう巧妙なゲームには注意しなければならないなあと思いを新たにした次第でした。

 

今回はこんなところで。

それでは、お粗末さまでした。

『世界のエリートが学んでいるMBAマーケティング必読書50冊を1冊にまとめてみた』(永井孝尚・著)のレビュー

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ある本が「いい本」か「悪い本」かというのは完全に個人の主観なので正解なんてないと思いますが、私はいち読者として本に接する場合、「世の中の99%はいい本である」というスタンスでいます。

それはなぜかというと、「どんな本でも学ぶべきところが1つくらいはある」という視点で本を見ているからです。

死ぬほどつまらない本も、「なぜこの本は死ぬほどつまらないのか」ということを考えると、今後同じような本を読まないようにしようという学びを得られますね。

 

さて本書はタイトルの通り、マーケティングの名著50冊の内容をこれ1冊で簡単に理解できるという趣旨の本です。

ちなみに「MBAマーケティング必読書」と銘打っていますが、この50冊をどういう基準で選んだのかというと、これはおそらく著者の独断と偏見によるものです。

著者は多摩大学大学院でMBAを取得した経歴を持っているので、正確にいうなら「多摩大学の大学院でMBAを取得するためにマーケティングを勉強している人の必読書」という言い方になるかもしれませんね。

MBA」というのは便利な言葉で、とにかく「MBA」とつけておけばなんかすごそうに見えるものです。

 

MBAというのは、一般的には「経営学修士」のことです。

四年制大学を卒業した人は、「学士」です。

大学院を卒業すると「修士」になります。

さらに論文とかを書いて博士課程を修了すると「博士」になれます。

ただし、いろいろ調べてみると、厳密にいえば日本の大学院で経営学を学んでも、それはMBAにはならない……という意見もあります。

そもそもMBAアメリカの機関が認証した学校のものであって、日本の大学院で経営学修士の資格をとっても、それは「なんちゃってMBA」だということみたいです。

おそらくそういうツッコミは校正者からあったと思うので、著者も出版社もそのあたりのことは承知し、「通称MBA」としてブランディングのために使っているのでしょう。

なので、「MBAマーケティング必読書50冊」とタイトルに書かれていますが、この時点でけっこう適当なことをいっていますから、まあ本書の内容についても話半分くらいで考えたほうがよいと思います。

本も「法律的にアウトじゃなければ、まあいいでしょ」というテキトーなところがありますからね。

 

また内容についても、マーケティングといいながらけっこう紹介されている本は多岐にわたっています。

実際はプロモーションから営業術、マネジメント、あるいは自己啓発に近いものまでピックアップされていますね。

まあ、これも、ガチでマーケティングの本だけにしてしまうとおもしろくないというか、あまりにも玄人向けな内容になって読者が離れてしまうということでバランスをとっているものと思われます。

なので、ガチでマーケティングを学びたいというよりも、まあなんとなくマーケティングというのがどういうものなのかフワッと知っておきたいなあというくらいの人が読むとおもしろいのではないでしょうか。

 

さて本書で私が「たしかになあ」と思ったのは、Book12で紹介されている山本七平氏の『[新装版]山本七平の日本主義の精神』でした。

 

 

日本の会社員はやたら残業してよく働きます。

また、会社のトップである経営者が質素で偉ぶらないと評価されます。

これは世界のほかの資本主義の国々と比べるとかなり異質で、日本だけはちょっと違う資本主義のルールに基づいて動いているのです。

じゃあ、その「日本資本主義」と仕事の哲学の出版点はどこだったのか。

それが、鈴木正三(と石田梅岩なんだけど、梅岩は影が薄い)という思想家だったというのが本書の主張です。

 

鈴木正三は江戸初期の思想家で、

「人間が苦しまずに生きていくには心のなかの三毒(貪欲、怒りや憎しみ、愚痴)を追い出すため、修行に励むことが大事」

と主張しました。

といっても、江戸初期はやっと戦国乱世が終わった時代で、のんきに修行なんかしている暇はありません。

 

ここで正三が言ったことがスゴイ。発送を大転換したのである。

「仕事に励めばいいんです。心がけ次第で、あなたのその仕事が修行になりますよ」

農民が「畑仕事が忙しすぎて、修行は無理だ」と言うと、「何を言っているんですか。その畑仕事こそが修行ですよ。寒い日も暑い日も畑仕事に励んで、自分が食べる以上の分を世の中に返しているあなたがた農民は、ろくに修行もしていない僧侶なんかよりもずっと立派です。仏に感謝して日々の畑仕事をすれば、悟りが開けますよ」

「お金を稼ぐのに精一杯で、ヒマなんてありません」と悩む職人には、「どんな仕事も修行です。だってあなたが工具をつくらないと、困る人がいるでしょう?」

「自分は日々の儲けしか考えていません……」という商人には、「儲けの考え方を変えて、正直の道を究めましょう。『世のため人のため』と考えて商売に励み、執着心を捨てて、欲を離れて商売すれば、利益は後からついてくるものです」。

つまり、正三の教えは「すべての仕事は、宗教的な修行です。一心不乱に行えば、悟りは開けます。まず正直になりましょう。そうすればいい社会秩序が生まれます」

修行のように仕事をする日本人は海外から見ると不可解だが、その源流は正三なのだ。

 

私はどちらかというと仕事するよりグータラ家で本でも読んで過ごしたい人間ですが、なるほどこれを読むと、「労働は尊い」と考えがちな日本人の思考メカニズムがよくわかります。

日本人にとって労働というのは宗教行事なんですね。

ロジックで動いているわけではなく、そうすることによって「なんかいいことが起こる」というスピリチュアルな精神があるわけです。

これを考えると、なかなか労働時間が減らない、労働生産性が上がらない、みんなが働いているなかで休むのが気に引ける……のも頷けます。

労働時間を減らして生産性を上げれば効率的ですが、そもそも日本人は労働に効率性を求めていないのですから、これはキリスト教徒に対して「イスラム教のほうが効率的だから、イスラム教に改宗しなさい」といっているようなもんで、変えようと思ってもなかなか変えられないわけだと合点がいきました。

 

ちなみに欧米だと、労働は「しかたなくやるもの」という思想が根底にあります。

聖書では知恵の実を食べしまったアダムに課せられた罰が「労働」だったということになっていて、人間が働くのは「原罪を償うため」ということになっています。

ちなみに、イブに与えられた罰は「出産と分娩」だそうです。

もっと前の時代、古代ギリシャでは、人間が労働することは動物が獲物をとるのと同じで、野蛮かつ卑しい行為だとされていましたみたいです。

 

ただし、別にこうした日本の労働を尊ぶ思想が悪くて、欧米のような価値観が正しいというわけでもありません。

たとえば戦後の高度成長期があったのは、こうした勤労を尊ぶ人たちががむしゃらに働いたからだと思います。

要は、経済状況とか産業の成熟度合いによって、働き方の最適解は変わってしまうということなんでしょう。

本来であればもっと柔軟に働き方をスイッチングできればベストなのですが、それは「思想」という宗教的な要因が絡んでくるので、なかなかそう簡単に切り替えられないというのが実情なのだと思います。

 

 

後記

シャーマンキング』のアニメを懐かしがりながら見ています。

 

 

まあ絵柄がキレイですね。

夕方のアニメではありますが、大きいお友達を意識した作りになっていると思います。

シャーマンキング』といえば、ジャンプで連載されていたときの打ち切り終了がいまでも印象に残っています。

あれはなかなか衝撃的な最終回でした。

 

その後、完全版でちゃんと決着がついたのですが、2018年には作品のいろいろな権利とかが集英社から講談社に移っていたみたいです。

集英社講談社へのルートはなかなか珍しいんじゃないかあと思ったのですが、調べてみたらその前に集英社小学館に移籍して『ハイパーダッシュ! 四駆郎』というマンガの作画をやったみたいです。

 

 

なんかこの1巻目の表紙は武井センセっぽくないですが、3巻目、4巻目はぽいですね。

 

 

いまは『SHAMAN KING THE SUPER STAR』を少年マガジンエッジで連載中とのことでまだまだご活躍ですね。

 

 

早くリメイク番のアニメで「恐山ルヴォワール」みたいなあ。

 

今回はこんなところで。

それでは、お粗末さまでした。

『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか』(管賀江留郎・著)のレビュー

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鎌倉時代浄土真宗を起こした親鸞は「他力本願」「悪人正機」という考え方を世に打ち出しました。

この考え方を端的に表現しているのが、有名な『歎異抄』のなかの次の一文です。

善人なおもって往生を遂ぐ いわんや悪人をや

(善人だって極楽に行けるんだから、悪人だったら極楽に行けるに決まってるでしょ)

ふつうに読むと「は?意味わからん」となりますね。

善人が極楽に行けるのはわかるけど、なんでそれで「悪人も当然、極楽に行ける」という結論に行き着くのか。

 

ここでポイントになるのは「悪人」がなにを意味するのか、ということです。

ここでいう悪人とは「自分が悪い人間、至らない人間だと自覚している人」のことです。

そもそもの話、私たちはこの人間界に生まれている時点で善人ではないのです。

なにも曇りがない、迷わない、悟りを開いた人であれば、極楽浄土に行っているはずですからね。

善人というのは逆に「自分は悪いことをしていない」と考え、悪人である自覚のない人のことです。

仏さまはこういう「自分が悪人だと自覚していない人」ですら救おうとしてくれるのだから、「自分が悪人だと自覚している人」であれば当然救ってくれる……ということを親鸞は提言しているのです。

 

この「悪人」は「悪気」とも言いかえられると思います。

たとえば、ちょっとした発言でだれかを傷つけてしまって「悪気はなかった」と言い訳する人がいたら、これはなかなか、たちが悪いですね。

「悪気がなかった」ということは、自分の発言のどこが相手を傷つけてしまったのか、自分で理解できていないということです。

ここで自分の行いを反省すればまだいいですが、そもそもこの場合「自分は別に悪いことをしていない」と考えている可能性が高いわけですから、この人はまた同じように人を傷つけてしまうと考えられるわけです。

物事の善悪は主観によるところも大きいし、時代によっても変わってしまいます。

セクハラとかモラハラとか、政治家とか著名人の失言とかも、時代とともに変わっていったコモンセンス(大多数の主観)と外れてしまっていることに無自覚だったから起きてしまうものなんでしょう。

 

本書『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか』は、昭和に起きた冤罪事件が起きた背景を読み解きながら、人間全般に応用できるこの心のメカニズムを明らかにした一冊です。

言ってみれば、冤罪事件を引き起こしてしまった刑事さんとか、あるいは罪を犯していないのに罪を認めてしまった人とか、司法の人間とか、あるいは実際に人を殺したサイコパス的な犯人でさえ、みんな悪気がないのがこの本を読むとわかります。

とくに拷問を交えた自白によって誤認逮捕してしまった紅林麻雄氏などは人情味のある人柄で、世のため人のために事件を解決したいがために数々の冤罪事件を起こしてしまったきらいがあります。

本書では親鸞の話は別に出てこないのですが、その代わりに後半ではアダム・スミスの『道徳感情論』をベースに、著者の持論が展開されていきます。

 

道徳感情論 (講談社学術文庫)

道徳感情論 (講談社学術文庫)

 

 

そのくわしいロジックをここで書くのはなかなか骨が折れるので、気になる人はぜひ読んでほしいのですが、

・人間が知能を得たことで見知らぬ他者の心情を共感できるようになったこと

・それにより直接的な関係のない他者によって作り出される<評判>を重視するようになったこと

・自分に直接的な関係がなくても正しく賞罰を与えることに躍起になってしまうこと

などといえるでしょうか。

 

なお、500ページを超えるこの本、見た目のゴツさとは裏腹に読み始めるとけっこうのめり込んで一気に読める感じなのですが、個人的には文句をつけたいというか、もうちょっとこうしたほうがいいんじゃないかなと感じる点がありました。

「はじめに」です。

最後まで読み終えてから改めて「はじめに」を読むと、なるほど著者のいいたいことがまとまっているように感じられるのですが、私のようにこの本に関する予備知識がなく、あたかも社会心理学の本として読み始めた読者がこの「はじめに」を読むと、いったいなんの本なのか混乱するというか、なんか難しくてわかりにくい本にしか感じないのではないかなあと思ったのです。

「はじめに」で述べられていることを要約すると

・戦後の昭和の時代にシャーロック・ホームズ顔負けのすごい推理力を持った犯罪分析官がいた

・でも、そもそもこの本はそういうすごい人を紹介するためじゃなくて、あんまり取り上げられることのない少年犯罪の真相を解明しようとして書き始めた

・だけど調べているうちに冤罪を引き起こした刑事さんのこととか、冤罪を暴くために私生活と家族を犠牲にした刑事さんとかがいて、そういう人たちのことも紹介したくなった

・そういうことを調べていたらそもそも戦後日本の警察組織とか省庁の派閥争いとか司法のゴチャゴチャとかそういうドロドロしたものも垣間見えてきたからそれも紹介する

・とかいうことを考えていたら、こういうことのすべてがアダム・スミス道徳感情とか進化生物学的な視点から共通点があるんじゃないかと思えてきたらそれについてもまとめた

という感じでしょうか。

この認識というか、順番が正しいかどうか、私もあまり自信がもてません。

よくいえばまさにこの本の内容を網羅しているとも表現できますが、これだけの本を一冊書き上げる文章力があるならもうちょっとうまくわかりやすくまとめられるでしょ、とツッコミを入れたくなるような感じの文章だったのが残念でした。

まあでも、この「はじめに」はふーんと軽く読み流して、サッサと第1章に入ってしまえばグイグイのめりこめるので、そういう読み方をするのがいいかもしれないです。

 

 

後期

クラッシュ・バンディクー ブッとび!マルチワールド」をしばらくやってみたんですが、やめました。

https://www.king.com/ja/game/crashontherun

 

メーカーはキャンディークラッシュが有名な会社です。

いわゆる縦スクロールのランゲームで、ゲーム自体はまあまあおもしろいです。

グラフィックもきれいで、うごきもなめらかです。

ただ、いちいち先のステージに進むのにアイテムが必要なのがひたすら面倒くさいですね。

ステージに挑戦するために必要なアイテムの種類と個数が固定されていて、その素材を集めるためには別のステージを走らないといけないのですが、そのアイテムの個数と手に入るための手間のバランスがいまいちな気がします。

ちなみに本家クラッシュ・バンディクーは3までプレイしていました。

2がいちばん楽しかったですね。

 

クラッシュ・バンディクー

クラッシュ・バンディクー

  • 発売日: 1996/12/06
  • メディア: Video Game
 
クラッシュ・バンディクー2

クラッシュ・バンディクー2

  • 発売日: 1997/12/18
  • メディア: Video Game
 

 

今回はこんなところで。

それでは、お粗末さまでした。