本で死ぬ ver2.0

基本的には本の話。でもたまに別の話。

『そこまでやるか!裏社会ビジネス 黒い欲望の掟』(丸山祐介・著)のレビュー

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この間、とある出版社のマーケティング担当者の方に聞いた話なのですが、裏社会をテーマにした某マンガの売上をアップさせるため「パニックマンガとして描いてください」という要望を作者に伝えて内容を変更していってもらったところ、人気が出るようになったとういことでした。

アングラ(アンダーグラウンド)な世界というはなんとなく惹かれるものがありますが、それは一種のファンタジーというか、ホラー映画、パニック映画に似た要素があるように思います。

 

ホラー映画の怖さは「もしかしたら自分の身にも降りかかるかもしれない」と思うところにありますよね。

ヤクザとか闇金とか麻薬とか、そういう裏社会系の話も、一見すると自分とはまったく円のない社会のように思えるけれど、ちょっとどこかで道を踏み間違えてしまえば、いとも簡単に自分事になってしまう。

 

そういうところが「おもしろさ」として捉えられるんじゃないでしょうか。

ということで、今回紹介するのはこちらです。

 

そこまでやるか!裏社会ビジネス

そこまでやるか!裏社会ビジネス

 

 

著者の丸山祐介さんは「丸山ゴンザレス」としても活動していて、「ビジネスにも裏社会にも精通する犯罪ジャーナリスト」ということらしいです。

 

さて、本書で紹介するところの「裏社会」とはなにか。

そもそもなにが「表」で、なにが「裏」なのか。

単純な話で、「法律を守っているか、いないか」「違法であることを分かっていてやっているか」の問題です。

 

これはマンガなどを読んでいても思うところがありますが、裏社会の人たちもやっぱりいろいろ大変だなあと感じますね。

本書によれば、現在はいわゆる表と裏のボーダーレス化が起きていて、表と裏を自由に行き来するような人が増えているそうです。

表をホワイト、裏をブラックとするなら、その中間層であるグレーゾーンがどんどん拡大している印象でしょうか。

 

そもそも、いわゆるヤクザというのは警察が定めた「指定暴力団」のことを指します(2つ以上の都道府県にわたって組織を有する場合は「広域指定暴力団」とよばれる)。

 

指定暴力団になると、一定の行為に制限がかけられます。特に組員は、警察がリスト化して、住所や家族構成まで把握されることになるのです。これは、暴力団の可視化のためであり、暴対法によって、暴力団が社会悪で暴力団を排除するためには、手段を選んでいられないということでもあるのです。

さらに二〇一〇年頃に、全国的に施行の動きが広まった暴力団排除条例の締めつけによって、一般企業は暴力団との付き合いを禁じられました。

 

こうした暴力団の人達に代わって、現在裏社会ビジネスで台頭しているのが半グレとよばれる不良集団です。

「半グレ」とか「不良集団」というと、ヤクザよりもヌルい印象を受けるかもしれませんが、むしろ彼らは別に暴力団に指定されているわけでもない「一般人」であるため、なにか事件が起きないと警察が動かないという怖さがあるようです。

 

「俺らヤクザじゃないからね。いつだって堅気になれるんだ」

ものものしい言い方ですが、元関東連合を名乗る三〇代の男性(都内在住)から、こんな脅しともとれるプレッシャーを掛けられた経験のある筆者にとっては、半グレを軽んじることはできません。

なんせ、ヤクザなら堅気への接し方ひとつで即、逮捕もありえます。たとえば威圧的に名詞を渡すだけで脅しとみなされる、といった具合です。ところが半グレの人たちは、そのような暴力団扱いをされることはありません。何か事件を起こすまでは、私たちとなんら変わることのない一般市民だからです。

 

このように、もともと限りなくブラックに近いグレーの人たちの層が厚くなっているのが、グレーゾーン拡大のひとつの要因。

もうひとつは、インターネットの一般化などにより、普通のホワイトの領域にいた人たちが脱法ハーブの栽培、売買をしたり、違法な性風俗サービスを提供しやすくなったことが挙げられます。

あとはグローバル化の波に乗って、不良外国人が増えていることもあるみたいです。

 

あと、脱法ハーブ(危険ドラッグ)は相当ヤバい品のようですね。

 

実際にリサーチをかけてみて実感したのは、ハードドラッグ(覚せい剤などの違法薬物)をやっている人ほど、脱法ハーブの危険性について警鐘を鳴らしてきたというkとおです。薬物使用歴の長い知人の通称ジュンさん(仮名・年齢不詳ながら見た目は三〇代前半、職業は自称フリーライター)に、効き目などを聞いたときのことです。

「(脱法)ハーブについて調べてるんだけど」

「なに丸山さん、そっちに手を出すの? やめときなって」

「取材ですから」

「それならいいけど、あんなのに手を出したら人生終わりだよ」

「ジュンさんは、もうシャブ食ってますよね?(覚せい剤に手を出してますよねの意)」

「そういう効き方じゃないんだよ。俺もちょっと試してみようと思って手を出したけど、二、三口吸っただけでいきなり意識が飛んじゃってさ」

 

ちなみに、私がこの本を読んでいておもしろかったのは、ちょいちょい裏の世界の言葉遣いを一般人にもわかるように翻訳するとき、やたら丁寧に訳してくれるところだったりします。

 

「N県にいい場所があるんでクサでも育てようと思うんですよ。一枚噛みませんか?」

→「人目につきにくい場所で大麻栽培のビジネスを起業して今後、展開していくにあたり資金調達が必要なので出資していただけませんでしょうか」

 

「いてこましたるかいな」「いてまうぞ、われ」

→「あなたのことを痛めつけてしまいますよ」

 

「かたはめたろかぁ」

→「あなたのことを型枠にはめ込んでしまいますよ」

(逃げたくても逃げられないようにしてしまいますよ)

 

「吐いた唾は呑めぬ」「われも吐いた唾呑まんとけや!」

→「一度口にした言葉は取り消すことができませんので気をつけて発言してください」

 

「おどれ、チンコロしたんかい!」

→「あなた、警察に情報提供して私が逮捕されるように仕向けましたか」

 

まあ、他の方のレビューを読むとあんまり深いところにまでは突っ込んでいない内容のようですが、裏社会ビジネス素人さんが軽く知るにはちょうどいい感じの本ではないでしょうか。

 

そこまでやるか!裏社会ビジネス

そこまでやるか!裏社会ビジネス

 

 

後記

『マトリズム』をLINEマンガで読んでます。

これもまた、薬物というブラックながらも、ちょっとしたことで普通の人が触れてしまうものだから、人を惹きつけるものがあるのでしょう。

 

マトリズム 1

マトリズム 1

 

 

マトリとよばれる麻薬取締官が主人公で、薬物に溺れしまう人たちを描き出すヒューマンドラマですね。

闇金ウシジマくん』の薬物バージョンみたいな感じ、と説明するのがわかりやすいでしょうか。

(もちろん、主人公は警察の人間なので、麻薬をやめさせようとしますが)

 

主人公はいろいろです。

DVを受けている主婦だったり、学校の先生だったり、一度は薬物依存から抜け出せたけど更生施設でまた誘惑に駆られてしまうオジサンだったり。

読者を引き込むためではありますが、私たちが普段日常的に接しているだろう、普通の人たちがどのように薬物と関わりを持ち、そして破滅していってしまうのかがけっこう淡々と描かれています。

絵柄はなんとなく『やれたかも委員会』に近いかも。

 

やれたかも委員会 1巻

やれたかも委員会 1巻

 

 

ダメになっていく人間って、親近感が湧くんですよね……。

 

今回はこんなところで。

それでは、お粗末さまでした。

『なめらかな世界と、その敵』(伴名練・著)のレビュー

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伴名練(はんな・れん)という作家さんの名前を初めて知ったのは、『アステリズムに花束を』というアンソロジーを読んだときです。

 

 

ただ、そのときはとくにこの作家さんの作品がすごくよかったという印象は、正直な所ありませんでした。

本書に収録されていたのは『彼岸花』という、吸血鬼が登場する往復書簡形式の耽美的な作品だったのですが、あんまりSFっぽい感じがしなかったからです。

 

その後、『なめらかな世界と、その敵』が刊行されたことは知っていたし、SFの単行本としては異例の売れ行きを見せていることもなんとなく存じていたのですが、ようやく読んだという次第でした。

 

なめらかな世界と、その敵

なめらかな世界と、その敵

 

 

ちなみに、2013年に刊行されている『なめらかな社会と、その敵』という本もあります。

 

なめらかな社会とその敵

なめらかな社会とその敵

  • 作者:鈴木 健
  • 発売日: 2013/01/28
  • メディア: 単行本
 

 

こちらは「個人から分人へ」という新しい社会の人間のあり方を提唱している本なのですが、私は未読なのでどのくらい本書の内容と関連性があるのか、あるいは著者がこの本から何かしらのインスパイアを受けたのかなどはよくわかりません。

 

著者の伴名 練さんは1988年生まれで、商業出版のデビュー作は第17回日本ホラー小説大賞短編賞受賞を受賞した『少女禁区』です。

 

少女禁区 (角川ホラー文庫)

少女禁区 (角川ホラー文庫)

  • 作者:伴名 練
  • 発売日: 2010/10/23
  • メディア: 文庫
 

 

15歳の「私」の主人は、数百年に1度といわれる呪詛の才を持つ、驕慢な美少女。「お前が私の玩具になれ。死ぬまで私を楽しませろ」親殺しの噂もあるその少女は、彼のひとがたに釘を打ち、あらゆる呪詛を用いて、少年を玩具のように扱うが…!?死をこえてなお「私」を縛りつけるものとは―。哀切な痛みに満ちた、珠玉の2編を収録。瑞々しい感性がえがきだす、死と少女たちの物語。

 

さて本書には6つの短篇が収録されていますが、ほとんどはSF同人誌などで一度は公表されたものを大幅に加筆修正したものとなっています。

その辺りのご苦労についてはインタビューがありますので、気になる人は読んでみてください。

www.hayakawabooks.com

 

このインタビューを読んでみてもわかりますし、なにより『なめらかな世界と、その敵』を読むともっとよくわかるんですが、伴名練さんご自身がかなりのSFファンであり、過去のSF作品に対するオマージュにあふれています。

 

ただ、かといってSFに親しんでいる人間じゃないと楽しめないかというと、そんなことはなくて、ふだんSFをほとんど読んだことがない人でもギリギリ理解して楽しめるレベルに調整されています。

実際、読書メーターでほかの人の感想をザザッと見てみた感じでも、「ふだんはSF読まないからちょっと難しかったけど、でもおもしろかった」というような声がいくつか見られました。

 

たとえば『美亜羽へ贈る拳銃』という作品は伊藤計劃さんの『ハーモニー』に登場するミァハのことを指しているのですが、伴名さんも少し驚かれていたように、意外とわかんない人が多いのだなあと私も意外に思いました。

『ハーモニー』は劇場アニメにもなりましたし、コミック版もありますので、未読の方はぜひ読んでみてください。

 

ハーモニー(1) (角川コミックス・エース)

ハーモニー(1) (角川コミックス・エース)

 

 

では収録作品を簡単に紹介していきましょう。

 

『なめらかな世界と、その敵』

平行世界(パラレルワールド)を自由に行き来することで現実を変えるのが当たり前の世界で、とある事件によって平行世界への移動ができなくなってしまった同級生をなんとかしようとする少女の物語です。

舞台設定が「パラレルワールドへの行き来が自由自在」という人たちの世界なので、最初に読んでいると文章に面食らいます。

なにしろ、「私たちの常識」ではありえない展開がポンポンと当たり前のように出てくるので、私なんかは最初、同じ名前の登場人物がシームレスな感じで描かれているのだろうかなどと考えてしまいました。

混同しやすいのは、彼らがやっているのはタイムトラベルではなくてパラレルトラベルであるということです。

なので、すでに起きてしまった出来事をなかったことにはできないけれど、自分の設定を瞬時に変えられる感じでしょうか。

いくつもの平行世界をなめらかに移動するのがタイトルの意味ですが、「その敵」の意味はぜひ読んでみて確認してください。

 

ゼロ年代の臨界点』

明治時代の架空の日本SF小説黎明期の真実を第三者の視点からまとめた文章の形式で編まれた作品。

明治時代特有のなんだか耽美的な雰囲気的があって、これが『アステリズムに花束を』に収録されていた『彼岸花』に近いかも。

あくまでも第三者である書き手がさまざまな資料を元に推察を重ねながら各スタイルを取っているので、いわゆる小説のように登場人物たちのセリフや描写などはないのだけれど、読み進めていくうちに日本SFの基礎を作り上げた女性たちの恋愛・友情・尊敬・嫉妬などの感情が入り組んだいびつな関係性が浮かび上がってくるのはなかなかおもしろいし、最後の終わり方もわりと好き。

 

『美亜羽へ贈る拳銃』

脳へのインプラント事業で巨大な覇権を握る一族の青年・実継が、一族から勝手に独立した兄の結婚式場でいきなり自分を殺そうとしてきた超攻撃的天才科学者の少女(?)・美亜羽と恋に落ちるボーイ・ミーツ・ガール。

拳銃型の端末を脳に打ち込むことによって「特定の人間に対する揺るぎない愛」を得ることができるテクノロジーができている世界で、いろいろあって美亜羽は実継に恋をしてしまうようなインプラント施術を受けることになるのだけど、「これはちょっと美亜羽じゃないよね」みたいな違和感を持って実継は「もとの美亜羽」に戻そうとする。

ただ、実継のことを本当にすきでいる美亜羽という人格がまがい物であるわけでもなく、自分のエゴによって、自分のことを心から間違いなく好いてくれている女性の人格を消滅させることは正しいのかという葛藤に襲われたり。

美亜羽。俺が拳銃を贈った女性。決して相容れぬ二人。今、この腕の中で、静かに寝息を立てているのが、美亜羽なのか、それとも美亜羽なのか、自分には分からない。そんな事が分かるほど、自分は脳にも恋愛にも明るくない。ただ、もしかしたら――もしかしたら、彼女が今流している涙は、美亜羽が美亜羽のために流したものなのかも知れなかった。

 

ホーリーアイアンメイデン』

抱きしめられるだけで相手の攻撃的な気持ちを消し去ってしまう特殊能力を持った姉のことについてつづった妹の書簡によって構成される物語。

文章量はもっとも短く、これが一番ホラーっぽいかも。

最初は周りの人を癒やすような天使的な存在みたいに描かれている姉が、実はとんでもなく危険な存在なのかもしれないと、読み進めるうちに明らかになっていきます。

 

『シンギュラリティ・ソヴィエト』

東西冷戦時代に、ソヴィエト連合側が人間の肉体から演算能力を借りて実現した人工知能ヴォジャノーイを作り出したことで西側諸国との争いに勝利してリードしている世界を描いた歴史改変SF作品。

アメリカもヴォジャノーイに対抗するために「リンカーン」という人工知能を作り出しているけれど、リンカーンは「東西冷戦で資本主義陣営が勝利した仮想現実の世界」をつくりだし、西側の人々にその世界で生きることを推奨しています。

つまり、私たちが生きているこの世界……アメリカが初めて人類を月に送り出し、ソ連が崩壊してアメリカが世界を牽引している現実……はこのリンカーンが作り出した仮想現実の中の話なのかもしれないというとですね。

いちおう、ストーリー的にはソ連側の女性ヴィーカと、アメリカの記者として入国してきたマイケルがいろいろ腹を探り合うという筋書きになってはいますが、2人の行動や作戦はすべてヴォジャノーイやリンカーンが立てたものであって、人間は人工知能のコマとして使われているシンギュラリティ(ロシア語風に言えばシングリャルノスト)後の世界を描いています。

ほかの作品の登場人物たちが10~20代くらいの若々しいキャラクターたちが躍動しているのに比べて、ディストピア風の静謐な世界観と大人ばかりが登場するちょっと異色の作風ですが、個人的にはいちばん好きかも。

 

『ひかりより速く、ゆるやかに』

これは本書のための描き下ろし作品です。

修学旅行から帰る途中の新幹線が突如、完全に停止する事件が発生。

病気のために修学旅行に参加できなかった男子生徒と、校則違反で定額処分を食らっていた少女だけが難を逃れるのですが、じつは新幹線とその内部だけ、時間の速さが2600万分の1のスピードで超低速になっていることが明らかになります。

新幹線が次の停車駅である名古屋駅に到着するのはおよそ西暦4700年ころ。

残された家族たちは2000年以上あとに「自分たちの時間の流れ」に戻ってくるだろう子どもたちのためにさまざまな活動を開始します。

ほかにも、東海道新幹線が使えなくなることによってJRが経営液な大打撃を受けたり、「つぎもまた時間が遅くなるんじゃないか」という不安が人々の間に広まって物流が滞ったりするなど、時間を主軸にしながら、社会パニック性みたいなものも併せ持った作品になっています。

ちなみに、個に事件を発端に「時間を超えて再会を誓う男女」みたいなSF作品が乱造されることも描写されるので、かなりメタ的ですね。

それと同時に、本書では残された男子生徒と女子生徒、そして新幹線の中でゆるやかな時間の流れに取られてしまった少女とのいびつな関係性にも焦点が当てられ、SF作品の造り手からしてみるとなかなかエグい展開が描かれていたりもします。

 

 

はい、という感じで、けっこうさまざまなSFの要素を随所に詰め込みつつ、エンターテイメント性をもたせて幅広い人に読みやすく仕上げられています。

上質なSF単行本ですね。

おもしろかったです。

 

なめらかな世界と、その敵

なめらかな世界と、その敵

 

 

後記

アニメ『バビロン』を見ました。

ネタバレを含むので、楽しみたい人は読まないほうがいいです。

www.amazon.co.jp

 

東京地検闘争部検事・正崎善(せいざき・ぜん)は、製薬会社の不祥事件を追ううちに一枚の奇妙な書面を発見する。そこに残されていたのは、毛や皮膚のまじった異様な血痕と、紙一面を埋め尽くすアルファベットの『F』の文字。捜査線上に浮かんだ参考人のもとを訪ねる正崎だが、そこには信じがたい光景が広がっていた。時を同じくして、東京都西部には『新域』と呼ばれる新たな独立自治体が誕生しようとしていた。正崎が事件の謎を追い求めるうちに、次第に巨大な陰謀が見え始め--?

 

物語のキーマンとなるのは曲世愛(まがせ・あい)という女性です。

彼女は特殊能力の持ち主で、原理などはサッパリわからないのですが、ちょっと耳元でささやくだけで人を「自殺させる」ことができるのです。

この曲世愛の影響もあり、新域では「自殺するのも人間が持っている権利のひとつだ」というロジックから、自殺を公に認める法案が成立してしまいます

これを機に「自殺は悪いことなのか?」という論争が沸き起こるという物語です。

 

主人公の正崎はこの曲世を危険人物だと早期に認識してなんとか身柄を確保しようとしますが、部下たちが次々に曲世の毒牙にかかり、どんどん自殺していきます。

とりわけ衝撃的なのが7話目。

超絶胸糞鬱展開となっているので、気をつけてご覧ください。

またこの作品、人がバンバン死ぬほか、自殺を肯定するような内容を含まれているので、R指定がかかっています。

 

すごくおもしろいアニメだったのですが、12話目のラストには賛否両論があるみたいですね。

とくにCパートです。

12話目だけエンディングのあとにCパートがあるのですが、それが果たして必要だったのか否か。

私も最初に見たときは「Cパートはいらんのではないか」と考えたのですが、それからもう少し考えてみて、まああってもいいんじゃないかと思いました。

 

アニメの中でも語られていますが、自殺の善悪を考えるためには、「そもそも善悪とはなにか」の定義をしなければなりません。

このアニメの中では「善=続くこと、悪=終わること」だと定義づけています。

人間も生物ですから、根源的な善は「自分の命を存続させること」だと言えるわけです。

となると、最後のCパートは、この『バビロン』という作品を「グッドエンド」で終わらせるために必要な措置である、とも考えられます。

終わらせることは悪なわけですからね。

間違えてはいけませんが、「ハッピーエンド」ではありません。

「バッドエンド」から「グッドエンド」への転換です。

これは制作側のたちの悪い冗談ともいえるでしょう。

 

ちなみに、この作品は原作小説があり、いまのところ3巻まで出ています。

 

バビロン 3 ―終― (講談社タイガ)

バビロン 3 ―終― (講談社タイガ)

  • 作者:野崎 まど
  • 発売日: 2017/11/22
  • メディア: 文庫
 

 

私は原作小説を読んでいないのですが、Amazonのレビューを見ると、どうも小説自体も「つづく」という感じで終わっているようです。

だから、4巻目がでることを考えていた人がいたようですが、まあ4巻目がでることはないでしょうね。

タイトルで「終」と書かれていますし、Amazonでも「全3巻」と出ています。

これも作者によるたちの悪い冗談なんでしょう。

「つづく」という形の終わり方なんだと思います。

でもこういういたずらごころ、私は好きなんですよね。

原作者の野崎まどさんの小説では『正解するカド』もアニメ化して話題になっていました。

こちらはコミックスでそのうち読んでみようと思います。

 

 

今回はこんなところで。

それでは、お粗末さまでした。

『恐怖の構造』(平山夢明・著)のレビュー

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私はホラーとかオカルト系の話が好きなんですが、ホラー映画やホラーゲーム、お化け屋敷は大の苦手です。

なんでかというと、「びっくりする」のがイヤだからです。

その意味では、『ジュラシックパーク』みたいなパニックムービーも苦手です。

観客をびっくりさせるシーンが多いからです。

 

ただ、じゃあ私が「びっくりするシーン」が怖い、恐れているのかというと、なんだかそれはちょっと違うような気がします。

「びっくりするシーン」について抱くのは、「怖い」というよりも「嫌い」「苦手」という感覚です。

たとえばホラー小説やホラーマンガを読むと、背すじがゾクゾクして「怖い」と感じますが、びっくりするのは、それとは違うんですよね。

 

これは注射に似ているかもしれません。

注射は痛いので、嫌いですが、怖いわけではありません。

痛いのがイヤで、嫌いなだけです。

グリーンピースも嫌いなだけで、怖いわけじゃないです。

味が嫌いなだけで、食べたくないだけです。

そういった疑問をなんとなく持っていたので、この本のタイトルには引かれるものがありました。

 

となると、「怖い」ってなんなのか、という疑問が湧いてきます。

 

 

敷いて言えば、高所恐怖症の「怖い」は、ホラーの「怖い」と似ているかもしれません。

怖いけれど、ちょっと覗いてみたくなる。

そういう魅力と恐怖がない混ぜになっている不思議な感覚ですよね。

 

恐怖の構造 (幻冬舎新書)

恐怖の構造 (幻冬舎新書)

 

 

ちょっと前に、こちらの本も読んだのですが、

 

恐怖の哲学 ホラーで人間を読む (NHK出版新書)

恐怖の哲学 ホラーで人間を読む (NHK出版新書)

 

 

こっちはもう本当にガッツリとした哲学の話がメインで、わかったようなわからんような内容でした。

それに比べると『恐怖の構造』は、本としてはわかりやすい一冊です。

ただ、恐怖という感情については、相変わらずわかったようなわからんような感じがします。

 

とりあえず、この本を読んでわかったのが、著者の平山夢明センセもだいぶフツーの人ではないということです。

平山夢明センセで私が読んだことがあるのは『独白するユニバーサル横メルカトル』『デブを捨てに』『ヤギより上、猿より下』くらいです。

 

独白するユニバーサル横メルカトル (光文社文庫)

独白するユニバーサル横メルカトル (光文社文庫)

  • 作者:平山 夢明
  • 発売日: 2009/01/08
  • メディア: 文庫
 
ヤギより上、猿より下 (文春文庫)

ヤギより上、猿より下 (文春文庫)

 
デブを捨てに (文春文庫)

デブを捨てに (文春文庫)

 

 

でも一般的にいちばん知名度があるのは『ダイナー』でしょうか。

ダイナー (ポプラ文庫)

ダイナー (ポプラ文庫)

 

藤原竜也主演で映画化されましたし

Diner ダイナー

Diner ダイナー

  • 発売日: 2019/12/18
  • メディア: Prime Video
 

 マンガ化もしてますね。

 

 

原作も読んでないし、映画も見ていない私ですが、マンガ版はLINEマンガで無料の部分だけ読みましたが、なかなかおもしろかったです。

 

とりあえず、私が知っている限り、平山夢明センセの作品は下品で暴力的ですね。

平山センセは神奈川県川崎市で生まれ育ったようで、本書にもたびたび自分の幼少期の出来事が描写されたりするのですが、とにかく暴力的な大人たちが周囲にウヨウヨといて、理不尽な暴力にいつもさらされていたようなので、明らかにそうしたことが作品に反映されているものと思われます。

 

それはともかく、本書ではそんな平山センセが独自に分析した恐怖の構造を説明してくれるのですが、ちょいちょい挟まれるエピソードから、平山センセ自身のブキミさも垣間見えるのです。

そのあたり、ちょっと紹介していきましょう。

 

人間のようで、人間ではないものに人は恐怖を覚える

 

これはすごく納得できます。

殺人鬼や精神異常者はもちろんですが、怪物なども、たとえばシルエットだけなら人間っぽいというのが共通してますよね。

もっといえば、四足歩行か二足歩行かで、怖さが変わってくるような気がします。

怪物的な見た目で、四足歩行をしていたら、それって単なる獣に見えますよね。

もちろん、リアルなクマとかライオンとかは怖いけれど、モンスターが四足歩行になってしまった瞬間、ホラー的な怖さはなくなります。

(逆に、体は完全に人間なのに、虫のようにシャカシャカと素早く動くのは、それはそれで怖いですけど)

 

この本の帯にも「日本人形はなぜ怖い?」というコピーがつづられていますが、人形が怖いのも、人間のように見えて人間ではないから、というのが答えになっています。

ただ、注目すべきは、この部分で書かれている平山センセのエピソードです。

 

もっとも、僕自身は人形を特に恐れてはいません。〈不気味の谷〉が狭いんでしょうね。もしかしたらV字カットなのかもしれません。なんたって、小さいときにウチの妹が買ってきたリカちゃん人形の顔を燃やしたりしていたくらいですから。

これがけっこう難しいんですよ。弱い火だと全体が焦げるんで、強火で顔を炙って柔らかくなったところを指で押すのがコツなんです。そうやって顔面が握り拳みたいになった人形を、妹の布団にうつぶせの状態で置いておくんですよ。帰ってきた妹が人形を見るなり「ギャッ」とか叫んだりしてね。

 

最悪の兄貴ですね。

完全にサイコパスです。

その後、「川崎大師事件」というが一件でも、サイコパスっぷりが見え隠れします。

あるとき、奥さんの実家からもらってきたブキミな市松人形を手に入れたところ、実家の犬が突然死んだり、作家仲間がその話をし始めた途端に血便のようなものが出たり、担当編集者の顔面がパンパンに腫れてしまったり、もうひとりの担当は出掛けに足を捻って松葉杖をついたりしていたわけです。

 

「これはますますいい感じだ」と興奮して、周囲が嫌がるのも聞かずに人形の話をしていたら、樋口さん(注:血便らしきものが出た作家仲間)は身体中にジンマシンが出ちゃって、そそくさと帰っちゃいました。結局、彼はその日を限りに「もう嫌だ」って編著を降りちゃったんですけどね。

樋口さんが帰ったあとも、僕は「どうせだったら読者プレゼントにしよう」って主張したんですが、みんな嫌がってね。「倫理的にどうかと思う」だの「百人も応募が来たらどうするんですか」だとゴチャゴチャ言うんですよ。

頭にきて「俺が人形をゴリゴリにすり潰して、応募してきた全員分のパケ袋に入れてやる」って言ったんだけど、結局賛成してもらえませんでした。あ、そういえば松葉杖の女の子、その日の帰りに駅の階段から落ちて何日か車椅子で生活していましたっけ。

実家も実家で大変でしてね。異様な数の野良猫が集まるようになったり、近くの鉄塔にカラスが群がったり。

で、僕もさすがに「なんとかしないとマズいかなあ」と思いましてね、近所の川崎大師へ夜中に行って、賽銭箱の上に人形を置いてきました。そうそう、あの直後にケイブンシャ(注:当時本を作っていた出版社)も潰れちゃいましたね。やっぱりなにかあったんですかねえ。あっはっはっはっは。

 

私はわりとこういうぶっ飛んだ人が好きなんですが、お仕事ではご一緒したくないタイプですね。

そしてこういう人ほどなぜか祟りには見舞われないみたいです。

 

なお、本書の後半では「ホラー小説を解読する」という章があり、平山夢明流のホラー小説指南もあります。

そこを読んでからこの文章を読み直すと、なるほどたしかに、五感に響く描写、読者の想像力を刺激して嫌悪感を抱かせるようなうまい文章の書き方をしていることがわかります。

 

あと、平山センセは好きなものにはとことんのめり込むようで、好きになった本は何百回と読み込むようです。

とくに、『ブレイブ』という小説の手法は『ダイナー』でも徹底的に活用したとのことです。

ちょっと読んでみようかな。

 

 

あと、小説版の『羊たちの沈黙』も何千回と読んだらしいです。

 

羊たちの沈黙(上)(新潮文庫)

羊たちの沈黙(上)(新潮文庫)

 
羊たちの沈黙(下)(新潮文庫)

羊たちの沈黙(下)(新潮文庫)

 

 

本書ではほかにも「恐怖より不安のほうがつよい」「恐怖と笑い」「今日はなぜエンタメになりうるのか」などの持論が述べられています。

読めば何がどうなるというたぐいの本ではないですが、ホラー好きの方(あと平山夢明好きな方)なら一読の価値はあるんじゃないでしょうか。

 

恐怖の構造 (幻冬舎新書)

恐怖の構造 (幻冬舎新書)

 

 

後記

『電人N』を1巻だけ読みました。

 

 

VRゴーグルを使って感電自殺したアイドルオタクのド底辺の男が、ありとあらゆる電脳技術を自在に操る電脳人間となり、さまざまな電子機器を操作して推しのアイドルを邪魔する人間を始末したりとやりたい放題するのをなんとかしようとする話です。

 

作画を担当しているイナベ カズさんは『食糧人類』もありますね。

こちらも一通り読みました。

 

 

『食糧人類』は「なにものかによってブロイラーのように飼育されている人間」の描写のグロさとかがよくて、まあまあおもしろかったのですが、『電人N』はそれとくらべると微妙な感じですね。

これもある意味、「不安」と「恐怖」の違いのような気がします。

 

『食糧人類』では、ただただ人間がひそかに捕獲され、飼育されている様子が描かれます。

それがだれの、なんのためなのかが謎で、もしかしたこういうことが実際に行われているんじゃないかという「不安」を読者に感じさせたりします。

しかし、『電人N』は、そもそもあらゆる電子機器を自在に操れる電人がどうやって生まれたのかが、最初の最初にネタバレされてしまうんですね。

しかも、その元・電人が普通の弱い人間で、彼が電子機器を操って人を殺したりしまくるのも、推しのアイドルを応援するためという、とっても人間臭い、言い方を変えれば、共感できてしまうような行動原理であるわけです。

たしかに、こういう存在がいたら怖いな、私たちの生活って電子機器無しじゃ成り立たないもんなという「恐怖」はあるかもしれませんが、正体も動機もわかっているから不安はないわけです。

つまり、この先を知りたいという欲求が抱きにくいような気がしました。

 

今回はこんなところで。

それでは、お粗末さまでした。

『役に立つ古典』(安田登・著)のレビュー

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1万冊以上の本を読み、教養に関する知識が半端なく、現代の知の巨人のひとりであるライフネット生命の元会長・出口治明さんが、かつて恩師から言われたのは

「古典を読んで分からなければ、自分がアホやと思いなさい。現代に生きている人が書いた本を読んで分からなければ、著者がアホやと思いなさい。読むだけ時間の無駄です」

ということだそうです。

 

これはほかの読書術の本でもよくいわれることではありますが、古典としていまもタイトルが知られている、読み続けられている本というのは、時代を超えてなにか学ぶべきことがある本である証だから、ヘタな最近のヒット作を読むよりもよっぽどタメになるという考え方です。

これはたしかに一理あると思うのですが、そうはいっても、古典ってぶっちゃけ読みにくいんですよね。

言葉遣いとか、たとえとか、比喩とかが現代人からすると馴染みがなかったりします。

あと、著者の真意というか、本当に伝えたいメッセージみたいなものも、じつはその本が執筆された当時の社会的な事情とか、背景とかに対する事前知識がないと汲み取れなかったりするので、古典は読書の上級者向けのもののような気がします。

 

ある程度、本を読む習慣がある人で、そこそこの教養があれば、それこそ新刊場なり読んでいると学びが少なくなってくるので、古典を読むことの意義が出てくると思います。

「古典を読んで分からなければ、自分がアホやと思いなさい。」

という言葉の真意は、要するに

「あんたはまだ古典を読むだけの教養が身についていないから、ほかの本を読んでもっと知識と教養を身につけてから読みなさい」

という意味が含まれているように感じるのです。

私なんかは古典を読むおもしろさをなかなか実感できない人間ですから、読書人としてまだまだ修行中なわけです。

 

そもそも、本にはレベルがあり、本を選ぶときには自分のレベルに合った一冊を選んだほうが、ストレスなく読書することができると思います。

ただし、これは「自分が全部理解できる、カンタンな本を読みなさい」ということではないです。

本の内容で2~3割くらい、自分が知らないこと、理解できていないことが学べるくらいの本が丁度いいということです。

これが4~5割くらい、わからない内容になってくると、その本は「難しいな」という体感になると思われます。

7割以上になると、さっぱり読み進められないというか、読めないはずです。

 

で、今回紹介するのはこちらの本です。

 

役に立つ古典 NHK出版 学びのきほん

役に立つ古典 NHK出版 学びのきほん

 

 

著者の安田登さんは能楽師の方ですが、『論語』などをまなぶ寺子屋「遊学塾」を主催するなど、日本や中国の古典を「身体性」の側面から解釈し、人々に伝えているようです。

「身体性」というのは、なんだかわかるような、わからないような言葉ですが、そこはやっぱり身体表現手法のひとつである能楽をやっているからこその視点なのかもしれませんね。

(実用書を読む場合、意外と見逃されがちですが、著者の経歴からなんとなくどういう主張をしてくるのかわかったりする場合もあります)

 

本作は古典を紹介する本というより、古典から読み解けることに著者の独自の解釈を加えた持論を展開するものとなっています。

全体の雰囲気的には、『逆説の日本史』に近いかもしれません。

主張はけっこうおもしろいのですが、あくまでも著者の個人的見解なので、あまり真に受けすぎず、「なるほど、そういう考え方もあるのね」くらいの捉え方がちょうどいいんじゃないでしょうか。

 

 

ちなみに本作はムック(書籍と雑誌の中間的立ち位置の紙メディア)ですが、これはこの記事を書くまで気づきませんでした。

というのも、私は本作をKindle版で読んだので。

ただ、ムックは図版とかイラストを多用していることが多いのですが、本作は少ない印象です。

それでは本書から、おもしろかったところをご紹介しましょう。

 

日本には「死」が存在しなかった

日本では死んだ人の行くところを「黄泉の国」と表現したりしますが、安田さんは、前古代の日本では「死」「死者」という概念は存在しなかったのではないかと解釈しています。

安田さんが指摘するのは、『古事記』の表記です。

古事記』は、暗記の天才である稗田阿礼(ひえだのあれ)が口述していたものを、太安万侶(おおのやすまろ)が筆記して編纂したものだとされています。

当時はまだ「ひらがな」が発明されていなかったので、中国から輸入された漢字だけを使って日本語の文章が書かれました。

「よろしく」という言葉を「夜露死苦」と表記するような感じです。

 

そこで問題になるのは、「どの漢字を当てはめるのか」というチョイスです。

「よろしく」も、「世炉氏区」「余路歯句」「依呂師九」など、いろいろな漢字が選べると思いますが、どの漢字を選ぶかによってその言葉のイメージがぜんぜん変わりますよね。

で、じつは、太安万侶は『古事記』を編纂するとき、かなり恣意的に感じをチョイスして印象をコントロールしていたのではないか、そしてそのときに選ばれた漢字の印象が、現代の私たちの思想にすら影響を与えているのではないかということが主張されているのです。

 

たとえば「黄泉の国」。

稗田阿礼は「よみのくに」といっていたのですが、それに対して「黄泉」という文字をチョイスしたのは太安万侶です。

黄泉というのは中国の『春秋左氏伝』という本に出てくる言葉で、「地中の泉」という意味だそうです。

現代に生きる私たちは、なんとなく「死者の国は地中にある」というボンヤリとシたイメージを持ちがちです。

そのイメージの確立に一役買っているのが、太安万侶が「黄泉」という言葉をチョイスしたことにあるのではないか、ということなのです。

(もちろん、死んだら土の中に埋められるということもあると思いますけど)

 

ちなみに、「黄泉の国」という言葉が出てくるのは、伊邪那岐(いざなき)と伊邪那美(いざなみ)夫婦のエピソードです。

「ぜったい見るなよ」と奥さんに言われたのに、それを破って奥さんに追いかけられる話ですね。

このとき、黄泉の国に行ってしまった伊邪那岐は、黄泉比良坂(よもつひらさか)まで夫を追いかけたと書かれています。

この「黄泉比良坂」があの世とこの世の境目だということなのですが、「ひらさか」というのは「平らな坂」ですから、黄泉の国が地中にあるのはちょっとおかしなことになります。

つまり、『古事記』以前の日本人は、「死者の国も同じ地平上にある」と思っていたんじゃないかと考えられるわけです。

でも、それが「黄泉」という言葉が使われたことで、「死者の国=地下」というイメージが定着してしまった可能性があるわけです。

 

さらに言えば、安田さんは

「そもそも日本人には<死>という概念すら存在しなかったんじゃないか」

と持論を述べています。

 

現代人である私たちも「しぬ」が「死ぬ」と書かれることに何の疑問も抱きませんね。ところが、よく考えてみると、「死ぬ」の「シ」は音読みです。「死」という漢字に訓読みはありません。訓読みがない漢字は、それが入ってきたときには、それを表すものや概念が日本語にはなかったことを意味します。日本には「死」という概念がなかったのです。

そして、音読みだけの漢字が動詞になるときはサ変動詞になりますから、「死」を動詞にするときには「死す」が正しい。「愛す」「感ず」などがそうです。

となると、日本古来の「しぬ」と中国からの輸入である「シ(死)す」とは、本当は違う言葉だったのではないか。そんな疑問が湧いてくるのです。

「死」が「シス」なら、「しぬ」はいったい何なのか。これについて、民俗学者折口信夫は「萎(し)ぬ」だというのです(「原始信仰」)。「萎ぬ」とは、植物が枯れてしなしなになるような状態をいいます。

 

科学的な視点では「死」とはポイント・オブ・ノーリターン……要するに「もう後戻りできない状態」だと認識されていますが、「萎ぬ」だとぜんぜんニュアンスが変わります。

そもそも、伊邪那岐だってフラッと黄泉の国にいって、また現世に帰ってきたわけですから、前古代の日本人にとって「しぬ」とは魂が一時的に離れた、一時的な状態に過ぎなかったのではないかというわけです。

だいたい、日本では死ぬという表現は避けて、「亡くなる」という言い方をします。

天皇陛下などについては「お隠れになる」という表現もします)

「亡くなる」というのは死ぬとは違います。

一時的にこの世からいなくなってしまった状態です。

つまり、日本人にとって「しぬ」とはポイント・オブ・ノーリターンではないということですね。

先祖が帰ってくるというお盆の風習などからもそれがわかります。

 

 

「四十にして惑わず」は間違い?

ちなみに、『古事記』の次には孔子の『論語』が紹介されます。

論語』は、やはり孔子が言ったとされる発言を、その弟子たちが勝手にまとめたものなので、じつはそこで使われている言葉は、孔子が生きているときには存在しなかった(つまり、違うことを伝えていた可能性がある)ことを説明しています。

たとえば次の文章は有名ですよね。

 

子曰く、吾十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知る。六十にして耳順う、七十にして心の欲する所に従いて矩を踰えず。

(先生がいわれた。「私は十五歳で学問を志し、三十歳で一本立ちとなり、四十歳で迷いがなくなり、五十歳で天から与えられた使命をさとった。六十歳でことばをすなおに聞けるようになり、七十歳で自分の思うままに行ってもゆきすぎがなくなった)

(『論語貝塚茂樹訳注 中公文庫)

 

ここで問題になるのが「四十にして惑わず」というところです。

じつは、孔子が生きている時代には「惑」という言葉がなかったらしいのです。

じゃあ、どの言葉だったのかと推察できるのかというと、「心」という部首を取った「或」ではいか、これだったら孔子の時代にも存在する漢字だったのではないかというのです。

じゃあ「或」がどういう意味かというと、これは「区切る」という意味です。

つまり、

・四十歳で惑わず

ではなく

・四十歳で区切らず

という意味なのではないかということですね。

 

区切るというと、ちょっとまだわかりにくいですが、これは「自分の可能性を限定する」「自分のできる範囲を決定する」というふうに受け取れます。

現代人も、会社員として40歳くらいになると、自分の持っている能力がどのくらいなのか、どのくらいの地位になれそうか、ということがなんとなく自分でわかってくるらしいです(私はまだ40歳になってないので実感としてわかりません)。

しかし、孔子はあえて、そこで「自分ができることはここまでだ」と区切ることをせず、専門外のこと、新しいことにもチャレンジしていったからこそ、50歳になったときにようやく「自分の天命」を知ることができたのではないかという推測だってできるわけです。

 

本書ではこの他にも『おくのほそ道』『中庸』などが紹介されています。

ふだんはあまり考える機会のない、古典のおもしろさが垣間見える、楽しい本でした。

 

役に立つ古典 NHK出版 学びのきほん

役に立つ古典 NHK出版 学びのきほん

 

 

後記

歴史に対して新たな解釈を試みるという作品では、マンガの「宗像教授シリーズ」もなかなかおもしろいです。

 

 

スキンヘッドで髭をはやし、つねにマントとステッキで正装しながら日本各地に赴き、日本古来の伝承、文化の謎を紐解く歴史ミステリーです。

LINEマンガでたまたま見つけて読んだのですが、なかなかおもしろかったです。

 

『役に立つ古典』も、Kindle Unlimitedになっていたのでたまたま読んだのですが、今は本当にいろいろな本と出会うチャンスが多いですね。

気をつけないと、時間がやたらとられてしまう点は要注意ですが、本を読んでいると、どうしても自分が興味のあるジャンルの本ばかり読むようになって、カバーする範囲が狭まりがちです。

その意味では、とりあえず興味がない本でもパラッと見てみると、意外な発見があるかもしれません。

 

今回はこんなところで。

それでは、お粗末さまでした。

『東大なんか入らなきゃよかった』(池田渓・著)のレビュー

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私は基本的に天の邪鬼な性格なので、世の中の大きな流れに棹さすような本が好きなんですが、今回紹介するようなそんな本です。

 

 

「東大」ってやっぱり日本人にとっては不屈のブランド力を持っていて、定期的にテレビとか書籍で盛り上がったりするんですよね。

出版業界でも、ここ最近、「東大」の名前を関したビジネス書とかが氾濫しています。

そんで、そういう本からちょこちょこヒットが生まれたりするので、そういう本がまたたく間に書店にあふれかえるのです。

 

東大生を育てる親は家の中で何をしているのか?

東大生を育てる親は家の中で何をしているのか?

  • 作者:富永 雄輔
  • 発売日: 2017/07/21
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

かくいう私も上司から「なんか東大の企画つくってよ」と振られてちょっと辟易としていたりするのですが、まあ、スタンフォードとかハーバードの人を連れてこいといわれるより、まだまだ東大の著者を見つけるのは容易いですね。

とりあえず東大の教授を日本語で調べればいいわけですから。

 

で、『東大なんか入らなきゃよかった』は、まさにタイトルのとおりなんですが、なにかと持ち上げられやすい東大生の知られざる苦労というか、「東大に入ることのデメリット」をここぞとばかりに紹介する一冊です。

著者も東大を卒業したライターさんで、東大を卒業したさまざまな人たちへの取材を重ねながらまとめられています。

 

コンセプト的には、数年前に大ヒットになり、ドラマ化もされた『宝くじで1億円あたった人の末路』に近いかもしれません。

 

宝くじで1億円当たった人の末路

宝くじで1億円当たった人の末路

  • 作者:鈴木 信行
  • 発売日: 2017/03/25
  • メディア: 単行本
 

 

こういう、一見幸せそうで、成功を掴み取った人たちの不幸話というのは、「そうではない人たち」の琴線を刺激するんだと思います。

「他人の不幸は蜜の味」とはよくいったもんです。

その「他人」が、世間一般で称賛され、羨ましがられるような人であればあるほど、その蜜は甘く感じるのです。

 

本書ではこんな感じの「東大生苦労話」が語られています。

●がんばって勉強して東大に入ったけど、学力の差が激しすぎて凹む

●東大生は裕福な家庭が多くて人脈、金遣いにギャップを感じて凹む

●国家公務員になって死ぬ間際までこき使われて凹む

●一般企業に就職したら慶応大学の卒業生からいじめにあって凹む

●院生になったら稼げなくてやばい

 

くわしい話は本書を読んでみていただきたいのですが、私が感じたのは

・やっぱり無理やり頑張ってもあまり幸せにはなれなそう

・プライドが高いと生きていくのが大変そう

ということでした。

 

本書では東大生を「天才型」「秀才型」「要領型」の3つに分類しています。

このなかで苦労するのが「要領型」で、要するに東大の入試をテクニックを駆使して突破してきた人たちなので、基本的な頭のつくりというか、学びに対する貪欲さがあまりないわけですね。

ただ、「秀才型」もけっきょく努力し続けないといけない、失敗できないと言った強迫観念を抱えている人が多そうなので、東大に入ることが幸せなのかというのは改めて考えていまいます。

 

あともうひとつ。

本書に登場するのはもちろん、東大を卒業したはいいけれど人生が何かしらうまくいっていない人たちばかりなのですが(ということはもちろん、世の中には東大を卒業して楽しい人生を謳歌している人もいるわけです)、そこで人生がうまく言っていない人たちからは、どうにも「プライドの高さ」が感じられてきます。

 

よくいえば、メタ認知能力が高いんだと思います。

自分が他人からどう見られているか、自分がどのように評価されているのかを過度に気にしてしまう。

そこに「東大生」「東大卒」という属性が付加されてしまうと「東大なのに~」というネガティブギャップが発生してしまい、それが彼らを苦しめるのです。

 

ビジネス書なんかではたまに言われますが、初対面のときの期待値は低ければ低いに越したことはないのです。

相手になめられる、ちょっと小馬鹿にされるくらいの立場のほうが、じつはいろいろなことから自由になれるように思います。

ちょっと仕事で実績を出してしまって、上司からの期待が高まったり、知らない人が自分のことを知っていたりするのは、私は窮屈に感じます。

その意味で、東大というのは否が応でも相手の期待値を引き上げて、それに見合った言動で答えなければいけないプレッシャーがあるというのは可愛そうだなと思ったりもするのですが、よくよく考えれば、べつにそういう期待に答えなければならないという義務があるわけではありませんから、結局は本人の捉えようの問題なんですよね。

 

たとえば、東大に入ったはいいけれど友だちとの会話で気後れしたという人がいます。

 

「あるとき、学食の同じテーブルで同じ格安の380円の日替わり定食を食べていたクラスメートたちと家の話になったんだ。そしたら、A君はNECの役員の息子、B君も帝人の役員の息子、Cさんは国立大学の教授夫妻の娘だということが分かった。うちの両親は中卒だし、おやじはずっとまともに働いてなくて家に貯金なんて1円もなかったから、がくぜんとしたよ。場違いなところにきてしまった。失敗した。そう痛感したね」

 

大学生だからしかたないともいえますが、捉えようによっては、東大に入ったことによって、貧乏人だった自分が、そういう力を持った人脈とつながれるすごいチャンスを手に入れたともいえるわけです。

しかし、彼の場合は自分の両親と友人たちの両親を比較して、勝手に気後れしてしまっているところで、ちょっともったいなさを感じたりもしました。

 

いろいろと自分を省みる学びにもなるし、東大の意外な裏話なども読めるので、なかなか楽しい一冊です。

東洋経済オンラインで記事化も始まって、売れ行きも好調みたいですしね。

 

 

後記

『連ちゃんパパ』がLINEマンガで全話無料だったので、毎日コツコツ読んでました。

 

連ちゃんパパ【合冊版】(1) (ヤング宣言)

連ちゃんパパ【合冊版】(1) (ヤング宣言)

 

 

ちょっと前にTwitterでも「主人公がクズすぎるマンガ」として話題になっていましたが、まさにそのとおり、主人公はクズですし、登場人物の8割くらいはクズです。

いい人そうに見える人に限って総じてクズです。

自分のことしか考えず、欲望を抑え込むことを知らず、他人の迷惑を顧みず、子どもだろうが赤ん坊だろうが容赦なく突き落とす人間ばかりです。

しかし、かえって登場人物のクズっぷりが清々しいというか、「人間ってとことん落ちてもなんとかなるもんなんだな」と思えたりします。

(もちろんフィクションなので、実際にはどうにもならないことのほうが多いと思いますけど)

 

ある意味、このマンガの主人公たちって、東大を卒業した人たちと間逆なんですよね。

自分のことをクズで同しようもない人間だと自認し、周りの人たちから煙たがられていることを自覚しながら、「知るかボケ」という勢いで生きているのです。

まあ、見習うところはないですけどね。

 

今回はこんなところで。

それでは、お粗末さまでした。