本で死ぬ ver2.0

基本的には本の話。でもたまに別の話。

『四つ子ぐらし』(ひのひまり・著)のレビュー?


今回紹介するのはこちら。

 

 

自分に子どもが生まれてから図書館に行く頻度が増えて、絵本のコーナーによく行くようになったのですが、そうすると自然と児童書のところをブラブラして、いわゆる児童書もよく読むようになりました。じつは以前に紹介した『バーティミアス』も、そんな過程で発見した一冊です。

 

 

んで、最近は自分の仕事でも文芸というか、いわゆるフィクション系の編集をするようになりました。そういう視点でいろいろなフィクションを読んでいると、気づきというか学びみたいなものがあります。そのひとつが、「物語の筋書きのおもしろさは2つのロジックで成り立っているのではないか」という私なりの仮説です。2つのロジックとはなにかというと「ファクトのロジック」と「エモーションのロジック」です。

 

「ファクトのロジック」は、要するに物語のなかの設定とか、出来事の因果関係に無理がないか、矛盾がないか、飛躍がないか、みたいなことです。たとえば「平凡な小学生」が物語の語り部であるはずなのに、その語り口調のなかで「夜の帳が下りて、その部屋は静謐な雰囲気で包まれていた」などという表現がされていたら、「いやこれ、ぜんぜん平凡な小学生とちゃいますやん」とツッコミたくなります。これはもちろん極端な事例ですが、読んでいるときに論理が破綻していたり、物語の展開に「ご都合主義」を読者が感じてしまうと、読む気が失せます。

 

一方「エモーションのロジック」というのは、感情の論理です。たとえば、相手の裏切りにあってメチャクチャ怒っていた登場人物が、次のシーンですっかり仲良くなっていたら「いやいや、さっきまであんなに怒ってたのにいつのまに許したんだよ?!」とツッコミたくなります。この場合、ファクトのロジックで考えれば、まあすごくサッパした性格の人物であれば現実的に「ありえない」ことではないわけですが、やっぱり読者としては納得できないので、これも読む気が失せてしまいます。

 

※以下、めんどくさいので「ファクトのロジック」をFL、「エモーショナルのロジック」をELと表記します

 

んで、ここからが本題なのですが、私は当初、この2つのロジックをどちらもクリアしていないといい物語にはなり得ない、と考えていました。これはたぶん、私がそもそもミステリとかSFとか、FLがしっかりしていることが大事なジャンルの物語が好きなことに由来しています。ミステリとかSFとかの場合、そもそもFLがしっかりしているのが大前提で、そこでさらにELまでしっかりしていれば名作になる、と思っていたからです。

 

しかし私はこのたび『四つ子ぐらし』という作品を読んで、もしかするとこの2つのロジックは、片方だけしっかりしていればおもしろい作品として成立しうるのではないか、むしろ、いい物語のために大事なのはELのほうであり、FLはそれに比べれば重要性がガクッと下がるのではないか、ということを考えました。というのもこの『四つ子ぐらし』という作品、FLがけっこうメッタメタだからです。

 

この物語の設定を簡単に説明すると、「赤ちゃんのころに親に捨てられて全国各地でバラバラに育てられていた四つ子の女の子が、中学生になるタイミングで政府のプログラムの一環でひとつの家に集められ、子ども4人だけで生活するように指示を受ける。生活費は『政府の偉いおじさん』が出してくれるので、お金の心配はしなくてOK」というものです。ちなみに主人公は三女なのですが、なぜか初対面から彼女にめっちゃ優しくしてくれるイケメン男子も登場します。まああ……あり得ない設定ですね。

 

さらにこの物語、最初からシリーズとして続編を描くことが決定していたようなので、「なぜこの4人は全国各地に捨てられたのか?」も説明されませんし、4人の母親を名乗る女性が登場するのですが、ほんとうにその女性が彼女たちの母親なのか……などなど、いくつもの謎がまったく解明されないまま終わります。にもかかわらず、この作品はたいへんな人気を博していてシリーズは14巻まで刊行されており、マンガ化もしています。

 

なんでそんなに人気を博しているのか。人気になるには必ず理由があるはずです。私が読んでみて感じたのは、この作品ではELがものすごく丁寧に描かれているからではないか、です。ELがしっかりしているから、たとえFLがいささか現実離れしていても、読者は主人公および四つ子たちに感情移入して物語そのものを楽しめるようになっています。むしろこういう作品の場合は、FLよりもはるかにELの整合性が重要なのかもしれん、と思いました。

 

それで考えてみると、そもそもマンガはELに重きをおいてつくられていることが多いです。むしろ、マンガ作品にいちいちFL的なツッコミを入れるのは無粋というものです(もちろん、いい作品にはその作品のなかで守るべきルールや法則のようなものがあり、度が過ぎると白けてしまう要因になりますが)。

 

で、このELがしっかりしている『四つ子ぐらし』の1巻目ですっっごく重要なポジションにあるのが、四つ子の末っ子、無口・無表情でほかの姉妹になかなか心を開かない四月(しづき)です。四つ子の女の子たちは、そもそも自分たちが四つ子だったということを知らなかったので、家に集まったときに自分と同じ顔の女の子がほかに3人もいることに驚きます。そして半強制的に共同生活が始まるわけですが、ここで育ちが異なる四つ子の女の子たちの性格の違いがどんどん出てくるわけです。

 

長女ポジションの一花(いちか)はしっかりもののお姉さんで、次女の二鳥(にとり)はとにかく明るい関西弁キャラ、本書の語り部である三女の三風(みふ)は平々凡々とした感じで一花と二鳥がケンカするのを仲裁したりします。そして、四月です。一花と二鳥はわりとすぐに環境に順応し、三風も最初は戸惑いながらも、姉妹ができたことを素直に喜んでちょっとずつ慣れていきます。でも、四月はぜんぜん会話に参加してこないし、意見を求めても「どっちでもいい」としか言いません。この四月が、ほんっとうに、なっっっかなか心を開かないのです。

 

でも、「四月がなかなか心を開かない」というところが本作におけるELの肝で、やきもきしながら読み進めていた読者が、物語終盤になってようやくちょっとだけ心をひらいてくれた四月の言動を目のあたりにすることでカタルシスを得られるという構造になっています。そうしたELの整合性に比べれば、場面設定がありえないとか、解決されていない姉妹のナゾが残されたまま物語が終わることなんていうのは些末な問題なわけです。

 

ちなみに、先日鑑賞した話題のインド映画『RRR』も、かなりEL部分にしっかり整合性が取られている作品だなあと感じました。

 

rrr-movie.jp

 

この作品はイギリスの植民地時代にあるインドで、イギリス人に連れ去られてしまったとある部族の少女をその部族の青年ビームが取り戻しに行く物語です。ビームはその途中で、インド人でありながらイギリスの現地軍人をしているラーマと出会います。ラーマは立場上、ビームを捉えなければいけないのですが、ビームは自分の目的や身分を隠してラーマと仲良くなり、兄貴と弟のような関係になるのです。

 

この作品も、FL面で見ればいろいろツッコミどころが満載です。たとえば冒頭、初対面だったはずのビームとラーマは、見ず知らずの少年を助けるためにアイコンタクトだけで息ピッタリの連携プレーをします(そもそもその前の段階で、ラーマはたったひとりで何百人もいる暴徒を鎮圧させたりしている)。また、そもそもバトルシーンは前編にわたってビームとラーマのふたりだけでイギリス軍を壊滅させてしまいますし、終盤になるとラーマが神がかったような演出もあります。あと、ラーマが毒蛇に噛まれたときも、なぜか町中に生えていた植物で治ったりします。

 

※そもそもこの作品、インド神話の物語をベースにつくられていて、ビームとラーマの2人はインド神話に出てくる神さまの象徴みたいな存在なので、超人的な強さをもっていてもOKという裏設定があります

 

こんなふうにFL面はけっこうメチャクチャやってる映画なんですが、EL面はかなり緻密に設計されています。ビームの正体を知ったラーマが抱く葛藤から、さまざまなシチュエーションを乗り越えて2人が真の親友になるプロセスにはまったく無理がないのです。

 

そもそも、じつは主人公の2人が協力して戦うシーンは冒頭の少年を助けるときと、終盤のクライマックスだけです。でも、だからこそ、冒頭で少年を助けるために2人が息ぴったりの連携プレーを見せることの意味が生まれてきます。そのシーンの爽快さを観客は覚えているからこそ、ずーっと共闘シーンがない状態で進んでいた映画がいよいよ佳境に差し掛かったとき「やっとまた、この2人が共闘するシーンが見られた!」というカタルシスを得られる構造になっているわけですね。

 

フィクション作品のおもしろさはなにで決まるのか、ということについては私もまだ研究中ですが、FLとELという2つの要素を見比べながら、ジャンルや作品ごとにどちらが重視されているのかをチェックして鑑賞してみるのもまたその作品を楽しめるかもしれません。