『ケーキの切れない非行少年たち』(宮口幸治・著)のレビュー
売れる本のタイトルの付け方にはある程度ルールがあって、その法則の一つに「ピンポイント抽出法」(これは私が勝手に命名)みたいなものがあります。
今回紹介するこちらの本が、まさにそれです。
本書は50万部を突破したベストセラーで、いまなお売れ続けています。
内容はというと、精神科医の先生が「非行に走ったり犯罪行為をしたりする人々の多くは知的障害者なのではないか」ということを自身の経験をベースに語るものとなっています。
タイトルの由来は、著者が少年院に入れられた少年たちに対して行った1つのテストに由来します。
ホールケーキを5等分してくださいという指示に従った結果が以下です。
これらのような切り方は小学校低学年の子どもたちや知的障害を持った子どもの中にも時々みられますので、この図自体は問題ではないのです。問題なのは、このような切り方をしているのが強盗、強姦、殺人事件など凶悪犯罪を起こしている中学生・高校生の年齢の非行少年たちだ、ということです。彼らに、非行の反省や被害者の気持ちを考えさせるような従来の矯正教育を行っても、殆ど右から左へと抜けていくのも容易に想像できます。犯罪への反省以前の問題なのです。またこういったケーキの切り方しか出来ない少年たちが、これまでどれだけ多くの挫折を経験してきたことか、そしてこの社会がどれだけいきにくかったことかも分かるのです。
ときどきニュース番組で突発的な殺人事件や、「なんでこんなアホなことしてんねん」と思ってしまうような犯罪が報道されますね。
そもそも、法律を破って犯罪行為をするというのは、よっぽどのことがない場合、リスクとリターンを考えるとやる価値がないものです。
なので、突発的な犯罪を起こしてしまう人は、そもそも冷静にリスクとリターンを論理的に考えられない状況にあると考えられます。
たとえば、彼らに次のような質問を投げかけます。
「あなたは今、十分なお金を持っていません。1週間後までに10万円用意しなければいけません。どんな方法でもいいので考えてみてください」
「どんな方法でもいいから」と言われると、親族から借りる、消費者金融から借りる、盗む、騙し取る、銀行強盗をする、といったものが出てきます。「(親族などに)借りたりする」という選択肢と、「盗む」という選択肢が普通に並んで出てくるのです。「盗む」などという選択をすると後が大変になるし、そもそもうまくいくとも限らない、と判断するのが普通の感覚でしょうが、そう考えられるのは先のことを見通す計画力があるからです。
教育学系の本によく出てくる事例に「マシュマロ実験」というものがあります。
子どもたちの目の前にマシュマロを1個置き、
「これからちょっと部屋を出るけど、15分間食べるのを我慢できたら、マシュマロをもう1つあげる。食べちゃったらなし」
という条件で、子どもたちがどれくらい自分の欲求をコントロールし、長期的な視野に立って行動できるかを試すものです。
一般的には、マシュマロ実験で我慢できる子どものほうが、将来、社会的な成功を収める可能性が高いとされています。
要するに、衝動的な行動をおこなさない人のほうが成功できるということですね。
こうした知的障害、あるいは発達障害の問題は、「だれがそれに該当するのか、わかりにくい」ということがあります。
実際、ケーキカットのテストであのような回答を見た少年院の職員たちは、
「なるほど、たしかにこれでは私たちの言葉がうまく理解できなかったのかもしれない」
と認識を改めました。
逆に言えば、あの結果を見るまで「この子どもたちは自分たちの話していることをちゃんと理解しているはずだ」という前提に立って、あまり目的が理解されていない反省行動を取らせたり、教えたりしていたということなのです。
それについて警鐘を鳴らすのがこの本なのですが、私としてはいろいろ考えさせられるものですし、同じようなことを考えてしまう人が多いことこそが、この本が売れ続けている理由なのだと思います。
つまりどういうことなのかというと、こうした認知不足の問題はほんとうに「他人事」なのかということです。
哲学者ニーチェの『善悪の彼岸』という本に出てくる有名な以下の一節があります。
「怪物と戦うものはその過程で自らが怪物とならぬよう気をつけよ。深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」
この本を読んでいる人はおそらく知的障害でも発達障害でもなく、これまで罪を犯して警察のお世話になったことがない人が多数派だと思います。
そうした人間にとって、知的障害や発達障害を抱えて衝動的に犯罪を犯してしまう人たちの心理を理解することは彼岸のこと(つまり他人事)であって、一種の知的エンターテイメントの一環ですらあります。
でも、この本を読み進めていると「この本に書かれている内容は本当に他人事なのだろうか?」という不安が頭をよぎるのです。
私自身、おそらくいまも発達障害の残滓が自分のなかにあるように思います。
私の場合はおそらくADHD(注意欠陥・多動性障害)気味で、社会人になった当初はといかく同時に複数の物事を管理したり進めるということが出来ない人間でした。
(その代わり、文章を書くのは得意で、気分が乗り始めると周りの声が聞こえなくなるくらい一心不乱に書き進める感じです)
しかし、ライターならともかく、編集者というのはつねに複数の企画を同時並行に進行させながら、著者やライター、デザイナーなどたくさんの関係者とひっきりなしにやり取りしないといけない仕事ですから、そこはなんとか頑張ってトレーニングし、とりあえず問題がおきない程度には改善できたと感じています。
(いまでもポカはやらかしたりしますが)
LGBTなど性的マイノリティーの世界では「性別はグラデーション」という言い方がされることがあります。
多くの人は「男」と「女」の間のどこかに明確な線引をして白黒をつけようとしてしまいますが、そうではなく、たとえヘテロセクシャル(異性愛者)であったとしても、どこかで同性愛に興味を持っていることは十分ありえるので、そうした明確な線引は出来ないという意味です。
ある人間が知的障害を持っているか、発達障害かどうかというのもこれと同じで、おそらくはグラデーションなのでしょう。
「ここから下は知的障害者」という線引は単純にできません。
それは、本書にも登場する基準のあやふやさからもわかります。
現在、一般に流通している「知的障害はIQが70未満」という定義は、実は1970年代以降のものです。1950年代の一時期、「知的障害はIQ85未満とする」とされたことがありました。IQ70~84は、現在では「境界知能」と言われている範囲にあたります。しかし、「知的障害はIQが85未満」とすると、知的障害と判定される人が全体の16%くらいになり、あまりに人数が多すぎる、支援現場の実態に合わない、などの様々な理由から、「IQ85未満」から「IQ70未満」に下げられた経緯があります。
「基準が恣意的に変更される」ということは、この世界では頻繁に起こります。
とくに、為政者たちの都合のいいように変えられます。
つまり、当てにならんということです。
そもそも、私だっていつでも将来を見据えて論理的に行動できるわけではありません。
さすがに法を犯すことはしないけれど、「面倒くさいからちょっとルールを破っちゃえ」と考え、そのとおりに行動してしまうことがあります。
みなさんも、信号無視をこれまでの人生で一度もしたことがないという人は滅多にいないのではないでしょうか。
それにじつを言えば、先の引用文で上げられた「10万円を用意する方法」のなかで、どんな方法でもいいと言われているのであれば、窃盗や強盗などの手法は、考えて意見として述べるだけだったらべつにアリだと思うわけです。
本書では最後の章でコグトレと呼ばれる認知機能をトレーニングする方法も記載されていますが、私としては、いわゆる「普通の人」の枠の中に当てはめようとする必要はないのかもしれないとも考えてしまいます。
この本はいい本です。
それは、読者によってさまざまな反応、さまざまな解釈ができるからです。
だから、一言自分の意見を述べたくなります。
売れる本にはそういう一面もあるのでしょう。
後記
『後遺症ラジオ』を読みました。
ホラーです。こわいです。
中山昌亮さんは『不安の種』という作品のほうが有名で、こちらも日常のちょっとした「超怖い瞬間」に焦点を当てています。
ホラーの要素というのもいくつか心理的メカニズムがあると思うのですが、その1つには「自分の身にも起こるかもしれない」という恐怖があります。
どれだけ怖い話でも、たとえば舞台が江戸時代だったりすると怖さはけっこう減ります。
それは、私たちの生活とあまりにもかけ離れた環境だからです。
『後遺症ラジオ』もそうですが、現代の日本社会を舞台にしているからこそ、しみじみと怖く感じると思うのです。
これは「自分も知的障害かもしれない」という恐怖に似ています。
「もしかしたら自分も該当するかもしれない」という思いがよぎると、不意に他人事から自分事化するのです。
この「自分事化」というのは「おもしろさ」の重要なキーワードですね。
今回はこんなところで。
それでは、お粗末さまでした。