『チーズはどこへ消えた?』(スペンサー・ジョンソン著)のレビュー
言わずとしれたベストセラーですが、Kindle unlimitedで無料になっていたので久しぶりに通読しました。
とても短いストーリーなので、1時間くらい集中すれば読み終えられるのではないでしょうか。
本書は3部構成になっていて、
「ある集まり」
「その夜」
から成ります。
「ある集まり」はクラス会みたいなもので久しぶりに集まった人たちの会話、そしてそのうちの一人が「チーズはどこへ消えた?」という物語を話し始め、最後にみんなでディスカッションして終わりです。
第1部は導入部分で、メインディッシュは第2部。
第3部はオマケ(というか物語の解説)みたいなもので、個人的には蛇足に感じます。
第2部だけちゃんと読めば十分でしょう。
物語の登場人物は4人。
ネズミのスニッフとスカリー、小人のヘムとホーです。
彼らは迷路でチーズを探す毎日を繰り返しています。
やがて、彼らはチーズがたくさんある部屋を見つけてそこに安住するのですが、突然、その部屋からチーズが消えてしまうのです。
スニッフとスカリーはすぐさまその部屋を出て、また迷路をさまよいながら新しいチーズを探し始めます。
しかし、スニッフとスカリーは「なんでチーズはなくなったんだ!?」とうろたえ、「もう少し待っていたらまたこの部屋にチーズが戻ってくるんじゃないか」と考えてとどまるのです。
ただ、ホーはだんだんそれが難しいのではないかと考え、ヘムを残して一人、新たなチーズを求めて旅立つのです。
大人だったらまあわかると思いますが、この作品におけるチーズは「お金(安定した収入)」「地位」などのことです。
ネズミたちはあまり深く物事を考えないので、自分たちが好きな「ガリガリかじれる硬いチーズ」を求めています。
しかし小人たちは物事を複雑に考えすぎるきらいがあるので、「この世界のどこかにある<真のチーズ>……それを見つければ幸せになり、成功を味わうことができる」を探しています。
この物語が伝えるのは、
「現状維持をやめて、状況の変化に対応し、すぐに行動に移そう」
というメッセージです。
物語のネタバレをすると、チーズを探して旅に出たホーは、チーズがたくさんある別の部屋と、そこで先にチーズを堪能していたネズミたちを見つけました。
つまり、いち早く状況の変化を感じてそれに応じた行動をとっていたネズミたちのほうが正解だったわけです。
自己啓発書のなかのフレーズとしてたまに使われる
「この世に生き残る生き物は、最も力の強いものか。そうではない。最も頭のいいものか。そうでもない。それは、変化に対応できる生き物だ」
という言葉もあります。
これも同じような感じですね。
※ただし調べてみると、この言葉は本当にダーウィンがいったものなのかどうかは眉唾らしいです。
まあダーウィンの言葉の真偽はさておき、「変化を恐れずすぐ行動する」のはまあ正しいことだと言われています。
実際、社会的成功を収めたいのであれば、そうしたほうがいいと思います。
ただ、私が改めてこの本を読んで感じたのは、じゃあまったく行動を起こさず、変化に対応できないままひもじい思いをしている小人のヘムは能無しのボンクラかというと、そうとも言えないよね、ということなのです。
というよりも、ヘムは「平凡な人」なのです。
ヘムのような行動こそが普通の人たちの取る行動であり、それがスタンダードです。
スニッフとスカリーはいわば狂人です。
チーズがなくなるやいなやすかさず迷路に飛び出して行くあてもない冒険に出るのは、阿呆です。
そして、イノベーターや天才と言われる人々はだいたい狂人か阿呆です。
(凡人の目からは狂人か阿呆にしか見えないということです)
たとえばZOZOTOWNの経営から退いて「お金配りおじさん」になり、ツイッターを賑わせている前澤友作さんなんかは私の目から見れば阿呆に写りますが、5年後10年後には「あのときの前澤さんの行動こそが戦略的に正しかったのだ」ということになるのかもしれません。
私たちはおそらくスニッフとスカリーにはなれません。
天才や狂人は『チーズはどこへ消えた?』なんて本は読まないし、読んだとしても感銘を受けることはないからです。
そうすると、必然的に私たちが目指すべきもののように思えるのは、最初は元のチーズを諦めきれなかったけど、これまでのチーズに見切りをつけてひとり旅立ったホーのような生き方です。
ただ、これもなかなかしんどそうです。
これは物語の部分で詳細に書かれていることですが、ホーは旅立つ前に不安や恐怖を抱き、それを振り払って孤独に出発します。
迷路に旅立ってからも、自分の行動が正しいのか確信が持てず、仲間だったヘムもいないので寂しく感じます。
彼は一生懸命自分で自分の行動を正当化して、奮い立たせるのです。
しんどそう!
自己啓発(とくにアメリカ発祥のもの)は、基本的にホーのような自分で自分の人生を切り開く生き方を推奨します。
でも私は必ずしもすべての人がホーのような生き方をしなくてもいいと思うのです。
私のように怠け者で意思が弱く、視線が低い人間がホーのような生き方こそが正解であると考えると、かえって不幸な結果になるような気がします。
最近読んだ本で、まさにそのような考え方を推奨していたのがイスラーム法学者の中田考先生です。
この本のサブタイトルは「身の程を知る劇薬人生論」となっています。
第5章で著者の中田先生と本書の構成を担当したライターの人による質疑応答があるのですが、こんなことが書かれています。
先日、『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎原作、羽賀翔一漫画)というマンガを読んだのですが、これはダメですねえ。もう、呪縛の書というか、呪いの書ですよね。
(中略)
たとえば、ここ、「自分の考えていること」っていう話で、最初のほうに「自分の生き方を決定できるのは、自分だけだ」とあります。ここからもうダメです。自分の生き方なんて決定できないんでね。それを決定するのは偶然や運ですよ。人は生まれも育ちも、それぞれちがうし、自分の人生を自分で決定できるということ自体がまちがっている。
(中略)
今は、自己啓発的なものが多数派になってしまっている。しかもそれが売れてしまう。それが異常なんです。
(中略)
『君たちはどう生きるか』は聞くところでは、小山宙哉の漫画『宇宙兄弟』とかアドラー心理学の解説書としてベストセラーになった『嫌われる勇気』とかを生み出したとても優秀なスタッフが舞台裏で作った本らしいです。みなが潜在的にもっている肥大化した自我を刺激するような話になっている。あなただって宇宙兄弟になれる、という話です。でも、実際はなれません。最初から『ONE PIECE』くらい荒唐無稽ならいいんですが、宇宙兄弟にはなれそうに思えても実際に離れませんからね。そういうことを煽るのが罪深いんです。それより、誰だでも確実にできるのはたい焼きを配ることなんですよ。
ということで、ここから中田先生は「たい焼きを配れ論」を展開していきます。
これはなんだか以前にひろゆき氏が提唱した「キモくて金ないおっさんにウサギを配ろう」と似ていますね。
結局、人間には生まれ育った環境とか性格とか得意なこととかがある程度決まっていて、どうにもならないこともあるように思います。
せいぜいのところ、ホーを目指していいのは20代までじゃないでしょうか。
もちろん、30歳を過ぎてずっといままでヘムのように生きてきた人がこの本を読んでホーのような人生を目指し、人生が劇的に上向く可能性もゼロではありませんが、大多数の人にとっては不幸の始まりのようにも思います。
自己啓発というのは、基本的には若い人のためにあるものだと思うのです。(ということに自分自身も30歳を超えたことで実感するようになりました)
むしろ、ヘムのような生き方をしている人が『チーズはどこへ消えた?』を読んで、自己嫌悪に陥ってしまうリスクもあります。
これは第3部のディスカッションのところで述べられていますが、「この人はヘム」「この人はホー」と明確に線引できるものではありません。
どんな人でも「ヘムな部分」と「ホーな部分」があり、その間をウロウロとさまよいながら毎日を暮らしています。
日によって積極的に変化に挑戦できる日もあるし、そうじゃない日もある。
でも、それが「普通の人」であって、それはそれで別にいいんじゃないかなあと思うのです。
私もこれまで編集者として何冊もホーのような生き方を勧める自己啓発書のようなものを作ってきましたが、自分自身のことを見つめ直しても、つねにホーのような積極的な生き方ができているとも思えません。
このあたりの考えに共感できる人は、諸富祥彦先生の『人生を半分あきらめて生きる』なんかも読んでみるといいでしょう。
後記
映画『来る』を見ました。
原作は当ブログでも紹介した『ぼぎわんが、来る』です。
原作はメチャクチャ怖かったんですが、映画はそうでもないです。
これはもう監督が『下妻物語』とか『嫌われ松子の一生』の中島哲也さんだからでしょう。
なので、この映画に関してはホラー映画としてではなく中島哲也監督の映画としてみるのが正しい視聴スタイルなのではないかと思います。
原作では正体不明の怪物「ぼぎわん」の恐怖が余すところなく味わえますが、映画ではそもそも「ぼぎわん」という単語すら出てこないし、その正体も明らかにされません。
どちらかというと、前面に出てくるのは『告白』のような感じで人間の怖さみたいなものです。
ホラー映画が嫌いな私は安心して見れましたが、ホラー映画っぽいものを期待していると肩透かしを食らうかもしれないです。
ただ、妻夫木聡さんはすごい俳優さんですね。
あらためて演技力の高さに感動しました。
妻夫木さんが演じる男はまさにクソな男なんですが、自分で自分のことをクソだと思っていない、正真正銘の気味の悪さを感じさせるクソ男なのです。
妻夫木さんは見ている人に「こいつクソだな」と思わずにはいられない演技をしていて、さすがでした。
そういえば『怒り』という映画ではゲイの役を演じて「妻夫木聡はマジでゲイなのでは?」という噂が流れたようですが、たしかにこの作品の演技もすごかったです。
というか、『怒り』はすべての出演者が抜群に演技がうまかった記憶があります。
広瀬すずさんも何気なくすごい演技力の持ち主でしたね。
日本の場合、俳優さんや女優さん(とくにドラマに出演する人)は宣伝のためにバラエティに出てくることが多くて、そのせいで作品を見ていても、登場人物というより「登場人物を演じている○○さん」みたいに見えてしまいます(これは日本の芸能界のよくないところだと思います)。
やっぱり俳優さんや女優さんはあんまりバラエティに出ないほうがいいと思うんだけどなと思うのですが、まあヒットさせるためにはそうも言っていられない事情もあるのでしょう。
話が脇道にそれましたが、まあ『来る』は普通の映画でした。
ただ、最後に霊能力者が一同に介してみんなで一斉にお祓いをしたりするのはなかなか笑えます。
今回はこんなところで。
それでは、お粗末さまでした。