『知的生活の方法』(渡部昇一・著)のレビュー
私の家には小さい本棚しかなくて、せいぜい100冊くらいしか収納できません。
ですので、必然的に溢れてしまった本は本棚の上に横に積んでおいたり、ダンボールに入れてしまっておいたりします。
たまに整理して、いらない本は処分したり、実家にお繰り返したりしています。
たなにきちんと刺されている本は、いわば私の「一軍の本」ともいえますね。
コロナの時期に暇だったので、そうした本の整理をしていたのですが、本を作る立場の編集者として思うのは、「棚に置かれ続ける本を作りたいな」ということでした。
最近はいらない本はブックオフに持っていくよりもメルカリに出品します。
メルカリでは、新しい本もたくさん出品されています。
ゲームソフトなどもそうですが、「新品で定価で手に入れる→さっさと読んで価値が落ちないうちにメルカリで売る」というサイクルを持っている人も多いんじゃないでしょうか。
私はそれが悪いとは思いません。
世の中には「そういう作り方」をしている本もたくさんあるからです。
一度読んだら、もう二度目は読まないなという本です。
先日、とある実用書系の編集者の方の話を聞いていて、「本をつくるときは『効果』と『効用』を考える」と述べていました。
ビジネス書や実用書は、何かしら悩みや問題を抱えている人が、それを解決・緩和するために読むものですから、そういう考え方、作り方は至極まっとうだし、読者のことをしっかり考えてつくっているということです。
これは薬に似ていますよね。
頭痛止めは頭が痛い人が飲むと痛みが楽になるものだし、湿布は肩こりや腰痛で苦しい人が楽になるものです。
ただ、本を薬のようなもの……つまり問題解決の手段としてとらえると、いつまでも本棚に置かれる本にはなりにくいような気がするのです。
たしか伊集院静さんの言葉だったかと思いますが「すぐ役立つものはすぐに役に立たなくなる。」というのも言われています。
(ここで間違えてはいけないのは、「だからといってすぐ役立つものはいらない」というわけではないことです。どうしても頭がいたいときにすぐ痛みを鎮めてくれる頭痛止めは本当に助かるものですしね)
今回紹介する本は、その意味では「すぐ役立たない本」といえるかもしれません。
本書は1976年に刊行され、118万部のベストセラーになった本です。
ちなみに、昔の本なので仕方ないですが、かなり本文の級数(文字の大きさ)が小さいです。
老眼の方は紙の本より電子書籍のほうが読みやすいかもしれませんね。
「知的生活」というのは、じつは本書の中で厳密に定義されているわけではありませんが、本書自体はP・G・ハマトンの『知的生活』にならい、著者の体験をベースに読書を日常生活の一部にするための手法についてまとめられた一冊です。
まあ今風に言えば「読書術」の本だと考えてもらえばいいでしょう。
本とどのように向き合うべきか、そのことについて書かれています。
そしてその内容のほとんどが、50年以上前に刊行されたとは思えないほど、現代にも当てはまるアドバイスばかりで、腑に落ちるものばかりです。
これは本棚につねに置いておきたい一冊ですね。
ここでは、その一部を紹介していきます。
勉強を手段にしてはいけない
いま、子供のときから受験、受験でむずかしい大学に入っても、目標がなくなったら、パッタリと勉強をやめる人が多くなるのではないか、と危ぶまれるものである。
(中略)
昔から日本人は学校を出ると本を読まないが、それに反して外国人はガリ勉はしないが、大人になっても本を読みつづける、といわれてきたものである。どうも残念ながらこれは相当程度ほんとうらしいのだ。
これは読書でもそうですね。
なにか目的を持って本を読み、知識を得るのも悪くはないですが、特に目的もなく、学ぶことそのものを楽しみにして本を読んだほうが良いようには思います。
わからないことは「わからない」と言いなさい
大学に入って最初の夏休みに、漱石の『草枕』を読みはじめた。たいして厚い本ではないからすぐ読み終えることができるはずであったが、ついに読み通さないでやめてしまった。『草枕』のような薄い本さえ通読できなかったのだから、ほかの長い小説に手を出すわけはない。その後、何度か『草枕』に手を出したが、そのつど、数ページを読んでやめている。私は漱石の小説も小説だと考えていた。小説は次のページをめくるのが待ちきれないほどおもしろいはずだ、ということを少年講談や捕物帖から知っていたので、僧籍を読むために「意志」を使わなかった。「意志」で本を読むのは、「学問の本」だけで十分だ、と思っていたのである。
その後、渡部先生は教育実習で神楽坂の高校に通うことになり、古い東京の町並みに親近感を覚えるようになります。
漱石は東京生まれの東京育ちのインテリです。
つまり、渡部先生は自分がそのような境遇に近づいてきたことで、ようやく漱石の登場人物たちの言うことのおもしろさがわかるようになり、漱石の本を楽しんで読めるようになったということなのです。
ちなみに私は未だに村上春樹のおもしろさがよくわかっていません。
『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』なんかは何回かチャレンジしているのですが、いまだに最後まで読みきれずに終わっています。
かつて一冊だけ読み切った『海辺のカフカ』も、けっきょくよくわからんかったです。
本は読むのに適したタイミングがありますし、その人にあったレベルのものがあると思います。
それがマッチしてないと、読んでいて楽しくないと思うのです。
わかっていないことをわかったふりをしたりしていると、結局、読書が楽しくなくなってしまうということなんですね。
同じ本を繰り返し読む
渡部先生は幼少時代、家に遊びに来た友人に本を貸すとき、驚いたことがあると言います。
とある友人が本を見て、次のように言ったのです。
「これはもう前に読んだことが会ったような気もするし、まだ読んだことがないような気もするし……」
これを聞いて私はほんとうにびっくりした。
(中略)
なぜ私がそんなに驚いたかというと、一度読んだかどうかよくわからない『少年倶楽部』を、ひょっとしたら読んだことがあるかも知れないという怖れから、すぐ借りないと言うが、どうしても不可解だったからである。
(中略)
一度読んだ本を読み返すのは、そんなに損することなのだろうか。そのときにはじめて、自分と違う読み方のあることを眼のあたりに見た気がしたのである。
それまでの私にとって、本は繰りかえして読むものだということは、ご飯は噛んで食べるものだというくらい当然のこと、自明のことだったのである。
これは私もあまり同じ本を繰り返して読まないタイプなので恥ずかしいんですが、読書家であればあるほど、「どれだけたくさんの種類の本を読んだか」というのを意識しすぎてしまうことがあると思います。
私もやっぱり、読書メーターで先月の読書量をまとめたりすると、「先月はたくさん読んだな」という満足感を得てしまったりするわけです。
あと10~20代くらいの若い人だと「年間○冊読みます」などというのをSNSの自己紹介のところに書いてあることがあったりしますね。
たくさんの種類の本を読むのが悪いわけじゃないです。
外山滋比古先生も、乱読の重要性については主張してますしね。
ただ、手段が目的化するのはやっぱり良くないし、メルカリで売りたいからと新品の本を早く読み終わってサクッと出品してしまうのはどうなんだろうかと。
渡部先生は「精読重視派」なのです。
本は買って、手元においておきなさい
「蔵書」のことを英語でライブラリイ、ドイツ語とフランス語でビブリオテークと言う。しかしライブラリイにもビブリオテークにも同時に「図書館」あるいは「書斎」という意味がある。個人の「蔵書(ライブラリイ)」はいくら小さくても、その人の「図書館(ライブラリイ)」なのである。六畳一間の下宿生活でも、その三方に身銭を切って集めた本があれば、それはライブラリイであると観ずべきである。
(中略)
現代のように本に多い時代に生きながらも、「読んでよかったなあ」とほんとうに思える本にめぐり会うことはめったにない。そういうことがあれば、まったく天の祝福である。ところが本というのは読んでみないことにはそういう体験を味わえるかどうかわからないのだ。それを予知するカンを養う一番よい方法は、何と言っても、「読んでよかったなあ」と本当に自分が思った本を自分の周囲に置くこと、そして時々、それを取り出してパラパラ読み返すことなのである。その修練ができておれば、書店で立ち読みしただけで、ピーンと来るようになる。
個人的には、何でもかんでも書店で新品で買っているとお金が足りなくなってしまうので、まずは図書館で借りればいいと思ってます。
ただ、私の場合、図書館で借りた本でも「まじでこれはいい」という本は大体、そのあと購入したりします。
あと、電子書籍で買っていた本でも、そのあとやっぱり紙の本で買うことも。
ふと本棚を眺めてパラパラ読むという意味では、やはり紙の本が良いんじゃないかなと。
こんな感じで、『知的生活の方法』という本は、生涯を楽しく学び続けるための考え方が詰め込まれている一冊です。
ここでは省いていますが、なによりも著者の渡部先生の経験談が抜群におもしろいし、やはり頭がいい人なので、文章が非情に読みやすいんですよね。
たぶんこれは数年おきに読み返す本になると思います。
後記
私は読みたいなーという本が見つかった場合、とりあえずAmazonのほしいものリストに打ち込んで時々チェックし、気まぐれで購入したりするのですが、なぜか高橋源一郎さんの『ジョン・レノン対火星人』が入っていて読んでみたのですが、サッパリ意味がわかりませんでした。
私にはまだレベルが高すぎる本だったようです。
今回はこんなところで。
それでは、お粗末さまでした。