本で死ぬ ver2.0

基本的には本の話。でもたまに別の話。

『読書について』(ショーペンハウアー著)のレビュー

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「読書術」をテーマにした本は実用書の鉄板ジャンルの1つで、その多くは「読書はいいものだ」と読書を全肯定しています。

読書術の本を手に取る人は普段から読書習慣があるわけですから、「読書する人はそうじゃない人よりすごい人なんだよ」と言ってもらえれば、それだけでちょっとだけ自己肯定感を高めてもらえるわけですね。

 

本を読む人だけが手にするもの

本を読む人だけが手にするもの

  • 作者:藤原 和博
  • 発売日: 2015/09/29
  • メディア: 単行本
 

 

読書する人だけがたどり着ける場所 (SB新書)

読書する人だけがたどり着ける場所 (SB新書)

 

 

とくに現代はスマホの普及により、ちょっとした空き時間があれば大抵の人はスマホをいじってSNSを見たり、ゲームに興じたりしています。

暇な時間の過ごし方の選択肢が増えたことで、以前よりも「本を読む習慣がある人」と「本を読む習慣がない人」が明確に区別されるようになってきたのです。

そうした前提から「収入が高い人はたくさん本を読む」だの「頭がいい子どもは本をたくさん読む」だのといった主張がされ、読書を肯定する本が次々に生まれるわけです。

 

さて、1851年にドイツで出版されたこの本は、タイトルだけを見るとそうした現代の日本の読書本と同じように読書を全肯定し、読書の技法を教えてくれる本に見えます。 

 

しかし、じつはこの本、むしろ「本を読みすぎることの危険性」について主張しているのです。

 

読書は、読み手の精神に、その瞬間の傾向や気分にまったくなじまない異質な思想を押しつける。ちょうど印章が封蝋に刻印されるように。読み手の精神は徹底的に外からの圧迫をこうむり、あれやこれやを考えねばならない――いまのところ、まったくその気がなく、そんなムードでもないのに。(中略)

重圧を与え続けると、バネの弾力がなくなるように、多読に走ると、精神のしなやかさが奪われる。自分の考えを持ちたくなければ、その絶対確実な方法は、一分でも空き時間ができたら、すぐさま本を手に取ることだ。これを実践すると、生まれながら凡庸で単純な多くの人間は、博識が仇となってますます精神のひらめきを失い、またあれこれ書き散らすと、ことごとく失敗するはめになる。

 

ショーペンハウアーは哲学者ですが、哲学者らしく、大切なのは「自分で考えることである」という主張が繰り返しされています。

読書というのは他者の思考をなぞるだけのものであり、それはあまり自分の頭を働かせる行為ではない。

だから、本を読んでばっかりいると、自分で考える力が損なわれてしまうというのが、彼の主張なのです。

 

読書は自分で考えることの代わりにしかならない。自分の思索の手綱を他人にゆだねることだ。おまけに多くの書物は、いかに多くの誤った道があり、道に迷うと、いかにひどい目にあうか教えてくれるだけだ。けれども創造的精神に導かれる者、すなわちみずから自発的に考える者は、正しき道を見出す羅針盤をもっている。だから読書は、自分の思索の泉がこんこんと湧き出てこない場合のみ行うべきで、これはきわめてすぐれた頭脳の持ち主にも、しばしば見受けられる。これに対して根源的な力となる自分の思想を追い払って本を手にするのは、神聖なる精神への冒瀆にひとしい。そういう人は広々とした大自然から逃げ出して、植物標本に見入ったり、銅版画の美しい風景をながめたりする人に似ている。

 

このような引用文を読んでもらえればわかると思いますが、ショーペンハウアーはけっこう辛辣に読書ばっかりしている人間を批判しているので、「読書は無条件に善!」と考えていると、フライパンで頭を殴られるような衝撃があるかもしれません。

 

そしてもう一つ、本書では「良書と悪書」についても述べられています。

これは編集者として現在の日本の出版に携わっている私にとってはなかなか心苦しさを感じるところでもあります。

 

まず物書きには二種類ある。テーマがあるから書くタイプと、書くために書くタイプだ。第一のタイプは思想や経験があり、それらは伝えるに値するものだと考えている。

第二のタイプはお金が要るので、お金のために書く。できるかぎり長々と考えをつむぎだし、裏づけのない、ピントはずれの、わざとらしい、ふらふら不安定な考えをくだくだしく書き、またたいてい、ありもしないものをあるように見せかけるために、ぼかしを好み、文章にきっぱりした明快さが欠けることから、それがわかる。ただ紙を埋めるために書いているのが、すぐばれる。(中略)

それに気づいたら、ただちにその本を投げ捨てなさい。なにしろ時間は貴重だ。要するに、書き手が紙を埋めるために書くなら、その時点でただちに、その書き手は読者をあざむいていることになる。つまり、書くのは伝えることがあるからだと偽っている。

 

この部分なんかを読むと、まさに現代の日本の出版業界のことを言っているのではないか……と思ってしまいます。

残念ながらショーペンハウアー先生のいうように、世の中には「そんなに出す必要のない本」「そんなに読む必要のない本」であふれています。

そして著者も編集者も、そのことを理解していながらも、お金を稼ぐためにせっせとそうした本を作り続けているのが現状です。

私も、そうした行為に加担している人間のひとりなのです。

 

本は何でもいいからたくさん読めばいいというものではありません。

そういうクソみたいな本を100冊読むよりも、いい本を一冊読んだほうがよほどためになりますし、時間が有用に使えます。

 

しかし問題は、そうした「いい本」を見分けるのは、至難の業であるということです。

売れている本がいい本とは限りません。

Amazonで高評価がついていて、たくさん売れていても、中身が薄っぺらいクソみたいな本もあります。

(そういう本を「なぜいま、この本が売れているのか」を分析するために読むのは有用かもしれません。私はそのような視点で読んでいます)

 

また、分厚くて難しそうな本だからといって「いい本」とは限りません。

回りくどくて難解な文章はなんだか高尚な感じもしますが、じつは内容が紆余曲折していたりしていて、あまり内容がないこともあります。

たとえば今回紹介しているショーペンハウアーの『読書について』は間違いなく良書ですが、本文は160ページ程度で終わっていて、たいへん簡潔に書かれています。

 

……と、ここまで書いていてなんですが、このショーペンハウアー先生の主張も、鵜呑みにしてはいけません。

これは私がたびたび主張していることですし、ショーペンハウアー先生もいっていることですが、本の内容を「なるほど!」とまるごと信じて鵜呑みにしてしまうことほど危険なことはないのです。

いかなる本でも、「ホンマかいな」と心の片隅に疑う姿勢を持ち続けなければなりません。

 

さて、古典を読む場合、著者がその本を書くに至った経緯のようなものを把握しておくと、なぜその著者がその本を書いたのか、その動機がわかることがあります。

本書の場合、解説によってショーペンハウアーの生涯がカンタンに説明されています。

そこに、なぜ彼が『読書』というテーマについて本を書いたかの動機が伺い知れる事実があるので、説明していきましょう。

 

ショーペンハウアーは商人の父と小説家で旅行記なども執筆しベストセラー作家であった母親の間に生まれます。

最初は父の意向にしたがって商人になったショーペンハウアーですが、やはり哲学の道を志して哲学書を刊行するも、まったく売れませんでした。

ここであったのが、母親との確執です。

流行作家だった母は自分の息子をライバル視するようになっていた。本になったばかりの博士論文『充足理由律の四根について』を息子から手渡された母は、「薬屋さん向けの本じゃないの?」とからかう。当時、薬屋では主として薬草を扱っていたので、薬草の根っこの話かとあてこすったのである。息子がカッとなって「お母さんの本がこの世から消え去っても、ぼくの本は読み継がれます」と言い返すと、母は「お前の本は初版がそっくりそのまま売れ残るのよ」と負けずに切り返したという。こうして母と息子の関係は決定的破局をむかえ、一八一四年ショーペンハウアーはヴァイマールを去り、ドレスデンへ向かう。以後、母と息子は生涯二度と顔を合わせなかった。この母にして、この息子ありというべきか、ショーペンハウアーの才気や激しい気性は母親ゆずりとも言われている。

 

良書と悪書の部分についてなどは、おそらくは流行作家で軽薄な内容の本を出していた母親の本を意識した部分もあるかもしれませんし、母親のような人が書いた本をいくら読んでもタメにならない……という意図もあったかもしれません。

ちなみに、実際にその後、ショーペンハウアーが出した力作『意志と表象としての世界』は100冊くらいしか売れなかったらしいので、母親の予言は当たったわけですが、一方でショーペンハウアーが言った「自分の本は読み継がれます」という言葉も当たったわけですね。

ただし、ショーペンハウアーの作品がいまも読みつがれているのは、哲学書よりも、本書のようなエッセーで、これは晩年になってから出版されてベストセラーになり、これにより、彼は有名人になったのです。

 

もうひとつ、知っておきたいのは当時のドイツ社会の文化の様子です。

一九世紀半ば、長く保たれてきた真・美・善の統一的美的価値観は危殆に瀕していた。都市化や工業化の波、プロレタリアートの台頭とともに、貧困や犯罪などの社会問題が発生し、通俗犯罪小説、ホラー作品が愛好され、大衆の刺激的快感を求める嗜好はどんどんエスカレートしてゆく。大衆はより強烈なもの、よりグロテスクなものを求め、そのために大衆の感覚はますます鈍磨してゆく。浮薄なもの、どぎついものが幅をきかせ、大衆文化の全面に「卑俗なもの」「醜悪なもの」が押し出され、こうして美と崇高の概念はかつてないほど凋落する。

いまもたまに「日本語の乱れ」という言い方がされますが、ショーペンハウアーも当時のドイツ語が乱れ、文法がメチャクチャな本が増えていることを痛烈に批判しています(このあたりのことにもけっこう紙面が割かれていますが、日本人は読み飛ばしてもいいでしょう)。

なので、本を読みすぎることの害については、現代でも果たして当てはまるのか、あるいは文芸と実用書で変わるものなのかは、それこそ個々人が考えて判断する必要があるでしょう。

 

後記

『十三機兵防衛圏』をようやくプレイ&クリアしました。

 

十三機兵防衛圏 - PS4

十三機兵防衛圏 - PS4

  • 発売日: 2019/11/28
  • メディア: Video Game
 

 

発売されたのは2019年で、『オーディンスフィア』『朧村正』をつくったアトラス&ヴァニラウェアだったので期待していたのですが「そうはいっても半年くらいたてばメルカリで中古品が安く手に入るやろ」と思っていた私が浅はかでした。

このゲーム、半年たっても1年たってもまったく値崩れを起こさず、恐るべきことにメルカリでも定価と同じくらいの値段で取引されていたのです。

いい加減にやりたくなってきたので、結局新品で買いました。

 

このゲームは架空の街に暮らす13人の少年少女を操作しながら、何処からともなく襲来する謎の怪獣を倒し、街を防衛するもの。

1940年代から1980年代、さらに2020年代など、いくつかの時代区分に分かれて、13人の主人公たちが交錯していくのですが、いかんせん物語設定や時系列がバラバラに進むので、かなりプレイヤーは混乱します。

私もたぶん、なにがどうなってそうなったのか、おそらく半分くらいしか理解できないままクリアしましたが、問題ありません。

すべてを理解する必要はないのです。

なぜなら、じつはそこにあまり意味などないからです。

捉えようによっては「なんじゃそら!」という壮大なモニョモニョラストですが、これはこれでアリだと思います。

 

それより私としては、アクションシーンが物足りなく感じました。

せっかく機兵のデザインがかっこいいのに、怪獣とのバトルフェイズではドット絵のようなものだけで表現されていて、めちゃくちゃ味気ないのです。

もちろん、すべてのグラフィックをリアルにする必要はないと思うし、バトルシステム自体はおもしろかったのですが、せめて技を出すときは搭乗者あるいは機兵のカットインイラストを入れるとか、そういう演出はあってもよかったんじゃないかなと……。

総じて判断すると、いいゲームだけど、絶賛できるほどではないかなという感じでした。

いま、Amazonの初売りで安くなっているみたいです。

 

今回はこんなところで。

それでは、お粗末さまでした。