『日本再興戦略』をかなりザックリまとめました
落合陽一氏といえば、いまは本を読まない人でも知っているんじゃないだろうか。
日本テレビ系列の深夜の報道番組『news zero』にも登場しているし、著書も売れている。
そんな落合陽一氏はメディアアーティスト、筑波大学の准教授、実業家として活動している人物で、専門は計算機ホログラム、デジタルファブリケーション、HCIおよび計算機技術を用いた応用領域(VR、視聴触覚ディスプレイ、自動運転や身体制御)の探求…とのこと。
今回紹介する本書は、そんな落合陽一氏が日本のこれから、どうしていくべきかという考えをまとめた一冊だ。
本書で落合氏が目指すのは、日本人に「正しい自信」を取り戻させることである。
日本はもう終わった国だと卑下するのでもなく、日本はまだ世界で影響力を持ち続けていると盲信するのでもなく、「これまでの日本の何を残し、何を新しくしていくべきなのか」を1人ひとりが考えていくことで、現状を性格に判断させることを目的としている。
落合氏の3つの行動戦略
実際、落合市の活動は、日本と社会に貢献するため、3つの戦略に基づいているという。
1.経営者として社会に対してより良い企業経営をすること
落合氏が経営しているピクシーダストテクノロジーズという会社は、日本企業と一緒にイノベーション開発を手掛けている。
2.メディアアーティストとしての活動
歴史があり、多様でもある日本の文化を振り返り、それを新しい形でこねくり回して表現し直す。
3.大学での活動
落合氏は筑波大学で学長補佐も務めているので、おもに大学教育の分野で未来のビジョン、グランドデザインを設定する。
では、本書の概要を簡単にまとめていこう。
日本は「欧米」というユートピアを目指すのをやめるべき
現代の日本社会は太平洋戦争に負けたときに一気につくられた制度にいまも市が立っている側面が多く、ヨーロッパ式とアメリカ式がまじっている。
ただ、ドイツもフランスもアメリカも、それぞれの積み重ねてきた歴史の上でその制度を採用していたのだから、それを途中から取り入れて混ぜ込んでみたらいろいろなところで齟齬が生じるのが当たり前。
だから、「欧米」というくくりで制度を取り入れるのはもうやめて、日本に向いているものはなにかを考えていかなければいけない。
たとえば日本人は昔から「公平」にはこだわるが、「平等」にはこだわらないところがある。
あるいは、個人の自由よりも連帯感を重視するところがある。
かといって、それが悪いわけではな。
そもそも日本という社会にはそういう思想的土壌があるということであって、それを無理に「西欧風」な基準に照らしあわせてジャッジするのではなく、自分たちに向いた制度をつくる必要がある。
画一的な理想からの脱却
日本においてはインドのようなカースト制(士農工商)がけっこう向いていて、それぞれのひとが役割を持ちながら社会を構成したほうが幸せになりやすいのだが、現代社会では「商人」だけが人気になって、商人としての成功だけが社会的な成功と位置づけられている。
この原因となったのはおそらく、昭和の時代にマスメディアによる、(トレンディドラマなどによる)価値観の統一が強力に図られたからで、それは当時の国家戦略として、国民全体の大きな需要(マイホームが欲しい、マイカーがほしい、盛大な結婚式を上げたいなど)を引き起こすという意味では効果的だったが、いまの時代ではそのマインドを持ち続けている人は、かえって不幸の原因になる。
テクノロジーから私たちを近代から脱却させる
私たちはまだ社会的なシステムでは「近代」を生きている。
すなわち、人々を学校や工場、あるいは会社といった制度の決めた時間に合わせて行動させる(時間を同期させる)タイムマネジメントが行われていて、かつ、生産性を高めるために労働力の単位で区切るからだ。
しかし今後、テクノロジーがさらに発達すれば、人間を社会制度にとって都合の良い画一的な基準に押し込める必要性もなくなる。
たとえば、タイムラグもなく言語を翻訳できる装置を誰もが使えるようになれば、日本人が英語を勉強したりする必然性は大きく減る。
それはつまり、「英語」という画一的なフォーマットに従わなくても、日本人は日本語で話し、アメリカ人は英語で話すという、ダイバーシティが生かされたままで物事が通用するようになるということだ。
日本の「公平性」欲求度の高さは武器になる
日本人は公平性を求めるので「一律のサービス」をとかく要求しがちで、それが非効率さを生むこともあるが、それがうまく働くこともある。
たとえば通信回線の「4G」などは、日本では世界でも普及率が高い。
それはなぜかというと、携帯電話のつながりやすさは東京と同じくらいの水準でないと「不公平だ」と感じる人達がたくさんいるので、企業がそれに応えようとするからだ。
今後、それと同じ用に次世代の回線5Gが普及していくと、3次元のリアルタイム中継が可能になる。
デジタルネイチャーとはなにか
ここは落合氏の得意分野だが、落合氏は2025年から2030年に向けて、「デジタルネイチャー(計算機自然)」へ向かっていくはずだと予測する。
「デジタルネイチャー」とは何かという定義をお伝えすると、ユビキタスの後、ミックスドリアリティ(現実空間と仮想空間が融合する「複合現実」)を超えて、人、Bot、物質、バーチャルの区別がつかなくなる世界のことです。そして、計算機が偏在する世界において再解釈される「自然」に適合した世界の世界観を含むものです。
「デジタルネイチャー」は、英語では「Super nature defined by computational resurces」と説明することが多いのですが、コンピュータによって定義されうる自然物と人工物の垣根を超えた超自然のことです。デジタルとアナログの空間をごちゃまぜにしたときに現れうる本質であり、従来の自然状態のように放っておくとその状態になるようなコンピュータ以後の人間から見た新しい自然です。それは、質量のない世界にコードによって記述される新しい自然みたいなものともいえます。それが質量や物質や人間と混ざり合って新しい自然をつくる。僕らの研究室では、それをデジタルネイチャーとして未来イメージをとらえようとしています。
まあここを読んでも意味がわからないと思うのだけど、めちゃくちゃ簡単に説明すると、そもそもいまは「仮想現実(VR)」とか「拡張現実(AR)」のように、現実とデジタル空間を明確に区別して線引して認識している人が多いと思うし、「人間なのか人工知能なのか」といった区別に神経質になる人が多いけれど、将来的には「そもそも現実なのか仮想なのか」ということを意識することすらなくなるのが普通の世界になるだろう……ということだ(と思う)。
これは性別で考えればわかりやすいかもしれない。
たとえば最近は、LGBTという言葉も一般的になってきたように、「この人は男なのか、女なのか」ということを明確に区別することがナンセンスになりつつある。
なぜなら、そんなことを区別することに意味がないからだ。
あるいは、最近は映画のなかにも実際の俳優とCGのキャラクターが一緒に出演しているが、「果たしてこれは実際の人間が演じているのか、それともフルCGなのか」を見分ける必要はない。
そんなのは別に、どっちでもいいことだからだ。
この「それ、どっちでもよくね」がもっといろいろなものに広がっていくのが、私が解釈している「デジタルネイチャー」である。
あるいは、「オンライン」が普通であり、「オフライン」でいることがむしろ特殊な状態である、ともいえる。
人口減少と高齢化はチャンスである
落合氏は「人口減少」と「高齢化」がチャンスであると説明する。
その理由は3つある。
1.新しいシステムや機械化に対して反対運動が起こりにくい
2.高齢化に対して効果的なソリューションを世界に先駆けて生み出し、輸出できる武器にできる可能性がある
3.子どもが少なくなる分、1人あたりの人材教育コストを多くかけることができる
今後の日本においてキーワードとなるのは「機械化」「省人化」であり、それは、人口が減ることが明らかな日本社会だからこそ促進されうる。
これが日本においてやりやすいのは単に人口が減っているからだけではなく、「日本人はテクノロジーが好き」という国民性も味方する。
たとえば、西洋人はロボットというのをどちらかというと「人間の敵」「対立する存在」としてとらえがちだが、日本人は「ロボットも友達」みたいな感覚に近い。
これは宗教的なところでいう「神」と「人間」の関係に近い。
キリスト教では「絶対的な力を持つ神」と「神によって想像された人間」がいわば対立構造のようにもなっていて、エディプスコンプレックスにも近い、崇敬と憎悪が入り混じったような感情を抱きがちだ。
ただ、日本における神様はそこまで偉大でもなく、けっこういろいろなものが簡単に神様になったりするので、「人間」と「神様」の距離が近い。
トークンエコノミーが一般化する
トークンエコノミーというと難しく聞こえるかもしれませんが、すでに日本にはトークンがたくさんあります。TSUTAYAのTポイントカードもANAのマイレージも立派なトークンです。日本人ほどポイントカードがたくさん財布に入っている国民は見たことがありません。日本はすでにトークンエコノミー先進国なのです。
トークンエコノミーとは、このポイントカード経済圏がさらに広がって、企業だけでなく個人もポイント発行できるようになるイメージです。
いま、いろいろなところがスマホ決済を導入して会員を増やそうとしてしているけれど、あれも自分たちのトークンエコノミー圏を形成して、独自に資本を集めようとしているからなのだろう。
たとえば自治体が独自のトークンを創り出せば、それを財源にできる。
あるいは、広く薄く世界から利益を搾取している「カリフォルニア帝国(グーグルやアップル)」からの、植民地のような状況から脱し、ローカルだけで成立する個別の経済圏をつくりだすことを可能にする。
それ以外の個人の戦略
・これからのリーダーは弱さをさらけ出し、周囲の協力を得ていく2.0型の人になる
・教育や働き方の分野では、能力の組み合わせを考える「ポートフォリオ・マネジメント」と、将来のニーズを予測する「金融敵透視能力」が重要視される
・すべての人が「百姓(いくつもの仕事を同時にこなす)」的な働き方を実践し、企業もそれに合わせて兼業の自由かと、解雇のしやすさを実装するべき
・自分とは何かをじっくり考えるよりも、「いまやるべきことはなにか」「なにができるか」を考え、行動に移すことが大事
かなりざっくりしたまとめ方だが、だいたい要点はつかめたはず。
後記
『ジュマンジ/ウェルカム・トゥ・ジャングル』を見た。
ご存じ、これは1995年に公開された映画の正式な続編となっている。
ちなみに、映画の原作になっているのはこちらの絵本。
- 作者: クリス・ヴァン・オールズバーグ,Chris Van Allsburg,辺見まさなお
- 出版社/メーカー: ほるぷ出版
- 発売日: 1984/07/01
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ちなみに、『ザスーラ』は同じ作者による絵本を映画化したものなので、厳密に言えば、映画『ジュマンジ』の続編ではないっぽい。
- 作者: クリス・ヴァン・オールズバーグ,Chris Van Allsburg,かねはらみずひと
- 出版社/メーカー: ほるぷ出版
- 発売日: 2003/09/01
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95年公開の『ジュマンジ』はボードゲームで、怪異が現実世界のなかに現れるという現象が起こるが、今回の『ウェルカム・トゥ・ジャングル』はテレビゲームのかたちをとっていて、プレイヤーたちはゲームのなかに吸い込まれるという設定になっている。
実際、プレイヤーたちには選択したゲームキャラクターに準じた特殊能力が備わり、ライフも3つ付与されるなど、まさにゲームっぽい。
ただ、たしかに現代風にアップグレードはされているのだけど、この設定はかえってジュマンジという映画を陳腐なものにしてしまったように思う。
というのも、「ゲームのなかに入ってそこで冒険する」という設定は、日本のエンタメ作品では珍しくないことだからだ。(とくにオンラインゲームとかね)
むしろ、95年版のジュマンジのように、ゲームの現象が現実世界にも現れてしまう、ということのほうがおもしろかったように感じた。
ただ、あまり頭を使わずに楽しんで見られる映画だった。
若者特有のノリの軽さとか、テンポの良さはいい。
あと、「ケーキが弱点」がまさにその通り過ぎて、あのシーンは笑ってしまった。
アマプラで無料で見られるので、お暇なときはぜひ。
今回はこんなところで。
それでは、お粗末さまでした。