私は2週間ブログを更新しなかった……肉眼ではね~『〆切本』のレビュー~
2週間ぶり以上のブログ更新である。
もくじ
長い言い訳
そもそもブログとは「記録」である。記録である以上、このブログも何かを記録していることになるわけだが、では何を記録しているのであろうか。ということを改めて考えると、自分でもよくわからない。内容的には読んだ本を紹介することが多いが、実は私は本を紹介したいわけではないのかもしれない。結局、文章を書くという行為は多くの場合、他者に自分の考えを伝えたいとか自らを表現したいという思惑よりも、思考を文章という目に見える形に変換することで書き手自身を納得させる自慰行為に、結局のところは尽きるのではないだろうか。利他行為と利己行為の境界線は驚くほどあいまいで、本を読むにしろ、読者が著者の思惑を忖度することそのものが思い上がったことであって、どれだけ親しい人間であっても完璧に理解しあえることなどありえないのだから、いわんや会ったこともない著者の思考をたかだか文章から読み取ろうとすることはある意味で一種のコミュニケーション不全にすぎない。人間はどこまで行っても所詮エゴイズムの枠から抜け出すことはできず、自分以上にかわいい他者など存在するはずもないのだから(だからこそフィクションの中の献身的行為は感動を呼ぶ)、相手を理解しようとする行為が自らを理解しようとする行為であることを認識しているか否かが重要だ。ということを考えると、そもそも「書けない」という状況が本来的にはあり得ないことがわかる。そもそも書くという行為がすべからく自分のための行為なのだから「書かなければならない状況」など本来的には存在するべくもなく、「書く」か「書かない」の二択だけが存在する。これは「書く」行為にとどまることではなく、人間のおそよすべての行動は自発的になされているのだから、そこに罪悪感を感じる必要はない――ということを書くと、さながら私が罪悪感を抱いているかのように深読みする人がいるかもわからんが、それこそ私の意図したことであるかもしれない。人間には「わかってほしい」「わかってほしくない」という、一見すれば矛盾した2つの欲望を同時に持つ性質があるから、だとすればわかろうとする行為そのものが端から徒労に過ぎないのは至極当然だろう。
紙で持っていたい本
というわけで、今回紹介するのはこちら。
古今のさまざまな作家先生が書いた「〆切」にまつわる文章を集めた一冊。夏目漱石、泉鏡花、志賀直哉、谷崎純一郎、菊池寛、梶井基次郎といった国語の教科書に載る歴史上の大作家から、長谷川町子、藤子不二雄A、岡崎京子、手塚治虫といったマンガ家、筒井康隆、浅田次郎、村上春樹、吉本ばなななどの現代の重鎮などの文章も載っており、なんと外山滋比古センセの一家言まである。
豪華だし、こうした文章を集めた作り手の努力、情熱が伝わる。本の作り方も非常に丁寧で、まさに「紙で持っていたい本」といえるだろう。(ちなみに、本書は代官山のTSUTAYAで買ったんだけど、あそこの書店は独自のバーコードシールをカバーに貼っていて、きれいにはがすのに苦労した)
好きを仕事にするのは間違いなのか問題
本書で書かれているのは、単に「作家はいかに〆切に苦しめられているか?」ということではない。ある意味もっと哲学的で、「そもそも〆切とはなんぞや?」というというかけを読者に投げかける。
初めは「書きたい」から始めた執筆活動が、それが仕事(義務)になると「書かねばならない」になり、そうなると苦しみだすというのは不思議なものである。ここら辺で思い浮かぶのは「好きを仕事にしてはいけない」という誰が言ったかわからない格言だ。
ただ、実際に「好きを仕事にしている」ワタクシの立場から言わせてもらえば、やっぱり好きを仕事にしたほうがいいのではないかと思う。なぜなら、仕事は好き嫌いにかかわらず、人を苦しめるものだからだ。同じ苦しみを味わうなら、自分の好きなことに携わって苦しみを味わった方が幸せなのではないだろうか………などと考える。
それに、もっと突き詰めて考えれば、「果たして苦しみは人生に不要か?」というドMな考え方にたどり着く。苦しみも歓びも、結局は相対的なものである。24時間365日、つねに歓びばかりを感じていたら、それはもう歓びとはいえないだろう。陳腐な言い方になってしまうが、「苦しみがあるから歓びがある」というのは心理であるように思う。ここらへんはディズニー映画の『インサイドヘッド』を見るとわかりやすい。以下の記事で『インサイドヘッド』については書いた。
作家は〆切とどう向き合ってきたのか
あんまりグダグダと私の考えを書きつづっていても読んでいる方はつまらないだろうから、以下、本書の中でおもしろかった部分を抜粋していこう。
高橋源一郎の場合
編集者が作家を拉致・監禁して原稿を書かせることを俗に「カンヅメ」という。カンヅメは一種の処方箋であるが、効果があるかは人による。少なくとも、高橋源一郎には効果があまりなかったようだ。
わたしが護送された場所は、某出版社の保養所でった。管理人のほかは私だけ。保養所においてあるのはその出版社の本だけ。電話をかけてくるのは編集者だけ。ごはんを食べに食堂に下りていくと連日管理人の方から「A先生は先々月、ここに二週間おられて、百枚ほど書かれたそうです。それからB先生は先月、ここに三週間おられて、本を一冊脱稿されたそうです」と洗脳されるのである。これで原稿を書かねば人非人と呼ばれてもしかたあるまい。
◆一日目
夕方到着。早速、夕食。海に近いので、海の珍味が山盛りで死ぬほど食ってしまう。これではとても仕事などできない。早く寝ることにした。
◆二日目
ふだんとることなに充実した朝食をとったので、いささか眠くなる。携帯用ワープロをとりだすが、印刷用のインクリボンがないので仕事ができない。ぼんやりしているうちに充実した昼食をとる。昼寝。管理人さんに電気屋まで送ってもらいインクリボンを買ってくる。これで仕事ができるなあと資料を広げていたら夕食。またしても山海の珍味。今日は早く寝て、明日仕事をしよう。
◆三日目
朝食。今日はなんとかなりそうだ。いざ、仕事をしようとしたらなんだか落ち着かない。ラジオを持ってくるのを忘れたのだ。それにお菓子も。管理人さんに電気屋とコンビニエンスストアに寄ってもらい、ラジオとロッテのVIPチョコと明治のアーモンドチョコとマンガ雑誌を買う。帰って昼食。それから昼寝。ラジオをかけ、チョコレートをかじりながらマンガを読む。だんだん仕事をする雰囲気になってきた。夕食も今日は残した。さあやろう、と思ったが、いきなりとりかかってはうまくいかないので、ノートに予定表をつくっていたら、なんだか眠くなってきて、けっきょく寝た。
◆四日目
朝食。今日こそ書くぞ。いざ、仕事をしようとしてワープロをつけたら、FMは雑音ばかりなりまるで聞こえない。困った。ラジオを消すと、波の音が気になってだめだ。布団に横になっていたら、昼食の時間になる。軽く昼食をとり、ラジオを諦め、いよいよ仕事にかかろうとしたら編集者氏から電話。「どのくらいできました?」と聞かれたので、なんだか創作意欲を失う。ワープロを消し、ラジオをつけて、ノートにいたずら書きをしていたら夕食。それにしてもなんとすごい勢いで食事の時間になるのだろう。この四日間、食べたばかりいたせいか下痢になった。トイレと部屋を往復しているうちに睡眠の時間になった。ああ……
村上春樹の場合
もちろん、すべての作家がうえのように「夏休み末期の小学生」状態になるわけではない。村上春樹などは、かならず〆切は守るようだ。しかし、やはり〆切を恐れている。それをユーモラスに書いた部分を引用しよう。
次にギリギリの線まで遅れると印刷所の人に迷惑をかけるということもある。僕は高校時代に新聞を作っていてしょっちゅう印刷所に出入りしていたからわかるのだけれど、印刷所のおじさんというのは誰かの原稿が遅れたりすると徹夜をして活字を拾わなければならない。気の毒である。印刷屋の植字工の家では奥さんがテーブルに夕食を並べてお父さんの帰りを待っているかもしれないのである。
「父ちゃんまだ帰ってこないね」なんで小学生の子供が言うと、お母さんは「父ちゃんはね、ムラカミ・ハルキっていう人の原稿が遅れたんで、お仕事が遅くなって、それでお家に帰れないんだよ」と説明する。
「ふうん、ムラカミ・ハルキって悪いやつなんだね」
「そうだねえ、きっとロクでもない半端な小説書いて世の中をだまくらかしてるんだろうね」
「母ちゃん、俺さ、大きくなったそんな悪い奴ぶん殴ってやるんだ」
「これこれ」
なんていう会話を想像すると僕はついいたたまれなくなってすぐ原稿を書いてしまうのである。
森博嗣の場合
さて、本書にはさまざまな作家と〆切にまつわる話が載っているが、異色を放つのが森博嗣だ。彼はあくまで「ビジネス」として小説を書いているので、ある意味、小説に対する愛はない。
締切に遅れる作家を許容しているのは不合理である。だから、僕は編集部にこうアドバイスをしたこともある。「締切に間に合ったら、一割多く原稿料を払う、遅れたら、原稿料を減額する、という契約にしたらどうですか?」と。そもそも、仕事を依頼するときに、いかなるペナルティもない、というシステムなのだ。そんな紳士協定だけで仕事をしているのである。大変立派な綺麗事である。締切に遅れているために、編集者は時間と交通費を使って何度も作家のところへ足を運ばなければならない。であれば、締切に間に合った場合に報奨金を出しても、編集部にとっては「余計な出費」にはならないはずだ(これは編集部も認めていた)。何故、合理化できないのか。彼らは、締切遅れの原稿を受け取る苦労を「美談」のように誇らしげに語る。酔っ払っているとしか思えない。
そもそもの話、「文章を書いて飯を食おう」などと考えているのは酔狂な人間である。突き詰めて考えれば、本なんて人間が生きていくうえでまったく必要ないものだ。作家および編集者というのは、人間にまったく必要なものを一生懸命につくっているのである。ちょっと頭がオカシイ。
となれば、作家というのは職業ではないし、執筆は仕事ではない。あれは遊びである。獅子文六は以下のように語る。
アリのように、まっ黒になって、朝から晩まで仕事をするというのは、少し変態ではないか。タイプライターで原稿を書くアメリカの文士でも、そうは働かないだろう。昔の日本文士は、ナマケモノと相場が決まっていた。現代文士が急に働き出したのは、生活が苦しいからとも思われるが、如上の文士諸君はナニそれほど働かなくても、食える人ばかりである。また、頼まれると断れないという好人物ぞろいでもない。どうも私には理由がわからない。恐らく、この忙しい世の中に、自然と歩調を合わせているのだろうか。それならつまらない。こんな世の中につき合ったって仕様がない。こういう世の中だから、遊んでやろうという方が文士らしい。
西加奈子の場合
では最後に、おもしろい言い訳をご紹介しよう。
最近考えたのは、編集者に使える「便利な言葉」である。遅れた原稿、大幅な修正、それを求める編集者へ、なんと言ったらうまいこと回避出来るか。
結局、小説の展開よりもじっくり考えて閃いたのが、「肉眼ではね」だ。使い方は、例えばこう。
「西さん、先週締切の原稿ですが、まだ送っていただけないのでしょうか」「肉眼ではね」
どうだろう。「自分は己の目で見えるものしか信じない、物事の背景にある様々なものに心の目を凝らすことが出来ない俗物」と、編集者に思わせることは出来ないだろうか。
「ここからの展開、ちょっと急すぎているような気がするのですが」「肉眼ではね」「主人公の性格からすると、ここの描写は矛盾しているのではないでしょうか」「肉眼ではね」。うん、いい!
私の場合
私は作家ではなく編集者なので、原稿を待つほうの身分である。しかし、私は基本的に「〆切」を設定しない。なにしろ雑誌などの定期刊行物を作っているわけでないので、デッドラインが存在しないのだ(もちろん、年に何冊作れとか、いくら売り上げを立てろというノルマ的なプレッシャーは存在するが)。
私の場合、いくつかの人と話を進めながら「できたところから進める」スタンスを採用している。そもそも、私が作っているのはビジネス系の実用書なので、相手にしている人たちは専業作家ではなく、大学の先生とか会社勤めをしている人たちだ。だから「原稿書いてください!」と強く言えないのだ……とほほ。そして、いつまでたっても原稿が届かない場合は、私も無理に書かせない。よほど実績がある人でもない限り、そこまでひとりの人間にこだわる必要はないからだ。
もちろん、実際に制作が始まって印刷所の人にもスケジュールを作ってもらった後で修正の必要が出てきた場合には、急かすこともあるが。
おわりに
編集者をしていて一番楽しいのは、なんといっても著者から初めての原稿が届いた瞬間である。もちろんいまはみんな、メールで原稿データを送ってくるのだが、私はおそらくそれを読んでいる時はニヤニヤしているだろう。傍から見ていると気味が悪い。
一応、私は「週に一回はブログを更新する」というルールを自分に課していたが、さっそくそれを破ってしまった。だが反省はしてない。書きたくないときは書かなくていいのだ! これで飯を食っているわけでもないしね。
というわけで、今回はこんなところで。
それでは、お粗末さまでした。