本で死ぬ ver2.0

基本的には本の話。でもたまに別の話。

『エッセンシャル思考』はあなたに必要か?

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GWの予定なんてないので、更新カーニバル開催中。

もくじ

本の読み方について

ビジネス書というのはいろいろと読者に提案してくる。あれをしろ、これをするな、こう考えろ、こういう習慣をつけろ……などなど。そして、人によっては一冊の本に深く感銘を受け、その後何十年にわたって同じ本を何度も読み続けて自らのバイブル(聖典)とする人もいる。

それだけ一冊の本を大切に読み続けるのは素晴らしいと思うが、個人的にはあまりいいことだとは思わない。結局、本を書いているのはただの人間であり、その本に書かれていることが正しいかどうかは誰にもわからないのだ。もちろん、一方で私は同時に読んだ本の多さばかりを誇って矢継ぎ早に次から次へと本を読み進める人もどうかとは思う。個人的には「中庸」を大切にしたい。一冊の本を大切にするのも毒だが、読みすぎてすぐに内容を忘れてしまうのも毒なのだ。バランスが大切なのではなかろうか。

あと、これは私は過去のエントリーでも繰り返していることだが、徒花は、良い本というのは読者に「答え」ではなく「問い」を提供するものだと思っている。本に書かれていることを鵜呑みにするのは危険だ。むしろ、本によって自ら考える契機としたい。

これはブログでもいえることで、私の書いていることだって正しいかどうかはわからないのだから、決して私の文章を読んで簡単には納得しないでほしい。ここら辺のスタンスがなかなか言葉にしづらく、難しいのだが、「疑うと同時に認める」ということだ。

『エッセンシャル思考』について

エッセンシャル思考 最少の時間で成果を最大にする

エッセンシャル思考 最少の時間で成果を最大にする

 

さて本書は一昨年に刊行された本で、わりとロングセラーを続けている一冊だ。著者のグレッグ・マキューン氏はシリコンバレーにあるコンサルティング会社THIS Inc.のCEOを務めていて、エッセンシャル思考をテーマに世界各地で講演会などを開催している作家でもある。

本書のメッセージを端的に述べるなら「本当に大切な事柄にだけ集中してリソースを割け」ということだ。いろいろなことに手を出して無駄に時間やお金や労力を使うよりも、その時の自分にとって一番大切なことを選び、そのことに集中することのほうが人生はよくなる……ということなのだが、じつは徒花としてはこの考え方、ちょっと懐疑的である。

エッセンシャル思考が必要な人はそんなにいるのか?

もちろん、考え方としては十分理解できる。企業の経営ではたしかに選択と集中が必要だろう。へたに事業を多角化していろいろなことに手を出すよりも、まずはひとつの事業領域にリソースを投入したほうがいいという考え方もある。

ただ、このエッセンシャル思考が本当に必要な人は、社会のなかでも相当限られるんじゃないだろうかとも思うのだ。というのも、本書の中で登場している「エッセンシャル思考を取り入れて成功した人々」というのは、日々さまざまな事柄に頭を悩ませている経営者やマネージャーの人々ばかりだからだ。そういう人々はもともとエネルギッシュで、いろいろなことについつい挑戦したがるものだが、普通の会社員はみんな、そんなにいろいろなことに忙殺されるくらいめまぐるしい生活を送っているものなのだろうか……などと考えてしまう。

ひとつに注力することのリスク

それに、ひとつのことだけを選んでそれに注力することにはリスクも存在する。株式投資で考えるとわかりやすいが、ひとつの銘柄に全資産を投入するのは怖い。その株式の値段が暴落したら、どうしようもない。だからこそ、多くの人々はひとつの銘柄に資産を集中させず、分散させる。それがリスクヘッジの手法として確立されているのだ。

もちろん、株式投資でも、すべての人がそのようなやり方をしているわけではない。たとえば、投資の神様などと呼ばれるウォーレン・バフェットはそういう、適当な分散投資を行わないし、一度買った株式は基本的にすぐに売却したりしない。バフェットは自分の師匠であるベンジャミン・グレアムの理論に従って、購入する前に企業や業務内容、ライバル企業との比較などを徹底的に行ってその将来性を見極めるからだ。それは、本書でいうところの「エッセンシャル思考」的な投資方法といえるだろう。

億万長者をめざすバフェットの銘柄選択術

億万長者をめざすバフェットの銘柄選択術

 

そして、バフェットのバリュー投資と呼ばれるやり方は人気が高く、そのやり方を紹介している書籍も山のようにあるわけだが、実際のところ、彼のようなバリュー投資を実践している人は少数派ではないかと思う。なぜなら、このバリュー投資、ものすごく、めちゃくちゃ面倒くさいからだ。

これはエッセンシャル思考にも言えることである。エッセンシャル思考において大切なのは「いまの自分にとって本当に大切なことを見極めること」だ。これは、数ある銘柄のなかから長期的に成長する事業を見極めるのと同じくらい難しいし、選択に多大な労力がかかることのように思う。

もちろん、その方法も本書では説明されているが、その方法をやってみたからといって「いまの自分にとって本当に大切なこと」がわかるかどうかの保証はない。それをやる気力がある人はいいだろうが、多くの人は加入する保険や購入する株式でさえ選ぶのが面相臭いと考えているのだから、それはなかなか難しいだろう。

効率化すれば、それでいいのか?

あと、心情的に私が疑問符を抱いてしまうのは、効率化という言葉に対してである。たしかに、エッセンシャル思考を忠実に実行して、自分にとって大切な事柄をすべて切り捨てていけば、本当の目標は早く達成できるかもしれないし、そのことによって人生が幸せになるかもしれない。でも、私は目的地への最短距離を選ぶことよりも、ぶらぶら寄り道する生き方をしたい

たとえば、エッセンシャル思考を、本を選ぶ行為に置き換えてみよう。世の中には世界中で絶賛される名作もあれば、『モモ』の「時間泥棒」のように、読むといたずらに時間を浪費するだけのとんでもない駄作もある。そこでエッセンシャル思考に従えば、なんでもかんでも「まず読んでみる」という行為は非エッセンシャル思考的なのだ。それよりも、どの本が今の自分を最大限に楽しませてくれるかを検証するために、あらゆる本の内容を選別することに時間をかけ、選び抜いた一冊の本をしっかり時間をかけて読むべきだ、ともいえる。

ちなみに、自己啓発本として有名な仕事は楽しいかね?では、「試してみることに失敗はない」と伝えている。これはある意味、エッセンシャル思考とは真逆の考え方といえるかもしれない。

仕事は楽しいかね?

仕事は楽しいかね?

 

 ……ビジネス書の内容を趣味の読書に置き換えるのは若干卑怯な気もするが、この読書方法に異を唱える人は少なくないだろう。結局のところ、他人の評価とかどんな賞を受賞したかとかはまったく関係なく、とりあえず読んでみておもしろいかどうかを判断するしかないのだ。セレンディピティ(偶然の出会い)という言葉もあるように、あまり期待していなかったものが思わぬ出会いになることだってあるだろう。

「エッセンシャル思考」は思考のミニマリズム

私がこの本を読んで思ったのは、「この著者は思考のミニマリスト」だなぁということだ。

ぼくたちに、もうモノは必要ない。 - 断捨離からミニマリストへ -

ぼくたちに、もうモノは必要ない。 - 断捨離からミニマリストへ -

 

 

人生がときめく片づけの魔法

人生がときめく片づけの魔法

 

エッセンシャル思考同様に、私はミニマリズム的な考え方にもあまり首肯しない。スッキリとした部屋はたしかに便利で、気持ちのよい生活が遅れるかもしれないが、私はむしろカオスを楽しみたい(だから私の部屋はカオスである)

捨てる必要はないが、優先順位をつける必要はある

私が思うのは「捨てる必要はないんじゃないかなぁ」ということだ。その代わりと言ってはなんだが、『エッセンシャル思考』を読んで私が同意するのは、「ものごとに優先順位をつける」という内容。とくに印象的だったのは、次のエピソードである。ちょっと長いが、引用しよう。(太字は徒花)

シンシアという女性が、ある印象的なエピソードを話してくれた。昔、父親がサンフランシスコの出張に連れていってくれたときのことだ。当時12歳だったシンシアは、父親との「デート」を数カ月前から楽しみにしていた。

プランは完ぺきだった。父親の講演を最後の1時間だけ聞き、4時半に控室で落ち合う。誰にもつかまらないうちに会場を出て、ケーブルカーでチャイナタウンへ向かう。鉱物の中華料理を食べて、おみやげを買い、しばらく観光したあと映画を見る。それからタクシーをつかまえてホテルに戻り、プールでひと泳ぎ(父親は営業時間外のプールに忍び込むのが好きだった)。ルームサービスで生クリームたっぷりのホットファッジサンデーを頼み、気がすむまで深夜のテレビを堪能する。

シンシアと父親は、このプランを何度も念入りに話し合った。計画を立ててわくわくするのも、旅行の醍醐味だ。

ところが当日、講演会場を出ようとしたとき、父親の仕事仲間にばったり出くわした。学生時代からの友人だが、会うのは数年ぶりだ。興奮して再開を喜ぶふたりを、シンシアは横で眺めていた。父親の友人はこう言った。

「われわれの会社で仕事をしてくれるなんて、うれしいよ。ルイスも僕も、完璧な人選だと確信してるんだ。ところで、埠頭に最高のシーフードを食わせる店があるんだが、よかったら一緒にどうだい。もちろん、シンシアも一緒にね」

父親はそれを聞くと、勢いよく言った。

「それはいいね。埠頭でディナーとは、最高だろうな!」

シンシアは意気消沈した。楽しみにしていたケーブルカーも映画もおやつも、これでおじゃんだ。シーフードは好きじゃないし、大人たちの会話を聞きつづけるなんて退屈すぎる。だがそのとき、父親はこうつづけた。

「でも今夜は駄目なんだ。シンシアと特別なデートの約束をしているものでね。そうだろう?」

父親はシンシアにウィンクし、そっと手をとって歩き出した。会場をとあとにしたふたりは、サンフランシスコで一生忘れない夜を過ごしたのだった。

このエピソードが物語るように、「今の自分にとって何を一番優先すべきか」を理解しているのはとても重要だ。それを見誤ってしまうと、取り返しのつかないことになりかねない。それに、人生にはトレードオフがあるのも事実だ。一方を選べば、もう一方をあきらめざるを得ない選択も多々ある。

だからこそ、エッセンシャル思考は人生を左右する重大な局面や、莫大な費用やリスクを取らざるを得ない企業経営、もしくはマネジメントに関与している人にとっては役立つ考え方だろう。本自体も、いろいろなエッセンスを程よく、読みやすくまとめてくれているので、大変理解しやすい。しかし、それを一般の人々が生活に取り入れるのはどうかということだ。

エッセンシャル思考ではとにかく「捨てる」ことの重要性を指摘している。しかし、徒花はとしては、優先順位が低いからといって捨てなければならないわけではない、と考える。優先順位の高さを認識しないままなんでもかんでも取り組んでしまうのは確かに問題だが、優先順位をしっかり認識したうえで、あまり重要ではないことに取り組むことは、創造性を発揮する上では少なくとも必要ではないかなぁなどと。

編集者の仕事は切り捨てること

とはいえ、私は「捨てる」ことを仕事としている。実際、『エッセンシャル思考』においても、編集者の仕事を参考にしようという内容が入っている。

編集者の仕事は読んで字のごとく「集めて編む」仕事である。ただし、いわゆる書籍編集の場合は、この字の通りではない。どちらかというと、書籍編集者の仕事は「余分な部分を切り捨てる仕事」といえる。

文章を生み出すのは著者や、もしくはライターさんの仕事だ。編集者は原稿を受け取ってそれを読み、余分な部分をガリガリと削る。自分は著者ではないのだから、新しい文章を勝手に付け足すことは(基本的には)できない。だから、私が著者(とくに、初めて本を出す人)には「とにかくいっぱい、なんでも思いついたことを全部、書いてください」という。なぜなら、著者のほうで「これはいらないかもしれない」と思った内容が意外とおもしろかったりする場合もあるからだ。

削る(捨てる)ためには、まずその前提条件として「選択肢がたくさんある」状況でなければならない。仕事も同じで、ある一つのことしかできないことは、そもそも選択肢が少ないのだから、なにかに注力しようにもそれに注力するしかない。しかし、いくつかできることがあれば、そのときになって、そうした選択肢の中でどれをメインにしていくかを「選ぶ」ことができるようになる。

つまり、エッセンシャル思考は結構高等なテクニックなので、少なくとも社会に出たばかりの新入社員や20代の人が参考にするような内容ではない、ということだ。それなりに積み重ねてきた実績があり、役職や責任が増えて、いろいろな選択肢に囲まれてどうすればいいのかわからなくなっている人にとってこそ、意義があるものといえる。

おわりに

私のブログはすぐ長くなる。別に長くしようと思って書いているのではなく、とりあえず思いついたことを何でも書いているとこのくらいの長さになってしまうのだ。普段は編集者として客観的に文章を読んでいるので、あまり本筋に必要ない部分は冷酷に切り捨てることができるのだが、やはり自分が文章を書いているとそれがなかなか難しい。まぁ、そもそもこのブログで読者からお金を取っているわけでもないので、そこまで厳密にやらなくてもいいだろうという姿勢の問題でもあるが。

今回はこんなところで。

お粗末さまでした。