西尾維新はなぜ書き続けるのか~『掟上今日子の備忘録』のレビュー~
今回紹介する本はこちら。
ご存知、多作エンタメ作家・西尾維新の「忘却探偵シリーズ」第一弾。
私は久しぶりに西尾維新の作品を読んだが、「西尾維新は相変わらず西尾維新だった」。西尾センセはかれこれ10年以上作家のキャリアを積み上げているわけで(時間の流れにため息が出る)、そうすると、文体とかに変化が出てきてもよさそうなものではあるが、思った以上に「西尾ワールド」は私がかつて読んだことから変わっていない。
玄人っぽくない文章
とはいえ、これは西尾センセがまったくなんの進歩も後退もなく、人気があるのをいいことに徒に作品を積み重ねてきたからかというと、決してそんなことはない。むしろ私が驚いたのは、そのように作風の変化を感じさせずに、おそらく絶妙なアジャストを重ねながら作品を書き続けているとんでもない技量に、だ。人気があり続けているのは、以前からのファンを裏切ることなく新規のファンを増やし続けているからこそできることであり、それは並大抵のことではない。
カルビーのポテトチップスは、時代によって少しずつ塩の量を変えているという。もちろん、そうした変化に気づく消費者はまずいない。しかし、創業当時から塩の量を買えずに販売し続けていたら、きっと消費者からは見放されていただろう。消費者に気づかれないレベルで微調整を続け、「安定」させ続けることは努力が必要だ。
まあ、言い換えると、文章がまったく玄人っぽくないのである。読んでいると、「なんか説明がくどすぎない?」「表現がベタだなぁ」など、感じる部分が多々あった。しかし、これはあえてこうしているのだと思う。だから私は懐かしさを感じた。
たぶん隠館厄介は只者ではない
あらすじをあえて説明すると「1日しか記憶を持たないがゆえに当日中にすべての事件を解決する名探偵・掟上今日子の物語」である。語り部は、なぜかいつも事件に巻き込まれて容疑者扱いされる不幸な不幸な男・隠館厄介(かくしだて・やくすけ)くん。一見すると、いつもトラブルに見舞われて職場を転々とする不運で気の弱いダメ男にも見えるが、そこは「いーくん」や「あらららぎさん」と同様に、彼もまた只者ではないような気配が漂う。
というのも、どうも厄介はいつも事件に巻き込まれるがゆえに、頼りになる探偵とのコネクションをいくつか持っているようで、あくまでも今日子さんはそのネットワークの一人でしかないのだ。(付け加えると、今日子さんは彼の持っている探偵ネットワークのなかでは推理力はそんなに高いほうではないらしいが、とにかく解決スピードだけは随一、とのこと)
厄介と今日子の2人はいろいろな事件を解決していくのだが、次第に、厄介は「今日子さんはいつからの記憶がないのか?」ということが気になりだす。そして彼は、ある事件をきっかけに、「今日子がなぜ探偵家業をしているのか」の理由を知るわけだ。
西尾維新がうまい「引っ張り」
ここら辺も西尾センセの天才的な部分ではあるのだが、この人はとにかく「引っ張り」がすごくうまい。たとえば、冒頭一羽目のここら辺を読んでみて欲しい。
室長の怒鳴り声に、僕は身をすくめた――が、今日子さんは澄ましたものである。精々肩をすくめる程度だ。この人に威嚇や脅しは通じない。それは忘れもしない『抜錨事件』の際、本物の機関銃を突きつけられても眉一つ動かさなかったことからもわかる――もっとも、彼女はもうそれを忘れているけれど。
どんな事件でも一日で解決する。
それが置手紙探偵事務所の看板であり、僕も最初、あの面妖な『多体問題事件』に巻き込まれた際、その魅惑的な言葉に惹かれて飛びついたのだが、しかしそれは『最速の探偵』としての売り文句ではなく、『忘却探偵』としての注意書きだったことを、すぐに知ることになった。
これらはいずれも第一話目から抜粋した。この引用文中に出てくる『抜錨事件』『多体問題事件』というのは、少なくともこの本においてはこれ以上何も語られない。しかし、この書き方に読者はすごくそそられる。なんともおもしろそうな話で、これらのエピソードが今後、どこかでかたられることはあるのだろうか? そもそも、この一連の物語は時系列にそったものなのだろうか? などなどと考えさせられる。
西尾維新はなぜ書き続けるのか?
もうひとつ、本作から抜粋したい箇所がある。これは第3話、2人がとある小説家がいたずらで隠した書き下ろし原稿を探すくだりだ。その小説家の家に並ぶ大量の著書を見て口を出た厄介の一言に、今日子が噛み付いた。
「これだけヒット作を連発したら、どこかでもう、書かなくてもいいって、僕だったら思っちゃいそうですけど」
「はあ?」
案の定、不審そうな顔をされた。
いや、やはり意外と言うべきか――はしゃいだ笑顔以上に、社会人としての体面を重んじる今日子さんのそんな顔は、プライベートでしか見られまい。
「何を言っているんですか、隠館さん? 作家が小説を書き続けるのは当たり前じゃないですか」
「い、いえ、あの、だから……一生働かなくても食べていけるだけ稼いだら、執筆のモチベーションがなくなるんじゃないかって……紺藤さんともこの間話したんですけれど、小説家って、引退しやすい職業らしいから……」
(中略)
「まあ、そういう作家さんがいることは事実ですね――書きたいものがなくなって、書く必要もなくなったなら、書くべきではないのかもしれません」
これはもちろん、小説家としての自分……西尾維新としてのスタンスを述べているのだと思うし、自分で自分のことを皮肉っているようにも感じられる。
ビジネス書作家はビジネスライクなのか?
私は仕事柄、会う作家さんはビジネス書の作家であり、彼らは専業作家ではなく、なにか別の仕事をしていることが多い。彼らにとって、本の執筆は「宣伝ツール」や「自分に箔をつける手段」だったりする。
ただ、だから彼らがビジネスライクに本を執筆しているのかというと、必ずしもそうではない。というのも、本の執筆はかける労力と手にできるお金のバランスが明らかにつりあっていないし、いまどきは本を出版しても手に入る名声だってたかがしれているからだ。
私が思うに、本を出版しようと思って自分で原稿を書き上げる彼らは、なんだかんだでやっぱりビジネスとして考える以上に「文章を書くのが好き」なのだ。それは、小説であろうが、ビジネス書であろうがあまり変わらない。本を書くくらいなら、その労力を別のことに使ったほうが、よほど楽にお金は稼げるはずである。
ともあれ、久しぶりに西尾作品を読んだら、やっぱり続編が読みたくなった。
今日の一首
83.
世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る
山の奥にも 鹿ぞなくなる
皇太后宮大夫俊成
現代語訳:
この世の中には(辛さから逃れる)道はないんだなぁ。
思いつめて山の奥を歩いていたら、鹿だって悲しげに鳴いていたよ。
解説:
動乱時代の平安末期、周囲の人間が次々と出家していくのを見て思い悩んでいたけれど、山の中で聞こえた鹿の物悲しい鳴き声を聞いて「たとえ出家したとしても、この世の苦しみから逃れることはできないだろう」とある意味で悟った心境をつづった歌。ちなみに「山に入る」は「出家する」という意味なので、山の中に入って思いつめるとは、出家するかどうかを悩んでいるということを示している。
後記
以前は近所にツタヤがあったので、ふと暇なときに店内をブラブラして準新作コーナー(新作は高いからスルー)を見ていると、ふと気になる映画が見つかって気まぐれに見ていたりしたのだが、引越しをしてツタヤが近所になくなってしまったのでそういう機会も失われてしまい、すっかり映画を見るタイミングを逸している。もちろんAmazonビデオとかネットでレンタルすることもできるのだが、パソコンの前に座っているとそれよりもやるべきことを思いついてしまうのでどうにも映画を見るという気持ちになれず、やはりリアル店舗はあれで意味があるものだったのだろうとしみじみ思っている。とはいえ、逆説的に言えば、ついつい見る量が減ってしまうというのは、それだけ私の中で映画を見ることのウェイトが低いだけなのかもしれないので、それはそれで決して悪いことではないのかもしれないとも思いつつ、結局『君の名は』も『夜は短し歩けよ乙女』も見ていないので、そのうち見よう見ようという気持ちだけが残っていて、それはそれでもやもやする。ほんの場合はAmazonで「ほしいものリスト」に入れているが、別のリストを作って「見たい映画リスト」も作っておくべきかもしれない……ということをとりとめもなく考えている。
今回はこんなところで。
それでは、お粗末さまでした。