本で死ぬ ver2.0

基本的には本の話。でもたまに別の話。

読者が本を完成させる~『乱読のセレンディピティ』のレビュー~

今回紹介する本はこちら。

 

乱読のセレンディピティ (扶桑社文庫)

乱読のセレンディピティ (扶桑社文庫)

 

 

ベストセラー『思考の整理学』の著者、御年90歳を超える「知の巨人」が書いた、読書術の本。

 

 

この外山滋比古さんもすごい人で、最近はこちらの本も出版した。

 

こうやって、考える。

こうやって、考える。

 

 

本の読み方に正解なんてないし、個人的には好きな本を好きなように読めば十分だと思うが、とはいえ、ビジネス書や実用書を読む人は読書そのものを楽しむことに加えて、本から何かしらの知識・知恵を仕入れて実生活に活かすことを多少なりとも考えているはずなので、そのような人たちにとっては、タメになる内容がふんだんに盛り込まれた良書となるだろう。

 

いろいろ読め、そして忘れろ

 

本書の結論を端的に述べれば、「いろいろなジャンルの本をサラサラと風のように読みなさい」ということだ。ただし、ただ読めばいいわけではない。「本に読まれてはいけない」と外山氏は指摘する。ここを意識していないと、ただ知識を溜め込んで満足する「知的・メタボリック・シンドローム」に陥ってしまう。

 

では、「知的メタボ」にならないためにはどうすればいいのか? そのためのキーワードは「忘れる」ということだ。もちろん、読んだ端からすぐに忘れても意味はない。そこにコツがある。本書では半世紀以上にわたってさまざまな本を読み続けてきた著者がたどりついた一つの到達点がある。

 

 

「本がおもしろい」とはどういう状態なのか?

 

わからない本でも何度も何度も読んでいれば、本当に、わかるようになるのか。昔の人はのんきだから、そんなことはセンサクしない。本当にわからない本でも、百遍読み返したら、わかるようになるか。ためした人はなかっただろうが、わかる、のではなく、わかったような気がするのである。自分の意味を読み込むから、わかったような錯覚をいだく。読み返すたびに、読者のもち込む意味が増える。そうして、ついには、自分のもち込んだ意味ばかりのようになる。それをおのずからわかったと思い込む。対照の本を自己化しているのである。

自分の意味をまるでもち込めないような本は、百遍はおろか、一度の通読もできない。はじめてのところで、投げ出してしまう。とにかく、何度も読めるのは、どこかおもしろいからである。なにがおもしろいか、といっては自分の考えを出すことほどおもしろいことはない。わからないところを、自分の理解、自分の意味で補完するのである。一首の自己表現である。隅から隅まで、、わかり切ったことの書かれているような本では、こういう読者の参入はありえないから、たいへんつまらない。

 

ここは「おもしろい本」のキモをのべている部分だと思う。本は「わかりすぎ」でも「わからなさすぎ」てもダメなのだ。適度にわかり、適度にわからない部分があると、読者はわからない部分に「自分なりの解釈」を加える。人は本を読んでいるときに新しい知識や感動を得ておもしろがっているのではなく、その内容や物語に自分の思考や感情を移入させ、自分だけのコンテンツに消化させる作業を行っていて、そこにおもしろみを感じる。

 

読者が本を完成させる

 

しばらく本から離れて、あれこれ空想しているうちに、読者という存在の重要性にたどりついたような気がした。

それまでずっと、文学でもっとも重要なのは作品で、ついで、それを生んだ著者が大きな意味をもっている。文学の研究は、作品論と作家論で完結するように考えられている。文学史を見ても、作品名と作者名だけが出てくる。作品を読む読者は数の多いこともあるが、文学史上に姿をあらわすことはない。

これは不当ではないか、と私は考えた。

読者のないものは、果たして、作品と言えるのか。文章ではあっても、作品とは言えないように考えられる。少なくとも文学作品が成立するには、作者、作品、それを読む読者が形式上も必要である。この点においても、読者のことをまったく無視しているのは不当である。どうしてこういう不条理が世界的に常識になっているのか。そういう疑問が湧いてきて、私は緊張した。

 

世の中には「この本はぜんぜん売れてないけど、いい本なんですよ」という主張もあったりするが、私からすれば、それは「みんなには見えないかもしれないけど、ここに幽霊がいるんですよ」という主張と同じように聞こえる。

 

ここで問題なのは「本当に幽霊がいるのか」ではない。確かに幽霊はいるんだろう。その人にとっては。なんだか量子力学のような話にもなってくるが、幽霊はそれを見る人がいるからこそそこに存在するし、本だって読んでくれる人がいるからこそ存在する。

 

本が好きな人ほど、その作品を生み出した著者を崇拝してしまいがちだが、じつは著者と読者は対等(むしろ読者のほうが重要)で、読者の解釈が加わることですべての本はやっと完成すると考えたほうがいいのではないか。しかし私は考えれば考えるほど、自分日ごろ作っている「本」というものの正体がよくわからなくなってくる。

 

まあとにかく、非常にわかりやすい文体で「本と向き合う姿勢」を教えてくれる良書である。普段、小説しか読まないような人も楽しめると思うので、気になったぜひ、読んでみていただきたい。

 

乱読のセレンディピティ (扶桑社文庫)

乱読のセレンディピティ (扶桑社文庫)

 

 

今日の一首

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78.

淡路島 かよふ千鳥の 鳴く声に

いく夜めざめぬ すまの関守

源兼昌

 

現代語訳:

淡路島からわたってくる千鳥の物悲しい鳴き声に何度夜に目を覚ましたのだろう。

須磨の関所の番人たちは。

 

解説:

倒置法! 兼昌が『源氏物語』の「須磨の巻」を思いながら、「関路の千鳥」というお題で詠んだ歌。光源氏は一時、政争のために須磨に流されていた。千鳥は妻や仲間を恋しがって鳴くと思われていたので、この声を聞くと自分も故郷を思い出して恋しくなるだろうという思いで詠まれている。

 

後記

 

先日とあるイベントで超敏腕編集者の人と話をしたのだが、やはりどの業界でも超一流の人というのは考え方がまるで違う。その人曰く「どんな著者だろうと、どんな企画だろうと、自分が作れば10万部を売る本にできる」と豪語していた。しかしその分、その人は圧倒的な努力を惜しまないし、自分が見込んだチーム(ライターやデザイナー、営業陣)を持っている。

 

ほとんどの人は誰しもまじめに仕事をしているが、どこかで手を抜いてしまう。私の前の会社の上司も「本はつくり込もうと思えばいくらでもつくり込めるから、どこかで区切りをつけないとだめだ」と言っていたが、やはり最近は、そういう区切りをつけてはいけないのだと思い始めている。本当にその道の一流の人たちはどんな些細なものでもこだわるし、絶対に妥協しないところまで作り上げる。

 

ハッキリ言って、数十万部単位で売れている本というのは、必ず「文字の大きさ」「タイトル」「装丁デザイン」「紙の厚さ」「紙の種類」「フォント」「判型」「ページ数」「キャッチコピー」「見返し」「はじめに」「構成」「章タイトル」「見出し」など、あらゆるところにこだわりがあって、どこかひとつでも変わってしまったらダメなものなのだ。もちろん、ほとんどの読者(そして同業者)はそれを気に留めないし、「なんでこんな本がこんなに売れているんだろう?」と首をかしげる。

 

売れている本は必ず、それに見合うだけの手がかけられ、何が理由がある(100%そうだとはいわない。野村克也元監督も『勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし』と言っていたし)。これは本だけの話ではなく、すべての仕事において、圧倒的な成功を収めている人には何か、そのくらいの圧倒的な成功を収める理由があるはずなのだ。それを追求し、マネをしようと考えている人だけが、きっと、そういう人々の仲間入りをできるのだと思う。私も早く「重版請負人」「ヒットメーカー」と呼ばれる人間になりたいものだ。

 

今回はこんなところで。

それでは、お粗末さまでした。