『ちょっと今から仕事やめてくる』の小説としての巧みさ
天職というのは「お金が儲かる趣味」ではないかと考えている徒花です。
もくじ
今回紹介するのはこちらの本。
著者の北川恵海氏は本作がデビュー作で、今年には映画が公開される。
前々から気になってはいたのだが、このたびようやく読み終えた。
人気にたがわぬおもしろさで、軽妙な筆致、テンポの良い物語展開、魅力的なキャラクター、共感を呼ぶ舞台設定と、ビジネスエンターテイメント小説として、デビュー作とは思えないほど完成度が高い。
以下、とくに本作の優れていた点をネタバレしないで紹介していきたい。
物語を無駄に複雑にさせないシンプルな構造
本作はブラック企業で働き、疲弊している主人公・隆が線路に飛び込み自殺をしようとしたところ、同級生を名乗る謎の男・ヤマモトに助けられ、交流を深めていく物語である。ほかにもサブキャラクターはもちろん登場するが、物語はこの2人のメインキャラクターによって進められる。
こういう作品によくありがちな恋愛要素などは一切なく、あくまでメインテーマである「会社を辞める」ということを真摯に書き綴っているのが好印象だ。
シンプルにすると物語が単調になり、展開が読みやすくなるリスクがあるが、この作品はヤマモトという男にまつわる謎を巧みに明らかにしていくため、読者はグイグイ引き込まれていく。
謎を順次に繰り出して読者を飽きさせない
ヤマモトは当初、主人公・隆の小学校の同級生を名乗り、隆もそれを信じる。ただし、彼に関する一切の記憶がないため、読者はまず「ヤマモトは本当に隆の友人なのか?」という疑問を抱くだろう。
ポイントは、最初に抱くこの謎をあまり引っ張りすぎないところだ。謎を提示するのは大事だが、ミステリーでない限り、謎が物語の終盤まで明らかにされないと読者はそれに飽きていく。だが本作の場合、読者の最初の謎は意外とアッサリ解決される。
しかし、うまいのはここからだ。
最初の疑惑は意外とアッサリ解決するのだが、それとバトンタッチするように、ヤマモトについて新たな謎が提示されるのである。
つまり、読者のやきもきをある程度解消しつつ、新たな謎を提示することで再び読者をやきもきさせ、続きをさらに読ませたくさせるような仕掛けを施している。
もちろん、それが何度も続くとその展開を予想した読者は飽き飽きしてしまうのだが、いちいち謎の提示方法がうまく、程よいので、そうした嫌みったらしさも感じない。うまい。
ブラック企業の露骨な描写がない
そしてもう一つ、うまいと思ったのは、主人公・隆が務める会社の描き方である。冒頭の描写から察するに、彼が務めている印刷関連の会社はブラック企業と言って差し支えないだろう。
著者の北川氏の経験がベースになっているのかは定かではないが、ブラック企業を扱った作品の場合、その待遇の悪さ・業務の過酷さがやたら強調され、読者は暗澹たる気持ちを抱かされることが少なくない。しかし、本作の場合、じつは、そこまで主人公の会社についてなまなましい描写がない。
Amazonのレビューを見る限り、この作品に興味を惹かれる人の多くは自身が主人公と同じ境遇にあるか、もしくは近しい人がブラック企業で働いているかなどの身近さを感じている人が多いようだ。
完全に推測の域を出ないが、そうした人々はあまりにもなまなましい描写が続くと、その作品そのものに嫌悪感を抱いてしまいがちになる。本作の場合、それを巧みに避けているわけだ。
主人公の心境のアップダウン
さらに、ヤマモトと交流を重ねるうち、隆は仕事で成功を収める直前までいき、仕事にやりがいすら感じている。この段階では、タイトルが示すような会社を辞める行動にはとても移りそうがないのだ。
ここがミソである。タイトルで明らかにされているように、主人公の隆が物語のどこかで会社を辞めるのはまず間違いない。しかし、仕事にやりがいを感じている隆の場面まで来ると、どうしてここまで順調な隆が会社を辞めるという決断をするに至るのか、ということを知りたくなる知的好奇心が刺激されるのだ。
物語では主人公の感情の起伏が、そのまま読者の感情の起伏になる。最初から最後までいじめられ、不幸なまま物語が進展しても、それはおもしろみがない。
しかし、最初に少し上げておいてから一気突き落すと、ドラマティックさが醸し出されるわけだ。
ブラック企業を悪だと断じすぎない
もちろん、隆はこのあと精神的に追い詰められ、タイトルの通りに会社を辞める決断をするわけだが、その過程がうまくフィクションとしてのおもしろさを活かしつつ、納得感のあるものになっているのである。
しかも、それは単に「人を道具としか思っていないブラック企業の経営者 vs それに騙されている純朴な労働者」という、単純な二項対立ではない。もう少し複雑ながら、弱い人間の心理をあぶりだす展開になっているのがなかなか心憎い。
さらに付け加えれば、最終的に隆を決定的に追い詰める人物が、最後の最後では悪役としては描かれない。細かいかもしれないが、じつはこういう、人間の根源的真理は善であり、ブラック企業の人間を単純な悪者にしていないところにも、読者の支持を得る理由があるのではないかと考えている。
リアリティのあるさわやかな読後感
物語の終盤、ヤマモトについてのすべての謎が明かされ、隆は会社を辞める。
ここで巧妙なリアリティを演出するのは、会社を辞めた隆は別に次の就職先を物語の中で見つけられていない、という部分だ。精神的にたたきつけられた隆が最後の最後でウルトラQを起こし、幸せの絶頂に上り詰めるのもアリといえばアリだが、それではやはり現実離れしすぎていて、白々しさを感じさせかねない。
ここで、「確かに安定した職を失って不安を抱いてはいるけれど、晴れ晴れとした気持ちになった」というリアリティのある結末にする。
これにより、気持ちのいい読後感にしつつ、わざとらしさを感じさせない絶妙な塩梅を実現しているのである。
おわりに
売れる本というのは、たとえそれがビジネス書でも文芸作品であっても、著者や編集者が「こうしたら読者はこう感じるんじゃないか」などということを話し合いつつ、入念に練り上げられてつくられているケースが多い。
もちろん、小説の場合は多少なりとも野卑さがあったほうがいい場合もあるが、老若男女を問わずにできるだけ多くの人をターゲッティングして幅広く支持される作品を作るのであれば、戦略的に作り上げていく必要があるのはどの商品・サービスであっても変わらないだろう。
文芸作品というのが難しいのは、商業的な側面と美術的な側面を併せ持っているところだ。つまり、「著者が魂から書きたいもの」と「読者が読みたいと思っているもの」の間で揺れ動くものなのである。そこら辺をうまくバランスをとりつつ、ヒットを目指すのならば、やはり戦略を練ることが大事なのではないかと考えている。
今回はこんなところで。
それでは、お粗末さまでした。