『三行で撃つ』(近藤康太郎・著)のレビュー
どこかの本で読んだのですが、
「クライアントに感謝されるようでは、カウンセラーとしては二流」
といわれるです。
一流のカウンセリングを受けると、クライアントは、
「お金を払ってカウンセリングを受けるほどの悩みでもなかったな」
と感じるそうです。
カウンセラーは相手の悩みを解消してあげるのが仕事ではなく、クライアントが自分で悩みを解決できるように陰ながら仕向けるのが仕事、ということですね。
この話、どの領域でも同じことが言えます。
「話がうまいなあ」と感じさせる噺家は二流だし、「絵がうまいなあ」と感じさせるマンガ家も二流。
受け手に技巧というか、「自分の存在」を感じさせてはいけないということですね。
文章もそうです。
読んだ人が「うまい文章だなあ」と、書き手の存在を強く感じさせてしまうのは二流。
一流の文章は、「文章のうまさ」をまったく読み手に感じさせずに、いつの間にか内容にのめり込ませてしまうものを指すのでしょう。
その意味で言えば、この本の文章は、まぎれもなく超一流です。
ただ、私がこの文章の超一流さに気づけたのは、ひとえにこの本が「文章術」をテーマにしたものであり、そのカラクリを著者本人が包み隠さず披露してくれているからにほかなりません。
たぶん、著者の近藤康太郎氏のほかの本を先に読んだら、とりたてて「文章がうまい!」とは感じなかったんじゃないかと思います。
私は仕事柄、いろいろなライターさんの文章を読みます。
ただ、私は自分で文章を書くのが好きなタイプの編集者なので(そうじゃない編集者もいます)、だいたいのライターさんの原稿を書き直してしまいます。
取材に同席して話を聞いているので、「ここは、この言葉じゃないだろ」「これは論理が飛躍しすぎ」「なんか鼻につくなあ」などと気になってしまうのです。
※本を読んでいても、たまに「なんでここで改行しないんだよ」「ここでこの語尾はないだろ」「一文が長すぎ」などと気になることがあります。
でも、ごく稀に、ほんとうに文章のうまいライターさんもいます。
そういう人の原稿は、サントリーのウイスキーじゃないですが、「なにも足すところがないし、なにも引くところがない」のです。
こういう原稿が届くと、感動を覚えます。
そしてそういう人の原稿は、サラッと読むといたって平凡です。
でも、だから、いいんです。
本書の著者、近藤康太郎さんは朝日新聞の編集委員で、7年前に「発狂」し、九州の山奥でライターをしながら猟師などをやりつつ(あるいは猟師をやりながらライターなどをやりつつ)、記者やライター志望の人を育てる教室のようなものも開催している人物です。
さすがに、この本のレベルまで文章力を高めるのは、簡単ではありません。
でも、本書の冒頭でも述べられているように、「あの人の文章は、ちょっといい」と言われるレベルには、この本を読み込んで実践すれば、たどりつけるでしょう。
装丁デザインを見ると、すごくスタイリッシュで人文書のような印象を受けますが、どっこい、中身は超実用的で、実践的なコンテンツが盛りだくさんになっています。
なお、あんまり比較するのはよくないのですが、私は『三行で撃つ』を読んだ直前に『稼ぐ人の「超速」文章術』を読んでいたので、「同じ文章術の本で、こうも違うものか」と感慨深くなりました。
べつに『稼ぐ人の「超速」文章術』が悪い本なわけではありません。
こっちの本はもっともっと実用性に特化しています。
「マネするだけでいい文章のテンプレート」とか「書くことをまとめるためのフレームワーク」とか。
とにかく、書かれている通りのことをすれば、サルでも売れる文章が書けるようになる工夫が凝らされています。
これはこれで、価値のある本です。
でも、そういった性質の本ですから、この本を読んで「おもしろさ」を感じたり、この本の文章にのめり込んでしまうような感覚は覚えません。
その点で言えば、この『三行で撃つ』という本は、読んでいておもしろいのです。
ここが、ほかの文章術のハウツー本とは決定的に違うところかもしれません。
文章を書く人間にとって大変ためになることが書いてあるのはもちろんのこと、ついつい読み進めてしまう魅力的な文章で書かれている。
ただ、わかりやすい文章を書くのではなく、「ちょっとうまい」文章を書きたい、あるいは文章そのもので金を稼ぎたい、飯を食いたいと考えている人のための本ですね。
本書ではそんな人のために、25のテクニックを伝授してくれます。
そのうちの1つを紹介しておきましょう。
わが家に集まる塾生たちに、いちばん最初に教えるのは、「常套句をなくせ」ということです。
(中略)
常套句とは、定型、クリシェ、決り文句です。
たとえば、飽きの青空を「抜けるように青い空」とは、だれもが一回くらいは書きそうになる表現です。「燃えるような紅葉」などと、ついやらかしてしまいますね。
新聞記者は一年目、二年目といった新人のころ、高校野球を担当させられるので、高校野球の記事は常套句の宝庫(?)です。
試合に負けた選手は「唇をかむ」し、全力を出し切って「胸を張り」、来年に向けて練習しようと「前を向く」ものです。一方、「目を輝かせた」勝利チームの選手は、「喜びを爆発」させ、その姿に「スタンドを埋めた」観客は「沸いた」。
最近テレビのバラエティ番組を見ていて、そこに登場する俳優さんや女優さんは当然ながら自分が出演するドラマやら舞台やらの告知のために出演しているわけですが、だれもかれも「笑いあり涙あり」というフレーズを連発しているのがやたら耳につきました。
これはつまり「エンターテイメントして頼める要素」もあるし、同時に「心を震わせて涙を誘う要素」もあるということですよね。
私なんかはもう「笑いあり涙あり」と言われた時点で安っぽいというか、古臭いなあと感じてしまいます。
常套句を使わないということについては、私も最初に働いた編集プロダクションの社長に自分の書いた原稿を読んでもらうときに散々「陳腐だ」ということを言われまくったので、陳腐にならないようには気をつけるようになりました。
よくある言い回しって、本当に文章が書けない人にとってはありがたいものなんですけど、そうした初級者からもう一歩上のステップに上がりたいときには、それを捨てていかなければいけないんですよね。
その意味でかんがえれば、本書は「文章を書くのは苦じゃない」ということが読む上での大前提になるかもしれません。
それを抜きにして、エッセーとして読んでも、おもしろい本だと思いますが。
後記
『ソーセージ・パーティ』を見ました。
スーパーで売られているソーセージが主人公のファンタジーです。
スーパーで売られている食材たちは、みんなお客さんに買ってもらって、店の外に連れ出してもらえれば天国のような場所に連れて行ってもらえると信じています。
主人公のソーセージもそう考えていて、隣で売られているバンズの女の子に自分の体を挿入することを夢見ていました。
しかしある日、一度購入されてからスーパーに返品されたハニーマスタードの口から恐ろしい噂が広まります。
じつは、買われていった食材たちは天国に連れて行ってもらえるのではなく、自分のことを買った人間に無残にも食べられてしまう……とハニーマスタードは言うのです。
果たして真実はどちらなのか?
真相がわからないまま独立記念日になった日、いよいよ主人公のソーセージはとあるお客さんに選ばれてカートに運ばれていくのですが……。
という話です。
基本的に、下品です。
いえ、中盤くらいまではそんなに、すごく下品というわけでもありません。
ちょっと品のない台詞回しはありますが、そうはいっても大人向けのハリウッド映画で出てきてもべつに違和感はないくらいの下品さです。
ただ、最後の最後、とんでもなく下品な展開になります。
これは下品です。
ちょっと子どもには見せたくない感じの下品さです。
ただ、物語としてはけっこう高いクオリティでした。
それこそ、ハリウッドのヒットする脚本のルールに忠実に従い、流れるようにスムーズに物語が進んでいきます。
しっかりヴィランもいて、主人公内面的な成長もあるし、個性的かつ魅力的なサブキャラクターも脇を固めてくれます。
冒険シーンも盛り沢山です。
最後の最後、物語の締め方については賛否両論あると思いますが、私は嫌いじゃないです。
というより、「この物語、こんなことにしちゃって、いったいどうやって収束させるんだろう・・・?」と別の意味でハラハラドキドキしていたのですが、まあ、強引だけどなんとかまとめきったな、という感じでした。
よほど暇な人は、見てみたらおもしろいと思います。
今回はこんなところで。
それでは、お粗末さまでした。