『職業としての編集者』(吉野源三郎・著)のレビューになっていない
私はこれまで「自分の人生を変えた本」というに出会ったことがありません。
いや、たぶん私の思考に多大なる影響を与えて、いまの私をかたちづくった本は無数にあるのでしょう。
ただ、改めて思い返してみると、なにか一冊の本がパッと思い浮かばないのです。
人に関しても、これは同じです。
「尊敬する人」とか「師匠」とか「メンター」のような存在が思いつきません。
もちろんこれも、たいへん学びになった人とか、お世話になった人はたくさんいるし、そういう人たちとの出会いがなければいまの私がなかったのは間違いないです。
でも、じゃあパッとすぐ思いつく人がいるかというと、いないわけです。
しかし、このたび読んだこの本は、読んだ瞬間に
「これは私の人生を変える本なのかもしれない」
という感覚がありました。
といっても、私は適当な人間なので、半年くらいたったら忘れているかもしれません。
しかし、とにかく読んだときにそれくらいの強い衝撃を受けたのは、薄弱な記憶を遡る限りほかにありませんので、すごい本だったということです。
さて、吉野源三郎といえば、『君たちはどう生きるか』の人です。
2017年にコミカライズされ、ベストセラーになったので、聞いたことがある人が多いと思います。
この人は何者かというと、もともと哲学をずっと勉強していたのですが、ひょんなことから出版社で編集者をすることになった人です。
本書の冒頭で述べられていますが、別に編集者という仕事に就きたかったわけでもなく、晩年になっても「しろうと」の感覚を持っていたといいます。
吉野氏は岩波書店の創業者・岩波茂雄に誘われて、岩波新書の創刊に携わったり、「世界」という雑誌の編集長もやったりしています。
さて、本書『職業としての編集者』は、こんなタイトルですが、編集者のノウハウやハウツーが書かれたものではありません。
また、本人はいつまでも「しろうと」の気持ちで述べられていたということですから、編集の哲学について熱く語られているわけでもありません。
そもそも本書は、1981年に亡くなられた8年後に刊行された本で、いずれもほかの本や雑誌などに書いたものをまとめたものです。
そのため、章によって文体がバラバラ。
ですます調だったり、だである調だったりします。
本書に収録されているのは、以下のとおりです。
Ⅰ 編集者として
編集者の仕事――私の歩んだ道
ジャーナリストとして
『世界』創刊まで
Ⅱ 思い出すこと
原田文書をめぐって
終戦直後の津田先生
Ⅲ 歴史と現代
日の丸の話
歴史としての戦後民主主義
私が非常に感銘を受けたのは、序盤の部分だけです。
ぶっちゃけ、それ以外のところは流し読みしました。
歴史的な資料という勝ちはあるかもしれませんが、少なくとも普通の人が読んで感銘を受けるとか、何かの役に立つという内容はないと思います。
最高にしびれたのは「編集者の仕事」のところでした。
長いけど、引用します。
元来、出版とは英語でパブリケーションといわれるように、パブリックなもの、公共のものです。私たちが社会生活をしてゆく上に必要なさまざまな知識や報道が、出版物を通して広く社会の人々に伝えられます。そして、今日では、どんな個人でも、団体でも、国家でも、その行動や方針や政策をきめるにあたっては、直接自分の経験したことばかりでなく、いわば間接に報道で得た知識を頼りに――むしろ主としてそのほうを頼りにして――決定を行っているのです。
編集という仕事については、中国の作家魯迅の詩の「眉を横たえて冷やかに対す千人の眼、首を附して甘んじて孺子の牛となる」という句を、いいことばだなと思い出すことがたびたびです。「千人、万人の人からなんと見られようが、そんなことには、冷然として心を動かされない。子どものためには、甘んじて首をたれ、それを背に乗せて黙々としていく」という意味で、この孺子(子ども)とは中国の民衆を指しているのだというのが毛沢東の解釈です。
たしかに民衆のためになることなら、牛のように首をたれて黙々とそれに仕え、人からなんと見られようが心にかけない、という心構えは、編集という仕事を――本当に意味のあるものとしての編集の仕事を――やってゆく上に、何よりも必要な心構えだと思います。自分というものを世間に認めさせたいと考えたり、著者やその他まわりの人々によく思われようとしたり、あるいは世間に媚びたりしたら、本当の仕事はできませんね。世の中に送り出した本や雑誌が、実際に社会に役立つこと、どんなに回り道を通ってではあっても、無名の民の仕合せに役立つこと、それだけ果たせればそれでよいのだという心持を、しっかりと持ちつづけることが必要です。それをどんなに堅く持ちつづけたって、思うほど役に立つ仕事ができるか、どうか、危ういのです。
編集者の資格として、『ロンドン・タイムス』の昔の編集長のウィッカム・スティードという人は、「広い知識と、解りの早いこと、青臭くない判断」をあげて、なお、いつも好奇心が生き生きと躍っていること、精神がものうくたるんでいてはいけないことを説いています。しかし、肝心なのは「公共の仕合せ」を心にかけることであって、公共の仕合せを思いながら、いつかはその人々に、伝えねばならない真実を伝えてやろうと考えつつ、現場の仕事を黙々とやり抜いていく辛抱がなければならない、とのべています。やはり、甘んじて孺子の牛になるという心がけの必要を認めているのでしょう。
若干上から目線感はありますが、これは得てして忘れてしまいがちな大切なことです。
というよりも、「売れる本を作ろう」ということばかりを考えていると、得てして、「公共の仕合せ」ということがすっぽり抜け落ちてしまうのです。
このことについて、とりわけ書籍編集者という仕事の領域で述べている人はほとんどいないんじゃないでしょうか。
新聞記者とかジャーナリストなら、報道という名目で、「公共の仕合せ」というものは意識するかもしれません。
でも、いわゆる本や雑誌の編集者は、そういうところに鈍感になりやすいのではないかと思うのです。
もちろん、本や雑誌の編集者は厳密にはジャーナリストではありません。
なので、正義かどうか、正しいかどうかを必ずしも最優先にしなければならないわけではないでしょう。
ただ、「邪悪」になってはいけないと思うのです。
それはダークサイド(暗黒面)ですね。
いちばんわかりやすいのは、一時期、雨後の筍のようにたくさん刊行されていた嫌韓本のたぐいです。
ぶっちゃけ、ああいう本は、出たら必ず買う人がいるので売れます。
また、表現の自由も日本では保証されていますから、韓国をけなすような内容の本を出すことが悪いわけではありません。
でも私はやっぱり、嫌韓本のたぐいはつくりたくないですね。
あと、不安を煽るのも、あまりいい本とは言えないと思います。
ただ、ここはすごく難しいところなのですが、なにが邪悪で、なにが邪悪でないか、それはなかなか正解がわからないのです。
たとえば、嫌韓本を邪悪な本の代表格として例に上げたわけですが、これだって私の感性に従った結果でしかありません。
そうした嫌韓本を読むことで精神的な快楽を得られる人が世の中にはいます。
その意味で、嫌韓本はちゃんと世の中の役に立っているといえます。
これはスプラッター映画が好きな人と、嫌いな人がいるのに似ているかもしれません。
嫌韓本をエンタメ(精神的な快楽を手に入れる手段)として消費したがっている人がいるなら、そうしたニーズに応える商品を販売するのは、必ずしも間違いではないとも思うのです。
なにが邪悪かという観点でいうと、ウソを書くとか、デタラメを書いて人を騙すとか、そういう内容の本もよくないですね。
あるいは、内容がない本、出版しなくてもいい本を、ただ出版社の都合とか、著者の都合だけで世の中に出すのも、ダークサイドにつながっています。
ある意味、出版社以外、だれもよろこばない本を出すというのは、嫌韓本のような物を出すよりも罪深いかもしれません。
あとは、自分の会社やビジネスをPRする販促物のような役割で本を出すのも、私は大嫌いです。
私はそういう本は絶対につくりません。
それはもはや本ではなく、パンフレットであり、出版社ではなく広告会社の仕事です。
ここがブログなどと本の大きな違いでしょう。
ネット上で文章を書くのは、なにを書いても、自由です。
お好きにしてください、という感じです。
特定個人を名指しして誹謗中傷するのも自由だし、嘘八百を並べ立てるのも自由だし、他人の文章を丸パクリするのも自由だし、読んだ人を騙して自分の商品やサービスへ誘導するのも自由です(当然、そこには法的に訴えられるというリスクも内包されますが)。
でもやっぱり、本ではそれを許してはいけないのです。
本が「公共の仕合せ」の追求しなければならないというのは、そういう意味であると私は理解しています。
むしろ、インターネットによってだれでも自由に発信できるようになったからこそ、「なにを書かないか」が重要になっています。
編集者にとっては、「どんな本を作りたいか」ということを考えるのと同じか、あるいはそれ以上に「どんな本は絶対に作らないか」を明確にしておくのも、大事なことなのではないかと考えた次第でした。
後記
アニメ映画「きみと、波にのれたら」を見ました。
事故で失った恋人が水の中だけに現れるというファンタジーラブストーリーです。
監督が湯浅政明さんだったので、さすが映像とか表現方法はよかったです。
ただ、ストーリーはイマイチ乗れませんでした。
登場人物たちがイケているというか、ウェーイ系というか、リア充な感じがして、ぜんぜん感情移入できないんですよね。
主人公とその彼氏がラブラブなのはいいんですが、あまり尊みを感じないというか、見守りたくなるようなラブラブっぷりではなく、最終的な別れもけっこうサバサバして切なさを感じられませんでした。
私が年寄りになっただけかもしれませんが。
今回はこんなところで。
それでは、お粗末さまでした。