『奴隷のしつけ方』のレビュー~現代にも、奴隷の人と、そうじゃない人がいる~
たいていの苦悩が、一晩寝ると収まる徒花です。ちなみに、今回も長い。
もくじ
今回紹介するのはこちら。
古代ローマ人と現代人が協力!
著者に「マルクス・シドニウス・ファルクス」という名前があるが、彼は奴隷たちを使うのが当たり前だった古代ローマ社会で、実際に幾人もの奴隷を所有していた人物である。
本書は、そんなマルクスと現代に生きる教師、ジェリー・トナー氏が協力して書き上げた「奴隷活用のための実用書」なのだ。
――もちろん、そんなわけない。
マルクスはトナー氏が生み出した架空の人物である。
本書は、トナー氏が「マルクス」というキャラクターを作り出してその口を借り、古代ローマ社会における奴隷たちの扱いや、当時の社会情勢および主人たちの行動を浮き彫りにする一冊だ。
軽妙な語り口と読みやすい翻訳のおかげで、なかなか楽しめる。
「リーダー論」の本にしようとした痕跡
このような内容なので、順当に考えれば本書は「歴史」ジャンルの書籍である。
だが、読み始めると、トナー氏の単に歴史マニア以上の人々に本書を贈りたかったような思惑が見えてくる。
引用しよう。
この本をじっくり読めば、社会の最下層にいる者たちをどう扱えばいいのかわかるが、その知識はあなた自身の出世の役にも立つ。なぜなら、しっかりした奴隷管理はファミリア〔家長の支配下にある自由人と奴隷〕全体を主人の望む方向に向かわせることにつながるからだ。また、この本には人々を動かすためのヒントが散りばめられているので、あなたの評判が上がって多くの人間を動かすようになったとき助けになるだろうし、ひいては出世のための確かな権力基盤を築くことにもつながる。したがって、一目置かれる家長でありたいなら、あるいは社会でリーダーシップを発揮したいと思っているなら、ぜひともこの本を参考にしてほしい
いわゆる「リーダーシップ論」はビジネス書で人気のジャンルだ。
ただの歴史書だと「歴史オタク」しか買わないので購買者層が限られてしまうが、このように「じつはビジネス書として役立つ側面もあるんだヨ」ということを伝えられれば、より幅広い人々にアプローチできる。
結局サラリーマンは現代の奴隷なんじゃないか問題
――ということは理解できるのだが、私がこの文章を読んだときに思ったのは、「所詮、現代のサラリーマンは古代ローマにおける奴隷と同じなのかもな」ということだった。
本書の中で、マルクスは奴隷をうまく働かせるために次のようなことを重視しろと伝えている。
●自ら奴隷たちの模範となるよう、規律ある生活をしろ
●奴隷には罰よりも、褒美を与えるようにしろ
●まじめな奴隷はちょっと高い位につけろ
などなど。
これ、たしかに企業のチームマネジメントリーダーが守るべき規範と一緒だ。
結局、リーダー論というのは「資本家が労働者のモチベーションを下げさせずにどうやってこき使うか」を記したものなのかもしれないと考え、いちサラリーマンである徒花はちょっと暗澹たる気持ちになったのである。
そういえば、新進気鋭のアナーキストである栗原康氏の著書でも、「現代日本人は奴隷根性を植え付けられている」という主張があり、なかなか納得した気がする。
はたらかないで、たらふく食べたい 「生の負債」からの解放宣言
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自ら進んで奴隷になる人々
もちろん、現代のサラリーマンは古代ローマの奴隷とは違う。
たしかに時間的・肉体的には拘束されてしまうが、働きたくないのなら、自らの意思でその状況を自由にやめることができる。
…………だがじつは、よくよく読むと、じつは古代ローマ時代の奴隷も、それに近しいものがあるのだ。
そもそも、ギリシャ時代の奴隷哲学は「民族」に拠るものだった。
つまり、「ギリシャ人以外の民族は、生まれながらにして奴隷なのだ」という考え方だったのである。これは、アリストテレスも同じように考えていた。
しかし、古代ローマ時代に入ると、こうした考え方は廃れていく。
なぜなら、たとえローマの自由市民であっても、困窮のために奴隷身分になったり、子どもを奴隷として売り払うことがあったからだ。
また、技能を持った奴隷が自由市民の身分を獲得することもあった。
つまり、ローマ時代のほうが奴隷は流動的だったのである。
ここら辺を読むと、ますますサラリーマンが奴隷に思えてくる。
たしかに、サラリーマンとして働いている人々は、原理的には「自分の意思」で会社の一員になる。
だが、世の中には「本当はサラリーマンとして働きたくなんかない」と考えている人も多いのが実情だ。
つまり、彼らは生きていくために仕方なく、自分の時間と労働力を差し出して金銭(部分的自由)を得ているのであり、それは自ら奴隷の身分になることを選択しているともいえそうなのだ。やれやれ。
ちょっと引用しよう。
考えてみれば、誰の心のなかにも奴隷がいる。ある人は情欲の奴隷であり、またある人は金銭の奴隷だ。名声や地位の奴隷も大勢いる。
そしてわれわれ全員が希望と恐怖の奴隷である。貴族と呼ばれる人々にも卑しい行為が見られるではないか。遺産目当てで、ある老婦人に奴隷のようにへつらう執政官〔内政の最高責任者と軍の最高司令官を兼ねる官職〕経験者がいる。若い奴隷娘に夢中になり、権力ではなく魅力で愛を勝ち取れると思っている資産家の老人がいる。名家の子弟のなかに、役者にのぼせ上がって劇場に通い詰めているのが何人もいる。彼らは運ではなく自由意志で奴隷になっているのだから、これほど恥ずかしいことはない。そういう連中は、あなたが奴隷と親しくしたり、奴隷に愛想よくしたりするのを見たら、とんでもないといって止めるだろう。だが彼らのいうなりになってはいけない。奴隷から恐れられるのではなく、尊敬されるような主人にならなければいけない。
「奴隷」と「非奴隷」を分つもの
ということで、そもそも概念的な奴隷の定義というのは、案外難しい。
人間は真の意味で完全な自由にはなれないが、だからといって、資本主義社会の中で一定の自由を差し出している人間をすべて「奴隷である」というのもちょっと乱暴だ。
どういう扱いを受けているかが奴隷かどうかを決めるのだといい返した。しかし奴隷のほうが一枚上手だった。
「ということは、主人に食べさせてもらい、主人のいうことを聞き、そうしないと罰を受けるからわたしが奴隷だというんですね? だとしたら主人の息子たちだって奴隷ですよ。彼らも父親のいうことを聞かなければならず、そうしないと打たれるんですから」
これは、本作の中で、愚鈍な主人と賢しい奴隷の間で繰り広げられた議論の一部を抜粋したものである。
以下、もう少し続く。
おそらく、と奴隷は続けた。本来「奴隷」という言葉は品性の卑しい人間を指していただけだろう。自由人でも品性の卑しい人間はいるし、奴隷でも高潔な人間はいる。自由人がすべていい人間とはかぎらないように、奴隷もすべて悪い人間とはかぎらない。
「奴隷」という言葉は「noble(気高い)」と同じで、本来は人の徳やふるまいについて使われたのであって、血筋のことではなかった。だが「noble」はやがて「貴族」の意味にも使われるようになった。人々は言葉の本来の意味を忘れ、間違った使い方をするようになった。本当は、道徳に背くふるまいをする者が奴隷であり、それはその者が奴隷身分にあるかどうか、あるいは自由身分に生まれたかどうかとは関係がない。
これこそが、著者が本書で一番言いたかった主張のひとつではないかと思う。
つまり、奴隷とそうではない人々を隔てるものは品性――すなわち、心のあり様なのではないか、と。
これを現代的に則して考えれば、「本当はこんな仕事なんてしたくない……」と思いながら、お金のためにイヤイヤ働いている人々は奴隷だが、「自分はこの仕事に誇りを持っているし、大好きだ」と思っている人は、たとえ同じサラリーマンという立場であっても、奴隷ではない…………のかもしれない。
あまりこんな話ばかりをしていても暗くなるので、ここからは当時の奴隷に関する豆知識を紹介していこう。個人的に「そうだったのか」と思った箇所だけ。
奴隷は高い!
次に値段の話をしておこう。奴隷の価格には大きな幅がある。また基本的に決して安い買い物ではない。平均的な値段をいうなら、一五歳から四〇歳までの健康な成人男性が一〇〇〇セステルティウス、女性はそれより少し安く、八〇〇セステルティウスといったところである。
セステルティウスを知らない読者のためにいっておくと、最低限の暮らしなら、年に五〇〇セステルティウスあれば家族四人がどうにか食いつないでいける。これで奴隷がかなりの投資だとおわかりいただけるだろう。年齢がこの枠に入らない場合は少し値が下がる。四〇歳を超えた男性はだいたい八〇〇セステルティウス。八歳から一四歳くらいまでの少年も同様である。もっと年寄りで六〇歳を超えているとか、逆に八歳に満たない子供の場合はさらに安くなり、四〇〇セステルティウス前後で買えるだろう。
「 家族四人がどうにか食いつないでいける」金額がどのくらいかわからないが、本書の解説には次のように書かれている。
マルクスの説明のなかに、家族四人が一年食いつなぐのに五〇〇セステルティウスという話がありますが、これは最低限の主食の値段であって、その他の食品や家賃、被服費等々を考えると数字はもっと上がります。一家四人の生活費としては、地域により、あるいは都市により大きく変わるとしても、だいたい一〇〇〇セステルティウスが妥当な線ではないでしょうか。
こちらのページによれば、だいたい4人家族だと月に4~8万円くらいかかるものらしい。だいぶバラツキがあるが、これに沿えば500セステルティウス=50~100万円くらいだろうか?
で、成人男性なら1000セステルティウスということなので、健康な成人男性奴隷はだいたい100~150万円くらいで購入できると考えればいいんじゃないだろうか?
このことからも分かるように、奴隷というのは実はけっこう高価な嗜好品だ。
ローマ市民は誰でも奴隷を持っていたわけではなく、そこそこの富裕層じゃないと持てるものではなかった。現代の感覚でいえば、高級腕時計とか外車みたいな感じだろうか。
実際、成金などは、見せびらかすためだけに何人もの奴隷を所持していることがあったらしい。
奴隷の値段については数字の扱いに注意が必要で、この章で挙げられた平均価格は現存する限られた資料から推測したものでしかありません。帝政後期にはインフレで名目価格が上がりましたが、実質価格が上がったかどうかはわかっていません。
奴隷は資産
まぁ少なくとも、奴隷は決してお安い買い物ではない。そして、購入したら、奴隷は主人の大切な資産になる。
つまり、簡単にムチを売ったりして資産価値を下げるのは、主人としても控えたいのが本音なのだ。
よくフィクションなどで奴隷がひどい扱いを受ける描写があったりするが、人攫いにしろ、奴隷商人にしろ、主人にしろ、大事な資産を自らは毀損させない。
むしろ、奴隷たちには、主人よりも恐ろしい存在がいた。
あなた方も容易に想像できるだろうが、主人の奴隷に対する態度より、奴隷同士のほうがはるかに暴力的だ。奴隷たちは常に地位の奪い合いをしていて、どっちが上だ下だと口論し、些細なことで侮辱されたと騒いでけんかをするし、それが単なる言いがかりであることも少なくない。だから下の者を痛めつけてばかりいる奴隷には目を光らせ、ある種の圧力をかけることで自制を促さなければならない。
つまり、奴隷同士の争いのほうが熾烈なのだ。
ディオゲネスも奴隷を所持していた!
ディオゲネスはローマの哲学者で、タルのなかに住んでみすぼらしい格好をしていたことから「樽の哲学者」とも呼ばれる。
アレクサンダー大王との問答や、ホームズの「ディオゲネスクラブ」などで有名だ。だが、そんな彼も、奴隷を持っていたようなのだ。
これはけっこうびっくりだった。
ディオゲネスは一人しか奴隷をもたなかった。しかもその奴隷に逃げられたとき、居場所がわかっても連れ戻そうとせず、「わたしの奴隷がわたしなしでも生きていけるというのに、わたしがわたしの奴隷なしで生きていけないとしたら、それは恥ずべきことだ」といった。ディオゲネスはこういいたかったのではないだろうか。「不運な奴隷がようやく逃げおおせた。これでわたしも自由になった!」
国が管理する奴隷もいた
公有奴隷というのも存在する。国家や都市が多くの奴隷を所有していて、帳簿をつける、道路を補修するなど、さまざまな公共の仕事をさせている。すでにほかで奴隷として働いていた者を買いたいなら、元公有奴隷を買うことは健全な投資といえるだろう。こき使われて疲弊している心配がないし、奴隷のほうも個人に仕える仕事を喜ぶことが多く、張り切って働くだろう。格は公共奴隷のほうが上なのだが、奴隷の側からすれば個人宅の仕事のほうが活気があっていいということのようだ。
奴隷は解放されても、すぐ自由になるわけではない。
さて、奴隷の解放といっても、文字通りその場で自由になるわけではない。わたしは正式に解放する前にいくつかの条件を出すことにしている。まず、解放後も一定期間の労働を義務づけるのが通例で、普通は数年である。その期間、奴隷は名目上解放されて寺院が祭る神の所有となるが、実質的には奴隷に留まる。奴隷にはそのあいだもよい働きをし、主人の命に従うと約束させる。これまで通り主人が与える罰を受けることも承諾させる。女奴隷に対しては、子供の一人を代わりに置いていくことを条件にする場合もある。彼女たちは何しろ自分が自由になれるのだし、子供も将来買い戻せる可能性があるので、この条件もたいていは喜んで受け入れる。子供のほうも家に馴染んでいるので、一人残されても問題はない。また、わたしにとって極めて重要な仕事をしていて、その奴隷がいなければ困るという場合には、〝一定期間〟をわたしの生存中とすることもある。
法律で定められていたわけではないようだが、慣習としてはこのようなものがあったようだ。
さらに、解放されたからといって、主人と奴隷の関係性がそれで途切れるわけではない。
本書でもたびたび述べられているが、「立派な主人と奴隷の間には信頼関係が生まれる」ものらしい。
奴隷は解放されたあとも、主人であるあなたと緊密な関係に置かれることになる。これまで主人だったあなたは、今度はパトロヌス(保護者)となり、解放奴隷とのあいだに庇護関係を築く。これまで絶対の服従を示してきた奴隷の側も、今後はあなたのクリエンテス(被護者)として、息子が父にそうするように敬意と服従を示さなければならない。解放奴隷にとってのパトロヌスは、まさに息子にとっての父親のようなものである。
ただし、基本的に解放されるのは「都市に住む奴隷」ばかりであると、解説では述べられている。
農村で働かされている奴隷は、基本的には死ぬまでこき使われるようだ。
キリスト教も奴隷を認めていた
ローマ時代はキリスト教が勃興してきたときだが、当時としてはカルトな新興宗教だったので、マルクスもキリスト教を怪しんでいる。
実のところ、キリスト教徒には奴隷や解放奴隷が多い。そもそも彼らが教皇と呼ぶ最高指導者の一人も元は奴隷で、しかも人を騙す悪党だったというではないか。名をカリストゥスといい、カルポフォルスという資産家の奴隷だった。カルポフォルスもキリスト教の信者で、皇帝のファミリアに属していたおかげで資産を築いた男である。
そのカルポフォルスがカリストゥスを信頼し、あるとき大金を預け、これを元手に魚市場で銀行業を始めろといった。すると、皇帝の側近のカルポフォルスが後ろ盾なら安心だというので、多くのキリスト教徒がやってきてカリストゥスにかなりの額を預けたそうだ。ところがカリストゥスはそれを全部使い込んでしまい、返すあてもなかったのでひどくまずいことになった。
わたしたちはイエスの教えが奴隷たちを悲惨な状況から救ったと考えがちです。しかし今日に残る資料を見るかぎり、キリスト教徒の主人たちの奴隷の扱いが異教徒の主人たちよりよかったとはっきりいうことはできません。
いちおう補足すると、カリストゥスというのはイエスのことである。
ユーモアを笑えるための大前提とは
本書にはユーモアがあるので、読んでいておもしろい……と最初に私は述べた。
しかし、そもそもユーモアとか「おもしろさ」を感じるには、絶対的に必要な条件がある。それは「他人事」であることだ。
たとえば、アニメやマンガで「オカマキャラ」が登場したとする*1。そこで、笑いが起きるとするだろう。
しかし、実際にゲイやトランスジェンダーの人は、そのキャラクターを笑うことができない。
なぜなら、その笑いは「他人事」ではないからだ。
翻って本書を読んだとき、「自分とは関係ない古代ローマの奴隷について書かれた本」として読めば、それは“他人事”になるので、おもしろさを感じられる。
しかし、読み進めていくうちに、「これはもしかして、現代に生きる自分たちのことを暗に指摘しているのではないか?」と考えてしまうと、途端に“他人事”という防御壁が崩れ、笑えなくなってしまうのだ。
これは、どちらがいいとか、悪いという問題ではない。
中身までユーモアを徹底させてもいいし、ユーモアという粉砂糖を振りかけて中にひっそりワサビを仕込んでおいてもいいのだ。
それは、著者が読者に何を伝えることを目的としてその本を書いているのか、という違いにほかならない。
おわりに
「当事者だとユーモアを笑えない」などと苦言めいたものを呈したが、個人的には、やはりユーモアは大切だと思う。
というのも、もし、本当に何かを社会に問いかけたいのであれば、一般の人々の興味関心を惹くものにする必要があるからだ。
ただし、結局単なるユーモアに終始しても、問題提起はできない。
ちょっとしたスパイスを入れることでチョコレートの甘さが引き立つように、ユーモアの中に毒を仕込んでおくと、いつか、その毒がジワジワと効いてくるんじゃないだろうか。などということをぼんやり考えている。
こんかいはこんなところで。
それでは、お粗末さまでした。
*1:そもそも、「オカマ」という言葉は人によっては蔑視的な意味合いを持つと考える人もいるし、ゲイとトランスジェンダーを混同している人も多い