翻訳家だって間違えるんです ~『翻訳地獄へようこそ』のレビュー
翻訳本をよく読むんだけど、やっぱり読んでいると日本語として違和感を抱くことも少なくないし、そういう人はほかにもいると思う。
そんな人が読んだらけっこう楽しめるのが、この一冊。
※編集:原智子(英語出版編集部)、表紙デザイン:山口桂子
著者の宮脇孝雄さんは翻訳家で、エンターテイメントから文学までさまざまなジャンルの翻訳を手がけてきた人物。
最近私が読んだものだと、『逆行の夏』の一部も手がけていた。
本書はALCOM WORLDおよび「マガジンアルク」などの連載をまとめた、翻訳家エッセーだ。
どちらかというと、翻訳するときのコツ、翻訳するときに間違いやすいところなどをまとめているのだが、実例を豊富に出しながら説明してくれるので、別に翻訳家じゃなくても読んでいておもしろい。
翻訳本は意外と間違いが多い
たとえば、こんな感じ。
このあいだ読んだ本に、
He was sick of it when finally the thing went straight back and into the water. A trick to it.
という一節があった。文中の彼はモーターボートを積んだトレーラー(原文ではthe thingと表現している)を運転している。そのボートを海まで運んできたあと、トレーラーをバックさせようとして、手こずっている。トレーラーを海に続く傾斜路に入れて、荷台に載せたボートを水に浮かべるのが彼の目的である。
日本語訳の文庫本でこの箇所を見ると、
「ついには、それはまっすぐ後ろに下がって、海の中に入ってしまった。彼はもううんざりだった。やれやれだ」
となっていた。
まず気がつくのは、最初の文を、うしろ(when以下)から先に訳していること。これはまずいのではないだろうか。うしろから訳すと、
「それ(トレーラー)がついに海に入った、うんざりした(sick of it)。やれやれだ(A trick to it)」
という順番になるのだが、そもそもトレーラーを海に続く傾斜路に入れるのが彼の目的なので、まっすぐ後ろに下がって海の中に入ったのなら、その目的を達したことになり、うんざりする必要はない。
論理的な矛盾があるのなら、その解釈は間違っていると考えるのが順当なところだろう。
上記の文は、
「He was sick of it」
と
「finally the thing went straight back and into the water」
がwhenでつながっている形をしているが、こういうwhenはほぼ接続詞と考えていいので、「そのとき」「すると」などと訳せばいい。「彼はうんざりした。すると~」である。
しかし、慣用句に馴れていれば、難しいことをいわなくても、最後の「A trick to it」を見ただけでぴんとくるのではないだろうか。これは、
There is a trick to it.(それにはこつがある)
という慣用表現の省略形なのである。
もう正解にたどりつけたと思うが、以下のような意味だ。
「いいかげんうんざりしてきたが、ついにそれはまっすぐうしろに進んで、海に入った。こういうことにはこつがあるのだ」
まあ、たぶん話の大筋には関係のない場所なので、普通の読者だったらあまり気にしないで読み飛ばしてしまうと思うのだが、やはり翻訳家だと気になって原文にあたってしまうらしい。
ほかにも、間違いではないが、こんなものもあった。
私が昔訳した小説には、初対面の若い男優に対して
What's your name, dear?
と呼びかける舞台演出家(男)が出てきた。
そのときは、セオリーどおり、dearを無視して、 「きみの名前はなんだ」 と訳したのだが、あとで知ったところによると、初対面の男に対してなれなれしくdearを使うのは、だいたいホモセクシュアルの男性だそうで、実は、この台詞も、「ねえ、あんた、名前は?」と、おねえ言葉で訳さなければならなかったのである。
読むとなるほどね、ということもある。
たしかに、こういった言葉の絶妙なニュアンスは、単に英文法をわかっているだけでは約するのが難しそうだ。
ちょっと笑えるのはこっち。
これは有名な話で、ほかのところにも書いたことがあるが、ある小説に、登場人物たちがスキーをする場面があって、翻訳では、そのときの服装が「みんなミシュランのメンズ・スーツを着ていた」となっていた。
タイヤ・メーカーのミシュランが男物のスーツを出しているはずはない。原文は「Michelin men suits」だが、それだったら「着ると、ミシュラン社のイメージ・キャラクター、ミシュラン・マンのようになる、もっこりした防寒着」のことである。
ガソリンにフレーバー?
こちらは間違いではないのだが、ちょっとした単語一つからユーモアを感じ取れるかどうかも、翻訳家としては必要な資質のようだ。
ある翻訳小説を読んでいたら、初老の語り手がガソリンスタンドに行って、こんな感想を漏らす場面があった。
「そこには注油ポンプが七、八基並んでいて、レギュラー、無鉛、高鉛分といったガソリンが選べるようになっていた。以前はガソリンスタンドといえば車にガソリンを入れるだけのところで、好みを問われる場所ではなかったが」
これでも意味はよくわかるし、間違ってもいないが、ここはユーモア、というか、ウイットを狙った一節なので、あっさり訳すのはもったいないと思う。
ちなみに、原文は次のとおり。
It had seven or eight pumps, offering a choice of regular, unleaded, or super-leaded. I can remember when what you got at a gas station was gas, and you didn't have to choose a flavor.
おわかりのように、最後のflavorというのがおもしろいところで、たぶん、作者は、コーヒーショップなどを念頭に置いているのだと思う。昔は、コーヒーショップに行けば、コーヒーが出てくるだけだったが、今では、ラテだのマキアートだのフラペチーノだのドリップだの水出しだの、いろいろな種類があって、わけがわからない。ガソリンスタンドも似たようなことになっている、というのが語り手の言いたいこと。そういう事情を連想させるような言葉を選ぶのが、翻訳における日本語表現のこつである。
ガソリンにはそぐわないflavor(味、風味、香り)をわざと使っているのだから、訳でも「味」を使って、
「そこには注油ポンプが七つも八つも並んでいて、レギュラー、無鉛、高鉛分の中から好きなものを選べるようになっていた。わたしが憶えている時代のガソリンスタンドはガソリンを入れに行くところで、お好みの味を訊かれるところではなかった」
とすると、おもしろくならないか?
ちなみに、super-leadedというのは、super-unleaded(無鉛ハイオク)の誤植かもしれないが、わざとそう書いてある可能性もあるので、そのまま「高鉛分」としておく。
最近読んだミステリにも、意味不明の文章が出てきた。
主人公の男が仕事相手の家に呼ばれて、商談をしている。その商談がうまくいったので、酒でも呑もうか、ということになる。外には行かず、そのまま相手の家で呑んでいるうちに、きみの奥さんも呼んだらどうか、と相手にいわれる。主人公の家は歩いて15分ほどのところにあるのだ。そのときに相手が、
「奥さんに指輪を買ってあげたらどうです?」
という。
この指輪の話が唐突で、一瞬、混乱したが、すぐに気がついた。原文を調べてみたら、案の定、
Why not give her a ring?
と書いてあった。
翻訳ミステリが売れないと嘆く編集者は多いが(さきほどの台詞をもじれば)ああもったいない! ミステリ関係者って、どうしてもっと努力しないんでしょう、と私は思う。 (ご承知のように、誰それに電話をする、というのを、ブリティッシュ・イングリッシュではgive ~ a ringというのです。)
最後の「ご承知のように」というのはちょっと厭味ったらしい言い方ではあるが、多分初歩的な慣用句表現なんだろうと思う。
「うらやましい」は京都弁でなんという?
海外小説の中に日本人、それも地方出身者が出てくるときは、さらにめんどうくさいことになるようだ。
たとえば、とある小説の中に京都弁を使う人物が出てきて
「あなたは若い女性の扱い方を知っていますね。私はあなたがうらやましい」
と京都弁でいったシーン。
著者がこれを訳したときは、京都出身の知人に協力を仰いだらしい。
前半は比較的簡単で、 「若い娘にえらいもてはりますなあ」 でよさそうだ。問題は次の文で、「私はあなたがうらやましい」をを関西風にアレンジして、
「うらやましいもんですわ」
と訳しても、京都弁にはならないのだそうである。
これは、案外、翻訳というものの本質を衝いた話ではないかと思うが、こういうときには、「私はあなたがうらやましい」を京都弁ではどういうか、という発想ではなく、誰かをうらやましいと思ったとき、京都の人はそのうらやましさをどんな言葉で表現するか、という観点に立って考えなければならないのである。
つまり、ちゃんと訳そうとすると、言葉ではなく、発想を置き換えなければならない。先の知人によれば、
I envy you.
を京都弁で訳せば、
「あやかりたいもんですわ」
になるのだそうである。
「あやかりたいもんですわ」!
たしかに、こういう台詞になると、「うらやましいもんですわ」よりもグッと京都の人っぽい感じになる。
いやはや、翻訳というものは奥が深いし、翻訳家というのはこういう事を考えながら仕事をしているのかとおもしろい。
後記
金曜ロードショーでディズニーの『アラジン』をやっていたので、久しぶりに見た。
ちゃんと見たのは子どものとき以来だけど、いまになって鑑賞してみると、いかにテーマがはっきりしているのかが再確認できる。
アラジンのテーマは「自由」だ。
これは、登場人物の設定で対比されている。
主人公のアラジンは「お金も地位もないけど、自由はある」というキャラクター。
ヒロインのジャスミンは「お金も地位もあるけど、自由はない」というキャラクター。
そしてジーニーは「世界最強の魔神だけど、自由はぜんぜんない」というキャラクター。
そして、この物語は「アラジンが自由の大切さを再確認する物語」と受け取れる。
どういうことか。
ジーニーの魔法によって「王子様」になり、お金と地位を手に入れたアラジンは、「本当は無一文のアラジン」という本名と地位を隠さなければいけなくなる。
これは要するに、アラジンは自ら金と地位のために自分の自由を制限してしまったということだ。
そこからいろいろと問題が生じていくわけで、最終的には「自由」の価値に気づき、ジーニーとジャスミンを自由にする話なのだ。
(逆に、ヴィランズのジャファーは最終的に「徹底的な不自由」を味合わせることになるのだが、見方を変えれば、ジャファーだって自由を求めて動いていたということなので、若干不憫さを感じるところではある)
ストーリーの最終的な「深さ」というやつは、「テーマをきちんと設定しているか」「そのテーマに矛盾したことをキャラクターはしてないか」ということに尽きる。
その意味で、ディズニーは表層的なおもしろさ以外にも、ちゃんと深みのある物語が作れるのはやっぱりすごいなあと感じた。
今回はこんなところで。
それでは、お粗末さまでした。