本で死ぬ ver2.0

基本的には本の話。でもたまに別の話。

『かがみの孤城』(辻村深月・著)のレビュー

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本をつくる仕事をしていてつねづね思うのは、「売れる本にするのであれば、内容を難しくしすぎてはいけないなあ」ということです。

ビジネス書とか実用書だと、これはとくに顕著です。

そもそも著者はなんらかの道のプロフェッショナルであり、一般の人よりもたくさんの知識と経験を持っているという点で特異な人物です。

だからこそ本を書けるわけです。

私は文芸書の編集者ではないので小説については門外漢ですが、おそらくこの法則は小説にも当てはまるのではないかなと思います。

それを感じたのは、『謎解きはディナーのあとで』を読んだときでした。

 

 

私は東川篤哉さんの小説がけっこう好きで烏賊川市シリーズは楽しく読んでいました。

そんな東川さんの新シリーズが本屋大賞を受賞して売れているということで楽しみにしながらこの本を読んだのですが、ぶっちゃけ、かなり落胆した記憶があります。

なぜ落胆したかというと、烏賊川市シリーズより、トリックもギャグのキレも悪いと感じたからです。

とくにトリックに関しては「まあ普通に考えればこれが真相なんだろうけど、まさかこんな安直なトリックは使わないでしょ。もう一捻りくらいするでしょ」と思いながら読んでいたら、まさかその安直なトリックが真相だったという経験をしたからです。

でもこれは、私がミステリーが好きで、いろいろな推理小説をこれまで読んでいたからこそ、こういう感想になってしまっただけなのです。

ふだんミステリーを読まない人が『謎解きはディナーのあとで』を読むと、ほどよい難易度のミステリーでたいへん楽しめるということですね。

 

小説家とよばれる人々は、おそらくたくさんの本を読んできた読書の玄人、文章の玄人であり、自分が楽しめる作品を書こうとすると、必然的にレベルが上がりがちになります。

でも、そうするともっと読書偏差値の低い人たちには「難しすぎる」と感じられてしまい、なかなか売れない……ということです。

別に私は「売れる本が正義」だとか、「難しい本はダメだ」というつもりはありません。でも、もし出版する目的が、世の中の幅広い人々にたくさん読んでもらう(つまりベストセラーを狙う)ことであるなら、作品のレベルをコントロールする必要はあるということです。

 

これはたぶん本に限った話ではなくて、すべてのコンテンツづくりで共通するのではないかな、と思います。

大ヒットした映画『君の名は。』もそうです。

 

 

ほしのこえ』のときから新海誠監督の作品を見てきた私からすれば、「おもしろいけど、新海誠っぽさは薄くて、なんか普通のエンタメ映画だなあ」と感じましたが、あれもあえて従来の新海誠監督っぽさを薄めて、わかりやすい起承転結・大団円のエンディングをつくったからこそ、あれだけのヒットにつながったのだと思います。

(『天気の子』はもうちょっと新海誠監督っぽい感じのシナリオになっているので、個人的には『天気の子』のほうが好き)

 

たぶんテレビのクイズ番組もそうですね。

「東大王」などはありますが、だれも正解がわからない難しすぎる問題を出題しても、おもしろいと思う人は少ないでしょう。

それよりも、一般人でも半分くらいの人が正解がわかるクイズが出題されたほうが、「おれは答えがわかったぜ」という優越感を抱かせられるし、「たぶん答えはこれだと思うけど、あってるかな?」と確認したくなる衝動を抱かせられるので、人気が出やすくなるんじゃないかなと思います。

 

さて前置きが長くなりましたが、今回紹介する『かがみの孤城』を読んだ感想も、これと近いものを感じました。

 

 

本書は2018年の「本屋大賞」を受賞した作品です。

ちなみに、『謎解きはディナーのあとで』は2011年に本屋大賞を受賞しています。

 

辻村深月さんは2004年に『冷たい校舎の時は止まる』がメフィスト賞に選ばれています。

 

 

『冷たい校舎の時は止まる』は、8人の高校生たちが無人の校舎に閉じ込められるという物語ですね。

こちらのほうがホラーテイストで心理的にエグいものがあります。

そもそもメフィスト賞自体がなかなか玄人向けの、エッジのたった作品が選ばれることの多い賞です。

かがみの孤城』は、7人の中学生が鏡のなかにある(ほぼ)無人の城のなかで過ごすという物語なので、ティーンエイジャーが一般世界から隔絶された環境であれやこれやするというのは、たぶん辻村さんが好きな設定なんだろうと思います。

 

あらすじはこちら。

 

学校での居場所をなくし、閉じこもっていたこころの目の前で、ある日突然部屋の鏡が光り始めた。輝く鏡をくぐり抜けた先にあったのは、城のような不思議な建物。そこにはちょうどこころと似た境遇の7人が集められていた―― なぜこの7人が、なぜこの場所に。すべてが明らかになるとき、驚きとともに大きな感動に包まれる。 生きづらさを感じているすべての人に贈る物語。

https://www.poplar.co.jp/pr/kagami/

 

もうちょっと細かく解説すると、集められた7人の中学生は、狼のお面をかぶった謎の少女から「なんでも願いが1つだけ叶うカギが城のどこかに隠されているから探せ」というミッションを受けます。

1年という制限時間はありますが、別にカギが見つけられなくてもペナルティはないし、いつでも鏡の中の城と現実世界は行ったり来たりできます。

食べ物や私物の持ち込みもOKで、もちろんみんなで協力してカギを探すのも許されています。けっこうゆるいですね。

ただし、1つだけ厳格に定められているルールがあります。

「鏡の城のなかにいられるのは朝9時~夕方5時まで。それ以外の時間に城のなかに残っていると、狼に食べられる」

というものです。

 

というわけで、本作の謎は「カギはどこにあるのか」「なぜこの7人が選ばれたのか」「狼のお面の少女の正体」あたりになります。

とりわけメインとなるのは「7人の関係性」についてです。

ただ、これについては、それこそ感の鋭い人、ミステリーを読み慣れている人であれば、3分の1くらい読めばなんとなく想像がつくんじゃないでしょうか。

その意味では、あんまりラストに意外性はありません。

ただ、読みやすい文章とテンポよく進む物語、適度にのめり込める心理描写などバランスがよく、見た目のボリューム以上にスイスイ読み進めていけます。

早い人なら5~6時間くらいで読みきれるくらいです。

 

で、ここから先はネタバレというか、私の考察が入るので、本書を読んだ人だけ進んでください。

 

ミステリー好きの悪いクセに、「いい人に見える人ほど、じつは腹黒いんじゃないかと疑ってしまう病」があります。

私が目をつけたのは、主人公こころの近所に越してきた東條萌です。

すっごい美人で、主人公こころにもわりと優しい女の子です。

主人公に対するいじめが発生すると、こころとも距離を取るようになってしまいますが、最終的には心境を打ち明ける存在になりました。

 

しかし私は最初っからこの東條萌にきな臭さを感じていました。

それを最初に感じたのは、冒頭、こころが東條萌の家について説明するシーンです。

彼女の家はこころの家と同じように建てられた一軒家で、家の中の間取りも似ているというのです。

ただ違うのは、彼女のお父さんの趣味で海外の童話がいろいろ飾られていておしゃれだということ。

もうこの、「間取りが同じ」というのが臭いですね。

私としては、「なんでこんなに東條萌の家とか彼女の親のことを描写する必要があるんだろう」と感じました。

 

チェーホフの銃」という用語があります。

これはロシアの劇作家アントン・チェーホフが手紙のなかで劇のルールについて書いた部分に由来する言葉です。

「誰も発砲することを考えもしないのであれば、弾を装填したライフルを舞台上に置いてはいけない。」

これを小説に適用するなら、要するに、「物語とまったく関係ないことにスペースを割いたりするな」ということです。

その後、東條萌は鏡のなかの城にも入らないし、メインの登場人物にはならないのですが、冒頭でこれだけしっかり説明するということは、じつは彼女がけっこうなキーパーソンなのではないか……ということを私は考えたのです。

 

で、これは作品のなかではまったく書かれていない推測に過ぎないのですが、私が思いついたのは

「本来、鏡の中の城に招かれるはずだったのは、こころではなく萌だったのではないか」

という説です。

 

この物語で鏡の中の城に招かれているのは、いじめなどで学校に通えなくなってしまった子どもたちです。

主人公のこころも、中学校で同じクラスになったリーダー格の女子から謎の因縁をつけられ、攻撃されて、怖くて家から出られなくなってしまいました。

鏡の城のなかでは、7人の子どもたちにそれぞれ自分の部屋があてがわれます。

それぞれの部屋には、その子どもにあった調度品が置かれていたりします。

ピアノが弾けるフウカだったらピアノが置いてある、という感じですね。

で、こころの部屋に置かれていたのは、なぜかこころの家ではなく、萌の家にあったデンマーク語とかで書かれた童話の洋書だったのです。

となれば、この部屋はそもそもこころではなく、萌のために準備された部屋だと考えられます。

これがなにを意味するのかを考えると、本来、いじめを受けて不登校になる運命だったのは萌のほうだったのではないか、ということです。

 

じゃあなぜ萌はいじめを受けずに済んだのか。

これは後半、心を開いて本音で話すようになった萌とこころの会話のところにヒントがあるように思います。

萌はどうも父親の都合で引っ越しと転校をすることが多く、彼女自身とても大人びて、人間関係もかなりドライに考えていることがうかがい知れます。

また、彼女なりの処世術もすでに身につけているようで、こころに次のようなアドバイスを授けています。

 

「もし、今度、こころちゃんがどこかに転校することがあって、初日、誰も話しかけてくれなかったら、泣くといいよ」

「(中略)そしたら、何人か『大丈夫?』とか『泣かないで』って話しかけてくると思うから、その子と仲良くしなよ。泣くと、単純に目立てるし、構ってもらえるから」

 

また、クラスでこころをいじめていた子どもたちに対しては、次のような意見を述べています。

 

「低く見えるのなんて当たり前じゃん。あの子たち、恋愛とか、目の前のことしか見えてないんだもん。クラスの中じゃ中心かもしれないけど成績も悪いし、きっとろくな人生送らないよ。十年後、どっちが上にいると思ってんだよって感じ」

 

転校生で、すごい美人で、でも心のなかではクラスメイトを見下しているところもある。

すごくうがった見方をすると、もしかすると自分がいじめの対象になりそうな気配を察知した萌は、その矛先が自分に向かわないよう、標的がこころに移るように行動した……のかもしれないと考えてしまうのです。

 

こんなことを考えると、三学期になってからこころの家のポストに投函された萌の手紙の意味も違ったように受け取れてしまいます。

 

家の中に戻って、玄関のドアを背に、封筒を開く。手紙を開く手がもどかしかった。

手紙の中には、たった一言が書かれていた。

 

『 こころちゃんへ

 

 ごめんね。

 

萌より』

 

この「ごめんね。」は、なにに対しての「ごめんね。」なのか。

ふつうに読めば、こころがいじめられているときに自分も無視をしていじめに加担してしまったことに対する罪悪感から出た言葉のようにも思えます。

でも、私の考察に則するとしたら、これは「(私の代わりにあなたがいじめの標的にされちゃって)ごめんね。」というメッセージにも受け取れるわけです。

 

そう考えると、こころは本来であれば「かがみの孤城」に招かれるはずではなかった、8人目の子どもといえるんじゃないかなあと考えてしまうのです。

 

後記

スマホのゲームアプリ「白夜極光」を一通りやってみました。

www.alchemystars.jp

 

まあシナリオは置いといて、ゲームシステムはなかなかおもしろかったです。

チェス盤のようなマス目で同じ色の床を一筆書きでなぞって、敵を撃破していく、パズル的な要素を持ったRPGですね。

キャラクターガチャの排出率もまずまずといった感じで、無課金ながらコツコツやっていたら、現状で強いキャラがけっこう当たったりしました。

それ以外のところはけっこう「アークナイツ」に似ている気がします。