本で死ぬ ver2.0

基本的には本の話。でもたまに別の話。

『ネガティブ・ケイパビリティ』(帚木蓬生・著)のレビュー

f:id:Ada_bana:20210507170233j:plain


新型コロナで東京都などに3度めの緊急事態宣言が出て5/31までの延長が決定しましたが、まあたぶん大多数の市民の感覚としては「はいはい」という感じであまり気に留めていない感じかと思います。

そもそも「緊急事態」というのはなんなのでしょうか。

 

Wikipediaによると、日本で緊急事態宣言が出たのは

1941年:太平洋戦争

1948年:阪神教育事件GHQの養成を受けた日本政府が朝鮮学校を閉鎖しようとしたら在日韓国・朝鮮人共産党が暴動を起こした事件)

1982年:日本国有鉄道(いわゆる国鉄)の極度の経営悪化による強行民営化

2011年:東日本大震災による福島第一原発事故

となっています。

つまり緊急事態宣言というは

「マジ国家の存亡にかかわるやべえ状況だから、政府が一時的に法律を無視するようなことするけど許してね」

ということですね。

 

緊急事態宣言が出るというのはそれくらい「やべえ状況」であるということであって、法治国家にとっては最後の手段であるわけです。

そのため、2020年の4月に新型コロナで1回めの緊急事態宣言が出たときには国民も「これはやべえな」と思ってみんな外出を自粛したりしたわけですが、それからほとんど間を置かずに2回め、3回めをやったのは悪手で、自ら緊急事態宣言の威力を弱めてしまったといわざるをえません。

そんな感じで政府の対応もゴチャゴチャしてしまって、オリンピックもやるのかやらないのかわからず、いろいろなことの収束の兆しが見えない状況ですが、そういうときに役立ちそうなのがこのネガティブ・ケイパビリティなのかもしれないのです。

 

 

ネガティブ・ケイパビリティとはなにかというと、本書のサブタイトルの通りで、「答えの出ない事態に耐える力」です。

世の中にはみんなでがんばったり、すごいアイデアが出ることによって一気に解決する問題もあるのですが、現時点ではどうやっても解決できない問題もいろいろあります。

日本で言えば少子高齢化とか経済格差の拡大とか地方衰退とかもそうかもしれませんが、個人の生活レベルでも

・子どもが学校でいじめにあっている

・老親が認知症になった

・不治の病で余命を宣告された

などが該当するんじゃないでしょうか。

 

私たちはついつい「この世のあらゆる問題には解決策がある」「この世のすべてのことはいつか理解できる」と思ってしまいがちですが、たぶんそんなことはなくて、世の中には永遠に解決できない問題や、永遠に理解できないものもあるんじゃないかなと思います。

科学の世界もそうです。科学者の書いた本とかを読んでいると、いかに科学者がいろいろなことをいまだに解明できていないかがわかります。

私たちは自分の脳がどうやって思考しているのかわかっていないし、宇宙がどうやって始まったのかもわかっていないし、死ぬとどうなるのかもわかっていません。

宇宙なんてほとんどダークマターダークエネルギーという厨二病かよという謎物質と謎エネルギーです。

 

宇宙は何でできているのか (幻冬舎新書)

宇宙は何でできているのか (幻冬舎新書)

  • 作者:村山 斉
  • 発売日: 2010/09/28
  • メディア: 新書
 

 

ただ、かくいう私も、割と白黒ハッキリつけたがる人間で、もやもやした状態が好きじゃありません。

前の記事で紹介したミステリの1つのジャンルに「リドル・ストーリー」というものがあります。

これはあえて結末を書かず、読者の想像にまかせる物語ですが、私はこういうのが嫌いです。なにかしら書き手が結論づけてほしいなあと思ってしまいます。

ただこの傾向があるのは私だけではないようで、人間という生き物に生来備わっている能力によるようです。

 

<問題>を性急に措定せず、生半可な意味づけや知識でもって、未解決の問題にせっかちに帳尻を合わせず、宙ぶらりんの状態を持ちこたえるのがネガティブ・ケイパビリティだとしても、実践するのは容易ではありません。

なぜならヒトの脳には、後述するように、「分かろう」とする生物としての方向性が備わっているからです。さまざまな社会的状況や自然現象、病気や苦悩に、私たちがいろいろな意味づけをして「理解」し、「分かった」つもりになろうとするのも、そうした脳の傾向が下地になっています。

目の前に、わけの分からないもの、不可思議なもの、嫌なものが放置されていると、脳は落ちつかず、及び腰になります。そうした困惑状態を回避しようとして、脳は当面している事象に、とりあえず意味づけをし、何とか「分かろう」とします。世の中でノウハウもの、ハウツーものが歓迎されるのは、そのためです。

「分かる」ための窮極の形がマニュアル化です。マニュアルがあれば、その場に展開する事象は「分かった」ものとして片づけられ、対処法も定まります。ヒトの脳が悩まなくてもすむように、マニュアルは考案されていると言えます。

 

ところがあとで詳しく述べるように、ここに大きな落とし穴があります。「分かった」つもりの理解が、ごく低い次元にとどまってしまい、より高い次元まで発展しないのです。まして理解が誤っていれば、悲劇はさらに深刻になります。

私たちは「能力」と言えば、才能や才覚、物事の処理能力を想像します。学校教育や職業教育が不断に追求し、目的としているのもこの能力です。問題が生じれば、的確かつ迅速に対処する能力が養成されます。

ネガティブ・ケイパビリティは、その裏返しの能力です。論理を離れた、どのようにも決められない、宙ぶらりんの状態を回避せず、耐え抜く能力です。

 

なお、ここがすごく難しいところなのですが、ネガティブ・ケイパビリティは上で引用したようなものを指しているので、本書では「どうすればネガティブ・ケイパビリティが身につくのか」というハウツーや、「ネガティブ・ケイパビリティを利用することでなにがどうなるのか」という解決策は提示されません。

そもそも、ネガティブ・ケイパビリティはそういう次元で論じられるものではないからです。

なので、いわゆるメンタル系のハウツーもののように、現在進行系でなにか下の事態に困っている人の事態を解決したり、進展させるものではありません。

強いてメリットを上げるとすれば、世の中のさまざまな不条理や解決困難な問題に直面しても、それに対峙してメンタルを弱らせないようなレジリエンスが身につく……といえるかもしれませんが。

なかなかつかみにくくて、扱いが難しい力でもありますね。でも、知っておいて損はないと思います。

 

あともう1つ、ネガティブ・ケイパビリティのリスクみたいなものを挙げるとすれば、問題に直面したとき、なんでもかんでも耐えればいいというわけではないということでしょうか。

世の中には解決できない問題もありますが、本人の努力やちょっとしたアイデアで「解決できる問題」があるのもまた事実です。

厄介なのは、私たちはそういう「解決できる問題」と「解決できない問題」に矢継ぎ早に直面していて、その2つを判断しながら生きていかないといけないということですね。

解決できない問題を解決しようとして心身をすり減らすのもしんどいですが、解決できる問題に対してネガティブ・ケイパビリティを発揮してもなかなか幸福に離れないように思います。

要はバランスの問題ですね。

私たちは普段「がんばる」ほうに体重をかけがちで、がんばらないとか、耐え忍ぶとか、現状をそのままにするということに意識が向かいません。

でも、それだと疲れてしまうから、こういうネガティブ・ケイパビリティみたいな概念を知っておいて、どうしてもダメならあきらめましょう、受け入れましょうという「選択肢」を知っておくことが大事なんじゃないでしょうか。

それがまた、実践するのは難しいんですが。

 

 

後記

今季のアニメで「オッドタクシー」を観ています。

マンガ原作ではない、アニメオリジナル作品で、先が読めないからおもしろいですね。

www.amazon.co.jp

 

オットセイのタクシードライバー小戸川を中心に、いろいろな人間模様を描くヒューマンドラマです。

中心になっているのは「女子高生失踪事件」で、それに小戸川がからんでいるようですが、いろいろ細かい謎が多いですね。

なお、この作品では『BEASTERS』みたいな感じで、登場人物たちがすべて動物で描かれています。

ただ、これは別の人も考察しているのですが、私がちょっと感じたのは「もしかしたら登場人物たちが動物に見えているのは主人公の小戸川だけなんじゃないかな」というものでした。

小戸川は精神科に通院していて、不眠症でもあるのですが、もしかしたらそういう精神病の一環なのかもしれないなあと。なんとなく、そう感じさせるシーンがたまにあります。

あとOPが雰囲気あって素敵です。

 

今回はこんなところで。

それでは、お粗末さまでした。