本で死ぬ ver2.0

基本的には本の話。でもたまに別の話。

『日本人の勝算』(デービッド・アトキンソン著)のレビュー

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仕事の忙しさがかなり軽減されてきているので、読書ペースが加速している今日このごろです。

Kindle Unlimitedもラインナップがけっこう変わっていたので、ガンガン読み進めています。

で、今回紹介するのはこちら。

 

 

著者のデービッド・アトキンソン氏は、すごく簡単に説明すると「日本が大好きなイギリス人経営者」です。

とはいっても只者ではなく、ゴールドマン・サックスのアナリストとして働いていたときにバブル崩壊直前の日本の不良債権を指摘し、著書『新・観光立国論』で第24回山本七平賞を受賞した人です。

 

 

本書では人口が減少し、高齢化が進み、歪んだ資本主義が蔓延してお先真っ暗な日本という国が蘇るための処方箋が主張されています。

 

その方法をすごくざっくりと説明すると、次のとおりです。

 

・日本の真の問題は「生産性が低いこと」である

・日本の生産性が低いのは労働者の質が悪いからではなく、無駄に中小零細企業が多すぎることにある

・本当は必要ない中小零細企業を強制的に減らし、統廃合を進めるためには最低賃金の引き上げを行えばいい

 

労働生産性が低いというのは、要するに「コスパが悪い」ということです。

ワーキングプアという言葉もありますが、そこまでの貧困層でなくても、日本では長時間労働してもそれに見合った給料が得られません。

日本のGDPはいまのところアメリカ・中国につぐ世界第3位となっていますが、なぜかというと、それは人口が多いからです。

つまり、これから人口が減っていく日本では、労働生産性を上げない限り、GDPも右肩下がりにならざるを得ないということですね。

 

ちなみに、GDPが減ってもいいじゃないかという意見に対し、著者は「NO」と言います。

というのも、人口が減っても高齢者など社会でお世話をしなきゃいけない人の割合が増えるから、生産性が低いままだと現役世代はドンドン貧乏になっていかなきゃいけなくなるから、というわけです。

日本がダメなのは、人口が減少しているにも関わらず、いまだに「人口が増加すると成功するモデル」のままの政策を進めているためです。

 

じゃあなんで、日本は生産性が低いのか。

日本人の労働者はアタマが悪いのか、それともとんでもない怠け者なのか。

そうではなく、著者は「企業の数が多すぎるのが問題」だと述べます。

OECDの統計によると、欧州各国に対して、日本では「250人以上の会社で働く人の割合」が低いことがわかります。

つまり、中小零細企業で働いている人が多いことが、生産性を低くしているということです。

 

大きな企業でまとまったお金がないと大規模な設備投資ができないし、新しいことに挑戦しにくい。

それに、大企業でないと福利厚生も整えられないから、育休や産休などが取りづらく、女性が働きにくい環境を作る要因になります。

それに、小さな企業が多すぎると、革新的な技術や新しい取り組みが普及しづらいということもあります。

会社が沢山あれば、それぞれ個別に人材の採用や育成なども行わなければならないので、それも非効率的です。

人口が増加しているフェーズであれば、働き口を多くする意味でも会社が増えることは歓迎するべきことだったかもしれないけど、人口が減少している現代において、会社の数が多すぎることはデメリットのほうが大きいということです。

実際、銀行や石油業界などでは大小たくさんあった会社の統廃合がドンドン進み、整理されました。

 

じゃあどうすれば企業数を減らせるのかというと、そのためには「最低賃金の引き上げ」が効果的だといいます。

人を雇うコスト(人件費)が高くなると、人件費を安く抑えてやりくりしていた会社はやっていけなくなるので、生産性を向上させたり、他者と統合するインセンティブになるということです。

日本で最低賃金がなかなか引き上げられない要因として、著者は「最低賃金厚生労働省の管轄に置かれていること」と述べています。

もうひとつは、経営者の欲が少ないこと、も上げています。

 

先日、経済産業省で打ち合わせをしていたときに聞いた話です。経産省の調査では、ラーメン屋さんの社長の場合、人気が出ても3~5軒の店を展開したら、それ以上店を増やそうとしない人が多いのだそうです。

3~5店も店があれば、社長はベンツに乗れて、六本木で好きなように遊べる収入がとれるから、それ以上に店を増やそうという意欲がなくなるのだそうです。まぁ、欲がないといえば、欲がないのでしょう。

そこで最低賃金を引き上げてみます。ラーメン屋で働いている社員の給料が上がります。ラーメンの価格を上げて、転嫁することができないのであれば、利益が減ります。社長はベンツに乗り続けられなくなります。そうすると、ベンツに乗り続けるために、さらに店舗を増やそうという意欲が生まれ、生産性を上げる動機も湧いてきます。

要は、こういうある意味自己中心的で欲の足りない社長も、最低賃金を引き上げることで追い込めばいいのです。このような社長は、追い込まれたら雇う人を減らすのではという声が聞こえてきそうです。しかし日本の人手不足は、今後ますます深刻になります。大きな問題になるとは考えづらいのです。

 

私はこれまでずっと会社員として働いてきて思うのは、結局、会社はオーナーのものであるんだなぁということです。

お金を稼ごう系の自己啓発書ではよく言われることですが、大金を稼ぎたいのであれば、サラリーマン(労働者)から経営者(資本家)に変わるしかありません。

 サラリーマンのままお金持ちになることのほうがよほど難しいということです。

会社員というのは結局のところ、資本家(会社のオーナー)がお金を稼ぐお手伝いをしている人に過ぎないわけです。

つまり、資本家のおこぼれをもらっているような感じですね。

もちろん、資本家になるということは事業が失敗したときのリスクを負うということですから、そうしたリスクを追い求めたリターンとして富を得やすいという意味では、公平であると言えるのかもしれません。

 

私が本書を読んで思ったのは、「やっぱり出版社の数は多すぎるんじゃないか」ということでした。

私が属している出版業界が全体として右肩下がりなのはよく知られていることですが、それに反して業界全体の刊行点数は増加し続けています。

これはなんでかというと、本が売れなくなってきているから、その分だけたくさん新刊を出して間に合わせようとしているからですね。

日本の出版業界のお金の流れはちょっと独特で、出版社は新刊を出すと、それが売れようが売れまいが、部数などに応じて売上が立つような仕組みになっています。

だから、売れない本であっても「出すこと」に意味があったりするわけです。

 

コロナ騒動でちょっと仕事の忙しさがマシになり、新しい企画を考えながらいろいろ本を読み漁っていて改めて思うことなのですが、やっぱり現状、本が多すぎます。

私は基本的に、「いい本も悪い本も世の中にはない」というスタンスですが、それにつけても、「別に世の中に出さなくても誰も困らないだろう本」というのもけっこうな割合で存在するわけです。

つくっている編集者の側も、それを薄々感じてはいながらも、会社としての売上を建てるためになんとか企画をひねり出し、目新しい感じに見せて新刊を送り出しています。

そういう本にかける労力や情熱は必然的に低くなるのですが、それでもやっぱり一冊の本をつくるためには煩雑な作業や時間が必要なので、労働時間が増えます。

そういうのが、生産性を落とす原因となるわけですね。

もちろん、本の種類が多くなっても、書店の数は減っているわけですから、棚の奪い合いは苛烈さを増し、本来であればもっとじっくり老いてもらえれば売れたかもしれない本が埋もれ、返品されることも多いでしょう。

 

じゃあなんで本が多いのかと言うと、これもやっぱり、中小零細の出版社があまりにも多いことが原因ではないかと。

ある意味、私が健全な出版社の在り方だと思うのは、じつは「潮出版社創価学会系列の出版社です)」「幸福の科学出版」だったりします。

これら会社が出すのは、当たり前ですが、教祖やその宗教の教えを伝えるための本ばかりで、それを否定するような本は絶対に出しません。

内容の是非は脇においておくとしても、出版社としての存在意義、ポリシーがすごく明確で、それは他の出版社ではなかなか出しにくいものであるわけです。

あるいは、一般人が見向きもしない法律系の専門書とか、学習参考書、すごくニッチな学術書などだけを出している専門処刑の出版社もそうでしょう。

つまり、どんな本を、どんな人に向けて、なぜ世の中に出すのかが明確なんですよね。

 

しかし世の中の多くの中小零細出版社は、そういうポリシーがとくにありません。

もちろん、どの会社も創業したときにはなにかしら目的が会ったと思うのですが、意外ともともといた会社と喧嘩別れした編集者が、「自分で会社作って好きな本出してやるわい」みたいなノリでできていることも多いのです。

それに、規模が少し大きくなったりすると、そうした新たな従業員を食わせるためにいろいろな本を出す必要だって出てきます。

そうなると、文芸だろうが健康本だろうが、とりあえず売れそうならOKみたいな基準になってしまうんですね。

売れそうなら実用書でも小説でも健康本でも出すという出版社が多いのも事実で、そういう会社の多さが、業界全体の足を引っ張っているのではないかな、と感じることも増えてきました。

 

でも結局、会社の数がそれだけあれば事業所の数も必要で、プリンターやサーバー、経理や総務の人員などのコストが必要になるわけです。

いっそのこと、銀行みたいに出版社の統合がグイグイ進んだほうがイイんじゃないかなぁと思わなくもありません。

出版の多様性という側面で言えば、別にいまは個人でいくらも情報発信し、電子書籍も個人で刊行できる時代ですしね。

 

出版業界はいろいろな情報を仕入れていて、頭のいい人も多いので、こうした問題については気づいている人が多くいると思います。

本書の中でも述べられているように、「日本人の変わらなさは異常」ですので、そうはいってもなかなか現状は変わらないだろうなあと。

私も今後5年くらいで身の振り方を考えないといけないなあと考えさせる読書体験ではありました。

 

 

後記

私が努めている会社でもリモートワークが実施されていまして、実際、編集者は別に無理に会社に行かなくてもパソコンがあれば仕事ができちゃうことが多いので困ることはなかったです。

むしろ、通勤とか対面の打ち合わせがなくなったぶん、時間に余裕ができたし、抱えていた本の刊行スケジュールが後ろ倒しになったり、日常の細々とした業務がなくなった関係でゆったりと新しい企画を練り上げることができたりといい状態でした。

ただ、そこでやはり、あらためて「どんな本を作るか」ということを考えると、いろいろ深いところを考えてしまったりするんですよね。

編集者というのも結局のところ会社に雇われているサラリーマンですから、売れる本(つまり会社に利益を求める本)を出すのが至上命令であるわけですが、じゃあ売れそうだからといってなんでも出すかというと、それも違うと思います。

 

私が最近思うのは、「遅かれ早かれ、どこかの出版社が出しそうなものはもう作らないようにしよう」ということです。

いちばんわかりやすいのは、SNSで人気のあるインフルエンサーの方の本ですね。

日本を代表する大手出版社K社さんの知り合いに話を聞いたりすると、あそこの会社はつねに数万人規模のインフルエンサー的な人たちはチェックしていて、声をかけているそうです。

そのため、そうした人々の本を、先に他者から出されないうちにどんどん出版していきます。

そして実際、インフルエンサーの人たちはたいがい、自分の本の告知をネットで積極的にやってくれますし、ファンもおおいわけですから、一定程度は売れます。

 

ただ私が思うのは、結局そういうインフルエンサーの人たちの本というのは、編集者は誰でもいいということなんですよね。

どの編集者がつくっても、たぶん同じような本になる。

問題は、どの編集者が一番早く声をかけて、どの編集者が気に入られるかという問題になってきます。

つまり、たとえ私が作らなくても、たぶんほかの誰かがすぐにつくるだろうということが予想できるわけです。

そういう本を作るために四六時中ネットをチェックしたり、一生懸命連絡を取るのは、自らレッドオーシャンに飛び込むような感じがして、なかなかしんどそうだし、あんまり楽しくなさそうに私は感じます。

(もちろん、そういう競争が好きで、インフルエンサーをいち早く捕まえることが楽しいというハンタータイプの編集者もいるんでしょうが、それはそれが得意な人に任せておくべきでしょう)

 

単行本の企画の立て方は大きく2つに分けられます。

「人から探すか」「テーマから探すか」です。

インフルエンサーの本は明らかに前者ですね。

まずインフルエンサーを探して押さえ、そのあとで「この人だったらどんなテーマで書いてもらったら売れるかな」というのを考えるわけです。

 

私はどちらのパターンもありますが、後者のパターンのほうがおおいような気がします。

まず先にテーマを定めてから、そのテーマに一番あった著者を探してきます。

(ここでいう「そのテーマに一番あった著者」というのは、単にテーマとの親和性のみを指しているわけではありません。時代性、SNSのフォロワー、メディアの露出頻度、過去の出版実績、普段の主義主張などを総合的に勘案します。つまり、おなじくらいテーマと親和性のある人が2人いたら、間違いなく過去の著作が売れていて、SNSのフォロワーが多い方を選びます)

 

実用書の場合、「売れるテーマ」には普遍性があります。

人々が何を求めているのかは、もう明らかなんですね。

「人間関係」「健康」「金」「男女」「自己成長」あたりでしょうか。

ベストセラーになっている本で、これらのテーマにまったく含まれない本は、おそらく皆無だと思います。

そこで、編集者はこれらの問題を「細分化」「先鋭化」し、切り口を変え、表現を変え、著者を変え、時事ネタや最新のテクノロジーなどをまぶして新刊としてつくりあげていきます。

 

そのあたりの企画のやりくりからそろそろ脱却して、がんばらなくても売れる本が作りたいなあということを、コロナのリモートワーク期間中に思っていたりしました。

企画は本当にケースバイケースで、こうすればつくれるという公式のようなものはないと思うのですが、多くの出版社でポリシーが欠落している以上、編集者一人ひとりがポリシー(自分が作る本の意図)を明確にしていく必要はあるのかもしれませんね。

 

そしてこうしたポリシーを持つことは、必ずしも編集者や企画に携わる人でなくても、これからの時代は持っていたほうがいいんじゃないかとも思います。

いまはおそらく、昭和以前のように非倫理的なことが会社で行われることは少なくなっているんじゃないかと思いますが、それでもポリシーなき仕事は蔓延しているでしょう。

そうしたとき、「自分はこういう為に仕事をしている」「だからこういう仕事はやりたくない」という自分なりのポリシーというか、指針を持っていることが大事になるんじゃないでしょうかね。

 

間違えやすいところなのですが、ポリシーを持っているからと言って、必ずしもそれに従わなきゃいけないわけではないと思います。

ぶっちゃけ私も、上司からの指示で、「そんなに作りたくないなという本」を作らざるを得ない状況もよくありますが、「それは私のポリシーに反するので作りません」とはいいません。サラリーマンですから。

ただ、「これは仕方なくつくってやっている本」「これは自分で作りたいと思ってやっている本」という区別をつけてやることで、気持ちはちょっと楽になります。

「仕方なくつくってやっている本」なんて言い方をするとなんとも本や著者に対して失礼な気もしますが、本心では「こんな本は別に世の中に出さなくてもいいだろう」と思っている一方で、「でも会社的にはここでこんな本を作って売上を立てておく必要もあるんだよな」と理解しつつ働いているので、仕方ないのです。最優先にするべきは自分のポリシーに対する折り合いですから。

 

大事なのはその2つに区別をつけることです。

じゃないと、いつのまにか自分で立案する企画まで「ほんとうはそんなに作りたくないと思っている本」になってしまうことがありますから。

そうなると悲劇ですね。

もはやそこに「やりたい仕事」がなくなってしまっているわけです。

 

雨降って地固まるともいいますが、私はこのコロナ禍は必ずしも悪い影響ばかりではないと思います。

働き方に対する考え方について多くの人が考える切っ掛けになるかもしれませんね。

 

今回はこんなところで。

それでは、お粗末さまでした。