読解力を鍛えるもの ~『AI vs 教科書が読めない子どもたち』~
AIをめぐる論説は大きく2つにわけられる。
もくじ
「AI脅威論」と「AI待望論」だ。現在話題で、売れているこの本の場合はどうだろう。
- 作者: 新井紀子
- 出版社/メーカー: 東洋経済新報社
- 発売日: 2018/02/02
- メディア: 単行本
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私の未来予想図はこうです。
企業は人手不足で頭を抱えているのに、社会には失業者が溢れている――。
折角、新しい産業が興っても、その担い手となる、AIにはできない仕事ができる人材が不足するため、新しい産業は経済成長のエンジンとはならない。一方、AIで仕事を失った人は、誰にでもできる低賃金の仕事に再就職するか、失業するかの二者択一を迫られる――。私には、そんな社会の姿がありありと目に浮かびます。そして、それは日本だけに起こることではありません。多少のタイムラグはあるとしても、全世界で起こりうることです。
その後にやってくるのは、「AI恐慌」とでも呼ぶべき、世界的な大恐慌でしょう。それは、1992年のブラックサーズデーに端を発した世界大恐慌や、2007年のサブプライムローン問題が引き金となりリーマンショックを引き起こした第二次世界恐慌とは比較にならない大恐慌になるのではないかと思います。
圧倒的・悲観論。
しかし、著者の新井紀子氏がこのような悲観論を抱く理由は、「AIがどんどん賢くなっているから」ではない。「東ロボくん」という愛称で話題になったプロジェクトを推進している新井氏は、AIの技術進歩には限界があり、シンギュラリティ(技術特異点)は到来しないだろうと予言している。
いまの子どもたちは思った以上にばかだった
じゃあ、なぜ新井氏はこんなに悲観的なのか。
それは、同氏が東ロボくんプロジェクトの過程で行った調査によって、「いまの子どもたちが思ったよりもバカだった」とわかったからだ。もうすこし具体的に言えば、調査の結果、「AIと同レベルの文章読解力しか持っていない子どもが多いのではないか」と思わざるを得ない結果が出たのである。
新井氏が行ったのは、自分たちで作ったリーディングスキルテスト(RST)というものだ。このテストを2万5000人(執筆時)に受けてもらったという。
たとえば、こんな問題だ。
次の分を読みなさい。
仏教は東南アジア、東アジアに、キリスト教はヨーロッパ、南北アメリカ、オセアニアに、イスラム教は北アフリカ、西アジア、中央アジア、東南アジアにおもに広がっている。
この文脈において、以下の文中の空欄に当てはまる最も適切なものを選択肢のうちから1つ選びなさい。
オセアニアに広がっているのは( )である。
読解力の6つの分野
新井氏は読解力を6つの分野に分けている。それが「係り受け」「照応」「同義文判定」「推論」「イメージ同定」「具体例同定(辞書/数学)」だ。
各分野の説明は本書を読んでもらえばいいが、大切なのは「同義文判定」「推論」「イメージ同定」「具体例同定」の4つ。いまのところ、AIはこれらを苦手としているからだ。逆に、「係り受け」「照応」は現時点のAIでもそれなりのレベルに達している。
さて上の例題は「係り受け」の問題だ。正解は「②キリスト教」である。
しかし、中学生の38%、高校生の28%は間違えていた。新井氏などが「マジメに回答していない」と判断した生徒は除外しているので、マジメに考えて間違えてしまう子どもが3割程度いることになる。
AIと同じ読み間違いをする子どもたち
もうひとつ出題してみよう。今度はグラフを使うので、こちら(https://resemom.jp/article/2017/06/02/38461.html)からお借りした画像を転載する。
これは「イメージ同定」の問題だ。グラフの意味を読み取るのはAIにできない高度な能力だが、残念ながら中学生は12%、高校生は28%しか正解できなかった。
間違えてた人の多くが④を選んでいる。なぜなら、アメリカ合衆国の数値が「28%」だからだ。
読み直すとわかるが、問題文にも「28%」という数字が入っているので、間違えた子どもはそこから単純に「のうち」「以外」という単語を読み飛ばして判断している可能性が考えられる。
じつはこれ、AIが犯す間違いと同じなのだ。たとえばSiriに「近所のイタリア料理のレストランを教えて」と尋ねるのと、「近所のイタリア料理以外のレストランを教えて」と尋ねるのでは、同じ回答が返ってくる。現在のAIは文章を読んでいるのではなく、単語を拾い読みしているのだ。
この調査結果から、新井氏は
「現代の子どもたちにはAIと同レベル、もしくはAI以下の読解力しか持っていない子どもが少なからずいる」
と結論付けている。そしておそらく、そのまま成長した子どもは、将来AIに仕事を奪われる。これはけっこう衝撃的な調査な結果だ。
本を読めば読解力が高まるんですか?
ではどうすれば読解力を高めることができるのか?
読解力が高い子どもと低い子どもには、普段の習慣でどのような違いがあるのか?
もちろん、この点も新井氏は調査した。……が、残念ながら、いまのところこの読解力に影響を与えるファクターは判明していない。
たとえば、新井氏は「読書量」が関係しているのではないかと考えた。自然な仮説だろう。しかし、読書習慣や読書量、ジャンルのアンケートをとっても、能力値との相関関係は見られなかった。これについては、新井氏もおどろいている。
これはショックでした。当然、小さいころから読書が好き、と答えた生徒の読解力が高いだろうと期待していたからです。
それ以外にも、「勉強時間」「塾に通っているか否か」「家庭教師の有無」「習い事」「スマートフォンの使用時間」「新聞購読の有無」「ニュースを知る媒体」「特異科目と苦手科目」「性別」など調査したが、いずれも明確な相関関係はみつからなかったという。
それでもやっぱり「国語」が大事?
もちろん、だからといって読解力が挙げる方法がないわけではない。
実際、新井氏の調査に投書から協力していた埼玉県戸田市の学校では、RSTを生徒だけではなく先生に儲けてもらい、読解力の重要性を身を以って体感した成果か、1年で学力状況調査の結果が大きく跳ね上がったのである。
かつて、数学者の藤原正彦さんは、学校教育に何が必要か、と尋ねられて「一に国語、二に国語、三、四がなくて、五に算数」とおっしゃいました。私は今現在の「国語」でよいかには疑問があるので、「一に読解、二に読解、三、四は遊びで、五に算数」でしょうか。
「日本語が正しく読める」はすべての勉強の土台である。たとえば、数学の問題だろうが理科の問題だろうが、問題文で問われている意味を理解するのに10秒かかる子どもと30秒かかる子どもがいれば、当然ながら前者の子どものほうが良い成績を取れる可能性が高い。
もしかしたら読解力を高めるのに効果的かもしれない方法について
読解力を高めるファクターはまだ未解明で、残念ながら「読書」もあまり効果的とは断言できない。私がこの部分を読んでふと思ったのは、もしかしたら「作文」こそが読解力を高める方法なんじゃないかということだった。
あくまで個人的体験だが、ちゃんとレビューを書くようになってから、本を読むスピードが以前より高まった。
文章を書こうとすると、自分が伝えたいことを整理してまとめることがけっこう難しいことに気づく。自分が書いた文章をちょっと読み直してみても、意味がわからんことを書きなぐっていることにも気づく。
そして自分で文章を書いていると、パッと文章を見ただけでその文章の構成や、キモになる部分がわかるのだ。
たとえば、料理人はほかの人の料理を見てちょっと食べただけで、どんな食材、調味料、加工法を使っているかわかる。
それと同じように、自分も文章を書いていると、ほかの人の文章を読んだときにそういうのが感覚的にわかるようになるのだ。
これは、読書というのは読んでいるようで読んでいないことがままあることにも関連していると思う。読解力を高めるという点では、こちらの本も参考になる。プライムリーディング対応なので、Amazonプライム会員なら無料で読めるからおススメだ。
ちなみに、ネットで「リーディングスキルテスト」を検索するといろいろ公開されている問題がみられる。私も間違えてしまった問題があるので、「正しく読む」というのは本当に難しい。
今日の一首
90.
見せばやな 雄島のあまの 袖だにも
濡れにぞぬれし 色は変はらず
殷富門院大輔
現代語訳:
お見せしたいものです。雄島の漁師の袖はどれだけ濡れても色は変わらないけど、
(血の涙で)濡れに濡れて色が変わってしまった私の袖を。
解説:
まず当時、泣き続けると最後には「血の涙が出る」とされていて、それだけひどい辛さを表す言葉があったので、この歌では「血」という言葉が使われていないが、「涙で袖の色が変わる」というのはこのことを表現している。
また、この歌は源重之の「松島や 雄島の磯の あさりせし あまの袖こそ かくはぬれしか」を本歌取りしたものなので、それと対比させる構造になっている。しかもそこに「ぬれにぞぬれし」という繰り返しの言葉を使うことで、さらにひどさを強調している。
なお、これだけだとなぜ涙を流しているのが不明だが、本歌の漁師が泣いているのは恋が原因なので、必然的にこの歌の涙の原因も恋であることがわかる。
後記
リーディングスキルテストについては、先日参加したパーティでたまたまお話した学校の先生も知っていた。
その先生いわく
「読解力が身につかない原因の一端は国語教育のあり方にあるのではないかと思う。とくに文芸作品は“読者の受け取り方次第だから決まった答えはない”などという主張もあるが、それは大間違いで、読者であるならその作品から著者が何を伝えたかったのかを汲み取れるようになるべきだ」
とのこと。
じつはその先生は国語教師ではない。美術を教えているという。そして、世間一般では「解釈は自由」と思われがちな芸術こそ、その作り手のバックグラウンドを理解し、その作品を通じて作者がどういう意図を持っているのかを類推する事が大事なのだそうだ。
読者には読者の責任がある。その責任をまっとうするかどうかは、読者個々人にゆだねられるけど。
今回はこんなところで。
それでは、お粗末さまでした。