『芸術起業論』と日本語のコンテクストと『けものフレンズ』について
すっごーい! あなたは芸術のコンテクストを理解してマネタイズするのが得意なフレンズなんだね!
はい、ということで今回紹介するのはこちら。
日本を代表する現代アーティスト・村上隆氏が書いた本。
内容はというと、現代に生きる日本のクリエイターたちに向けたメッセージとなっている。もちろん、そうではない人たちにとっても示唆的になりうる内容を含んではいるが、それを目的とするならもっといい本があると思うので、クリエイターでないのならそんなに読んでもおもしろい本ではないかもしれない。
日本語はハイコンテクスト言語
村上氏といえば日本のマンガやアニメをモチーフにした作品によって世界的に評価されている人物だが、本書では「なぜ自分の作品が受け入れられたか」のカラクリについても述べられている。
いくつかの要素があるが、その大きな要因のひとつがコンテクストだ。彼は自分の作品をローコンテクスト化することによって海外の人でも理解できるようにしたのである。ただ、この「コンテクスト」という言葉、多くの人は一度は聞いたことがあるとは思うが、きちんとその意味を理解している人は少ないかもしれない。
コンテクストというのは直訳すれば「文脈」だが、徒花的に言い換えるなら「脳内補完の度合い」ともいえる。
日本語はハイコンテクストな言語だ。つまり、人々の言葉はかなり相手の脳内補完に頼っている。だから主語や目的語が文章中になくても、聞き手が勝手に「あのことを言っているんだな」「この人はこういうことを言いたいんだな」と類推してくれる。これは、日本が単一民族国家であり、みんなが同じような環境で育っているからこそ成立できる。
一方、英語をはじめとした多くの言語は日本語よりもローコンテクストなので、主語や目的語をはっきりさせる必要がある。これは、宗教や人種、生まれ育った環境の違う相手とコミュニケーションするためにコンテクストに頼らないものになっていったとされている。
日本のマンガ、アニメをローコンテクスト化した村上隆
で、日本のマンガやアニメというのは当然ながら日本語のようにハイコンテクストな作品が多いので、日本の文化や風習などを全く知らない人が見ても、実はあまり楽しめない。そこで村上隆はそうしたオタク文化をハイコンテクスト化することによって、素地のないひとでも理解できるような作品に仕立て上げたからこそ、世界に評価されるようになったのである。
このコンテクストについては、先日行ったとあるイベントで聞いた『超一流の雑談力』の著者、安田正氏も話をしていた。
ハイコンテクストな日本の受け手が引き起こした『けものフレンズ』ブーム
そもそもの話、実は日本人というのはかなりコンテクストの理解力が高い。相手がその言葉に込めているものを勘案し、解釈して、反応する能力が高いといえる。
今期の覇権になりつつあるアニメ『けものフレンズ』も、そういったハイコンテクストな環境だからこそ覇権になったのだろうと思う。つまり、作り手が意図していた以上に受け手がそこから何かしらのメッセージ性を受け取って、独自に解釈し、反応しているのだ。
個人的に思うのは、作品というのはあくまでもツールでしかない。人がマンガなりアニメなり絵画なりを見て、それに感動したりするのは、その作品を通じて作り手の意図を勝手に解釈し、それに感動しているに過ぎないのではないかと思うのだ。
人々が興味を持っているのは『ゲルニカ』という作品そのものではない。『ゲルニカ』という作品を通じて、ピカソという画家が何を考え、何を伝えたかったのかを理解したいと思わせる力がその絵から発せられるからこそ、人々は『ゲルニカ』を凝視するのである。
であればこそ、人々をそのように反応させる作品は作り手の思いが伝わってくるものになるはずで、本書のなかで中村氏は「怒り」という感情の重要性について述べている。ここらへんについては本書を読んでほしい。
ビジネス書の「はじめに」で熱量がわかる
これは私が手掛けているビジネス書や実用書でも実は同じで、本によってその著者の熱量が伝わってくる本とこない本がある。「どうしてもこのことを多くの人に伝えたいんだ!」というものが感じられると、それはそのまま説得力にもつながる。
とくに実用書の場合、小説などとは違って必ず「はじめに」がある。この「はじめに」は読み飛ばす人も多いかもしれないが、かなり重要なポイントだ。なぜなら多くの場合、「はじめに」で著者は
・なぜ私はこの本を書いたか
・この本で何を伝えているか
・なぜそのことを伝えたいのか
・読者にどうなってほしいのか
ということを伝えているからである。個々の部分がしっかり書けていて、情熱を感じられるようなら、それはいい本である確率が高い――と思う。
おわりに
なにかを作り出そうとするとき、「書きたい」「描きたい」「作りたい」という思いだけでは弱すぎる。それよりも「書かざるを得ない」「描かざるを得ない」「作らざるを得ない」というくらいのひっ迫した感情と、飽くなき情熱によって駆り立てられた行動の末に生み出されたものが、その熱量を受け手に伝えるのではないだろうか、などと思っている。
そして、世の中にはその域まで行っていないまま生み出され続けている作品があり、実はそうした作品でも、ハイコンテクストな日本人だから勝手に解釈してしまっているものも多いのではないのだろうかと、私のようなものは考えてしまうのである。
今回はこんなところで。
それでは、お粗末さまでした。