本で死ぬ ver2.0

基本的には本の話。でもたまに別の話。

文学には社会不適合者が必要だ~『こちらあみ子』のレビューなのか?~

映画『ドクター・ストレンジ』を見てきました。

 

もくじ


映像はすごかった。
が、それ以外、特別褒めるところがない。
以~上!

 

『こちらあみ子』

 

今回紹介するのはこちら。

 

こちらあみ子 (ちくま文庫)

こちらあみ子 (ちくま文庫)

 

 

なぜ読もうと思ったのか良くわからない本シリーズ。
おそらく、インスタで何人かがアップしていて、気になったのだと思われる。


どういう話かというと、イマイチ相手の気持ちを理解できない“不思議”な女の子、あみ子がいろいろやらかして学友とか家族から疎外されていく物語だ。

 

なぜ文学の主人公は社会不適合者なのか

 

こういう主人公をつい最近見たことがあるような気がするぞ、と思ったら、『コンビニ人間』の主人公に似ていた。

 

コンビニ人間

コンビニ人間

 

 

現代的なくくりで言えば発達障害とかアスペルガーというくくりに入れられるような存在なのかもしれない。
そして、この共通項から、私は一つの結論を導き出した。

それは、「文学=社会不適合者の肯定」説だ。
もちろん、法を犯すような過度な社会不適合者はふさわしくない。たとえばシリアルキラーだったら、あまり文学にはふさわしくないだろう。

 

ただ、不倫をしちゃったり、相手の感情を理解できなかったり、メンヘラだったり、自殺志願だったり、マイノリティな性的指向(または嗜好)を持っていたりする、いわゆる社会一般の「フツー」からちょっと外れている人たちを主軸に置いた物語が、いわゆる文学作品なのかもしれない……などと考えている。

そして基本的に、文学が行おうとしていることは、枠組みの外から眺めることによる枠組みの再定義とその不可思議さを浮き彫りにすることではないかとも思う。

「フツー」でない人たちの視点を疑似体験することにより、「フツー」を見つめなおし、じつはそれが曖昧模糊としたコンセプトでしかないことを読者に認識させようとしているわけだ。

 

フツーの外に立てば、フツーが見える


話はちょっとわき道に逸れるが、先日、こちらの本も読んだ。

 

人間はどこまで耐えられるのか (河出文庫)

人間はどこまで耐えられるのか (河出文庫)

  • 作者: フランセスアッシュクロフト,Frances Ashcroft,矢羽野薫
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2008/05/02
  • メディア: 文庫
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これは、極限状態で人間の体がどこまで耐えられるのかを極めてマジメに語った一冊だ。しかし、私はこの本にも文学的な構造を垣間見た。

宇宙空間や光も届かない深海、空気の薄い山の上や極寒の地など、いわゆる「フツー」ではない環境から私たちが普段暮らしている「フツー」の環境を見ると、実はそれがかなり特殊で、限定的な環境なのだということを思い知らされる。

気圧がちょっと高くなったり低くなったり、空気中の酸素濃度がちょっと変わったりしただけで、私たちの体は異変を起こす。つまり、私たちが暮らしている環境の「フツー」は極めて絶妙なバランスの上に成り立つ、ある意味で特殊な環境でもあるわけだ。

 

話を文学に戻すと、つまり、文学の中で問われているのは、これと同じように、いわゆる常識という「フツー」も、枠組みの外側から眺めると極めて絶妙なバランスの上に成り立っている特異な環境のひとつなのではないかという考え方もできることを示している。

 

フツーの認識が年代で違えば、社会不適合者はいらない

 

ここまで書いたが、もしかしたら文学全般が社会不適合者の視点からかかれてはいないかもしれないということを考えた。

たとえば、石原慎太郎氏の『太陽の季節』や、田中康夫氏の『なんとなくクリスタル』などだ。アレに出てくる主人公たちは、別に社会不適合者ではなく、どちらかというと当時の社会に適合しまくっている。

 

太陽の季節 (新潮文庫)

太陽の季節 (新潮文庫)

 

 

新装版 なんとなく、クリスタル (河出文庫)

新装版 なんとなく、クリスタル (河出文庫)

 

 

ただ問題は、これらの作品の主人公たちの常識=フツーが、すべての年代で共通に認識されている事柄ではなかったということだろう。

つまり、『太陽の季節』に登場する主人公たちの姿を読んだ当時の中高年層は、「こういう考え方と生き方をするやつらが出てきたんだなぁ」と、著者によって仕組まれる以前から彼らの「フツー」の枠組みの外に立っている。だから、彼らの物語を客観的な視点から眺められる。

端的に言えば、読者は明らかに社会のフツーから外れた特異な存在を必要としなくとも、社会現象としての彼らの視点に立つことで常識の枠外に立つことができるわけだ。

最近のもので言えば、朝井リョウさんの『何者』が近いかもしれない。

 

でも、もっとドラマが欲しい

 

ただ、これらのことを理解した上でなお、私はこの本が好きではない。なぜなら、読んでいてあんまりおもしろくないからだ。

本作は基本的にのっぺりと進む。一応、いろいろな事件が起こり、物語に山や谷があったりするわけだが、その落差は非常に小さく、眠くなってくる。

 

しかしそれでも、『コンビニ人間』はおもしろいと感じた。あの作品と『こちらあみ子』は何が違うのか?
それを考えてみると、最大の差異は「主人公が変化しているか否か」だと思う。

こちらのエントリーでも言及したように、『コンビニ人間』の主人公は物語の冒頭と結末で、その心境が大きく変化している。


しかしあみ子の場合、その変化が見出せない。この作品は、ただ「フツー」ではない女の子の視点から描かれた淡々とした物語であって、彼女の中ではなにも変わっていないのだ(少なくとも、私は彼女の変化を感じ取れなかった)

 

おわりに

 

結局、私は低俗な人間なので、誰かが死んだり、宇宙人やモンスターが暴れまわったり、戦争が起きたり、セックスしたり、バトルしたり、陰謀が企てられたりする物語のほうが好きなのだ。そっちのほうが、読んでいて楽しい。

 

だから、『こちらあみ子』はその意味で示唆的な内容で読む意味があったが、だからといって私個人としてこの本を人におススメすることはない。リンクは貼っておくけどね!

 

こちらあみ子 (ちくま文庫)

こちらあみ子 (ちくま文庫)

 

  

今回はこんなところで。
それでは、お粗末さまでした。