原田マハが止まらない~『楽園のカンヴァス』のレビュー~
『私自身:肖像=風景』アンリ・ルソー
最近、Instagramを本格的にやり始めて、とりあえず本の写真をアップしているものを片っ端から「いいねっ!!!!!」しているのだが、ザザーッとタイムラインを見ていると気付くことがひとつある。
もくじ
それは「異常な原田マハ率」である。
インスタの活発的なユーザーは、私の所感では女性のほうが多く、それと関連があるのかは分からないが、彼女たちは文芸作品をよく読む。
しかし、それにしてもやたら「原田マハ」の本が多いのだ。
もう原田マハを読むしかない
ちょっと画面をスクロールさせると必ずといっていいほど「原田マハ」という文言に出くわす。だんだんマインドコントロールされてきた私は
「これはもう、原田マハを読むしかないのではないか?」
という強迫観念に教われるようになってしまった。
これが俗にいう「インスタ・原田マハ現象」である。
原田マハという名前の魔力
これには名前も影響している気がする。
原田マハは原田マハであり、「原田さん」でも「原田氏」でも「原田女史」でも「原田先生」でも「マハちゃん」でもない。原田マハは原田マハと呼ばないとしっくりしない。
そしてこのペンネームが、作品のタイトル以上に頭にこびりつき、四六時中私の中で「原田マハ~原田マハ~」という言葉が呪文のように鳴り響くのだ。ビョーキである。
私は勝手に原田マハの本の表紙の画像をアップしまくるインスタグラマーを「インスタマハラー」と心の中で読んでいるが、こうなってしまった以上、私もマハラーの一員にならざるを得ないのではないかという思考になる。人間は不思議である。
原田マハのデビュー作は『カフーを待ちわびて』
私は原田マハの作品にはこれまで全くふれてこなかったような気がしていたが、いろいろ調べてみると、なんと『カフーを待ちわびて』が原田マハ原作である。
原作小説は読んだことはないが、数年前にTSUTAYAでフラッと映画版をレンタルしてみて、「なかなかいい作品だなぁ」と毒にも薬にもならない感想を持ったことは記憶している。これが私の、意図せざる原田マハとの出会いであった。
ちなみにこの本は第1回ラブストーリー大賞を受賞した作品であり、原田マハの小説家としてのデビュー作である(たぶん)。
原田マハの略歴とか
説明が遅れたが、原田マハというのは小説家の名前である。
ただし彼女もはじめから原田マハだったわけではない。とりあえず私が図書館から借りてきた『楽園のカンヴァス』のプロフィールを読んでみると、なかなか複雑な経歴の持ち主なのだ。
なかなか華々しく、早稲田大学を卒業後にマリムラ美術館、伊藤忠商事、森ビル、都市開発企業美術館準備室、ニューヨーク近代美術館に勤務。
2002年に独立してフリーのキュレーター、カルチャーライターとしての活動を開始して、2006年に小説家デビューした。
原田マハのペンネームの由来
このように美術に造詣が深い人なので、ペンネームの「マハ」も、ゴヤの作品に由来している。
『着衣のマハ』
『裸のマハ』
ちなみにこの絵は西洋絵画が初めて女性の陰毛を描いた作品とも言われていて、とある大金持ちのために描かれたとされる。昼間は着衣のほうを飾り、夜、男たちだけになると『裸のマハ』のほうに変えてみんなで鑑賞したらしい。
原田マハが人気の理由を考えてみる
なぜインスタマハラーが多いのか、というのを私なりに考えてみると、次のような要因が思いついた。
●テレビに出演している
私は見たことがないが、テレビなどにも出演されているようなので、まずそれで一般の人の知名度があるのではないか
●作品が多い!
デビューは2006年なのでまだ作家として10年程度しか活動していないが、平均して年間4~5作ペースで本を刊行しているので、作品数がめちゃくちゃ多い。
●文芸と美術には親和性がある
これは個人的な感覚だが、文芸作品が好きな人は美術が好きな気がする。私自身、読書も好きだが、美術館に行くのが好きだ。そして原田マハは美術をモチーフにした作品を書くことが多いので、そこらへんでファンができるのではないだろうか。
●読みやすい
これは『楽園のカンヴァス』を読んで純粋に感じたことだが、クセのない文章で非常に読みやすい。また、ストーリー自体が平坦なわけではないにもかかわらず、おそらく構成が巧みなのでスラスラ読み進めていける。くどくならない程度に美術界や作品について丁寧に説明してくれるのもありがたい。
『楽園のカンヴァス』のレビュー
美術館のキュレーターをしていた著者の経験がふんだんに盛り込まれた作品。物語のカギを握るのは、装丁でも使われているフランス人画家、アンリ・ルソーの『夢』である。
とりあえずあらすじ
MoMA(ニューヨーク近代美術館)でアシスタント・キュレーターを務めていたティム・ブラウンの元に、一通の手紙が届く。ある人物が極秘裏にルソーの未公開の作品を鑑定してほしいというものだったが、どうやらそれは彼の上司であるチーフ・キュレーター、トム・ブラウンに宛てられたもののようだった。しかし、長年ルソーの研究をしてきたティムは上司の振りをしてその依頼を受けることを決意する。
依頼主はスイスの大富豪。しかし、彼がそこに到着すると、もう一人の日本人キュレーター・早川織絵も呼ばれていた。そして彼女と対決し、勝者に絵を譲り渡すという。しかも、鑑定を依頼されたルソーの作品を見ると、MoMAに収蔵されている『夢』とうり二つの作品、『夢を見た』というものだった。
期限は7日。しかもその間、二人は少しずつ、ルソーを題材にしたある物語を読むことを強制される。それは、ルソーの生涯を何者かの目から語ったものだった。果たして、その絵は真作なのか、それとも贋作なのか?
美術ミステリーなのだが、とにかく構成力が抜群にある。そのため、読んでいるとぐいぐい引き込まれる。
次から、具体的にこの小説のどこがうまいのか、私が解析してみた。
結果を先にちょっとだけ見せる
読者にとって最大の関心ごとは、作中に出てくる架空の作品『夢を見た』の真偽である。それは「新作である」と主張する織絵嬢と、「贋作だ」と主張するティム・ブラウンの勝敗に直結している。つまり、織絵とティムのどちらが勝つのかが、読者にとっての関心ごとなのである。
だがじつは、この小説ではその勝負の結末をにおわせる始め方をしている。冒頭の部分はこの勝負から数十年がたち、織絵が日本の地方美術館で単なる監視員として働いているところからスタートするからだ。
となると、織江は負けてしまったのだろうか?
負けたとしたら、なぜ負けてしまったのか?
そして、なぜ世界で活躍するキュレーターだった彼女が、不良っぽくなってしまった娘を抱えるシングルマザーとして日本の片田舎でくすぶっているのか?
そういう疑問が読者の知識欲をちくちくと刺激し、先を読みたくさせる要素の一つと為っているのだ。こういう手法は、たまにある。
巧みな視点の移動
すでに述べたように、物語の冒頭は2000年の織絵視点で始まる。そこで描かれる織絵は、高齢の母と反抗期の娘を抱える、パッとしないシングルマザーだ。
しかし、舞台が1983年に変わると、そこから読者の視点はティム・ブラウンに固定される。MoMAのアシスタント・キュレーターとしてくすぶっていたティムが、上司のふりをしてスイスに飛び、そこでライバル・織絵と遭遇すると、それまでの彼女の印象がガラリと変わる。
若い彼女はエキゾチックな魅力を持ったクール・ビューティであり、知識はあるがプライドは高そうな女なのだ。しかし、ティムは次第に彼女に惹かれていく。
もしこの物語が最初から最後までティムの視点から語られるのみだったら、彼のライバルとして登場する織絵は読者の共感を呼ばないだろう。だが、冒頭でまずは織江の視点から読ませることで、読者は織絵とティムのどちらの心境も分かるシチュエーションを作り上げているわけだ。
これにより、「どちらにも勝ってほしいし、どちらにも負けて欲しくない」という心理的なメカニズムが働くようになる。うまい。
作中作による物語のメリハリづけ
さらにうまいのは、2人の鑑定勝負のルールだ。
2人は互いに、ルソーについて描かれた物語を7日かけて少しずつ読み解いていく。そして読者自身も、その物語を少しずつ読んでいくことになるわけだ。そしてその作中作は、当然ながらルソーが活躍した〓〓年ころの物語である。
つまり、本作には3つの時間軸が生まれる。
織江視点で語られる2000年の日本。……①
ティムの視点で語られる1983年のスイス。……②
そして、謎の書き手視点で語られる1900年くらいのフランス。……③
③の時間軸が生まれると、作品の中で新たなもう一つの謎が生まれる。それは、「③は誰の視点で語られているのか?」というものだ。
長編の物語は得てして中だるみしがちだが、中盤は基本的に②と③の時間軸が交互にくり返される構造になっている。しかも、それぞれの区切りには最後に「引き」があるため、続きを読みたくなるように仕掛けているのだ。
密接に関係しているふたつの時間軸の物語を交互に読ませることにより、読者は飽きることなく、定期的に「この続きを読みたい」と思ってしまう。そして随所随所に意外性のある展開を持ってくるわけだ。うまい。
現実とフィクションの融解
もうひとつ、この物語に読者が引き込まれるのは、そのリアリティだと思う。
この物語でカギを握るのはルソーの未公開作品『夢を見た』というものだ。もちろん、これはフィクションなのだが、読んでいると「本当にこの絵は世界のどこかにあるんじゃないだろうか?」と思わせられるのである。
それは、一般人ではなかなか知ることができない美術界の(黒い)慣わしやルソーに関する見解(ピカソとの関係性)についての詳細な描写にある。脇をしっかりリアルで固め、その中心部分にフィクションを持ってくることで、その境界線をあいまいにし、どこまでがノンフィクションでどこからがフィクションなのか、読者を惑わせるようにしているのである。
これは、美術界という特異な世界や、スイス・フランスといった異国を舞台にしているから可能なのかもしれない。
2つの不満点
このように、本作は非常によく練りこまれた、極上の美術エンタメサスペンスといえるのだが、個人的にはちょっと不満に思うところが2つあった。
ひとつは、織絵の心境の変化にちょっと強引さが感じられた点だ。
織絵の心境は物語の冒頭と、最後の部分で語られる。そして最後に、彼女はかつてのライバル・ティムと数十年ぶりの再会を果たすわけだが、冷静に彼女の始点の部分だけを抜き取って読むと、それまで美術界から離れて地方美術館の一学芸員に納まっていた彼女が、なにゆえティムと再開して行動する決意を下したのかという心理的な根拠がちょっと薄弱に思えてしまう。
無論、その途中に②と③を織り交ぜることで、読んでいるとそんなに物語の運びに違和感を伊田が家内のだが、①のみを抜粋してみると、なにか、決定的に織絵の心境を変化させるトリガー的な出来事がもう一つ暗い何かあっても良かったんじゃないなぁなどと私は考えてしまうのだ。
もうひとつは、ビジュアル的なところである。
この物語ではルソーの絵だけではなく、ピカソの絵もちょいちょい出てくるのだが、せっかく物語で詳しく語られているのだから、同じページに実際の絵画の画像を載せてくれていたら親切だったのになぁと思う。
もちろん、文字で描写して読者の頭の中に投影させるのが小説の醍醐味であるのは重々承知しているが、絵画というのはやはり文字で「こういう絵なんですよ」と説明されても、その雰囲気をピンと感じることは難しい。
おわりに
最後に文句を言ってしまったが、全体としてみてもかなりおもしろい作品だった。
原田マハさんは美術に限らず、さまざまなテーマの小説を発表しているが、やはりキュレーターとしての自らの経験を織り交ぜた、本作のように美術作品をテーマにした作品をまずは読んでみるのがいいんじゃないかと思われる。
今度は機会があったら、『暗幕のゲルニカ』を読んでみたい。
今回はこんなところで。
それでは、お粗末さまでした