本で死ぬ ver2.0

基本的には本の話。でもたまに別の話。

『ポリアモリー 複数の愛を生きる』『はじめての不倫学』のレビュー~ベッキーの不倫問題とポリアモリー~


タレントのベッキーがバンド「ゲスの極み乙女。」のボーカル、川谷絵音(かわたに・えのん)と不倫していたということでニュースになっていて、今朝、ふとフジテレビの『にじいろジーン』の冒頭をちらっと見ていたら、まったくなんの説明もなくサラリと番組が進行していたので「ほー」と思った。

もくじ

まず思ったのは、こういう生放送っぽい番組でも録画ということがあるので、もしかしたらその可能性があるのかもしれないと思ったが、上記のニュースを見る限り、この番組は実際に生放送しているようだ。プラス、やっぱり番組内ではニュースについては一切言及しなかったようである。ツイッターのTLを見る限りでは、比較的ベッキーに同情的な意見が多かったように見受けられた。

面の皮が厚いともいうが、個人的にはメンタルの強さを感じた。本人は絶対、出演したくなかったはずだ。しかし、すでにテレビ局と事務所の間で契約が交わされているから、自分の気分で休むわけにはいかないのだろう。タレントさんも大変だなぁ。

川谷氏が謝罪会見を開かない理由

さて、本件についてはいろいろな人がいろいろな意見を言っているわけだが、個人的に違和感を感じるのは「男のほう(川谷)こそもっと謝り、糾弾されるべきだ!」というもの。私からすれば、別に川谷氏はベッキーみたいに謝罪会見を開く必要はないのではないかとも感じる。というのは、「売り」にしているものが両者では違うし、謝る相手が違うからだ。

ベッキーは、個人的な印象ではわりと「クリーンなイメージ」で売り出していて、だからこそいろいろな会社のCMに起用されたり、老若男女を問わず、だれでも安心して見れるバラエティ番組に出演している。だから、そのイメージが崩壊してしまう本件について、自分のイメージを信頼してくれていた企業や番組を裏切る形になってしまったので、それに対して謝罪したわけだ。

それに対し、川谷氏はミュージシャンである。もちろん彼個人のキャラクターに愛着を持ってCDを購入している人もいるのかもしれないが、とにかく売りにしているのは「楽曲」であり、ぶっちゃけ、どんなに素行が悪かろうが、素晴らしい楽曲を発表し続けるのであれば、それはそれでOKなのだ。個人的にはピアノのメロディを際立たせたゲス乙女の楽曲は結構好き。『キラーボール』あたりからよく聴いていた。この曲、途中でショパン幻想即興曲が挿入されていておもしろい。


ゲスの極み乙女。 キラーボール

ちなみに、この楽曲は「クラブに夜通し踊りに行ってたら、そのあいだに自分の彼女が浮気してた!」というストーリーである。バンド名も自ら「ゲスの極み」とつけているし、どう考えても清廉潔白なイメージはまったく売りにしていない。そもそも「謝る」という行為は相手が必要なわけで、川谷氏が謝る必要があるとすれば、結婚した奥さんとか、奥さんの親族に対してだろう。世間ではない。そしてもちろん、

川谷が謝れ!と主張する人のロジック

とはいえ、「川谷氏こそ謝れ!」という人々にもそれなりの理由がある。そうした人たちのロジックとしては、もちろん個々にいろいろあるだろうが「不倫という反社会的な行動をしたことについて、すでに結婚をした身であり、(より責任を取るべきだろう)男の川谷氏こそが責任を強く感じるべきである」とういものだろう。

ここには、「男がより責任を取るべき」というジェンダー的な意識が透けて見えるが、それと同時に「不倫は議論不要の悪である」という考えにも基づいている。しかし、世の中には「不倫は文化だ」とのたまう人もいるわけで。。

f:id:Ada_bana:20160109174724j:plainhttp://www.ishidajunichi.com/より

もうちょっとマジメな話をすれば、「不倫(複数の人を愛すること)は本当に悪いことなのか?」ということを主張する人々もいる。厳密にいえば不倫を肯定しているわけではないのだが、ちょうどその関連の本を読んでいたので、ご紹介しよう。

不倫は悪よ

まずこのことについて述べる前にはっきりさせておきたいが、「結婚した人の不倫は間違いなく『悪』である」

現行の法律上では結婚した男女の間に「貞操義務」というものが生じるので、それを破った場合、損害賠償請求をされても文句は言えない。ただし、法律の世界において「なにをもって不倫とするか」ということは明確にされておらず、また、当然のことながら婚姻していない男女の間ではこうした貞操義務は生じないわけだから、いくら不倫をしてもそれによって損害賠償を請求することはできない。

不倫は社会的な問題である

まず紹介する1冊はこちら。

はじめての不倫学?「社会問題」として考える? (光文社新書)

はじめての不倫学?「社会問題」として考える? (光文社新書)

 

昨年刊行されたばかりの本で、不倫を正面から論じている。著者の坂爪真吾氏は東京大学在学中に性風俗産業の研究を行い、卒業後の2008年に非営利組織・ホワイトハンズを設立。どういうことをやっているかというと、身体障害者の人に向けて、自慰行為の支援を行っているのである。余談だがこの人、はてなブログで著名な坂爪圭吾氏のお兄さんである。この本、けっこう売れた。

さて、坂爪氏も別に不倫を肯定しているわけではない。むしろ、不倫が悪とされる社会の中で、いかにして不倫に走ってしまう人々の欲求をほかの方法で満たすべきか、議論すべきということが述べられている。日本において不倫は個人の問題としてしか捉えられていないが、社会全体でこの問題に対して取り組むべきだ、という。明確な結論は出されていないが、まあ不倫問題についてそういうふうに考えるのもアリっちゃアリかなぁという次第である。

ポリアモリーとは何か

それよりも、徒花が本書でおもしろいと感じたのは「ポリアモリー」という人々の存在だった。というわけで、最近読んだのがこちらの1冊だ。

ポリアモリー 複数の愛を生きる (平凡社新書)

ポリアモリー 複数の愛を生きる (平凡社新書)

 

世の中にはポリアモリーという人々がいる。アメリカで多いようだ。要するに、複数の恋人を持つ人々」といえば簡単だろうか。結婚はしているけど、結婚相手以外にも恋人がいて、配偶者もそうした恋人の存在を認める生活を送る人々のことである。

彼らの主張によれば「恋愛の自由を奪おうとするのは相手を『自分の所有物』だと思っている証」であり、愛する人が複数いるのは倫理的に間違いではない、ということらしい。実際、こうした人々は日本にもいて、ポリーラウンジという組織?もあるようだ。

もちろん、ポリアモリーにはいくつか、自分たちで決めているルールがある。そのなかで一番大切で、かつ一番難しいと思うのは、「関係性をオープンにすること」だろう。つまり、配偶者に内緒で恋人を作っても、それではポリアモリーとは名乗れないということだ。ポリアモリーであるためには、自分が複数の人を同時に愛していることを相手にも認めてもらい、そのうえで関係性を築かなければならない。そうしないと、それは単なる不貞行為になってしまうからだ。ちなみに、対義語として愛する人を一人だけに決めている人々のことを、彼らは「モノガミー」と呼んでいる。この言葉が作られたのは1990年代初頭のことで、ギリシャ語の「複数(poly)」と「愛(amor)」に由来するという。

本書は、著者自身はポリアモリストではないが、アメリカでフィールドワークを行い、多くのポリアモリストと話をして、彼らの考え方をまとめたものである。そのため、いろいろなケースの話を盛り込みつつ、SFの世界とのつながりや、複数の人を愛することに伴う「嫉妬」という感情の扱い方についてなど、比較的広範にわたっておもしろいことが述べられているので、気になる人は読んでみるのをおススメしたい。

一夫一妻制の歴史は案外短い

私はポリアモリストではないし、それを肯定も否定もしない。

ただ、たしかに「一人の人間に愛を注ぐことこそが真実の愛である」という考え方は、それほど根源的なものではないのかもしれない。日本において一夫一妻制がしっかりと法律で整備されたのは明治時代になってからで、その後も、「お妾さん」というものは存在していたようだ。古い小説などを読むと、正妻意外にも外に金銭的な援助をしている女性がいるのはそんなにめずらしくないことで、私生児がいたりするのもよくある。イスラム圏などでも、一夫多妻制の考え方はいまも根強いようだ。動物だって、むしろ一夫一妻を守っているのは少数派だろう。

一夫一妻を是とするのは、おそらくキリスト教の影響である。キリスト教は基本的に不必要な(つまり快楽を目的とした)セックスは悪としているので、ポリアモリストの考え方は認められないだろう。ほかに、個人的に思うのは、「社会的な秩序をどれだけ重視するか」ということである。

LGBTとポリアモリーの違い

本書のある一部で、LGBTとポリアモリーを同一に並べるようなところがあったが、私はそこに違和感を感じた。しかし、よくよく考えなおしてみて、もしかすると、LGBTとポリアモリストの間にはやはり、LGBTとセクシャルマジョリティーとの境界線上に「程度の問題」しかないのと同様、やはり線引きできるものではなく、あくまでも「程度の問題」でしかないのかもしれないとも思った。ここらへんについては、以下の記事も参照していただきたい。

つまりだ、たとえばゲイが「男性を好きになること」を我慢できるものではないのと同様、ポリアモリストが「複数の人を好きになること」は、彼らにとって我慢するとかしないとか、そういう問題ではないのかもしれない。しかし、ここで問題となるのは、ポリアモリストではない人々も、「複数の人と肉体関係を持つこと」を望んでいながら、それを我慢しているという現実がある点だ(もちろん、好きになることと肉体関係を結ぶことはイコールではないが……)

不倫願望、というのは、多くの人が持っているものなのかもしれない。しかし、人々は「不倫は悪いことだ」という倫理観の下、そうした欲望を我慢して生活している。そうした人々にとって、ポリアモリーとかいうわけのわからん考え方で自分たちだけは「複数の人と肉体関係を持つこと」を社会的に肯定させようとする動きはケシカランと感じてしまうのではないだろうか。その意味において、LGBT以上に、ポリアモリストが社会的な認知を得るのは難しそうだ。

冷静に考えればLGBTとポリアモリストの間にさほど大きな違いはない。しかし、エモーショナルな側面を比べれば、ポリアモリストが理解を得ることはとても難しい

自由と秩序のバランス

そもそもだ。

この社会で、なんの不満も抱いていない人なんていない。誰もが、この社会に何かしらの不満を抱き、それを我慢しながら、生活している。最近ではダイバーシティとか、LGBTの人々の権利拡大が主張されているが、多様性を認めようとすればするほど、社会は複雑で、めんどうくさくなり、そしてカオスに近づいていく

世の中の人間をすべて「男」「女」で分ければ話は単純で、社会制度は管理しやすくなり、秩序が保ちやすくなる。しかし、そこに「ゲイ」とか「レズビアン」とか「バイセクシャル」とか「トランスジェンダー」とか「ポリアモリー」とか、そういう要素をどんどん増やしていくと、いろいろルールを決めるのが面倒くさいことになるのだ。

難しいのは、多様性を認めることそのものに反対する人は少ないが、社会制度が煩雑になり、秩序が失われなかねないことを人々は恐れているということである。行動経済学におけるプロスペクト理論でも述べられるように、人々は「新たに得ることによる効用」よりも「現状が失われることよるマイナスの効用」を過大評価しがちだ。少数派の人々の権利が認められるのは悪いことではないが、現状の秩序が失われることはやはり嫌なのだろう。

プロスペクト理論 - Wikipedia

社会において、だれが、どれくらいの我慢を許容するか、を考えるべきだろう。すべての人が、社会に何の不満もないルールを作るのは、おそらく不可能だ。それをいえば、たとえばペドフィリア(幼児性愛者)やネクロフィリア(死体愛好者)の人々の自由すら社会が認めるようになれば、ルールなんてそもそも作れなくなる。

我慢が定量化できればいいのだが、たとえば現状で非常に大きな我慢を強いられている人の負担を少なくし、現状でさほどの我慢を強いられていない人々にもう少し我慢をお願いすることが、バランスを取るということなのかもしれない。すんごく、難しいことだと思うし、終わりはないと思うが。

おわりに

現実がどうなるかは別として、とにかく「不倫は絶対に悪だ」という考えに凝り固まるのではなく、あらゆる考え方がありうるということを「知っている」ことが大切なのではないだろうか、と、私などはぼんやりと思うわけである。そして、そうした多様な人々の考えを知るには、本を読むのがいいんではないかなぁ、と(チラッ

 

それでは、お粗末さまでした。