本で死ぬ ver2.0

基本的には本の話。でもたまに別の話。

映画『屍者の帝国』のレビュー~屍女子の帝国~

徒花も昔は「映画化するなら原作に忠実であらねばならない」という考えを持っていた。

もくじ

いまも、かつての私と同じような考えを持っている人は多いのではないだろうか。とくに、コミック作品を実写映像化しようという試みに対し、原作のファンはその出来上がりに非常にシビアになる。進撃の巨人とか進撃の巨人とか、進撃の巨人とかね。

しかし、しかしだ。そもそも数百ページの小説だったり、コミックスで10巻以上続いていたり(しかも未完)する作品を原作のまま2時間程度の映画にするのはどだい無理な話であり、「原作に忠実」であることを厳密に求めることがそもそも間違いなのではないだろうか、ということに徒花は数年前、ようやく気がついたのである。

原作原理主義者からの脱却

小説は小説、マンガはマンガ、アニメはアニメ、実写映画は実写映画の良さがそれぞれある。あまりにも原作に忠実であることを求める原作原理主義は、それぞれのメディアが持っている魅力を削いでしまうのではないか。それよりも、それぞれある程度独立した別の作品として楽しんだほうが精神衛生上、快適な気がするのだ。

というわけで、先日、原作である小説を読み終えたばかりの屍者の帝国の劇場版アニメを見てきた。原作のレビューは、以下のエントリーを参照してもらえれば幸いである。

映画『屍者の帝国』の概要

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「Project Itoh」より

いろいろと小説との相違点があるので、まずは映画版のあらすじをば。

舞台は19世紀の異世界。その世界では死者を蘇らせ、意思を持たない「屍者」として労働力や兵力として日常的に使っていた。

英国の医学生のジョン・ワトソンは病気で死んだ友人のフライデーを違法に蘇らせたことで当局に捕えられる。だが、卓越した死者蘇生技術と知識を持ち合わせていたワトソンは英国のエージェントとして働くこととなり、書記のフライデー、陸軍大尉のバーナビーとともに、ヴィクター・フランケンシュタイン博士が遺した「ヴィクターの書」を求める任務に就いたのだった。

アフガニスタン、日本、アメリカと世界各地を巡るうちに、「ヴィクターの書」に書かれている内容が「屍者に魂を与える禁忌の技術」だと判明し、ワトソンは「ヴィクターの書」の処遇に悩む。「ヴィクターの書」が世界を破滅させる内容であることは重々承知しているワトソンだが、彼は同時にその書によって友人・フライデーの復活が果たせるのではないかと希望を抱いていた。

「ヴィクターの書」を巡って陰謀を仕掛けている各国、そして暗躍する世界最初の屍者「ザ・ワン」。屍者と魂を追及するワトソンは、どのような決断を下すのか。

ウホッ!

 んで、感想を端的に表せば、次の一言に尽きる。

┌(┌^o^)┐ホモォ...

原作も女性の登場人物がハダリーだけと少なく、彼女との恋愛要素が希薄だったが、ことこの映画に関しては、「ワトソンとフライデーが親友だったという設定」「ワトソンは美青年、フライデーは美少年、バーナビーはマッチョなおっさん」ということになっている。そのため、腐女子ならぬ屍女子の皆さんの間で「ワト×フラ」「バナ×ワト」のカップリングという2大流派が血で血を洗う抗争を起こしそうな勢いなのだ。

ただ、制作サイドの意図としては前者を推しているように感じる。そもそも、腐女子の皆さんがBLに「真実の愛」を見出すのは、「男同士の恋愛という一般世間から理解され難い高い壁があるからこそ、そこに“真実の愛”を見出す」とかいうのを聞いたことがある。そこで「ワト×フラ」である。彼らは男同士であると同時に、「生者と屍者」という、さらに乗り越えられない高い壁を間に挟んでいるのだ。だからこそ、屍女子の皆さんのハートは燃やされるのではないだろうか。

ほかの突っ込みどころとしては「山澤静吾のまゆ毛太すぎィ!」とかハダリーのおっぱい尖がりすぎィ!」とかあるが、そんなことは枝葉末節である。個人的には全体的なキャラクターデザインは嫌いではなかったし、アニメーションはきれいだし、随所随所にアクションシーンが入って盛り上がるし、音楽も良かったので、総合的に判断すればおもしろかった

ただし、エンディングがよくわからない。原作でもよくわからなかったりしたのだが、映画でもよくわからなかった。なぜあれがああなったのか……。私の頭ではちょっとよく理解できなかったが、とりあえず映画としてはそこそこ楽しめたので良作としてもよいだろう。テンポがよいので原作を読んでいないとちょっと分かりづらい部分があるかもしれないが。

余談ではあるが、観客は女性のほうが多かったように思う。ただしこれは、見たのが池袋だからかもしれない。気のせいかもしれない。薄い本が分厚くなりそうだぜ……。

不満だった点(ネタバレあり)

冒頭でも述べたように、原作をすべて映画に盛り込むのは無理だ。だから、展開が原作とは違ったり、いろいろ省かれたりするのは仕方がないと割り切っている。しかし、それを重々承知したうえで、やはり徒花としては不満な点があった。ここからは原作のネタバレ……というか、原作を読んでいないと意味がわからないことをまくし立てるので、ご了承いただきたい。

個人的には屍者の帝国に限らず、伊藤計劃氏の作品を貫くテーマは「文字」だと思っている。伊藤氏はきっと「言語の持つ力」というものに惹かれていて、そこにフィクション要素を加えながら、物語を組み立てていったのではないかと考えているのだ。だからこそ、映画でその部分に踏み込まれなかったのは残念なところであった。

とくに、屍者の帝国の場合、その前段階として「なぜ人が屍者化するのか?」という理論の仮説として、人間の意思=細菌という発想が紹介される。これは人間が意思を持たない屍者として蘇生するのに一応は納得できるような説だったので、読んだときに徒花は「なるほどおもしろいなぁ」と考えていたのだ。のちに、物語の中でこの説は事実上否定されることとなるのだが、この最近に代わるものこそが「言語」なのだ。

映画が行った肝心要のテーマのすり替え

思えば、言語こそが人間とそれ以外の存在を隔てるものなのかもしれない。バベルの塔の説話で神がバラバラにしたのが言語であるように、言語は唯一、人間が自ら作り出し、そしてコントロールできるものかもしれないのだ。機械が意思を持つというSFの発想も、機械が機械専用の言語を持っているからこそ、その可能性を見出したのではないかとすら妄想できる。

この点が、映画では単純に「魂」というものに置き換えられていたように思う。当初、ワトソンが重視したのは「言葉を話す屍者」であったはずなのに、それがいつからか「魂を持つ屍者」にすり替わっていったのだ。そして、魂とは何かという応えは明確にならず、なんか緑色の光るエネルギーがぼあーと出て、いかにもSFエンタメっぽい展開のまま、最大の盛り上がりを見せ、そして終わった。苦言を呈する箇所があるとすれば、個人的に伊藤氏の作品で核心部分だっただろうこの部分をもう少し丁寧に扱ってほしかった、という点である。

おわりに

本当は、虐殺器官』も見に行きたかった……。が、気づいたら終わってた。今回の『屍者の帝国』も、人に言われて初めてすでに公開中だと気づいた。よくよく考えれば、先月の終わりくらい、いきなり過去に『屍者の帝国』について書いたレビューエントリーのアクセス数がやたら増えていることで気づいてもよさそうなものだったが、いろいろあってスルーしていたのだ。

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「Project Itoh」より

『ハーモニー』の公開は11月13日である。じつは、この原作だけまだ読んでいないので、これを見に行く前までに読まなければならない。あと、忘れないようにしなければならない。

 

というわけで、お粗末様でした。