「虐殺の文法」の正体~『帰ってきたヒトラー』から考える~
映画『帰ってきたヒトラー』を見た。
もくじ
原作も読んだのだが、映画は映画として高品質な作品だと思う。
原作のあるシナリオを映画にするというのは、かなり難しいことだろう。本来ならば読みきるのに数十時間かかる作品をせいぜい2時間くらいにまとめなければならないのだから。
※タイトルをちょび髭にするこの装丁デザインも秀逸
しかし本当に難しいのは、原作に忠実に作ればおもしろい映画になるかというと、必ずしもそうではないところだ。
特に本作の場合、原作ではけっこうな部分を主人公であるアドルフ・ヒトラーの独白が占める。
だからといって映画をナレーションばかりにしたら、100人の観客のうち、98人くらいは眠り出すだろう。映画には映画の文脈がある。
ヒトラーを題材に移民問題を浮き彫りにする野心作
本作が秀逸だったのは、「現代に蘇ったヒトラー」を題材にしつつ、マイケル・ムーア監督のような、現在進行形の社会問題をリアルに描き出しているところである。
「現在進行形の社会問題」というのは、ドイツの移民問題のことだ。
ご存知のように、欧米各国は移民・難民問題で揺れている。
イギリスは移民受け入れを反対する人々が多数派を占めたため、国民投票でEUから離脱する方向で固まっているし、アメリカでもメキシコなどからの移民排斥を訴えるドナルド・トランプ大統領が当選した。
原作小説がドイツで刊行されたのは2012年のことだが、それから3年経った2015年に公開されたこの映画は、3年前よりもより深刻化している移民問題の根深さを見た人々に訴えかける。
一般人へのインタビューが挿入される
具体的に、この映画でどのようにそれが表現されているのかを説明しよう。
映画では、ヒトラーに扮した訳者が街中に繰り出し、人々に移民問題について尋ねて回るシーンがけっこうある。そこに登場する人々は役者ではなく、本当にたまたま出会ったごく普通の一般市民だ。
ドイツは欧州諸国の中では移民の受け入れを積極的に行っているが、だからといってドイツ国民の全員がそれに賛成しているわけではない。街中に外国人が増えることにフラストレーションを抱き、「外国人は出て行け」という意見を隠すことなく表明する人も多く映画には登場した。(もちろん、あえて移民の受け入れに賛同している人々の声はカットされているのだろうが)
「異なる存在を遠ざけたい」という生物としての防衛本能
私としては移民の受け入れに反対する人たち=ヒトラーの考え方に共鳴する人たちと結び付けるかのようなイメージを抱かせる手法には首肯しかねるが、手段の倫理性は別にしても、「自分たちと異なる存在を遠ざけたい」という考えが極端になれば、ナチスの行いにたどり着くことは理解できる。
そしておそらく、上記のような考えは人間が本来持っている生物としての防衛本能に基づくものなのだろうから、彼我のパワーバランスが均衡すればするほど、その本能が強く作用するのだろうとも考えられる(外国人が人口に占める割合がごくごく一部であれば許容できるが、一定以上の割合を超えてくるとパワーバランスが均衡化し、彼らを脅威に感じるようになる)。
ヒトラーをおもしろがる危険性
第二次世界大戦の終結からすでに半世紀以上がたった今日において、当時のことを記憶している人間は非常に限られている。
実際に戦争を知らない人間からしてみれば、ローマ皇帝ネロの暴政も、秦の始皇帝が行った焚書坑儒も、ヒトラー率いるナチス・ドイツが行ったユダヤ人の迫害も、すべて同じ「歴史上の出来事」として認識される。
だからなのか、本作において人々はヒトラーをひとつのアイドル(偶像)として扱う。役者だけではなく、エキストラで写りこんでいる人たちも、ヒトラーを演じる役者を目にすると、みんな笑顔になりながら「一緒に写真を撮ってくれ」とせがみ、握手したがるのだ。
さらに、犬にかまれたり坂道で転んだり、テレビやインターネットにはしゃぐ総統閣下の姿を見ると、笑いを誘われる。
ヒトラーはやがて「ヒトラーの物まね芸人」としてドイツのテレビに登場して人気を博し、ついには『帰ってきたヒトラー』という本を出版してベストセラーになる(ここら辺の演出は、『帰ってきたヒトラー』という作品が人気を博している現在進行形の現実を皮肉っている)。
しかし、世の中にはまだヒトラーが「歴史上の人物ではない」人もいる。
本作において、その役目を担ったのはテレビ局の受付嬢の祖母だった。この祖母は認知症をわずらっているのでまともな会話ができなかったのだが、ヒトラーを目の前にした途端に人が変わったように叫び出し、理路整然とした口調でハッキリと彼に対する嫌悪感と拒絶を表す。
彼女は言う。
「(あのときも)みんな最初はおもしろがっていたんだ」
『虐殺器官』について
話は変わるが、私は先日、現在公開中の映画『虐殺器官』も見てきた。こちらは近未来を舞台にしたSF作品だ。
アメリカ軍に所属する主人公・シェパードは、発展途上国で起きる内乱と虐殺を沈静化するために独裁者などを暗殺する任務を負う。
彼はやがて、ジョン・ポールという人間が各国を回って内乱と虐殺を引き起こしていることを知り、彼の身柄をとらえる任務に就く……という物語である。
本作のポイントは2つある。
(1)ジョン・ポールは、どうやって虐殺を引き起こすのか?(HOW)
(2)ジョン・ポールは、なぜ虐殺を引き起こすのか?(WHY)
虐殺器官の正体
ネタバレはしたくないので詳細は書けないが、(1)について少し説明すると、彼は「虐殺の文法」というもので虐殺を引き起こす。
薬やテクノロジーを使うのではなく、「言葉」によって人間が本来持っている「虐殺器官」を働かせ、虐殺を起こさせるのだ。(以前にも書いたような気がするが、故・伊藤計劃氏はどの作品においても言語が持つパワーを根底に横たえていると思う)
ただし、この「虐殺の文法」が具体的にどんな言葉なのか、原作でもあまり触れられていないし、当然ながら映画でも説明はされない(どのような効果をもたらすかは説明される)。
いちおう原作ではそれがどういうもので、どういう意図をもって虐殺が行われるのかが説明されるが、じつは徒花としてはあまりこの説明にピンと来ていない。だが、実際に残虐非道な行いを人間は繰り返してきた事実はあるので、以下、徒花の個人的な見解を述べておこうと思う。
『帰ってきたヒトラー』も見た私が勝手に推測すれば、この虐殺器官の正体は「(自分の身の安全を守るために)自分たちと異なる存在を遠ざけたい」という防衛本能なのではないかと思っている。
このことを考えれば、(2)のほうにつながる話なのだが、ジョン・ポール自身が虐殺器官に囚われて行動をくり返したのではないかとも受け取れるわけだ。
虐殺の背景にあるのは「よくわからない相手に対する恐怖」にほかならない。
虐殺の文法の正体
これに基づけば、「虐殺の文法」を読み解くカギがヒトラーの演説にあると考えるのは自然だろう。
「臆病な犬ほどよく吠える」という言葉があるが、「ドイツを強くしなければならない」と叫ぶことは、むしろそれを聞いている人を鼓舞させるのではなく、それを聞いた人々の胸に「強くならなければドイツ民族が淘汰される」という恐怖を喚起させるのではないだろうか。
すなわち、虐殺の文法とは「一見すると人々を勇気付けるように見せかけながら、じつは人々の根底にある恐怖の感情を刺激する一連の言葉」と定義づけられるかもしれない。
余談だが、個人的には最近増えている「日本人の気質や技術力を賞賛するテレビ番組や書籍」にも同じようなにおいが感じ取れる。
これらは日本人を賞賛して勇気付けているように見せかけながら、じつは日本人の不安・恐怖を刺激しているのではないか……とも考えられるわけだ。もちろん、作り手はそんなところまで意識しているわけではないだろうが(たぶん)。
映画『帰ってきたヒトラー』に話を戻そう。
作中の後半になると、書籍『帰ってきたヒトラー』をヒットさせたヒトラーはそれの映画化を試みる。すなわち、映画の中で映画をつくり始めるわけだ。
小説でもよくある手法だが、作中作が登場し始めると、受け手は現在の物語が作中作のことなのか、それとも作品の中の現実なのか、よくわからなくなってくる。二重のフィクションが構築されることで、だんだん認識に支障をきたしてくるわけだ。
そして作品は、かなり後味の悪い終わり方を迎える。これは原作にはなかった展開だが、個人的にこの終わり方はかなり良かった。
おわりに
一般受けはしないと思うが、エンターテイメントと社会問題の提唱をうまく融合させたハイレベルな映画だと思うので、暇なら一度、見てみるのをおススメしたい。
『虐殺器官』もおもしろかったが、あちらは単純なストーリーのわりに展開を変に複雑にしているから、原作を読んでいないと一発で理解できないと思う。ただ、アクションシーンは良かった。
しかし、映画としての完成度で比べると、どうしても『帰ってきたヒトラー』には敵わないのが正直なところだ。
マンガ版もあるよ!
あと完全に余談だが、できたら映画『帰ってきたヒトラー』を見る前に、ニコニコ動画でも有名な『ヒトラー ~最期の12日間』を見ていただきたい。というのも、この映画の有名なワンシーンをパロディにしたシーンがあり、原作を知っていると一番笑える箇所になっているからだ。
今回はこんなところで。
それでは、お粗末さまでした。