『ケーキの切れない非行少年たち』(宮口幸治・著)のレビュー
売れる本のタイトルの付け方にはある程度ルールがあって、その法則の一つに「ピンポイント抽出法」(これは私が勝手に命名)みたいなものがあります。
今回紹介するこちらの本が、まさにそれです。
本書は50万部を突破したベストセラーで、いまなお売れ続けています。
内容はというと、精神科医の先生が「非行に走ったり犯罪行為をしたりする人々の多くは知的障害者なのではないか」ということを自身の経験をベースに語るものとなっています。
タイトルの由来は、著者が少年院に入れられた少年たちに対して行った1つのテストに由来します。
ホールケーキを5等分してくださいという指示に従った結果が以下です。
これらのような切り方は小学校低学年の子どもたちや知的障害を持った子どもの中にも時々みられますので、この図自体は問題ではないのです。問題なのは、このような切り方をしているのが強盗、強姦、殺人事件など凶悪犯罪を起こしている中学生・高校生の年齢の非行少年たちだ、ということです。彼らに、非行の反省や被害者の気持ちを考えさせるような従来の矯正教育を行っても、殆ど右から左へと抜けていくのも容易に想像できます。犯罪への反省以前の問題なのです。またこういったケーキの切り方しか出来ない少年たちが、これまでどれだけ多くの挫折を経験してきたことか、そしてこの社会がどれだけいきにくかったことかも分かるのです。
ときどきニュース番組で突発的な殺人事件や、「なんでこんなアホなことしてんねん」と思ってしまうような犯罪が報道されますね。
そもそも、法律を破って犯罪行為をするというのは、よっぽどのことがない場合、リスクとリターンを考えるとやる価値がないものです。
なので、突発的な犯罪を起こしてしまう人は、そもそも冷静にリスクとリターンを論理的に考えられない状況にあると考えられます。
たとえば、彼らに次のような質問を投げかけます。
「あなたは今、十分なお金を持っていません。1週間後までに10万円用意しなければいけません。どんな方法でもいいので考えてみてください」
「どんな方法でもいいから」と言われると、親族から借りる、消費者金融から借りる、盗む、騙し取る、銀行強盗をする、といったものが出てきます。「(親族などに)借りたりする」という選択肢と、「盗む」という選択肢が普通に並んで出てくるのです。「盗む」などという選択をすると後が大変になるし、そもそもうまくいくとも限らない、と判断するのが普通の感覚でしょうが、そう考えられるのは先のことを見通す計画力があるからです。
教育学系の本によく出てくる事例に「マシュマロ実験」というものがあります。
子どもたちの目の前にマシュマロを1個置き、
「これからちょっと部屋を出るけど、15分間食べるのを我慢できたら、マシュマロをもう1つあげる。食べちゃったらなし」
という条件で、子どもたちがどれくらい自分の欲求をコントロールし、長期的な視野に立って行動できるかを試すものです。
一般的には、マシュマロ実験で我慢できる子どものほうが、将来、社会的な成功を収める可能性が高いとされています。
要するに、衝動的な行動をおこなさない人のほうが成功できるということですね。
こうした知的障害、あるいは発達障害の問題は、「だれがそれに該当するのか、わかりにくい」ということがあります。
実際、ケーキカットのテストであのような回答を見た少年院の職員たちは、
「なるほど、たしかにこれでは私たちの言葉がうまく理解できなかったのかもしれない」
と認識を改めました。
逆に言えば、あの結果を見るまで「この子どもたちは自分たちの話していることをちゃんと理解しているはずだ」という前提に立って、あまり目的が理解されていない反省行動を取らせたり、教えたりしていたということなのです。
それについて警鐘を鳴らすのがこの本なのですが、私としてはいろいろ考えさせられるものですし、同じようなことを考えてしまう人が多いことこそが、この本が売れ続けている理由なのだと思います。
つまりどういうことなのかというと、こうした認知不足の問題はほんとうに「他人事」なのかということです。
哲学者ニーチェの『善悪の彼岸』という本に出てくる有名な以下の一節があります。
「怪物と戦うものはその過程で自らが怪物とならぬよう気をつけよ。深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」
この本を読んでいる人はおそらく知的障害でも発達障害でもなく、これまで罪を犯して警察のお世話になったことがない人が多数派だと思います。
そうした人間にとって、知的障害や発達障害を抱えて衝動的に犯罪を犯してしまう人たちの心理を理解することは彼岸のこと(つまり他人事)であって、一種の知的エンターテイメントの一環ですらあります。
でも、この本を読み進めていると「この本に書かれている内容は本当に他人事なのだろうか?」という不安が頭をよぎるのです。
私自身、おそらくいまも発達障害の残滓が自分のなかにあるように思います。
私の場合はおそらくADHD(注意欠陥・多動性障害)気味で、社会人になった当初はといかく同時に複数の物事を管理したり進めるということが出来ない人間でした。
(その代わり、文章を書くのは得意で、気分が乗り始めると周りの声が聞こえなくなるくらい一心不乱に書き進める感じです)
しかし、ライターならともかく、編集者というのはつねに複数の企画を同時並行に進行させながら、著者やライター、デザイナーなどたくさんの関係者とひっきりなしにやり取りしないといけない仕事ですから、そこはなんとか頑張ってトレーニングし、とりあえず問題がおきない程度には改善できたと感じています。
(いまでもポカはやらかしたりしますが)
LGBTなど性的マイノリティーの世界では「性別はグラデーション」という言い方がされることがあります。
多くの人は「男」と「女」の間のどこかに明確な線引をして白黒をつけようとしてしまいますが、そうではなく、たとえヘテロセクシャル(異性愛者)であったとしても、どこかで同性愛に興味を持っていることは十分ありえるので、そうした明確な線引は出来ないという意味です。
ある人間が知的障害を持っているか、発達障害かどうかというのもこれと同じで、おそらくはグラデーションなのでしょう。
「ここから下は知的障害者」という線引は単純にできません。
それは、本書にも登場する基準のあやふやさからもわかります。
現在、一般に流通している「知的障害はIQが70未満」という定義は、実は1970年代以降のものです。1950年代の一時期、「知的障害はIQ85未満とする」とされたことがありました。IQ70~84は、現在では「境界知能」と言われている範囲にあたります。しかし、「知的障害はIQが85未満」とすると、知的障害と判定される人が全体の16%くらいになり、あまりに人数が多すぎる、支援現場の実態に合わない、などの様々な理由から、「IQ85未満」から「IQ70未満」に下げられた経緯があります。
「基準が恣意的に変更される」ということは、この世界では頻繁に起こります。
とくに、為政者たちの都合のいいように変えられます。
つまり、当てにならんということです。
そもそも、私だっていつでも将来を見据えて論理的に行動できるわけではありません。
さすがに法を犯すことはしないけれど、「面倒くさいからちょっとルールを破っちゃえ」と考え、そのとおりに行動してしまうことがあります。
みなさんも、信号無視をこれまでの人生で一度もしたことがないという人は滅多にいないのではないでしょうか。
それにじつを言えば、先の引用文で上げられた「10万円を用意する方法」のなかで、どんな方法でもいいと言われているのであれば、窃盗や強盗などの手法は、考えて意見として述べるだけだったらべつにアリだと思うわけです。
本書では最後の章でコグトレと呼ばれる認知機能をトレーニングする方法も記載されていますが、私としては、いわゆる「普通の人」の枠の中に当てはめようとする必要はないのかもしれないとも考えてしまいます。
この本はいい本です。
それは、読者によってさまざまな反応、さまざまな解釈ができるからです。
だから、一言自分の意見を述べたくなります。
売れる本にはそういう一面もあるのでしょう。
後記
『後遺症ラジオ』を読みました。
ホラーです。こわいです。
中山昌亮さんは『不安の種』という作品のほうが有名で、こちらも日常のちょっとした「超怖い瞬間」に焦点を当てています。
ホラーの要素というのもいくつか心理的メカニズムがあると思うのですが、その1つには「自分の身にも起こるかもしれない」という恐怖があります。
どれだけ怖い話でも、たとえば舞台が江戸時代だったりすると怖さはけっこう減ります。
それは、私たちの生活とあまりにもかけ離れた環境だからです。
『後遺症ラジオ』もそうですが、現代の日本社会を舞台にしているからこそ、しみじみと怖く感じると思うのです。
これは「自分も知的障害かもしれない」という恐怖に似ています。
「もしかしたら自分も該当するかもしれない」という思いがよぎると、不意に他人事から自分事化するのです。
この「自分事化」というのは「おもしろさ」の重要なキーワードですね。
今回はこんなところで。
それでは、お粗末さまでした。
『ざんねんな兵器図鑑』(世界兵器史研究会・著)のレビュー
いわゆる雑学系の書籍やムックなどで、たまに著者名が「○○研究会」みたいなものになっているものがありますよね。
今回紹介するこちらの本がまさにそうなのですが。
これは要するに、とくにそのジャンルに関する専門家ではないライターや編集プロダクションがいろいろな文献や資料を当たってまとめてつくりあげた本を発行する際に、それだと格好がつかないので適当な団体をつくりあげて著者名にするパターンです。
実際にそういう会があるわけではありません。
私自身、かつて編プロでたくさんムック本をつくって、そういった架空の研究会の会員になっていた経験があるのでよくわかります。
これも今になって考えれば不思議な話で、別にこうした雑学系の本で著者で選ぶような読者は滅多にいないでしょうから、こんな架空の団体をつくり上げなくてもよさそうなものだと思うのですが、そこらへんはなにか事情があるのかもしれません。
ともかく、この本はそういった架空の団体名を著者に仕立て上げているような本ですから、内容の中身のこさは推して知るべし……ですね。
もうちょっとちゃんとした本の場合、ここに「監修者」として専門家の名前が入ったりしますが、本書の場合はそういった監修者の名前もありませんし、参考資料の一覧ページもありませんから、情報ソースがどれだけ信頼できるものなのかは不明です。
あまり内容を真に受けすぎないほうがいいでしょう。
あくまで雑学本として、暇つぶしの一環に「へー」と口に出しながら読むくらいの本だと思ってください。
さて本書はおそらく2016年の超ヒット冊『ざんねんないきもの辞典』をインスパイアしたものだと思われます。
ヒット作が出るとそれに類する本が大量に出版されるのはよくある話です。
とくに「いきもの辞典」のように、ちょっと切り口を変えればいくらでもつくり用のあるものならなおさらでしょう。
ただ、個人的にはいきも辞典よりも、本作のような「兵器図鑑」のほうが好きです。
これはなぜかというと、生き物と兵器を比べた場合、「人間の意思の有無」が大きな差となるからです。
私は美術が好きですが、大自然本来の美しさにはあまり興味がありません。
山とか海とか森とか、そういうのにはあまり惹かれません。
その代わり、絵画とか彫刻とかには惹かれます。
これはなぜだろうかと昔考えたことがあるのですが、私は基本的に「人の意思が感じられるもの」が好きなんですね。
自然もたしかに美しいですけれど、それは狙った美しさではありません。
それがいいという人もいると思うのですが、私はむしろ制作者の明らかな意図やメッセージがあるほうが、それを読み解くおもしろさがあると思うのです。
翻って「いきもの」と「兵器」を比べてみた場合、「ざんねんないきもの」には意図が感じられません。
たしかに間抜けに見えるけれど、本当にたまったまそうなってしまっただけです。
それに引き換え、兵器というのはそれをつくりだした人間の明確な狙いがあって、どんなにバカバカしい形にみえても、制作者には制作者なりのロジックがあったはずなのです。
そういう人間のアホらしさが垣間見れるのが好きです。
いくつか画像と一緒に紹介したいのですが、いかんせんマニアックな武器ばかりで著作権の不明な画像が多いです。
パブリックドメインのものやほかのウェブ記事に転載されている本書のイラストのものだけ選びましたが、本書はすべての武器がオリジナルイラストで紹介されているので、気になる方はぜひ読んでみてください。
いくつか、ご紹介します。
ヘルメット銃
ヘルメットに銃をつけてしまえば照準が合わせやすいだろうという発想です。
ただし、反動が半端なく、一発打つと間違いなく首をやられる武器です。
80cm列車砲
銃の口径が80cmもある超巨大な列車砲です。
威力は抜群で、要塞をまるごと吹き飛ばすことができたそうですが、1時間に2~3発しか打てず、さらにいちいちレールを敷いて移動する必要があり、飛行機に狙われるとイチコロだったので活躍の機会はありませんでしたとさ。
A40アントノフ
戦車は移動が大変だから、翼をつけてグライダーにしちゃった☆という兵器です。
まあ、実際は戦車がおもすぎて滑空ささせるのが無理だったので、テスト飛行1回で打ち切りになったそうです。
氷山空母ハボクック
海水を凍らせた氷山で空母を作ることで、損傷してもすぐに海の水を凍らせて回復できる夢の空母です。
ただし、海の水を凍結させるのにとんでもないエネルギーが必要なことがわかり、実現には至りませんでした。
P-82 / F-82 ツインマスタング
2人交代で長距離飛べるようにした飛行機です。
ただ、結局期待の調整にメチャクチャ手間がかかり、普通に作ったほうが安価で合理的だということがわかったようです。
個人的に一番好きなのは1930年代にドイツが考案した「ミドガルドシュランゲ」ですね。
全長524m、総重量6万トン、27両もの戦車を並べ、先端にドリルをつけて地中も進めるロマンあふれる武器です。
さすがに実現に至らなかったようですが、このあたりの時代のドイツはぶっ飛んだ兵器を考案してくるのでおもしろいですね。
ちなみに、攻殻機動隊SACのスピンオフマンガ『タチコマなヒビ』でも、こういったおもしろ兵器を紹介しているので、興味がある方は併せてどうぞ。
後記
アマプラに『プロメア』が加わっていたので見ました。
これはトリガーという制作会社によるオリジナル長編アニメで、『天元突破グレンラガン』『キルラキル』でタッグを組んだ今石洋之・中島かずきがそれぞれ監督・脚本を務めた作品です。
やっぱりドリルが出てきます。
ドリルはロマンです。
ちなみに、トリガー自体はガイナックスに所属していたアニメーション演出家の大塚雅彦と今石洋之、制作プロデューサーの舛本和也の3人が2011年に設立したアニメーション制作会社です。
個人的には『宇宙パトロールルル子』が大好きです。
さてプロメアのあらすじです。
炎を操る新人類バーニッシュの出現に端を発する惑星規模の発火現象である世界大炎上により、人口の半分が焼失してから30年が過ぎた世界。自治共和国プロメポリスでは、炎上テロを繰り返す過激派バーニッシュの集団マッドバーニッシュに対抗すべく、対バーニッシュ用装備を扱う高機動救命消防隊バーニングレスキューが消火活動を行っていた。バーニングレスキューの新米隊員ガロ・ティモスは、火災現場でマッドバーニッシュの首魁である少年リオ・フォーティアと出会う。「燃えて消す」を流儀とするガロと「燃やさなければ生きていけない」と語るリオは、互いの信念をかけて熾烈な戦いを繰り広げる。燃える魂をぶつけ合う二人の戦い、果たしてその先にあるものとは――(Wikiより)
特殊能力を持ったミュータントが人類から差別を受けるのは一種お決まりの設定ですね。
『プロメア』ですが、まあ、ふつうでした。
エンタメ作品として可もなく不可もなく、という感じ。
作画はすごい動きますが、あれが2時間続くとなかなか疲れます(私が年をとっただけかもしれませんが)。
ストーリーラインはとくに驚きもなく、キャラクターの行動原理もツッコミどころ満載で浅い感じがしますが、まあそこは軽くスルーするべきでしょう。
とりあえず勢いだけで突っ走り、最後はズバッと解決してくれる爽快さはあります。
まあ、一度見れば十分かな。
今回はこんなところで。
それでは、お粗末さまでした。
『NETFLIX コンテンツ帝国の野望』(ジーナ・キーティング著)のレビュー
最近はネットフリックの躍進がすごいですね。
知らない方のために説明しておくと、ネットフリックスはアメリカ発の定額動画配信サービスを提供しているサービスのことです。
私はアマゾンプライム会員なので基本的に映画などの映像コンテンツはプライムビデオで見ているのですが、攻殻機動隊が見たいがために登録してしまいました。
ネットフリックスは、この記事を執筆時点では、もっとも高額なプレミアムプランでも月額1,800円となっていて安いほか、感覚的にはアニメのラインナップが充実しています。
インターフェースも使いやすいですね。
今回紹介するのは、そんなネットフリックスの創業者たちの物語です。
日本でネットフリックスの名前がよく聞かれるようになったのはここ1~2年のことだと思いますが、それはやっぱりテレビCMをよく流すようになったからでしょう。
いま、日本市場を巡ってはアマゾンプライム、ネットフリックス、それからフールーが激しくしのぎを削っています。
日本勢ではドコモのdTVとかツタヤTVとかがありますが、個人的にはもう名称に「TV」とか入れちゃっている時点でセンスがないように感じますね。
我が家の場合はPS4があるのでPS4でネットにつないでテレビで視聴することも多いですが、むしろ大多数の人はPCまたはスマホで見るのが当たり前だと思うので、なぜそんなに「テレビ」という言葉にこだわるのかは理解に苦しむところです。
話をネットフリックスに戻します。
そんなふうに、日本でネットフリックスの名前をよく聞くようになったのはここ1~2年のことですが、創業自体は1997年と意外に長い歴史を持っています。
そして、最初の事業は、郵送でのDVDレンタル事業でした(当時はまだオンラインで動画を快適に見られる環境ではなかったので)。
ストリーミングサービスに主軸を移し始めたのは2007年くらいからで、これはかなり早く、2012年には動画ストリーミングを普及させた功績としてエミー賞を受賞しています。
日本ではGAFA(ガーファ:グーグル、アマゾン、フェイスブック、アップル)がビジネス書などの表紙を飾るくらい有名ですが、いまではFAANG(ファング:フェイスブック、アマゾン、アップル、ネットフリックス、グーグル)という言葉も聞かれるようになっていて、様子にこれらの企業と並び立つくらい存在感がある企業であるということです。
ネットフリックスは超実力主義で、超ドライな人事を行うことで有名です。
これはネットフリックスの現CEOリード・ヘイスティングスのポリシーによります。
ネットフリックスは元々ヘイスティングスとマーク・ランドルフの2人によって創業されたのですが、家族圭的な経営を目指していたランドルフは2004年に同社を去り、ある意味で冷徹なヘイスティングが会社を取り仕切ることになったのです。
本人が複数のインタビューの中で語ったところによると、ヘイスティングスはネットフリックスでは経営者として幸運に恵まれたと考えているという。ピュア・エイトリア時代に若いCEOとして犯したミスを教訓として生かせたからだ。
ピュア・エイトリアでは、官僚主義がはびこり意思決定のスピードが失われると、ヘイスティングスは容赦なく組織にメスを入れた。そしてコアコンピタンス(中核となる強み) を発揮できる一つか二つの分野以外は有無を言わさずリストラした。戦略的には正しくても、社員との調和を図るという点では明らかに失敗した。とはいっても、決して意地が悪い人間ではなかった。社員に対して最高の成果を求める点でも、会社全体の利益を考えて行動する点でも一貫していたので、社内では尊敬と忠誠を得ていた。
要は、人間関係も含めて物事をすべて数式に落とし込んでいたのだ。だから異を唱えたりいらいらさせたりした社員についても、解雇に伴うコストが過大な場合には使い続けた。
基本的にスタートアップしたばかりの企業や急成長を目指している企業は、人事にシビアな面があります。大企業とは違って常にリスクを取った決断をしているので、能無しを雇っている金銭的な余裕はないという事情もあります。
とはいっても、みんなが集まっているミーティングの場で名指しで解雇されたりするようなので、やっぱりこのヘイスティングスのやり方はかなり激しいですね。
とはいえ、結果を見れば、ヘイスティングスがCEOになったからこそ、現在のネットフリックスがあるのは間違いないわけです。
ランドルフの主導した家族経営的なポリシーのままで成長させた場合、ここまでスピーディにネットフリックスが成長できたかどうかはわかりません。
(もちろん、ランドルフの家族敵経営のほうがもっともっとネットフリックスの資産価値を高める経営ができたということも考えられるわけですが)
最近は日本でも「大手も安泰じゃないからベンチャーにいけ」みたいな話が増えてきましたが、当然ながらベンチャーにはベンチャーなりの厳しいところがあり、外資系並みの実力主義があります。
そのあたりの厳しさがとてもよくわかりますね。
こういう経営者の非常な一面は、日本の経営者を扱った本ではなかなか見られないのではないでしょうか。
これはもちろん、創業者本人が書いたものというよりも、コラムニストが書いたということが影響していると思いますが、マクドナルド創業者のレイ・クロックとか、ジャック・ウェルチのような苛烈な経営者が敏腕として評価されるアメリカ的な価値観と言えるのかもしれないですね。
もうひとつおもしろいのは、ブロックバスターです。
ブロックバスターは全米でレンタルビデオ店を展開していた企業で、要するにネットフリックスのライバルです。日本でいえばツタヤでしょうか。
レンタルDVDの郵送、ビデオ・オン・デマンドの可能性を完全に過小評価していたブロックバスターは、急成長するネットフリックスにオンラインレンタル事業であっという間に追い抜かれてしまいます。
というわけで彼らも急遽「ブロックバスター・オンライン」を立ち上げるわけですが、やはりここで差が出るのがテクノロジーの差のようですね。
以前のエントリーでも書きましたが、サブスクリプションビジネスというのはただ単に定額で提供すればいいわけではなく、そこから得られた顧客行動・嗜好のデータを集積・分析してカスタマイズしていくことが肝になります。
ネットフリックスの場合、大きな差をつけたのが「レコメンド機能」ですね。
検索キーワードや視聴履歴などから、「あなたはこんな作品が好きなんじゃないですか?」とおすすめしてくるあれです。
ネットフリックスは独自のアルゴリズムでこのリコメンド機能をつくっているため、ユーザーは一度視聴するとどんどん見たい動画が増えてきて、やめられなくなるというわけです。
ブロックバスターにはもちろんこんな技術もノウハウもありませんから、太刀打ちができません。
とはいっても、ブロックバスターもぼんやりしていたわけではなく、「トータルアクセス」という戦略でネットフリックスを苦しめました。
これはオンラインでレンタルするたびにリアル店舗で無料レンタルサービスが受けれられるというものです。
いわゆる値引き戦略ですね。
ただ、当たり前ながらこんな戦略が長く続けられるはずもなく、ブロックバスターは2013年に倒産してしまいました。
日本のツタヤの未来を見ているようですね。
後記
久しぶりに「カイバ」を見ました。
DVDもいまだに持っているアニメです。
やっぱりいいですね。
改めて思ったのは、このアニメは「10話がすべて」ということです。
ハッキリ言ってしまえば、1~9話目は10話目を見るための壮大な前準備でしかありません。
そして、11話、12話目はただのオマケです。
10話目のカタルシスはなかなか体験できないものです。
もう、「いい」としかいえない。
多分この作品は今後も何年かおきに見るでしょう。
まだ見ていない人はぜひ視聴してほしいもんです。
残念ながらこちらはアマプラもネトフリもフールーでも見れないのですが。。。
今回はこんなところで。
それでは、お粗末さまでした。
『ステレオタイプの科学』(クロード・スティール著)のレビュー
よほど情報の伝播が遅い僻地(つまりど田舎)などでない限り、「女性だから」「高卒だから」などという理由で人をあからさまに差別するようなことは少なくなりました。
ただ、じつは差別行為を行わなくても「女性だから~の傾向がある」と本人が思い込んでいる(あるいは「社会的にそう思われている」)ということを意識してしまうと、それが本人のパフォーマンスに影響を与えてしまうのです。
そのことについて書かれているのが本書です。
特定のアイデンティティ(人種、性別、年齢、経済状況、恋愛指向など)によって特定のアイデンティティを持っているがゆえに対処しなければならない物事のことをアイデンティティ付随条件と呼ぶのですが、本書のメインテーマになっているのがその一つである「ステレオタイプ脅威」です。
ステレオタイプというのはつまり「固定観念」のことで、たとえば「黒人は暴力的」「女性は数学が苦手」などのような、別に根拠があるわけじゃないけど、世間一般の多くの人が特定の人達に対して抱いているイメージのことですね。
本書の第1章に出てくる実験では、白人男性と黒人男性にそれぞれ「運動神経を測定する」という実験の目的を告げてからゴルフをやってもらいました。
そうすると、白人は何も告げられなかったときとくらべてスコアが落ちましたが、黒人のスコアは変わらなかったのです。
これは、「黒人のほうが運動神経がいい」というステレオタイプが影響していることを示唆しています。
反対に、「これはスポーツ・インテリジェンスを測定する実験だ」と告げられると、今度は黒人の方がスコアが下がってしまうのです。
こちらは、黒人より白人のほうがインテリジェントだというステレオタイプに支配されてしまうことを示唆しています。
もうひとつおもしろいのは、こうしたステレオタイプ驚異にさらされる人のほうが、「過剰努力」によってかえって本来のパフォーマンスを発揮できなかったりすることもあるということです。
著者の友人の話ですが、プリンストン大学で「必須だけどとても難しい」科目があり、真面目に受けて成績が悪いと医科大学院に入れなくなるものがありました。
そこで、歴代のプリンストン学生たちはこの科目の攻略法として、一度目は履修登録しないで二度目で成績をつけてもらう方法や、レベルの低い大学で履修してその単位をプリンストンに移す方法などでしのいでいました。
さて、白人やアジア系の学生はこうしたアドバイスを聞き入れ、こうした「ズルい方法」を実践するのですが、黒人の学生は拒絶して真正面からこの講義に挑み、みすみす医科大学院に進みにくくなることがあるという。
つまり、ステレオタイプ(黒人は頭が悪い)というステレオタイプをはねのけようとするために、もっと楽で効率的な方法を避けてしまう傾向があるということです。
もうひとつ本書でおもしろいのは、ほんとうにこうしたステレオタイプ脅威が人間のパフォーマンスに影響を与えるのかということを調べる過程がわりと詳細に述べられている点ですね。
著者は大学の先生なので、すべてを「仮定」として考え、その仮定が正しいかどうかをうまく証明できるような実験を考えます。
その際、ほかの要素が実験に影響を与えないように、ほかの要素を除外できるような実験の設定をしたりして、調査結果をとっていくのです。
心理学系の話ではよくこうした社会実験のようなものがエピソードとして提示されることが多いですが、実際に研究者たちがどのようなことを考えながら実験を行っているのかまではわからないことが多いです。
そのあたりの思考回路が覗き見できるのはちょっとめずらしいですね。
もちろん、結論だけをさっさと知りたいという人にはちょっと回りくどく感じるかも知れませんが。
また、これは大学の先生が書いたからかもしれませんが、全体的に文章がちょっと回りくどいというか、若干わかりにくく感じる箇所が多いです。
あるいは翻訳がよくないのか。
それと、アメリカの本なのでどうしても人種によるステレオタイプが多いですが、ここらへんは各自で日本に当てはめていくべきでしょうね。
ともあれ、なかなかおもしろい本ではありました。
後記
『センゴク』を2巻まで読みました。
主人公は織田信長に攻め落とされた斎藤家家臣の仙石権兵衛秀久。
若くて体格が良くて馬鹿力であることだけが取り柄ですが、信長に気に入られて家臣になり、秀吉の配下になるという物語です。
やたらと織田信長がかっこよく描かれています。
残酷だけどどこか照れ屋で、カリスマ性がすごいですね。
秀吉も、秘境で抜け目がないけど憎めない感じが味があります。
あと、わりと戦国時代の戦い方や用語の解説などもしっかりしてくれるので、勉強にもなりました。
今回はこんなところで。
それでは、お粗末さまでした。
『カッコーの歌』(フランシス・ハーディング著)のレビュー
すばらしい物語に国境はありませんが、ことファンタジーというジャンルで言えば、ミステリーに並んで良質な作品がどんどん出てくるのはイギリスですね。
ちょっと挙げてみましたが、有名すぎる作品ばかりでキリがありません。
ほかにもピーター・ラビットやくまのプーさん、パディントンなどキャラクターの宝庫です。
日本もそうですが、島国だとエンタメやキャラクターコンテンツが生まれやすい土壌があったりするのでしょうか。
さて今回紹介するこちらの本も、ファンタジー大国イギリスが生んだ小説家によるダーク・ファンタジーです。
作品の数はさほど多くありません。
調べた限りでは、邦訳されているのは『影を呑んだ少女』『嘘の木』と本書の3冊です。どれから読もうかちょっと悩んだのですが、なんとなくあらすじを読んでこちらからチャレンジしてみました。
あらすじはこんな感じです。
「あと七日」笑い声と共に言葉が聞こえる。 わたしは……わたしはトリス。池に落ちて記憶を失ったらしい。母、父、そして妹ペン。ペンはわたしをきらっている、わたしが偽者だと言う。破りとられた日記帳のページ、異常な食欲、恐ろしい記憶。そして耳もとでささやく声。「あと六日」。わたしに何が起きているの? 大評判となった『嘘の木』の著者が放つ、ファンタジーの傑作。英国幻想文学大賞受賞、カーネギー賞最終候補作。
これを読んでもなんとなくわかるように、この物語は記憶失った少女による7日間の物語です。
記憶を取り戻し、自分が何者であるかを知り、そして本当の自分を奪還する物語なのです。
といっても、最初の3日間くらいはびっくりするくらいあっという間に過ぎ去ります。
冒頭は主人公がひたすら悩み、しゃべる人形たちや自分の異常な食欲に悩むさまが続きます。
最初は若干まどろっこしい感じもしますが、中盤になって少女が自分の正体に気づき、いろいろと動き始めると物語のペースは一気にトップギアくらいに入り、加速していきます。
そこから一気に読める感じですね。
これは小説全般に関して言えることだと思うのですが、小説というのはマニュアル車に似ています。
最初はローギアからゆっくり発進して、セカンド、サード、トップとギアチェンジしていきます。
ただし、ギアチェンジするタイミングは著者や作品によってまちまちです。
最初からトップギアで始まる小説もあるし、ローギアが半分くらいまで続くものもあります。
読者としてはギアチェンジした瞬間がけっこう快感で、そこで弾みがつくといわゆる「一気読み必至」な状態になります。
うまい小説というのはこのギアチェンジのタイミングが絶妙で、読者が飽きそうなタイミングを見計らって絶妙なタイミングでギアを変えてくるわけです。
もちろん、セカンドからまたローギアに戻したりすることもあります。
この小説の場合、ちょっと序盤のローギア局面が多いような印象はありました。
冒頭、自分が何者なのかわからずに混乱する主人公・トリスの描写がけっこう続きます。
ギアが変わるのは、トリスが自分の正体を知り、行動を起こすようになってからです。
問題の原因が一人の魔法使いにあることがわかり、彼女は異形の者たち(ビサイダー)が住まう下腹界(アンダーベリー)へと向かうのです。
そのときの、アンダーベリーに入るときにどうすればいいか。
無事に戻ってくるためには雄鶏を袋に入れておき、入り口のところにナイフを突き立てておく必要があるのです。
こういう設定、いかにもファンタジーっぽいですよね。
好きです。こういうの。
カバーは暗めですが、話の進行自体は中盤以降、盛り上がってきてグイグイ読めます。
フランシス・ハーディングの別の本も読んでみようと思えました。
ファンタジー好きの人はぜひ。
後記
『どるから』がおもしろいです。
最初はちょっとエッチなシーンがある空手女子のマンガかなーと思ったのですが、これがまったく違うんですね。
あらすじはこんな感じです。
脱税の罪で実刑判決を受けたK-1の創始者・石井館長。1年間の刑期を終え静岡刑務所を出所した石井館長だったが、その直後、トラックにはねられ即死。そしてその魂はなんと女子高生・一ノ瀬ケイに乗り移ってしまう!K-1創世記から20年――格闘界のフィクサー・石井和義が女子高生に憑依(!?)し、もう一度「空手」に向き合う青春浪漫ストーリー。
女子高生に乗り移ったオジサンが、存亡の危機にある街の空手道場の経営を立て直そうというストーリーなのですが、これがけっこう本格的なマーケティング用語とかしっかりとしたプロモーション戦略にそったものになっていて、格闘マンガと言うよりもビジネスマンガとしての側面が強いのです。
これはちょっと意外な展開で、引き込まれました。
ちなみに、私は格闘技に疎いので知らなかったのですが、石井館長というのは著者の一人としてしっかり名前が出ているK-1創始者の石井和義さんで、石井さんは実際に脱税の容疑で2007~2008年まで収監されていましたとさ。
LINEマンガで無料で読めるから、暇だったらぜひ。
今回はこんなところで。
それでは、お粗末さまでした。