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本で死ぬ

基本的には本の話。でもたまに別の話。

読んでいない本について堂々と語る方法

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先日、仕事関係の人(以下Aさん)と、ある小説についての話になったのだが、どうにも話がかみ合わないことがあった。あらすじは理解しているのだが、どうも後半の部分についてAさんは何か思い違いをしていたようなのだ。

 

もくじ

 

しかしこれは、けっこう根深い問題を浮き彫りにする。私は「Aさんが思い違いをしていた」と上に書いたが、もしかすると、私のほうがその作品を間違って読んでいた可能性だって考えられるからだ。もっと言えば、その著者が本当に意図していたメッセージは、私の読み方ともAさんの読み方とも異なっている可能性だってある。

この場合、私とAさんは間違いなく同じ作品を読んでいるはずなのだが、その解釈が全く異なる。この場合、本当に私とAさんはその小説を「読んだ」と断言できるのだろうか????

 

本は読者の数だけある

 

この解釈の問題をさらに拡張して考えれば、同じ本でも、個々人の頭の中に残った本は別のものに変容しているのかもしれないといえる。

たとえば芥川賞を受賞した村田沙耶香氏の『コンビニ人間』を読んで、「おもしろかった!」という感想を持つ人もいれば、「クソだった」という感想を持つ人もいるだろう。その場合、両者が読んだのは間違いなく同じ本なのだが、彼らの脳内に残っている『コンビニ人間』という作品に紐づけられた感情及び記憶の内容は全く異なるわけで、その時点で「おもしろかった『コンビニ人間』」と「クソだった『コンビニ人間』」に分離しているのである。

 

コンビニ人間

コンビニ人間

 

 

つまり、私たちはたとえ物理的に同じ本を読んだとしても、本質的に同じ本を読んだとはいえない。世界は解釈でできているのだから、詩的な表現をすれば、「読者の数だけその本がある」といえるのである。

 

『読んだことのない本について堂々と語る方法』

 

このことを思い出したのは、今回紹介するのがこちらの一冊だからだろう。

 

読んでいない本について堂々と語る方法

読んでいない本について堂々と語る方法

 

 

本書はタイトルのままで、読んだことのない本についてコメントを求められたとき、その場をスマートにしのぐ方法について記された本である。ちなみに、上記のような内容は本書において<内なる書物><内なる図書館>と表現されている。

 

本を読んだ、とはどういうことか?

 

本書ではまず、「そもそも『本を読んだ』ってどういうこと?」という定義から始まる。

たとえば、私は子どものころに『エルマーのぼうけん』を読んだが、いまではその内容を全く覚えていないし、この本についてコメントを求められてもなにも語れない。

 

エルマーのぼうけん (世界傑作童話シリーズ)

エルマーのぼうけん (世界傑作童話シリーズ)

  • 作者: ルース・スタイルス・ガネット,ルース・クリスマン・ガネット,わたなべしげお,子どもの本研究会
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この場合、私は本当に『エルマーのぼうけん』を読んだといえるのだろうか?

 

逆のパターンも考えよう。たとえば私はコナン・ドイルの『緋色の研究』を読んだことがない。が、あらすじも知っているし、事件のトリックも知っているし、主要な登場人物のプロフィールも知っているし、この本がミステリーの歴史においてどのような位置づけにあるのかもなんとなくわかっている。

 

緋色の研究 (新潮文庫)

緋色の研究 (新潮文庫)

 

 

この場合、私は本当に『緋色の研究』を読んだことがないといえるのだろうか?

 

さらに別のパターンも考えよう。

私はビジネス書をけっこう流し読みする。早いと、30分くらいで1冊読みきってしまう。というのも、ビジネス書はけっこうほかのビジネス書の内容と重複することを述べているケースが多いので、そういう部分は飛ばし読みするからだ。

その本の中でなにか印象に残ることが書いてあればいいが、場合によっては最初から最後まで、まったくなにも印象に残らないビジネス書がある。その場合、私はその本が何についてどのようなことを書いてあるかをなんとなくは覚えているが、具体的には言及できないし、詳細に類似本との違いなどを説明できない。

これは、その本を読んだといえるのだろうか?

 

私たちは普段、「この本は読んだ」「この本は読んでない」と非常に簡単に口にするが、本質的な部分で考えると、「何を以てその本を読んだと断言できるのか」は非常にあいまいである。

たとえば、どんなに熟読したとしても、一文・一言一句も漏らさずに全部を覚えている人なんてまずいないと思う。どこかの一文は忘れてしまったりしているものだ。その内容やストーリーを覚えていたとしても「どのくらい覚えていればいいのか」という疑問は新たに浮かび上がる。

 

「読んだことがない」には4種類ある

 

そのため、本書では「未読の諸段階」と称して、「読んだことのない本」を次の4つに分類している。

 

 ●ぜんぜん読んだことのない本

●ざっと読んだ(流し読みした)ことがある本

●人から聞いたことがある本(あらすじだけ知っている)

●読んだことはあるが忘れてしまった本

 

この中で一番問題なのは、4つ目の「忘れてしまう」というものだ。

私が読書メーターやブログを使って読んだ本の感想を書いているのはその本の内容を忘れないようにするためだが、それでも私は読んだはずの本の内容を忘れてしまう。そして、たまに自分が書いた過去の記事を読み返したりすると「へー」と、まるで他人事のように新たな感想を抱いたりするわけだ。

記憶に定着させるにはアウトプットが重要、というのはよくいわれるが、それでも、絶対に覚えておくことは、多分できないのだと思う。

そうなると、「読んだことがない本」と「読んだけど忘れてしまった本」はニアリーイコール……というか、客観的に考えれば意味は全く同じになる。「この本を読んだ」といえるのには、賞味期限があるのだ。読書家の人々には恐ろしいことだが。

 

なぜなら、もし、読んだけれど忘れてしまった本は、読んでないのと同じことになるのだとすれば「私はこれまでどれだけたくさんの本を読んだ」とか「私は年間○札の本を読み続けている」とか「私の家には○冊の蔵書がある」というのは、全く何の意味もないものになってしまう

これは、読書がすべて自分の糧になっていると思っている人にとっては、非常に深刻なアイデンティティクライシスである。毎月せっせと預金口座に振り込んでいたお金が、じつは定期的にどこかに消えていて、結局、口座にあるお金はどれだけ振り込んでも常に一定ですよ――といわれたのに等しいからだ。

※もちろん、読書の賞味期限は本によって(というよりも読者の頭の中に紐づけられた本の記憶の種類によって)変動するものである

 

大事なのは本の内容よりも、本の位置づけ

 

ではここからが問題だ。

読んだことのない本についてなにかしら意見したり、語らなければならない状況になったとき、どのようにそれを切り抜ければいいのか、という話である。

ここで重要なのは、結局、同じ本を読んでも各人が記憶する<内なる書物>はそれぞれ異なるという点だ。少し引用しよう。

 

ある書物について語ることは、それを読んでいるかどうかにはあまり関係がない。語ることと読むことは、まったく切り離して考えていい二つの活動である。私自身に関して言えば、私は本をほとんど読まなくなったおかげで、本についてゆっくりと、より上手にコメントできるようになった。そのために必要な距離――ムージルのいう「全体の見晴らし」――がとれるようになったからである。本について語ること、ないし書くことと、本を読むことの違いは、前者には顕在的であれ潜在的であれ、第三者が介在するということである。この第三者の存在が読書行為にも変化を及ぼし、その展開を構造化するのである。

 

本について語る場合、重要なのはそれ個別の話ではなく、他のあらゆる書物と比べて、話題の対象となっている書籍がどのような位置づけにあるのかを理解していることである。私も、人と話していて読んだことのない本の話しになったとき、知ったかぶりをすることがある。

たとえば私は伊坂幸太郎のデビュー作『オーデュポンの祈り』を読んだことがない。(というか、伊坂幸太郎作品は一つも読んでいないかもしれない)

 

オーデュボンの祈り (新潮文庫)

オーデュボンの祈り (新潮文庫)

 

 

が、伊坂幸太郎というのが人気のあるミステリ作家であり、『アヒルと鴨のコインロッカー』や『重力ピエロ』や『ゴールデンスランバー』を書いているのも知っている(これらも当然、読んだことがない)。それらの映画のポスターから導き出される作品の雰囲気は知っている。

しかし、もし私が会話の中で伊坂幸太郎の作品を読んだことがあると答えたとしても、実際問題、その会話にはあまり齟齬が生じないだろう。なぜなら、人々が話したいのは別に井坂幸太郎の作品の中身についてではなく、多くの場合、伊坂幸太郎という作家の話や、現代の日本ミステリについてだからだ。(もしくは、自分が伊坂幸太郎が好きな人間だというのをその人はアピールしたがっているのであって、それが最終的に私に対してどのようなメッセージを送ろうとしているのかを洞察する必要はある)

 

本について語る人は、本当は何を語りたいのか?

 

もう一か所、引用しよう。

 

書物において大事なものは書物の外側にある。なぜならその大事なものとは書物について語る瞬間であって、書物はそのための口実ないし方便だからである。ある書物について語るということは、その書物の空間よりもその書物についての言説に時間がかかわっている。ここでは真の関係は、二人の登場人物のあいだの関係ではなく、二人の「読者」のあいだの関係である。そして後者の二人は、書物があいまいな対象のままであり、二人の邪魔をしない分、いっそううまくコミュニケートできる。

 

実はこのことは、本をテーマにした話題以外でも同じである。

たとえば、誰かが今朝のニュースの話題を振ってきたとする。でも、あなたは別にそのニュースを知っている必要はないし、相手も別にそのニュースの話がしたいわけではないのだ。その人は単に会話が盛り上がるきっかけを探しているだけかもしれないし、「自分はちゃんとニュースをチェックしている人間ですよ」というのをアピールしたいだけかもしれない。

つまり、相手の言葉を表面通りに受け取るのではなく、その話題を提示してきた人間の会話の目的を察知し、それに乗るのか、それとも受け流すのかを瞬時に判断しなければならないのである。これこそが、コミュニケーションというやつなのだ。

 

だからこそ、このブログをこの瞬間に読んでいる人にはちょっと考えていただきたい。それは、私がどういうつもりでこのエントリーを書いているのか、ということだ。

表面的に、素直に受け取れば、私のエントリーは自分がおもしろいと思った『読んでいない本について堂々と語る方法』という本を紹介しているように読める。だが、そうした私の深層心理にある気持ちは「自分はこんな本を読んでいるインテリな人間なんだぜ」という自己顕示欲かも知れないし、「このタイトルだったら興味を引いてブログのアクセス数が増えそうだ。ついでにアフィリエイトの売り上げも伸びそうだぞ」という、自分の利益しか考えてないかもしれない。もしくは「この本はおもしろかったから忘れないようにしよう」という自分のためのメモを単に公開しているだけかもしれない。

 

 おわりに(まとめ)

 

ダラダラと書いてしまったので、結論をまとめよう。

読んだことのない本について堂々と語る方法とは、本の話題を提供した人物狙っている「コミュニケーションの目的」をとらえることである。そして、その狙いに即して相手に合わせてコミュニケーションをとればいいのだ。

 

ちなみに、私がこのことを理解しても本を読むのをやめないのは、本を読むという行為自体が単純に楽しいからである。そもそも、本を読んで何かに役立てようとか、そこから何かを学び取ろうとする姿勢が間違いなのだ。本はあくまで読んで楽しむものである。

私にとって大事なのは、その人がどんな本を読んだかではない。それよりも問題なのは、その人が本を読むことを楽しんでいるか否かなのである。

 

読んでいない本について堂々と語る方法 (ちくま学芸文庫)

読んでいない本について堂々と語る方法 (ちくま学芸文庫)

 

 

今回はこんなところで。

それでは、お粗末さまでした。