本で死ぬ ver2.0

基本的には本の話。でもたまに別の話。

最後の記事~みなさんさようなら~

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以前、メメント・モリについて書いた記事がある。

 

 

 

もくじ

 

が、実際問題、「明日死ぬかもしれないなぁ」と本気で考えるのはとても難しい。
何しろ日本は安全な国だからだ。

 

日常生活で死を覚悟する瞬間

 

しかし私は、「あー、死ぬかもしれないなぁ」と思うときがある。

それは高速バスの夜行便に乗るときだ。

 

もちろん、バスの運転手さんを信用していないわけではない。

信用していないわけではないが、今まで一度も死亡事故を起こしたことのない新幹線と比べれば、リスクが高いのは間違いないだろう。

 

しかもクルマの場合、いくらバスの運転手さんがしっかり運転してくれていても、周りの一般ドライバーが事故を起こせばマキゾエを食らってしまう。

高速道路だと時速100キロくらいのスピードを出しているから、そうなったら助からないかもしれない。

 

というわけで、私は高速バスの夜行便に乗るときは「これで死ぬかもしれないなぁ」とぼんやり考えるのだ。

(しかしよく考えると、ぐうぐう眠っている間に事故にあってわけもわからないまま即死できたら、それはある意味で幸福な死に方なのかもしれない)

 

死ぬかもしれないとデスクが片付く

 

そうすると不思議なもので、ヘンなところで几帳面な私はデスクを片付けたりパソコンの中のフォルダの整理を始めるのである。

それは「他の人に迷惑をかけたくない」という殊勝な気持ちよりも、「死んでから『こいつのデスク汚すぎぃ! どこになにがあるかわかんない!』と後ろ指差されるのも嫌だなぁ」とうい意地汚い自己保身の気持が勝るからである。

いわば生前整理である。

 

生前整理するといいことがある。

うまく生き残った場合、翌週に私が出社するとそこで「きれいなデスク」が待っていて、ちょっとテンションが上がるのだ。

出社したときに机がきれいだと、やはり気持がよいものである。

 

デスクには妖精が住んでいる

 

「だったら毎日掃除しろよ」と自分に突っ込みたくなるが、思うに、デスクというのは一つの生態系を構築しているのである。

すなわち、デスクにいつのまにかよくわからない紙の束や書籍やお菓子や筆記用具があふれかえるのはそこに大自然の法則が働いているからであり、その法則を私個人の力でどうにかしようとするのは大自然への冒涜というか、自然の摂理を犯すに等しい行為であるから、それこそ死を目前に迎えた人間の持つ神をも恐れぬ鬼気迫る執念のようなものがなければ、やってはいけないことのように感じる。

 

もっとファンシーな言い方をすれば、デスクの上には妖精さんが住んでいるのだ。

その妖精さんは私の代わりにゲラをチェックするとか大ヒット間違いナシの企画書を作ってくれるとかそういうことは一切してくれないし、むしろ必要な参考図書をどっかにやったりお気に入りの赤ペンを隠したりする、お茶目すぎて叩き潰したくなるチャーミングなやつらなのだが、いかんせん彼らはデスク上にある程度の乱雑さがないと生きていけない存在なので、そういう彼らを自分だけの都合で追い払うのも忍びないという思慮深さがまだ私の捻じ曲がった精神のなかにかろうじて残っており、デスクを片付けようにも片付けられないのである。

 

あなたは死ぬ

 

あまりにも話が脱線しすぎてそもそも何を話そうとしていたのかよくわからなくなった。

とにかく私は今週末、夜行バスに乗るので、もしそこで事故にあって死んだらもうブログは更新できなくなるわけだ。

つまり、これは私のブログの最後の記事になるのかもしれないのである。

私としては今年中にアップしようと思って下書き状態で眠っている記事があるのでそれは心残りだが、死んでしまってはそれはもう仕方がない。

 

そしてこれは、私だけの問題ではない。

このブログを読んでいる人は当然、自分が今週末に死ぬかもしれないなんてことはまず考えていないはずだ。

 

しかし、あなたは死ぬ。

もしかしたら道を歩いていたら高齢者のドライバーがハンドル操作をミスってあなたに突っ込んでくるかもしれない。

もしかしたら新宿駅とか渋谷駅が陥没して生き埋めになるかもしれない。

もしかしたら乗っている電車が脱線してひしゃげた鉄の壁に挟まれて圧死するかもしれない。

もしかしたら工事現場から鉄パイプが落ちてきて脳天にぶち刺さるかもしれない。

もしかしたら異常にシンメトリーにこだわる建築家が過去にデザインした建物を抹殺するために爆弾を仕掛けて、たまたまそこに居合わせたあなたは裁縫セットのはさみを使って時限爆弾を解体せざるを得ないという無理ゲーに巻き込まれるかもしれない。

 

少なくとも、あなたが今週末を無事に過ごせる保証なんてどこにもないのである。

 

世界を恨んで死のう!

 

しかし、希望はある。

それは、肉体を離れた私たちの魂は永遠不変の宇宙のグレートスピリットの一員となり、一切の苦悩から開放された安寧を得られるからだ。

 

……というのは冗談だが、希望というのは、私たちが「自分は死ぬかもしれない」と考えられる脳みそを持っているということだ。

ほかの動物が死を覚悟できるのかは知らないが、少なくとも人間はできる。

 

ここで自己啓発書なんかだと「だから悔いのない日々を生きようネ」などと語るのだろうが、私は世界を恨んで死ぬのも、それはそれで人間らしい生き方(死に方)だとは思う。

崇徳上皇も、平将門も、菅原道真も、世間を恨んで死んでいった。

世間を恨みきって死ぬのも、それはそれでパンクでロックでクールなんじゃないだろうか。ただその場合、どうせならキッチリ恨みきるくらいがいいが。

 

おわりに

 

いつにも増してとりとめのないエントリーになったが、私はけっこう本気で遺書としてこの文章を書いている。といったら驚くだろうか。

 

それでは皆さん、さようなら。

また来週も生きていたら、ここでお会いしましょう。