『ブルーバレンタイン』とほか2本のレビュー~結婚願望がみるみる失せる映画~
とある友人に「彼女を作るにはどうしたらいいか?」と相談を受けた。
もくじ
恋人がほしいなら
「知るか!」と返したいところだが、彼もなかなか不憫なのでそう無碍にするのもかわいそうだ。ということで、ささやかながらアドバイスを送った。簡単だ。「彼女(彼氏)がほしい!」ととにかく周りに言いふらせ、といった。
そもそも、恋人がほしいのにいない人は、自分の望みを公言していないことが多い。とくに最近は「絶食系男子」など、恋人を必要としていない人もいるらしいので、言わないままでいると周りの人間は「あの人は別に恋人は欲しがっていないのだ。紹介してあげるのはおせっかいだろう」と思ってしまう。こうして、その人からはどんどん出会いのチャンスが失われていくのである。
世の中には「人間関係の軸」になっている人間がいる。そして、その人を中心に合コンや同窓会といったイベントは開催されるのだ。「彼女(彼氏)がほしい!」という思いをやたらめったらにアピールしていたら、遠からずそうした人から出会いの機会は授けられるであろう。
なに? 女の子と会ってもうまくしゃべれない? んなことは知らん。プライドを捨てて慣れろ。
『ブルーバレンタイン』について
というわけで、今回のエントリーでは“トラウマ恋愛映画”ともいわれている『ブルーバレンタイン』のレビューである。いつかは結婚したいと思っている人々のイマジンをブレイカーしてくれる作品だ。
アメリカで公開されたのは2010年。Wikiをみると、第63回カンヌ国際映画祭で「ある視点」部門に出品されたとか、第68回ゴールデングローブ賞に主演の2人がノミネートされたとか書かれているが、要は、別に賞は取っていないということである。
ただ、だからといって出来の悪い作品なのかというと決してそんなわけではなく、一般からの評価は高い。ただ、あんまり目立たない作品なだけだろう。監督のデレク・シアンフランスは寡作で、本作以外にあまり目立った作品はない。ドキュメンタリーが得意なようだが、よくは知らない。
ちなみに、タイトルとなっている『ブルーバレンタイン』はロック歌手のトム・ウェイツの同名曲からとられているらしい。ほー。
あらすじとネタバレありのレビュー
作品の概要はこんな感じ。以下あらすじ。
ペンキ屋のディーンと看護師のシンディーは結婚して5年。ディーンは妻と一人娘・フランキーを愛して満足した生活を送っていたが、シンディーはすっかりディーンに愛想を尽かし、2人の関係は冷え切っていた。
そんなある日、ディーンはシンディーとの関係を回復させようと、娘を祖父のところに預けて2人でラブホテルに泊まる計画を立てる。だが途中、立ち寄ったスーパーでシンディーが元彼のボビー(じつはフランキーの実の父親)に出会ったことで不機嫌になり、ホテルについてもやっぱりケンカ。翌日、彼をホテルに残して出勤したシンディーだが、気づいたディーンは怒り狂ってシンディーの職場である病院に殴りこみ、修羅場と化した。この騒動でシンディーは病院をファイアー!される。
帰宅後、ディーンはなんとかシンディーとの仲直りを図るが、もう2人の関係は元には戻らない。ついに家庭は崩壊。愛娘フランキーが哀しげに父・ディーンを呼ぶが、彼は振り返ることなく、かつてのわが家を後にするのだった。
もっと簡潔に書くと「倦怠期になった夫婦が離婚した話」で終わってしまうのだが、この映画の見所は演出方法にある。ところどころに5年前、つまりディーンとシンディーが出会ってから恋人として楽しいときを過ごした過去のパートがはさまれ、いかに「昔の2人は愛し合っていた」かが、現在(つまり5年後)の2人の関係と対比されながら物語が進むのである。
そしてラスト、ディーンが家を出て歩き去っていくカットが終わると、エンディングでは幸せに満ちた笑みで抱擁しあうディーンとシンディーの結婚式がフラッシュバックしてエンドロールとなる。カップルや夫婦で鑑賞したら、確実に2人の間に気まずい空気が流れるだろう。
過去との対比以外で特徴的なのは、なぜここまでディーンに対するシンディーの愛情が冷めてしまったのか、その理由が描かれていない点だ。たしかにディーンはいつも酒とタバコを呑み、収入の低いペンキ屋でダラダラ働くダメな男ではあるが、暴力を振るったり横暴な振る舞いをすることはなく、シンディーのことも、そして娘のフランキーのことも心から愛している。とくにフランキーは、自分の実の娘ではなく、元彼の子どもだ。ディーンはそのことを理解しながら、それでも血を分けた子どものように愛情を注いでいるのだ。これはなかなか並の男にできることではない。
ひとつ理由が述べられたシーンがあるとすれば、ラブホテルでの口論のときに出たセリフだ。うろ覚えなので一字一句正確ではないかもしれないが、シンディーはディーンに対して「才能を利用しないで生きることに失望しない?」と問いかける。横暴な父が支配する厳格な家庭に育ったシンディーには、キャリアアップせずに怠惰(に見える)な生活を送るディーンに我慢がならなかったのだ。
しかしディーンにしてみれば、シンディーの言っていることわけがわからない。彼は妻と子どもに惜しみない愛情を与えることが自分の責務だと信じているので、なぜ彼女に攻められているのか理解できなかったはずだ。ここらへんに、夫婦の価値観のズレ、すれ違いが見られる。
問題は離婚原因よりも「結婚原因」
とはいったものの、この映画で「なぜ2人は離婚してしまったのか?」という問いかけは意味を持たない。誰かを好きになるのに理由がないように、誰かを好きじゃなくなるのにも明確な理由はいらないからだ。ただ、とにかくシンディーはディーンへの愛情を失った。そして愛がなくなったからこそ、ディーンのダメな部分ばかりが目につき、「とにかく一緒にいたくない。視界に入れたくない」状態になってしまったのである。
私が映画を見終わって考えたのは「なぜ2人は結婚してしまったのか?」という問いである。ディーンのキャラクターは結婚前も結婚後もまったく変わらない。そもそも2人がつき合い始めたのはシンディーに一目ぼれしたディーンが猛烈なアタックをしたせいだし、結婚後も彼の愛が冷めることはなかった。シンディーの気持ちはあっさり変わったけれど。
その理由を考えると、「そのときのノリ」としか言いようがない。
付き合い始めたラブラブ絶頂期のとき、シンディーの妊娠が発覚。しかも父親は元彼のボビーだった。一度は堕胎を決意するシンディーだが、彼女はやはり決断できず、妊娠したことをディーンに打ち明ける。ディーンはすんごく悩み、そのうえボビーにボコボコにされたりするが、最終的には結婚を申し込み、彼女は受け入れたのである。
チープではあるものの、なかなかドラマティックだ。なるほどこの展開ならディーンはシンディーにプロポーズするのが定石である。普通の恋愛映画ならここでキスしてハグしてみんな笑顔のハッピーなエンディングになるだろう。しかし現実、またはこの映画ではそう単純な話にはならない。結局、一大決心をしてシンディーへの一生の愛を誓ったディーンではあるが、その愛は当のシンディーによって裏切られ、苦い結末となってしまったのである。教訓「ノリで結婚しないほうがいい」。
シンディーはずるい女
さて個人的にシンディーがずるいと思うのは、一切の決定をディーンに委ねている点だ。
たとえば妊娠したことを告げたとき、ディーンに「どうするの?」と訊ねられたシンディーは「わからない」と答えている。うがった見方をするなら「あなたが結婚してくれるなら私は生みたい」ということを暗に伝えていて、ディーンに決定権を委ねているのだ。また、倦怠期に入っても、最後の最後までシンディーは自分から「離婚したい」とは口に出さない。明らかに不機嫌で冷たい態度をとるばかりで、ディーンから「離婚しよう」という言葉を引き出そうとしているようにも感じられる。態度でしっかり意思は表示しているが、決して口には出さないのだ。
しかしこういう女性、世の中にはけっこうウヨウヨしているように感じられる。賢明なる読者諸兄はくれぐれもご用心いただきたい。
晴天で清清しい初秋の日和が続く今日この頃だが、こんなときにこそ自宅に引きこもってこういう気分が鬱屈とする映画を見るのは一興である。おススメしたい。
『肉』のレビュー
というわけで気分を変えて2本目は、『肉』という映画。原題は『We Are What We Are』だが、直球ど真ん中ストライクに投げ込んだステキ翻訳である。
一応ジャンルはホラーだが、怪物や怨霊や悪魔といったものは出てこない。その代わり、出てくるのはカニバリスト(食人者)の家族だ。アメリカで公開されたのは2013年で、メキシコのホラー映画『猟奇的な家族』をリメイクした作品らしい。日本で公開されたのは2014年で、レートはR18+となっている。以下あらすじ。
アメリカの片田舎に暮らすパーカー一家には秘密があった。彼らは一族の伝統により、定期的に人をさらっては解体し、その肉を食べていたのだ。しかしある年、一家の厨房係を務めていた母親が突然死したことで歯車は狂い始める。伝統を死守しようとする父・フランクはまだうら若い長女・アイリスにその役目を継承させるが、アイリスはひそかに次女・ローズと共謀して父親とは違う計画を考えていた。
というわけで、こちらも爽やかな秋の日和にぴったりな映画である。しかし、R18+ということで期待していたわけだが、思ったよりもグロテスクなシーンが少なく、残念だった。静かに、淡々と物語が進んでいく作品で、あまり胸躍るような超展開はない。シナリオも陳腐で、あまり驚きはなかった。ちなみに、アイリスの吹き替え声優を務めているのは「あいなま」こと豊崎愛生さんである。
『タロットカード殺人事件』のレビュー
最後に紹介するのが『タロットカード殺人事件』。タイトル自体は以前から目に付いて、興味は持っていたのだが、ついにレンタルして鑑賞してみた。
2006年に公開されたアメリカとイギリスの会社による合作映画で、ジャンルはコメディミステリー。監督は『ミッドナイト・イン・パリ』なども撮影したウディ・アレン。彼は俳優でもあると同時にコメディアンでもあり、アメリカの北野武みたいなもんだろうか。本作にもメインキャラクターのひとりとしてしっかり出演している。
主演はスカーレット・ヨハンソン。もうひとりの重要人物はヒュー・ジャックマンが務めている。前の2作に比べると、なかなか豪華な俳優陣だ。以下あらすじ。
ジャーナリスト志望の女学生サンドラがロンドンのマジックショーで魔法箱のなかに入ると、彼女は男の幽霊・ジョーに遭遇した。話を聞くと、彼はロンドンの有名なジャーナリストで、最近巷を騒がせている、タロットカードにまつわる連続殺人事件の特ダネをつかんだものの、それを知らせる前に死んでしまったという。サンドラは彼に代わり、その舞台に立っていた老マジシャン・シドとともに事件の真相解明に乗り出す。
ジョーの話によれば、殺人事件の犯人は伯爵の息子・ピーターであるという。サンドラは恋人を装ってピーターに近づくものの、付き合っているうちに超イケメンの彼に本気で惚れてしまう。さて、彼は本当に「タロットカード殺人事件」の犯人なのか?
若い美女とへっぽこ老マジシャンという探偵コンビはなかなかいいキャラクターだし、連続殺人事件の犯人に迫るというシナリオもいい。ただし、いろいろ残念でなんだか面白みを感じられない作品だった。
まず、どうにもギャグが笑えない。ところどころに間の抜けた展開が入ってくるのだが、なんだかそれが滑っていて薄ら寒かった。
それから、ウディ・アレンが主張しすぎる。彼は吃音症のあるへっぽこマジシャンを演じているのだが、オドオドした態度とどもったしゃべり方で他を圧倒する強烈なキャラクターとなっているのだ(ちなみにウディ・アレンは実際にマジシャンをやっていた時期もあったらしい)。徒花はどうもこのキャラクターが気に食わなかった。
観なくてもいい映画
そして、これが肝心なのだが、ミステリーとしても低品質。あっと驚くような第どんでん返しはなく、拍子抜けする結末でガッカリした。とにかくコメディとしても、ミステリーとしても中途半端な感じがして、期待を悪い意味で裏切られた作品である。そもそも原題は『Scoop』となっていて、あえて邦題にする際にミステリー色を強めたきらいがある。私はあっさりとそれに騙されてしまったというわけだ。
まぁ、よほど暇だったら見てもいいかもしれない。スカーレット・ヨハンソンの魅力的なボディは堪能できるだろう。ちなみに、彼女は劇中でメガネをかける役をしているのだが、びっくりするほどメガネの有無で印象が変わる。メガネをかけていると野暮ったいおばちゃんくさく見えるのだが、外すといきなり美人になるのだ。メガネの選び方が秀逸なのか、それともヨハンソンの顔のつくりがそうなのか、どちらかはわからない。
それでは、お粗末様でした。