“オカマ”同士の恋愛はありうるか?~はじめてのLGBT~
先日、所用があってLGBTの知識を学べる講座を受講してきた。講師もトランスジェンダーで、肉体は女性だが、心は男性という方である。受講者はLGBTの人の割合が高いのかと予想していたが、参加者の1割程度だった(もちろん、その場でカミングアウトしなかった人もいるかもしれないが)。
最近はニュースなどでもちょいちょい「LGBT」という言葉が出てきているが、まだまだ世間一般の認知度は低いと思われる。というわけで今回は、LGBTに代表される、いわゆるセクシャル・マイノリティー(性的少数派)について、知識ゼロの人でもわかるように説明していこう。基本的には先日参加した講座の知識をベースに話を進めるが、私も専門家というわけではないので、もし間違いや誤解を招くような表現があった場合、指摘していただければ幸いである。
LGBTとはなにか?
LGBTとは以下のそれぞれの人々の頭文字である。
Lesbian(レズビアン):女性の同性愛者。「レズ」などと略されることもある。
Gay(ゲイ):男性の同性愛者。Geyは間違い。これは遺伝子の名前である。
Bisexual(バイセクシャル):両性愛者。男も女も恋愛対象の人。
Transgender(トランスジェンダー):一般的には「体の性別」と「心の性別」が一致してない人。ただし、本来は「性別を乗り越える」という意味を持っているため、より広範囲のセクシャル・マイノリティーを指す場合もある。「体が男で心は女=MtF」「体は女で心は男=FtM」とよばれる。
なお、この4つには含まれないがAsexuality(Aセクシュアル:無性愛者)とういのもある。これは男も女も恋愛対象にしない人々のことだ。ただし、恋愛感情は持っていても性的衝動(エッチしたいと思うこと)を持たなければこれに分類されるという見解もある。
ちなみに、『ハリー・ポッター』シリーズのダンブルドア先生はゲイという設定である。これは作者のJ・K・ローリング氏も認めていることのようだ。
あと、これは作者公認かどうかはわからないが、『攻殻機動隊』の主人公、草薙素子はバイセクシャルで、男の恋人がいたり、女の恋人がいたりする。
ジェンダーを決める3つの要素
ジェンダーとは日本の場合「性別」という言葉と同じような意味合いだが、厳密には違う。多くの日本人が「性別」という場合、「肉体の性別」のみを指すが、「ジェンダー」は心の性別なども含めて「社会的性別」を意味する。
そんなジェンダーは以下の3つの要素で決まる。
たとえば大多数の男性は①男の肉体、②男の心、③恋愛対象は女性、である。
ゲイの人は①男の肉体、②男の心、③恋愛対象は男性、という人間だ。
ただしここでちょっと複雑になるのが、①女の肉体、②男の心、③恋愛対象は男、という人。心は男なんだから、それでも男が恋愛対象の場合はゲイである。この場合、こうした人は「FtMゲイ」などと区別される。ゲイであると同時にトランスジェンダーでもあるのだ。
一番分かりやすいのは電通ダイバーシティ・ラボが作った以下の「セクシュアリティ・マップ」だろう。
電通ダイバーシティ・ラボが「LGBT調査2015」を実施 - ニュースリリース一覧 - ニュース - 電通 より
これを見てもらえばわかるように、「男が好きな男=ゲイ」とはいえない。男として男が好きならばたしかにゲイだが、もしその人が女として男に惹かれているなら「4.MtF」というトランスジェンダーなのだ。
MtFの人は心が女性なんだから、男性を好きになるのは「アタリマエ」なことである。いわゆる「オカマ」と呼ばれる人々は、MtFに分類される可能性が高い。ただし、心の性別(性自認)は本人が説明してくれないとわからないため、早計は禁物だ。「体も心も男で恋愛対象は女性だが、単に“女装が趣味”」だという人もいるだろう。
しかも問題がややこしいのは、本人すら自分の心の性別がどちらなのか、よく分かっていない人が多いという点だ。実際、なにか不自然さ、ズレを感じながらも老齢になってから自分はトランスジェンダーだった!と気づく人もいる。いまの社会は基本的にすべての人を「ストレート」であるという前提で扱うし、学校でもこうしたことを全く教えないから、本人も疑いを持たない=気づかない場合が多いのである。
あ、ちなみに、タイトルの答えをここでいっておこう。
オカマ同士の恋愛は「たぶんありえない」。
というのも、繰り返しになるが、オカマはどうやら「女性っぽいゲイ」を指すので、上の分類で言えば「4.MtF」である可能性が高いのだ。となると、オカマの人は「女性として男を好きになる」ので、女性っぽい格好をした男に恋をするという可能性はきわめて低いと考えられる。逆に、「1.ゲイ」の場合はゲイ同士で恋愛が成立するのは自明である。
TVにあふれる「オネエ」という言葉の功罪
というわけで、LGBTについての基礎的な知識を伝える内容は以上で終わり。ここから先は私がセクシャル・マイノリティを勉強したことで感じた問題提起みたいなものになっていく。
セクシャル・マイノリティの人々の悩みはいろいろある。法律が整備されていなかったり、学校での教育が不十分だったり、とくに地方では理解がなかったりするためだ。しかし、個人的に思うのはテレビでの「オネエ」という言葉についてである。
上に挙げた「セクシュアリティ・マップ」を見てもらえば分かるように、「オネエ」という分類は当然、ない。ではどういう人たちが「オネエ」なのかというと、それが非常に曖昧なのだ。
たとえばいま一番存在感のある「オネエキャラ」であるマツコ・デラックス氏はたぶん「ゲイ」である。心の性別がどちらかなのかは正直なんともいえない。言葉遣いは女性っぽいが、考え方は超論理的で理屈っぽい気がするので、左脳を良く働かせる男性的な面が強くうかがえるため、心も男性なのではないだろうか。
その一方、はるな愛氏やKABA.ちゃん氏はおそらく「MtF(女の心を持った男)」である。これは性転換手術や豊胸手術などを行っているため、たぶん、心は女性なのではないかと推測できるためだ。
さらにいえば「尾木ママ」こと尾木直樹氏は言葉遣いこそ女性風だが、服装は男性に近いものだし、女性と結婚していて子どもがいるのでおそらく区分的には「ストレート」である。
このように「オネエ」という言葉の中には「ゲイ」「MtF」さらには「ストレート」の人までごった煮にされている。たぶんテレビ業界の認識では「女っぽい格好、女っぽい言葉遣い、男が好き、な男=オネエ」なのだろう。しかも、「オネエキャラ」として自分を目立たせるためにあえて言葉遣いを女っぽくする場合もあるので、もはや誰がセクシャル・マイノリティーなのかわからない状況なのだ。
しかも、日本にはこうした人々を表す言葉が数多くある。「オネエ」を筆頭に「オカマ」「ホモ」「男色」「女装家」「BL」などなど。
表現の幅が多いのは私としても悪いことではないと思うが、意図せずして間違った言い方をしてしまう可能性があるのは問題だ。たとえば「MtF」の人は「女装家」ではない。彼らは女性の心を持っているのだから、むしろ自分が男性の服を着ることに激しい違和感を覚えるのである。
しかし、だからといって「オネエ」という言葉や「オネエキャラ」たちがテレビから排除されるべきとも私は考えない。「清濁併せ呑む」ではないが、彼らがテレビで活躍することは、少なからずセクシャルマイノリティーの人々の地位向上・認知度アップに貢献しているといえなくもないからだ。
そもそも、オカマとゲイの違いすらよく理解していない人たちに「MtF」とか「トランスジェンダー」といってもチンプンカンプンだろう。だったら、始めのうちは「オネエ(=セクシャルマイノリティー)」としてとりあえず認識してもらい、そこからさらに正確な分類を理解してもらう2フェーズ方式をとるもの有効かもしれない。フェーズ2に移行すべき時期がいつ来るのかは分からない。だがそろそろ、セクシャルリテラシー*1の高い人はこのあたりの区別を理解しても良いのではないだろうか、と考える次第である。
アニメ『監獄学園』を見ていて思った「意識なき差別」
現在放送中であるアニメ『監獄学園』は、それまで女子しかいなかった学校に入学することになった男子5人がいろいろなんやかんやするエロが強めの学園恋愛ギャグである。
そのなかで、主人公・清志と仲間の一人・岳人(通称ガクト)がゲイで、肉体関係を持っているんじゃないかと他の仲間たちが誤解するシーンがあった。その一連の流れが、セリフや気合が入った作画などのおかげもあって、かなりおもしろいのだ。私も久しぶりに爆笑した。また、(アップロードは違法なので推奨できないが)ネットにアップされていた本編で流れているコメントを見ると、私と同様にみんなこのシーンにウケているようだった。
そう、だれも、このギャグが、本当にゲイの人をひどく傷つけかねないシーンだということには触れない。この回が放送されたのが、私がLGBTについて勉強する前だったので、私も放送しているときはまったくそんなことは一切考えなかった。しかし、いまでは主人公の清志は自分がゲイに誤解されていることにひどく憤慨し、必死に否定するが、これも実際にゲイの人が見たらどのように思うのだろうかと思わずにはいられない。
とはいえこれは、難しい問題である。なにしろおもしろいのだ! さらに、『くそみそテクニック』の阿部高和をはじめ、ネット上にはゲイネタをベースにした笑いのテンプレートが多い。セクシャルマイノリティの人々を傷つけるからと言って、これらの表現を規制することはナンセンスだろう。
さらに、私はコンテンツ制作を手がける仕事をしている以上、「誰かが傷つくかもしれないから」という理由で表現の幅を狭めるのには賛同しかねる。これは、以前に『絶歌』のことについて書いたエントリーでも同様のことを主張している。だから、こうしたゲイネタを禁止すべきとは思わない。
ただ一方で、気になることもある。それが、やはり今期放送しているアニメ『GANGSTA』との差である。
この作品では、主人公のひとりであるニコラス(通称ニック)は耳が聞こえない。そのために発声も不明瞭で、アニメではニックがしゃべるとき、画面の下に字幕が出る。そして最初、テロップで「設定の都合上、字幕が出る」という但し書きが流れた。
これは、制作陣に「もしかしたら障害者差別と受け取られるかもしれない」という思いがあったからだろう。聴覚障害者に対してはこうした配慮する姿勢があるのに、ゲイネタにはないというのは差別的だ。私がちょっとひっかかるのは、ゲイネタを扱うとき、製作者側と、そして消費者側に「このゲイネタでもしかしたら傷つく人がいるかもしれない」という思いがあるのかどうかだ。
私は表現の自由は守られるべきだと思うが、それには条件がある。それは、「この表現で傷つく人がいるかもしれない」ということを認識した上で使わなければならない、ということである。世の中には「良い道具」も「悪い道具」もないが、それを使う人間が「この道具にはこんな危険性がある」ということをちゃんとわかっているかは重要だ。そして表現の場合、受け取り手にもこのモラルは求められるかもしれない。
『うる星やつら』『カイバ』から考える「肉体」と「心」の関係
さて、ここからは完全に余談になるため、暇な人だけ読んでもらえればいい。まとまりがなくなるので、あまりおもしろくないかもしれないし。
LGBTのことについて学んで、私が抱いた素朴な疑問は「心に性別はあるのか?」ということである。トランスジェンダーとは「肉体の性別」と「心の性別」が一致していない人のことだが、そもそも多くの人は自分の心が男か女かなんて考えないだろう。私も考えたことはない。
しかもこの「心の性別」、確認方法がいたって曖昧だ。要は「自分を男/女だと思っているか」である。徒花は「自分は男である」と考えたことはないし、「自分は女かもしれない」と考えたこともない。というところで私がふと思い出すのは、『うる星やつら』に登場する藤波竜之介である。
竜之介は幼いころから父の手一つで育てられた女の子なのだが、男の子を切望した父により、孤島で男として育てられる。だから女というものを見たことがないし、自分は男だと信じきっていた。その後、諸星あたるらの手により竜之介は自分が女であることを知り、ことあるごとに「おれは女だ~!」と叫びながら父親を殴るのだ。
しかしここで疑問が。「おれは女だ~!」と主張する竜之介の性自認(心の性別)は本当に女なのか、という点である。むしろ、それまで自分は男だと信じて疑わなかったことに違和感を感じなかったのだとすれば、竜之介の心の性別は男ということになり、トランスジェンダーであるともいえる。なぜなら、実際にトランスジェンダーの人は、トランスジェンダーという言葉を知らなくても、自分の肉体の性別に違和感を感じるものらしいからだ(ただしこれは、自分の周囲に男も女もいる環境による部分も大きいかもしれない)。
次に性的指向(恋愛対象)はどうかというと、どうやらこれは女っぽい。というのも、同級生の女子・三宅しのぶに好意を抱いているかのように見える描写がたまにあるからだ。ただしこれも断言はしかねる。しのぶを単に「理想の(自分がなりたい)女性」として捉えている可能性もあるからだ。逆に、恋愛対象になりそうな男のキャラクターはいなかったように思う(ちょっと記憶が曖昧だ)。
とにかく、竜之介がどちらかはわからないが、とにかく、心に性別はありそうである。しかしもうひとつ、ちょっとマイナーだが昔見た『カイバ』というアニメから、私はあることを考えた。
このアニメでは、個人の「記憶」を小さなチップにして移植できる世界が舞台だ。そのため、若い肉体に記憶チップを植え付ければ、人々は以前の記憶を持ち越したまま行き続けることができる。主人公は記憶を奪われた少年・カイバで、彼はさまざまな体を乗り換えながら自らの記憶を取り戻す旅に出かける。
そのなかで、カイバはある時期、若い女の子・クロニコの体に自分の記憶を移す。クロニコは家計の足しになるために、自分の肉体を記憶の容器として差し出した子だ。カイバはしばらくクロニコの肉体で活動していくのだが、第6話「筋肉質な女」という話の中で出会ったゲルという男に惹かれている自分に気づく。
そこでおそらくカイバは混乱するのだ。自分は男であるはずで、少女の肉体はただの容器である。しかし、ゲルという「男」に自分が好意を抱いているのだ。
まぁ実際、この話はそう単純ではないのだが、徒花がここで考えたのは「心身二元論」と「心身一元論」である。つまり、肉体と心は分離独立できるものなのか否か、ということだ。そもそも、感情や衝動は肉体から分泌されるホルモンの影響を受ける。ノルアドレナリンが多く分泌されればイライラするだろうし、ドーパミンが分泌されれば一種の躁状態になる。つまり、女の体になったカイバの心は、女性ホルモンが多く分泌されることでいつしか自然と「女の心」になったとしても不思議ではないのだ。肉体は心にも影響を及ぼす可能性がある。
しかし、となると、そもそもトランスジェンダーが存在しうるのかという問題になってくる。女の肉体に生まれたならば、自然と女の心を持つようになるのではないか。もしかすると、体質的に男性/女性ホルモンの分泌量が少ないことが、トランスジェンダーとなる鍵を握っているのか――などなど。
ちなみに、日本では「性同一性障害」という医学的な疾患がある。トランスジェンダーとほぼ同じような意味だが、こちらはきちんと医師によって「肉体と心の性別が別です」と認定された場合にだけ使われる。
この治療法の中にはホルモン療法があり、外部的にホルモンを注入して性別の不一致を解決させる方法がある。ただし、この場合、変えるのは「肉体」のほうだ。肉体に併せて「心の性別」を変えるのは、どこかではやっているのかもしれないが、一般的ではない。
おそらくその根底には「心の性別を変えても同一人物なのか」という倫理的な問題が横たわっているのではないかと考えられる。もちろん、このあたりは徒花は専門家ではないので、勝手な妄想でいっているだけだが、はたして心の性別が変わった場合、前の性別と同じ人間であり続けるのかは、よくわからない。
なんともまとまりのない最後になってしまったが、性別の不一致は突き詰めて考えていくと「自己とはなにか?」という問いかけになってしまう。たとえば今後、人工知能を搭載したロボットが生まれたとすると、そのロボットは男性でも女性でもない存在だろう。たとえば、ソフトバンクのpepperはどちらの性別でもない。
http://www.softbank.jp/robot/products/より
性別と自己。なかなか興味深い問題である。まだ考えがまとまっていないので、このあたりにしておこう。
それでは、お粗末さまでした。
*1:これは私の造語である