本で死ぬ ver2.0

基本的には本の話。でもたまに別の話。

『知識ゼロからの日本絵画入門』(安河内眞美・著)のレビュー

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私は仕事でビジネス実用系の本を作っているので、仕事の一環として最近売れているビジネス書とか実用書とかもよく読むのですが、最近はちゃんと「読む」ことがめっきり減ってきてしまいました。

この理由を考えると、単純に私が年をとってしまったことがあるのかもしれません。

結局、ビジネス書とかハウツー本で書かれていることは同じことの繰り返しであり、既知の情報ばかりになってきてしまったので、「おもしろい」と感じる機会が減ってきてしまったのです。

なので、そういったビジネス書はあくまで仕事のための資料、マーケティングの素材として淡々と「目を通す」だけになりました。

よほどおもしろいものであれば別ですが、そうでなければわざわざレビューを書いたりブログで紹介しようという気にもならなくなりつつあるのは、進歩なのか精神的後退のはじまりなのか、自分では判断がつきにくい部分でもあります。

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『完全版 無税入門』(只野範男・著)のレビュー

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どの本だったかは忘れましたが、先日Amazonでとある本のレビューをザッ見ていて、「著者の主義主張が入っていてよくない」というような書き込みを見ました。

 

私からすれば、著者の主義主張がまったく感じられない本なんて読む必要があるんか?……などと思ってしまいますが、まあ本に求めるものは人それぞれです。

 

 

しかい、じゃあ「著者のキャラが文章に出る」っていうのは具体的にどういうことなんでしょうか。

これは、なかなか説明するのが難しいです。

でも、ちょっとした言い回しや言葉の選び方、具体例の挙げ方といった文章の端々に「その人らしさ」というのは絶対に現れてくるものなのです。

あとは、「余計な一言」ですね。

別に必要ではない、最後の余計な一言に、びっくりするくらい著者の人間性みたいなものを感じ取れたりします。

 

というわけで今回紹介するこの本なのですが

 

 

著者のキャラクターが炸裂しているおもしろい本でした。

税金の本なので専門用語とか小難しい話がどうしても出てきてしまうのですが、会社員なら読んでおいて損はない一冊ですね。

著者のキャラについて説明する前に、まずはこの本の主張について説明しておきます。

 

著者の名前は只野範男(ただの・のりお)です。

これは明らかに「タダ乗り」をもじったペンネームです。

自分は税金を払わないのに、税金によって成り立っている社会の恩恵を受けているような人を「フリーライダー」といいます。

要するに税金を極限まで払わずに日本で生活している自分を自虐した名前であるわけです。

実際、只野氏はサラリーマンのかたわら、副業としてイラストレーターの仕事で年間50~100万円くらい稼いでいましたが、日常生活のあらゆるものをイラストレーターの仕事の経費として税務署に認めてもらい、赤字にしていたといいます。

イラストレーターの仕事が赤字だとなにがいいのか。

イラストレーターの仕事の赤字と、会社からもらう給与所得を合算して、自分の所得を減らすことができるのです。

この結果、只野氏は「所得ゼロ」になり、サラリーマン時代は所得税も住民税も払わないで生活していたということですね。

 

ただし、なんでもいいから副業をして赤字にすればいいというわけではありません。

会社員として得るのは「給与所得」です。

一方、副業で得た収入は「雑所得」か「事業所得」になります。

雑所得では、給与所得と合算して損益通算することができないのです。

つまり、雑所得でどれだけ費用を計上して副業を赤字にしても、本業の収入と相殺して所得税を減らすことはできないってことですね。

大事なのは、自分の副業が「事業所得」であると税務署に認めさせること。

端的にいえば、本書はそのための方法が書かれています。

 

その具体的な方法についてはぜひ本書を読んでみてもらいたいのですが、ここではあえて内容には踏み込まず、著者である只野範男さんの文体について分析してみましょう。

 

もっとも著者らしさが現れているなあと感じたのは、次の箇所でした。

 

この計算式でわかるように、売り上げが同じなら、必要経費がいちばん多くかかった人の課税所得がいちばん少なくなるので、税金もいちばん安くなります。

節税の最強かつ簡単な方法は、レシートなどの証拠物を付けて、必要経費を積み上げることです。当然ですが、友だち、知人からレシートを調達するのは、違法行為です。参考までにいうと、時効は5年です。

 

この文章を読んでみて、どう感じるでしょうか。

私はこれだけでもけっこう個性的な文章だなあと感じます。

どのあたりが個性的か、解説していきます。

 

まずこの文章は「です・ます調」で書かれています。

ふつう、「です・ます調」で書かれた文章は「だ・である調」で書かれた文章よりもやわらかい印象を与えます。

ただ、先の文章を読んで「この著者はやさしそうな人だ」と感じる人はあまりいないんじゃないかなと思います。

文章が短くて断定的なものの言い方をしているからです。

いいか悪いかは別として、けっこう自分本意な文章なんですね。

それがよく現れているのが「この計算式でわかるように」という部分と「当然ですが、」という部分です。

「これでわかってるよね?」というスタンスが透けて見えます。

 

また、「いちばん」「最強」といった断定的な修飾語も特徴的ですね。

「いちばん」なんて、1つの文章で3回も使っています。

こういう言葉って、意外と使うのに勇気が必要だったりします。

とくにこの本が扱っているのは「税金」という、かなり正確性が求められるというか、読者からイチャモンをつけられやすいテーマです。

たとえば「節税の最強かつ簡単な方法」だなんて、そう簡単には言えません。

とりわけ、この著者は税理士でも公認会計士でもないのです。

でも、強い言葉でさらっといってしまう部分に、著者の揺るぎない自信みたいなものを垣間見ることができるわけです。

 

なお、勘違いしてはいけないのですが、上記の2点のような特徴が「悪い」わけではありません。

実際、この本は人気を博して売れています。

大事なのは、こういった文章の特徴が著者の「自信」をさりげなーーく読者に植え付け、文章に説得力があるように感じさせるのに役立っているという点です。

 

そしてこれが極めつけなのですが、最大の特徴は最後の一文ですね。

「参考までにいうと、時効は5年です。」

 

この文章、別に書かなくてもいいんです。

でも、この一文を付け加えるかどうかによって、この段落の文章の述べることの意味がまったく違うものに変わってしまいます。

端的に言うと、この一文を付け加えることによって、

「友だちや知人からレシートを調達して必要経費を積み上げるのは違法行為だけど、5年間バレなければ時効になるから、やるんだったらバレないようにやってね」

というふうに受け取ることもできる……ということです。

この一文があることによって、著者の頭のよさというか、狡猾さがわかります。

そしてこれこそが著者らしさであり、私はこういう文章がけっこう好きなのです。

 

ちなみに、これ次のページもなかなか特徴的な文章です。

 

当然ですが、あらゆる領収書が経費で落ちるわけではありません。経費で落ちるレシートと落ちないレシートがあるのです。

「落ちないレシート」が混在していることが発覚すると、税務署はあらゆるレシートに疑惑の目を向けます。

担当者の追求に対し、理の通った説明ができないと、「あまり調子に乗るなよ」と追徴金というお灸を据えられるかもしれません。

では、どのように必要経費を計上すればいいのでしょう?

経費計上するかどうか、強く迷うものは外し、軽く逡巡するものは入れる、といった「自分なりの選別基準」をつくっていれば、作業がスイスイはかどります。

税務署に「これは経費として認められない」と突っぱねられれば、そのときに外せばいいのです。

「なぜこれが経費なの?」と訊かれて、「わかりません」は最悪の答え。一気に「いい加減な経費計上をしている」と税務署に不審に思われ、すべての経費に疑いの網がかけられてしまいます。

 

もういちいち説明しませんが、前の引用部分から引き続き、言葉選びの端々、文章のリズムから、いかんなく著者らしさが表現されていますね。

文章で自分のキャラクターを表現しようとするとき、べつに難しい言葉や、珍しい表現なんて使う必要はないのです。

ちょっとした部分の積み重ねが、読んでいる人にいつの間にか「その人らしさ」を植え付けていくわけです。

この『無税入門』は中身ももちろんおもしろいのですが、こういった著者の独特なキャラクターが文章の端々から感じられるということがなかなか楽しい一冊でした。

 

 

後記

二ノ国:Cross Worlds」をやってみました。

2worlds.netmarble.com

 

これはいわゆるMMORPGというやつで、ゲームをプレイしていると、フィールド上でなんやかんややっているほかのプレイヤーがたくさんいる世界です。

知り合いと協力してやってもいいし、一人でコツコツやっててもいいというやつですね。

プレイヤーは5つの職業(キャラクター)から1人を選択します。

私はエンジニア(回復補助キャラ)を選びました。

ガチャは「装備」「オトモモンスター(イマージェン)」「コスチューム」の3つがあります。

ガチャはけっこう無料で回す機会が多いですね。

 

さてプレイしてみた感想ですが、設計がうまいというか、とにかく「プレイを中断させないようにする」ための工夫が詰め込まれています。

人間ってタスクがあると達成したくなる習性があるというか、「やり残していることがある」とそれをクリアにしてしないと気持ち悪く感じてしまいがちです。

このゲームの場合、デイリーのタスクとか、1日で階数が制限されているクエストとかがものすごくたくさん用意されています。

それらを1個ずつクリアしていこうとすると、それだけで2~3時間はあっという間にかかってしまうんですね。

しかも、それらをクリアするごとにちょっとずつ報奨というか、アイテムとかお金がもらえたりするから、やっておかないと損みたいな気持ちにさせてきます。

私はこのゲームを3日ほどやってみて、「これはやり続けたら生活がダメになるやつだ」と気付き、サッサとアンインストールしました。

ガチャでまあまあいい装備が手に入ったりもしたのですが、もうやらないです。

 

これはもう何年もいわれていることですが、いまのビジネスは消費者の「可処分所得(自由に使えるお金)」ではなく「可処分時間(自由に使える時間)」をどのくらいゲットできるかを大事にしています。

こういうアプリゲームなんかは、どれだけ長時間プレイしてくれるかによって課金される可能性が変わると思うので、できるだけプレイヤーを長く拘束しておきたいと考えるものなんですね。

もちろん、プレイしていても課金しなければ出ていくお金はゼロ円なわけですが、むしろ大事なのはお金よりも時間なので、こういう巧妙なゲームには注意しなければならないなあと思いを新たにした次第でした。

 

今回はこんなところで。

それでは、お粗末さまでした。

『世界のエリートが学んでいるMBAマーケティング必読書50冊を1冊にまとめてみた』(永井孝尚・著)のレビュー

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ある本が「いい本」か「悪い本」かというのは完全に個人の主観なので正解なんてないと思いますが、私はいち読者として本に接する場合、「世の中の99%はいい本である」というスタンスでいます。

それはなぜかというと、「どんな本でも学ぶべきところが1つくらいはある」という視点で本を見ているからです。

死ぬほどつまらない本も、「なぜこの本は死ぬほどつまらないのか」ということを考えると、今後同じような本を読まないようにしようという学びを得られますね。

 

さて本書はタイトルの通り、マーケティングの名著50冊の内容をこれ1冊で簡単に理解できるという趣旨の本です。

ちなみに「MBAマーケティング必読書」と銘打っていますが、この50冊をどういう基準で選んだのかというと、これはおそらく著者の独断と偏見によるものです。

著者は多摩大学大学院でMBAを取得した経歴を持っているので、正確にいうなら「多摩大学の大学院でMBAを取得するためにマーケティングを勉強している人の必読書」という言い方になるかもしれませんね。

MBA」というのは便利な言葉で、とにかく「MBA」とつけておけばなんかすごそうに見えるものです。

 

MBAというのは、一般的には「経営学修士」のことです。

四年制大学を卒業した人は、「学士」です。

大学院を卒業すると「修士」になります。

さらに論文とかを書いて博士課程を修了すると「博士」になれます。

ただし、いろいろ調べてみると、厳密にいえば日本の大学院で経営学を学んでも、それはMBAにはならない……という意見もあります。

そもそもMBAアメリカの機関が認証した学校のものであって、日本の大学院で経営学修士の資格をとっても、それは「なんちゃってMBA」だということみたいです。

おそらくそういうツッコミは校正者からあったと思うので、著者も出版社もそのあたりのことは承知し、「通称MBA」としてブランディングのために使っているのでしょう。

なので、「MBAマーケティング必読書50冊」とタイトルに書かれていますが、この時点でけっこう適当なことをいっていますから、まあ本書の内容についても話半分くらいで考えたほうがよいと思います。

本も「法律的にアウトじゃなければ、まあいいでしょ」というテキトーなところがありますからね。

 

また内容についても、マーケティングといいながらけっこう紹介されている本は多岐にわたっています。

実際はプロモーションから営業術、マネジメント、あるいは自己啓発に近いものまでピックアップされていますね。

まあ、これも、ガチでマーケティングの本だけにしてしまうとおもしろくないというか、あまりにも玄人向けな内容になって読者が離れてしまうということでバランスをとっているものと思われます。

なので、ガチでマーケティングを学びたいというよりも、まあなんとなくマーケティングというのがどういうものなのかフワッと知っておきたいなあというくらいの人が読むとおもしろいのではないでしょうか。

 

さて本書で私が「たしかになあ」と思ったのは、Book12で紹介されている山本七平氏の『[新装版]山本七平の日本主義の精神』でした。

 

 

日本の会社員はやたら残業してよく働きます。

また、会社のトップである経営者が質素で偉ぶらないと評価されます。

これは世界のほかの資本主義の国々と比べるとかなり異質で、日本だけはちょっと違う資本主義のルールに基づいて動いているのです。

じゃあ、その「日本資本主義」と仕事の哲学の出版点はどこだったのか。

それが、鈴木正三(と石田梅岩なんだけど、梅岩は影が薄い)という思想家だったというのが本書の主張です。

 

鈴木正三は江戸初期の思想家で、

「人間が苦しまずに生きていくには心のなかの三毒(貪欲、怒りや憎しみ、愚痴)を追い出すため、修行に励むことが大事」

と主張しました。

といっても、江戸初期はやっと戦国乱世が終わった時代で、のんきに修行なんかしている暇はありません。

 

ここで正三が言ったことがスゴイ。発送を大転換したのである。

「仕事に励めばいいんです。心がけ次第で、あなたのその仕事が修行になりますよ」

農民が「畑仕事が忙しすぎて、修行は無理だ」と言うと、「何を言っているんですか。その畑仕事こそが修行ですよ。寒い日も暑い日も畑仕事に励んで、自分が食べる以上の分を世の中に返しているあなたがた農民は、ろくに修行もしていない僧侶なんかよりもずっと立派です。仏に感謝して日々の畑仕事をすれば、悟りが開けますよ」

「お金を稼ぐのに精一杯で、ヒマなんてありません」と悩む職人には、「どんな仕事も修行です。だってあなたが工具をつくらないと、困る人がいるでしょう?」

「自分は日々の儲けしか考えていません……」という商人には、「儲けの考え方を変えて、正直の道を究めましょう。『世のため人のため』と考えて商売に励み、執着心を捨てて、欲を離れて商売すれば、利益は後からついてくるものです」。

つまり、正三の教えは「すべての仕事は、宗教的な修行です。一心不乱に行えば、悟りは開けます。まず正直になりましょう。そうすればいい社会秩序が生まれます」

修行のように仕事をする日本人は海外から見ると不可解だが、その源流は正三なのだ。

 

私はどちらかというと仕事するよりグータラ家で本でも読んで過ごしたい人間ですが、なるほどこれを読むと、「労働は尊い」と考えがちな日本人の思考メカニズムがよくわかります。

日本人にとって労働というのは宗教行事なんですね。

ロジックで動いているわけではなく、そうすることによって「なんかいいことが起こる」というスピリチュアルな精神があるわけです。

これを考えると、なかなか労働時間が減らない、労働生産性が上がらない、みんなが働いているなかで休むのが気に引ける……のも頷けます。

労働時間を減らして生産性を上げれば効率的ですが、そもそも日本人は労働に効率性を求めていないのですから、これはキリスト教徒に対して「イスラム教のほうが効率的だから、イスラム教に改宗しなさい」といっているようなもんで、変えようと思ってもなかなか変えられないわけだと合点がいきました。

 

ちなみに欧米だと、労働は「しかたなくやるもの」という思想が根底にあります。

聖書では知恵の実を食べしまったアダムに課せられた罰が「労働」だったということになっていて、人間が働くのは「原罪を償うため」ということになっています。

ちなみに、イブに与えられた罰は「出産と分娩」だそうです。

もっと前の時代、古代ギリシャでは、人間が労働することは動物が獲物をとるのと同じで、野蛮かつ卑しい行為だとされていましたみたいです。

 

ただし、別にこうした日本の労働を尊ぶ思想が悪くて、欧米のような価値観が正しいというわけでもありません。

たとえば戦後の高度成長期があったのは、こうした勤労を尊ぶ人たちががむしゃらに働いたからだと思います。

要は、経済状況とか産業の成熟度合いによって、働き方の最適解は変わってしまうということなんでしょう。

本来であればもっと柔軟に働き方をスイッチングできればベストなのですが、それは「思想」という宗教的な要因が絡んでくるので、なかなかそう簡単に切り替えられないというのが実情なのだと思います。

 

 

後記

シャーマンキング』のアニメを懐かしがりながら見ています。

 

 

まあ絵柄がキレイですね。

夕方のアニメではありますが、大きいお友達を意識した作りになっていると思います。

シャーマンキング』といえば、ジャンプで連載されていたときの打ち切り終了がいまでも印象に残っています。

あれはなかなか衝撃的な最終回でした。

 

その後、完全版でちゃんと決着がついたのですが、2018年には作品のいろいろな権利とかが集英社から講談社に移っていたみたいです。

集英社講談社へのルートはなかなか珍しいんじゃないかあと思ったのですが、調べてみたらその前に集英社小学館に移籍して『ハイパーダッシュ! 四駆郎』というマンガの作画をやったみたいです。

 

 

なんかこの1巻目の表紙は武井センセっぽくないですが、3巻目、4巻目はぽいですね。

 

 

いまは『SHAMAN KING THE SUPER STAR』を少年マガジンエッジで連載中とのことでまだまだご活躍ですね。

 

 

早くリメイク番のアニメで「恐山ルヴォワール」みたいなあ。

 

今回はこんなところで。

それでは、お粗末さまでした。

『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか』(管賀江留郎・著)のレビュー

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鎌倉時代浄土真宗を起こした親鸞は「他力本願」「悪人正機」という考え方を世に打ち出しました。

この考え方を端的に表現しているのが、有名な『歎異抄』のなかの次の一文です。

善人なおもって往生を遂ぐ いわんや悪人をや

(善人だって極楽に行けるんだから、悪人だったら極楽に行けるに決まってるでしょ)

ふつうに読むと「は?意味わからん」となりますね。

善人が極楽に行けるのはわかるけど、なんでそれで「悪人も当然、極楽に行ける」という結論に行き着くのか。

 

ここでポイントになるのは「悪人」がなにを意味するのか、ということです。

ここでいう悪人とは「自分が悪い人間、至らない人間だと自覚している人」のことです。

そもそもの話、私たちはこの人間界に生まれている時点で善人ではないのです。

なにも曇りがない、迷わない、悟りを開いた人であれば、極楽浄土に行っているはずですからね。

善人というのは逆に「自分は悪いことをしていない」と考え、悪人である自覚のない人のことです。

仏さまはこういう「自分が悪人だと自覚していない人」ですら救おうとしてくれるのだから、「自分が悪人だと自覚している人」であれば当然救ってくれる……ということを親鸞は提言しているのです。

 

この「悪人」は「悪気」とも言いかえられると思います。

たとえば、ちょっとした発言でだれかを傷つけてしまって「悪気はなかった」と言い訳する人がいたら、これはなかなか、たちが悪いですね。

「悪気がなかった」ということは、自分の発言のどこが相手を傷つけてしまったのか、自分で理解できていないということです。

ここで自分の行いを反省すればまだいいですが、そもそもこの場合「自分は別に悪いことをしていない」と考えている可能性が高いわけですから、この人はまた同じように人を傷つけてしまうと考えられるわけです。

物事の善悪は主観によるところも大きいし、時代によっても変わってしまいます。

セクハラとかモラハラとか、政治家とか著名人の失言とかも、時代とともに変わっていったコモンセンス(大多数の主観)と外れてしまっていることに無自覚だったから起きてしまうものなんでしょう。

 

本書『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか』は、昭和に起きた冤罪事件が起きた背景を読み解きながら、人間全般に応用できるこの心のメカニズムを明らかにした一冊です。

言ってみれば、冤罪事件を引き起こしてしまった刑事さんとか、あるいは罪を犯していないのに罪を認めてしまった人とか、司法の人間とか、あるいは実際に人を殺したサイコパス的な犯人でさえ、みんな悪気がないのがこの本を読むとわかります。

とくに拷問を交えた自白によって誤認逮捕してしまった紅林麻雄氏などは人情味のある人柄で、世のため人のために事件を解決したいがために数々の冤罪事件を起こしてしまったきらいがあります。

本書では親鸞の話は別に出てこないのですが、その代わりに後半ではアダム・スミスの『道徳感情論』をベースに、著者の持論が展開されていきます。

 

道徳感情論 (講談社学術文庫)

道徳感情論 (講談社学術文庫)

 

 

そのくわしいロジックをここで書くのはなかなか骨が折れるので、気になる人はぜひ読んでほしいのですが、

・人間が知能を得たことで見知らぬ他者の心情を共感できるようになったこと

・それにより直接的な関係のない他者によって作り出される<評判>を重視するようになったこと

・自分に直接的な関係がなくても正しく賞罰を与えることに躍起になってしまうこと

などといえるでしょうか。

 

なお、500ページを超えるこの本、見た目のゴツさとは裏腹に読み始めるとけっこうのめり込んで一気に読める感じなのですが、個人的には文句をつけたいというか、もうちょっとこうしたほうがいいんじゃないかなと感じる点がありました。

「はじめに」です。

最後まで読み終えてから改めて「はじめに」を読むと、なるほど著者のいいたいことがまとまっているように感じられるのですが、私のようにこの本に関する予備知識がなく、あたかも社会心理学の本として読み始めた読者がこの「はじめに」を読むと、いったいなんの本なのか混乱するというか、なんか難しくてわかりにくい本にしか感じないのではないかなあと思ったのです。

「はじめに」で述べられていることを要約すると

・戦後の昭和の時代にシャーロック・ホームズ顔負けのすごい推理力を持った犯罪分析官がいた

・でも、そもそもこの本はそういうすごい人を紹介するためじゃなくて、あんまり取り上げられることのない少年犯罪の真相を解明しようとして書き始めた

・だけど調べているうちに冤罪を引き起こした刑事さんのこととか、冤罪を暴くために私生活と家族を犠牲にした刑事さんとかがいて、そういう人たちのことも紹介したくなった

・そういうことを調べていたらそもそも戦後日本の警察組織とか省庁の派閥争いとか司法のゴチャゴチャとかそういうドロドロしたものも垣間見えてきたからそれも紹介する

・とかいうことを考えていたら、こういうことのすべてがアダム・スミス道徳感情とか進化生物学的な視点から共通点があるんじゃないかと思えてきたらそれについてもまとめた

という感じでしょうか。

この認識というか、順番が正しいかどうか、私もあまり自信がもてません。

よくいえばまさにこの本の内容を網羅しているとも表現できますが、これだけの本を一冊書き上げる文章力があるならもうちょっとうまくわかりやすくまとめられるでしょ、とツッコミを入れたくなるような感じの文章だったのが残念でした。

まあでも、この「はじめに」はふーんと軽く読み流して、サッサと第1章に入ってしまえばグイグイのめりこめるので、そういう読み方をするのがいいかもしれないです。

 

 

後期

クラッシュ・バンディクー ブッとび!マルチワールド」をしばらくやってみたんですが、やめました。

https://www.king.com/ja/game/crashontherun

 

メーカーはキャンディークラッシュが有名な会社です。

いわゆる縦スクロールのランゲームで、ゲーム自体はまあまあおもしろいです。

グラフィックもきれいで、うごきもなめらかです。

ただ、いちいち先のステージに進むのにアイテムが必要なのがひたすら面倒くさいですね。

ステージに挑戦するために必要なアイテムの種類と個数が固定されていて、その素材を集めるためには別のステージを走らないといけないのですが、そのアイテムの個数と手に入るための手間のバランスがいまいちな気がします。

ちなみに本家クラッシュ・バンディクーは3までプレイしていました。

2がいちばん楽しかったですね。

 

クラッシュ・バンディクー

クラッシュ・バンディクー

  • 発売日: 1996/12/06
  • メディア: Video Game
 
クラッシュ・バンディクー2

クラッシュ・バンディクー2

  • 発売日: 1997/12/18
  • メディア: Video Game
 

 

今回はこんなところで。

それでは、お粗末さまでした。

『ネガティブ・ケイパビリティ』(帚木蓬生・著)のレビュー

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新型コロナで東京都などに3度めの緊急事態宣言が出て5/31までの延長が決定しましたが、まあたぶん大多数の市民の感覚としては「はいはい」という感じであまり気に留めていない感じかと思います。

そもそも「緊急事態」というのはなんなのでしょうか。

 

Wikipediaによると、日本で緊急事態宣言が出たのは

1941年:太平洋戦争

1948年:阪神教育事件GHQの養成を受けた日本政府が朝鮮学校を閉鎖しようとしたら在日韓国・朝鮮人共産党が暴動を起こした事件)

1982年:日本国有鉄道(いわゆる国鉄)の極度の経営悪化による強行民営化

2011年:東日本大震災による福島第一原発事故

となっています。

つまり緊急事態宣言というは

「マジ国家の存亡にかかわるやべえ状況だから、政府が一時的に法律を無視するようなことするけど許してね」

ということですね。

 

緊急事態宣言が出るというのはそれくらい「やべえ状況」であるということであって、法治国家にとっては最後の手段であるわけです。

そのため、2020年の4月に新型コロナで1回めの緊急事態宣言が出たときには国民も「これはやべえな」と思ってみんな外出を自粛したりしたわけですが、それからほとんど間を置かずに2回め、3回めをやったのは悪手で、自ら緊急事態宣言の威力を弱めてしまったといわざるをえません。

そんな感じで政府の対応もゴチャゴチャしてしまって、オリンピックもやるのかやらないのかわからず、いろいろなことの収束の兆しが見えない状況ですが、そういうときに役立ちそうなのがこのネガティブ・ケイパビリティなのかもしれないのです。

 

 

ネガティブ・ケイパビリティとはなにかというと、本書のサブタイトルの通りで、「答えの出ない事態に耐える力」です。

世の中にはみんなでがんばったり、すごいアイデアが出ることによって一気に解決する問題もあるのですが、現時点ではどうやっても解決できない問題もいろいろあります。

日本で言えば少子高齢化とか経済格差の拡大とか地方衰退とかもそうかもしれませんが、個人の生活レベルでも

・子どもが学校でいじめにあっている

・老親が認知症になった

・不治の病で余命を宣告された

などが該当するんじゃないでしょうか。

 

私たちはついつい「この世のあらゆる問題には解決策がある」「この世のすべてのことはいつか理解できる」と思ってしまいがちですが、たぶんそんなことはなくて、世の中には永遠に解決できない問題や、永遠に理解できないものもあるんじゃないかなと思います。

科学の世界もそうです。科学者の書いた本とかを読んでいると、いかに科学者がいろいろなことをいまだに解明できていないかがわかります。

私たちは自分の脳がどうやって思考しているのかわかっていないし、宇宙がどうやって始まったのかもわかっていないし、死ぬとどうなるのかもわかっていません。

宇宙なんてほとんどダークマターダークエネルギーという厨二病かよという謎物質と謎エネルギーです。

 

宇宙は何でできているのか (幻冬舎新書)

宇宙は何でできているのか (幻冬舎新書)

  • 作者:村山 斉
  • 発売日: 2010/09/28
  • メディア: 新書
 

 

ただ、かくいう私も、割と白黒ハッキリつけたがる人間で、もやもやした状態が好きじゃありません。

前の記事で紹介したミステリの1つのジャンルに「リドル・ストーリー」というものがあります。

これはあえて結末を書かず、読者の想像にまかせる物語ですが、私はこういうのが嫌いです。なにかしら書き手が結論づけてほしいなあと思ってしまいます。

ただこの傾向があるのは私だけではないようで、人間という生き物に生来備わっている能力によるようです。

 

<問題>を性急に措定せず、生半可な意味づけや知識でもって、未解決の問題にせっかちに帳尻を合わせず、宙ぶらりんの状態を持ちこたえるのがネガティブ・ケイパビリティだとしても、実践するのは容易ではありません。

なぜならヒトの脳には、後述するように、「分かろう」とする生物としての方向性が備わっているからです。さまざまな社会的状況や自然現象、病気や苦悩に、私たちがいろいろな意味づけをして「理解」し、「分かった」つもりになろうとするのも、そうした脳の傾向が下地になっています。

目の前に、わけの分からないもの、不可思議なもの、嫌なものが放置されていると、脳は落ちつかず、及び腰になります。そうした困惑状態を回避しようとして、脳は当面している事象に、とりあえず意味づけをし、何とか「分かろう」とします。世の中でノウハウもの、ハウツーものが歓迎されるのは、そのためです。

「分かる」ための窮極の形がマニュアル化です。マニュアルがあれば、その場に展開する事象は「分かった」ものとして片づけられ、対処法も定まります。ヒトの脳が悩まなくてもすむように、マニュアルは考案されていると言えます。

 

ところがあとで詳しく述べるように、ここに大きな落とし穴があります。「分かった」つもりの理解が、ごく低い次元にとどまってしまい、より高い次元まで発展しないのです。まして理解が誤っていれば、悲劇はさらに深刻になります。

私たちは「能力」と言えば、才能や才覚、物事の処理能力を想像します。学校教育や職業教育が不断に追求し、目的としているのもこの能力です。問題が生じれば、的確かつ迅速に対処する能力が養成されます。

ネガティブ・ケイパビリティは、その裏返しの能力です。論理を離れた、どのようにも決められない、宙ぶらりんの状態を回避せず、耐え抜く能力です。

 

なお、ここがすごく難しいところなのですが、ネガティブ・ケイパビリティは上で引用したようなものを指しているので、本書では「どうすればネガティブ・ケイパビリティが身につくのか」というハウツーや、「ネガティブ・ケイパビリティを利用することでなにがどうなるのか」という解決策は提示されません。

そもそも、ネガティブ・ケイパビリティはそういう次元で論じられるものではないからです。

なので、いわゆるメンタル系のハウツーもののように、現在進行系でなにか下の事態に困っている人の事態を解決したり、進展させるものではありません。

強いてメリットを上げるとすれば、世の中のさまざまな不条理や解決困難な問題に直面しても、それに対峙してメンタルを弱らせないようなレジリエンスが身につく……といえるかもしれませんが。

なかなかつかみにくくて、扱いが難しい力でもありますね。でも、知っておいて損はないと思います。

 

あともう1つ、ネガティブ・ケイパビリティのリスクみたいなものを挙げるとすれば、問題に直面したとき、なんでもかんでも耐えればいいというわけではないということでしょうか。

世の中には解決できない問題もありますが、本人の努力やちょっとしたアイデアで「解決できる問題」があるのもまた事実です。

厄介なのは、私たちはそういう「解決できる問題」と「解決できない問題」に矢継ぎ早に直面していて、その2つを判断しながら生きていかないといけないということですね。

解決できない問題を解決しようとして心身をすり減らすのもしんどいですが、解決できる問題に対してネガティブ・ケイパビリティを発揮してもなかなか幸福に離れないように思います。

要はバランスの問題ですね。

私たちは普段「がんばる」ほうに体重をかけがちで、がんばらないとか、耐え忍ぶとか、現状をそのままにするということに意識が向かいません。

でも、それだと疲れてしまうから、こういうネガティブ・ケイパビリティみたいな概念を知っておいて、どうしてもダメならあきらめましょう、受け入れましょうという「選択肢」を知っておくことが大事なんじゃないでしょうか。

それがまた、実践するのは難しいんですが。

 

 

後記

今季のアニメで「オッドタクシー」を観ています。

マンガ原作ではない、アニメオリジナル作品で、先が読めないからおもしろいですね。

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オットセイのタクシードライバー小戸川を中心に、いろいろな人間模様を描くヒューマンドラマです。

中心になっているのは「女子高生失踪事件」で、それに小戸川がからんでいるようですが、いろいろ細かい謎が多いですね。

なお、この作品では『BEASTERS』みたいな感じで、登場人物たちがすべて動物で描かれています。

ただ、これは別の人も考察しているのですが、私がちょっと感じたのは「もしかしたら登場人物たちが動物に見えているのは主人公の小戸川だけなんじゃないかな」というものでした。

小戸川は精神科に通院していて、不眠症でもあるのですが、もしかしたらそういう精神病の一環なのかもしれないなあと。なんとなく、そう感じさせるシーンがたまにあります。

あとOPが雰囲気あって素敵です。

 

今回はこんなところで。

それでは、お粗末さまでした。