本で死ぬ ver2.0

基本的には本の話。でもたまに別の話。

『天気の子』が最高だった

『天気の子』を見てきました。

 


映画『天気の子』スペシャル予報

 

今回は申し訳ないが、ネタバレ全開で感想を書かせてもらう。

なので、まず冒頭で「ネタバレなしのダイジェスト感想」を箇条書きにした。

ネタバレが嫌な人はこのダイジェスト感想だけを見て回れ右をしていただければ幸い。

 

【ネタバレなしのライトな感想】

●たしかにあの2人は「世界の形を決定的に変えてしまった」。なるほど、そういう結末に持っていくのね、という感想。すごくその終わり方がイマドキというか、今の時代だからこそ受け入れやすくなっているエンディングであるような気がする。嫌いじゃないそういうの。

●『君の名は。』よりもいろいろなところでちょっとだけアダルティ。風俗系のお店が出てきたり、ラブホテルに泊まったり、谷間を強調させたりと鑑賞者に「性」を意識させる描写がちらほら。

●見ていてちょっと心が辛くなるシーンもあるけど、かといって『おおかみこどもの雨と雪』とか『未来のミライ』ほどではないのでちょうどいい塩梅。子どもと大人という対立軸が作品を貫く1つのコンセプトになっている。

●キュンキュン度合いは『君の名は。』には劣るし、やっぱり三葉と瀧くんの邂逅シーン以上に心が震えるところはなかったけど、全体的なシナリオとか空気感とかは初期の新海誠監督っぽさがちょっと強めに感じられたので個人的にはこっちのほうが好き。

●凪先輩はマジ先輩

 

というわけで、以下からばんばんネタバレしていきます。

 

 

 

 

 

 

セカイ系というジャンル

端的に言うと、『天気の子』は大衆向けに作られた「セカイ系」のアニメーション作品だった。

セカイ系っていう言葉は定義がめちゃくちゃ曖昧なので説明するのが難しいんだけど、私なりにめちゃくちゃ簡単に説明すると

「主人公(主に男)が、ヒロインとセカイを天秤にかけてどちらか片方だけを救わざるを得ない状況に追い込まれる物語設定の1つの型」

だと思ってもらえればいい(異論は認める)。

 

ここでセカイを「世界」ではなく「セカイ」とカタカナで表記しているのには理由がある。

というのも、セカイ系の物語においてヒロインと天秤にかけられるセカイは、必ずしも「全世界」とか「宇宙」といった、広く一般的な意味における「世界」を示さないことも多々あるからだ。

セカイ系においてヒロインと天秤にかけられるセカイは、主人公あるいは登場人物たちの主観的な範囲だけを指すことが多々ある。

この「主観的」というのが「セカイ系」においては結構ミソで、これが「どの作品が『セカイ系』なのか?」の判断を難しくしていると思う。

 

ただ、一般的にセカイ系の代表的な作品と言われているのは『新世紀エヴァンゲリオン』『涼宮ハルヒの憂鬱』『イリヤの空、UFOの夏』『最終兵器彼女』などだ。

 

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序
 
イリヤの空、UFOの夏 Blu-ray -memories of summer-

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んで、じつは新海誠監督のデビュー作と言うか、初めての劇場公開作品である短編アニメ『ほしのこえ』もその一列に加えられることが多い。

 

ほしのこえ

ほしのこえ

 

 

ただ、私としてはどちらかというと同じく新海誠作品の『雲のむこう、約束の場所』のほうが典型的なセカイ系であるように感じられるのだけど、こういうところがセカイ系を論じる難しいところであり、楽しいところでもある。

 

雲のむこう、約束の場所

雲のむこう、約束の場所

 

 

『天気の子』における「世界」の範囲

んで、今回の『天気の子』だけど、まずもっとCMなどでも象徴的なメッセージがこちらだった。

 

「あの夏の日、あの空の上で私たちは世界の形を決定的に変えてしまったんだ」

 

作品の舞台は夏なのにいつまでも雨が振り続ける東京。

ヒロインの陽菜は、祈れば必ず天気にできる晴れ女という設定なのだが、じつは彼女は神様?によって選ばれてしまった生贄みたいなもので、一時的に天候を操る力を手に入れるのだが、振り続ける雨を止めて夏を到来させるには、彼女自身の肉体が消えて空に還らなければならない。

 

そこで、主人公である家出少年の帆高は、「陽菜」と「正常な天気に戻すこと」の二者択一を迫られる。

このことからもわかるように、ここで指している「世界」は、あくまでも彼らの生活する東京(しかも都心部の23区内だけ)を指しているわけで、この異常気象が日本中あるいは世界中にも及んでいるものなのかということは、作中では一切触れられない。

 

主人公の決断が本当に「東京」の姿を変えてしまった

セカイ系の場合、主人公はほとんどの場合、セカイを無視して「ヒロイン」を選ぶ。

それは『天気の子』でも同様だ。

帆高は「ずっと雨が降り続いてもいいから、陽菜を取り戻したい」と願い、それを実現させる。

 

よくあるアニメの場合、ヒロインを助けたあと、なんらかの奇跡的な現象が起きて、問題も解決するパターンが多い。

要するに、最初は「ヒロインorセカイ」のどちらかを迫られていたはずなのに、最終的には「ヒロインもセカイも救えちゃったよテヘペロ」というハッピーエンドになることも多いのだ。

ただ、そこの部分が『天気の子』では違った。

帆高が陽菜を助けたことで、その後3年間に渡って本当に毎日雨が振り続け、東京23区の大部分が海に沈んでしまうのだ!

つまり、帆高の決断が、物理的な意味で本当に「セカイの形」を変えてしまったのである。

 

いままでの常識が常識じゃなくなる

常識的に考えれば、東京の都心が水没してしまうのは「悪い」ことだ。

でもこの作品の場合、3年後の東京も少しだけ描かれている。

そのセカイでは、すっかり水没してしまった東京でも、意外と人々はその環境にも適応して普通に生活しているわけだ。

たとえば、人々は電車の代わりに船を使って通勤や通学をしている様子が描かれたりする。

 

これは発想の転換というか、「セカイが滅んでもいいんじゃないか」というようなメッセージを投げかけている。

ここで私が述べた意味での「セカイ」は「これまでの常識」という意味で捉えてもらっても問題ない。

たとえば卑近な例を上げれば、最近は大企業に就職しても年功序列や終身雇用という、これまでの日本社会で当たり前に続いていた各制度が崩壊している。

年金制度だって、50年後くらいにはなくなっているかもしれないと感じている人もいるだろう。

 

そもそもの話だが、私たちが正しいと思っている「常識」はたかだか数十年しか続いていないもので、それ以前には全く違うルールが「常識」として成り立っていた。

たとえば作中でも、人柱として捧げられる「天気の巫女」の話をしていた寺の住職は、「そもそも『異常気象』というのは人間が観測してきた、たかだか100年くらいの範疇だけが基準であって、もっと数百年レベルで見た場合、それが異常かどうかなんてわからない」

と述べている。

そして作品の最後でも、「そもそも東京は海だった」「最近の気候と人間の技術が東京という都市を生み出しただけ」というようなことが述べられている。

セカイはもともと狂っているのだ、と。

 

私たちは無意識的に「変わることは良くないこと」という先入観を植え付けられているだけなのかもしれない。

そのことに多くの人が潜在的なところで気づき始めているんじゃないかといういまの時代だからこそ、この結末は受け入れられやすい。

その意味で、この『天気の子』は単に男女の恋愛を描いたラブストーリー以上のメッセージを観客に投げかけてくれるんじゃないか、ということを感じた。

 

親なきセカイ

ヒロインの陽菜は母親を病気で亡くし、小学生の弟・凪と2人で暮らしている。

陽菜も凪も、大人によって児童施設に入れられ、離れ離れにされることを恐れている。

ちなみに、父親のことについては一切語られない。

 

一方、主人公の帆高も、まだ高校生ながら地元の島を離れ、わずかなお金を持って東京に出てきた家出少年だ。

ここで興味深いのが、

・帆高はそもそもなぜ家出を決意したのか

・帆高は最初に顔に傷を追っていた原因はなにか

など、帆高の華族に関するプライベートな事柄について、作中でまったく説明されない点だ。

一瞬だけ、帆高の父親と見られる、気難しそうな男性が写っている写真が出てくるのが、親子仲が悪いとか、虐待を受けているとか、そういう話は一切ない。

 

陽菜たちにしても、帆高にしても、父親という存在が一切排除されていて、詳しい経緯などが省かれている。

まあ、これもセカイ系ではけっこうありがち。

 

大人vs子どもという構図

セカイを変えることを許容するかどうか、その対立軸としてわかりやすく配置されているのが「これまでどおりの生活を死守する大人」と「そんなの関係ねえ子ども」だ。

本作で敵役として描かれているのは「家出少年を強制送還しようとする警察」「親のいない陽菜と凪を施設に入れようとする職員」など、秩序を守ろうとする大人たち。

 

なので、主人公たちが社会的な弱者として、大人たちの強権的な態度に翻弄されるシーンはある。

いかにも都会の無慈悲さ…みたいな悲哀さがあるシーンも少なくない。

警察に指名手配され、真夏なのにいよいよ雪まで降り出した極寒の池袋で、行く宛もなくさまようところとか。

似たようなシチュエーションは細田守監督の『おおかみこどもの雨と雪』でも描かれていたが、あちらほどつらく描きすぎていなくて、いい塩梅だった。

 

なお、大人と子どもの中間に立っているのが、帆高を雇う編プロの社長、須賀圭介だ。

彼はれっきとした大人ではあるが、大人になってしまった自分に少し幻滅していて、だからこそ、子どものまま自分の欲望に従って動く帆高にあこがれている部分がある。

ただ、そこは人生経験が豊富だからこそ「そろそろ大人になれよ」と、完全に枯れの味方に立つわけでもなく、大人として彼を導くような言葉も口にする。

 

大人になりきれない新海誠監督

私が個人的に思うのは、新海誠監督がいちばん自分を投影しているのがこの須賀だろうってことだ。

須賀は結局、警察に追われる帆高を助けるために警察にタックルをかますように、おとなになりきれない大人だ。

そして、大人になりきれない大人という意味では、まさに新海誠監督自身がそれなのだ。

 

前作の『君の名は。』は、「男女のすれ違い」という深海監督のがお得意とするシチュエーションを中心に据えつつ、全体的な雰囲気とかシナリオのテンポとかそういうところはかなり大衆に迎合したかたちを徹底させて大ヒットとなった。

それに比べると、今回の『天気の子』は、最低限のエンターテイメント性を確保しつつ、そこそこ深海監督の趣味が随所に垣間見えるものとなっている。

それはやっぱり、自分の描きたいもの、自分の伝えたいメッセージを抑えきれなかったという深海監督の子どもっぽい部分が出てしまったがゆえだろう。

 

ただもちろん、『雲のむこう、約束の場所』とか『秒速5センチメートル』ほどは趣味を全開にしてはいなくて、そこはやっぱりプロデューサーの川村元気氏がうまくバランスを取ったのかな、と。

ただ、以前より新海誠監督の作品が大好きだった私としては、いい感じで新海誠監督らしさを出しつつ、セカイ系のフォーマットを使ってわかりやすく、メッセージ性の高い作品となっているので、だんぜん『君の名は。』よりも楽しかった。

 

ただ、純粋に男女の恋愛というところにおいて、『君の名は。』のようにもだえるようなキュンキュンするシーンは物足りなかった。

 

凪先輩はマジ先輩

陽菜の弟であり小学生男子の凪くんは、同じ小学生女子からそうとうモテる女たらしである。

「付き合う前はハッキリとした態度で、付き合い始めたら曖昧に」

なんてアドバイスを小学生男子の口から聞くなんて……。

 

なによりも凪先輩の半端ないところは、物語の後半に自分が施設に収容されてしまったとき、そこから脱出するための影武者として元カノを呼び出し、今カノ?と同席させて見事なチームプレーを成功させてしまう点にある。

いやはや、元カノとの関係も良好で、女の子同士をうまく同席させるなんて高度なテクニックを使えるのは、ほんとうに「いい女たらし」っぷりである。

 

 

まあ長々ととりとめなく述べてきたが、結果的には最高だった。

新海誠監督らしさとエンターテイメント性をうまくバランシングしながらまとめた、といっていいんじゃないか。

いや、もしかしたら普通の人からしたら、私が感じるよりも新海監督本来の味を強く感じすぎて、イマイチに感じるものだろうか。

とにかく見てみてほしい。

 

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https://tenkinoko.com/ より