本で死ぬ ver2.0

基本的には本の話。でもたまに別の話。

カラヴァッジョ展の感想と『モチーフで読む美術史』のレビュー

国立西洋美術館で開催されているカラヴァッジョ展に行ってきた。

もくじ

土曜日はあいにくの曇り空で、冷ややかな風が吹くイマイチな天気ではあったが、上野公園は花見客がたくさんいて、寒さなんてまったく気にせずにお酒を飲んだりしていた。その人の多さに驚きつつ、上野についた私は「こりゃ、もしかするとカラヴァッジョ展も激混みかもしれんぞ」と考えたが、杞憂であった

カラヴァッジョ展は空いていた。土曜日なのにびっくりするくらい空いていた。逆に怒りが湧いてくるくらい空いていた。もっとみんな、カラヴァッジョを見ようぜ!!

カラヴァッジョについて

カラヴァッジョについては過去のエントリーで紹介しているので今回は割愛するが、暴力沙汰を起こしたり人を殺したりしてイタリア各地を転々としながらも、絵の魅力でパトロンを獲得したかなりヤンチャな人である。

ここではカラヴァッジョが西洋美術史的に果たした役割について述べていきたい。

まず、カラヴァッジョが活躍したのは16世紀後半から17世紀にかけて。関ヶ原の合戦が1600年なので、ちょうど日本がチャンチャンバラバラしていた時代である。西洋美術史的にはちょうど人間の肉体美を描く「ルネサンス期」から、劇的な表現で個々人の人間が持つ感情表現が描かれるようになった「バロック期」への移行期間だ。……というか、じつはこのカラヴァッジョこそがルネサンス期からバロック期へ移行させた立役者である。

西洋絵画に「光と影」をもたらした

その最大の功績は何かというと、西洋美術に「光と闇」をもたらした、という点。そもそも、古典主義からルネサンス期の美術というのは、たとえば超有名なレオナルド・ダ・ヴィンチの絵画『最後の晩餐』を見ればわかるように、あんまり「光源」を意識していない絵が多い。

この絵も、室内の絵なんだから本来であれば窓の外から入ってくる光と、それによって作られる影の対比があってもいいようなものなのだが、部屋の隅から隅までしっかり描かれていて、光が隙間なく照らしている。まあ、端的に言えばメリハリがない(個人的にはこういうのっぺりした絵も好きだが)

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これに対して、こちらはカラヴァッジョが描いた『聖マタイの召命』。見ればわかるように、窓から差し込む光によって鮮明な陰影が描かれ、驚きに満ちた人々の表情が生き生きと描かれている。

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こうした手法は当時としてはかなり斬新で、以後、カラヴァッジョの手法に惹かれた人々(カラヴァジェスキ)がこの表現方法を広めていったことで「バロック期」が到来し、日本でおなじみのレンブラントフェルメールが台頭してくるわけだ。

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『フランス・バニング・コック隊長の市警団』レンブラント・ファン・レイン

※近年の研究によってべつに夜の風景ではないということが明らかになってきているので、最近は『夜警』とはいわない

f:id:Ada_bana:20160402235113j:plain真珠の耳飾の少女ヨハネス・フェルメール

ただし、『聖マタイの召命』のように光源がはっきりとわかるのは少ない。むしろ、「光源はどこだかよくわからないけど、とにかく陰影ははっきりしている」というのと、「背景を基本的に排除し、描いた対象に焦点を合わせてる」というのがカラヴァッジョの絵画の特徴だ。

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『果物籠を持つ少年』

なお、上の絵はカラヴァッジョ自身がモデルになった絵ともいわれている。

世界初公開となる『法悦のマグダラのマリア

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本展にて世界初公開決定!《法悦のマグダラのマリア》 | カラヴァッジョ展 CARAVAGGIOより

2014年、長いこと行方不明とされていたカラヴァッジョの作品が発見されました。《法悦のマグダラのマリア》。この作品は、カラヴァッジョが殺人を犯してローマを逃亡し、近郊の町で身を隠していた1606年の夏に描かれたもので、その4年後の1610年、彼がイタリアのポルト・エルコレで不慮の死を遂げた時、彼の荷物に含まれていた「1枚のマグダラのマリアの絵」がこれであると考えられています。科学調査を受け、カラヴァッジョ研究の世界的権威であるミーナ・グレゴーリ氏が本作を"カラヴァッジョ真筆"と認定。世界で初めて、本作品が公開されることとなりました。

説明すると、「マグダラのマリア」はキリスト教における聖人のひとりで、もともとは娼婦(諸説あり)だったけれど、イエスに出会って悔悛し、最終的にはイエスの最期を見届けたひとりとされている。イエスのお母さんである聖母マリアとは別人なので間違わないように。ちなみに、法悦というのは宗教的な愉悦のこと。マグダラのマリアは聖人なので宗教画だが、ごらんのとおり、カラヴァッジョの描いたマリアは胸をはだけてなかなか官能的なので、当時はけっこう批判もあった模様。

あと、もうひとつ、徒花が見れて良かったなーと思ったのはメデューサの首』

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ご存じ、目を見ると石になってしまうギリシャ神話の怪物で、英雄ペルセウスによって征伐されたわけだが、ペルセウスは倒したメデューサの首を持ち帰って自分を庇護してくれた女神アテナに贈る。すると、アテナは自分の盾・アイギスにそれをとりつけて最強の盾とした――といういわれがあるので、カラヴァッジョは本物の盾にキャンバスを取り付けて局面に切り取られたメデューサを描いたわけだ。

このメデューサの首は複数あるらしいが、今回展示されていたのはおそらく一番最初のバージョンとのこと。X線を使った調査によって、ほかの作品にはない入念なデッサンがあったのがその証拠とされている。盾は膨らんでいるのだが、実物を見るとまるで盾が凹み、その中にメデューサの首が浮かんでいるようにも見える不思議な作品で、かなり印象が強かった。

カラヴァッジョ展の残念だったところ

精緻かつ躍動感にあふれた各種の絵は素晴らしかったが、ちょっと残念だったのはカラバッジョの絵画自体が11点しかない……ということ。ほかは、カラヴァジョスキの絵画となっているのが不満だった。個人的には『ホロフェルネスの首を斬るユディト』とか、『トランプ詐欺師』とかも見たかったな。

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そうそう、カラヴァッジョの魅力のもうひとつは陰影とか背景の単純化だけではなく、キャラクターの顔に浮かび上がる活き活きとした感情にもある。ユディトの超イヤそうな表情とか、イカサマのためにカードの模様を盗み見る男の表情とかたまらんです。

ちなみに徒花は展覧会に行くと音声ガイドを買う派だが、今回は北村一輝さんと女性ナレーターが喋ってた。けど、正直なところ北村さんの声はちょっとわざとらしすぎて演技臭さがあり、うざい。NHK日曜美術館みたいに、落ち着いた女性の声で淡々と話してくれた方が嬉しかったり。

『モチーフで読む美術史』のレビュー

モチーフで読む美術史 (ちくま文庫)

モチーフで読む美術史 (ちくま文庫)

 
モチーフで読む美術史2 (ちくま文庫)

モチーフで読む美術史2 (ちくま文庫)

 

というわけで、ここからは読んだ本のレビュー。紹介するのはこちらの2冊。内容を端的に紹介すると「絵画の中に描かれているちょっとしたモノの意味を知ると、美術鑑賞が楽しくなるよ!」という内容だ。とりわけ、西洋美術はキリスト教のことについてある程度の知識があったほうがいい。

『モチーフで読む美術史』はもともと新聞に連載していたものを編集し直したもので、各モチーフについて見開き1ページで完結しているのでサラサラ読める。しかも、関連する絵画も全ページフルカラーで掲載されているのもうれしいところだ。

一方、『モチーフで読む美術史2』は前作が好評だったため、筑摩書房のWebサイトで掲載されていたものをまたまとめなおしたものだが、こちらはイマイチだった。というのも、新聞に掲載されていた分には文字量に厳密な制限があったために端的にまとめられていたのだが、ネット掲載になるとそうした文字量がルーズになるので、どうしても冗長になりがちなのだ。そのため、こちらはモチーフの説明が3ページ以上にながくなっていたりする。また、モチーフの選び方も前作ほどではなく、「そのモチーフが意味する隠れたメッセージ」が希薄だった。こちらは読まなくてもいいかもしれない。

ちなみに、読めばわかるが、本書ではけっこうカラヴァッジョの作品をたくさん紹介している。

持物(アトリビュート)について

さて、モチーフの中で重要なもののひとつは持物(アトリビュートとよばれるものだ。マンガとは異なり、絵画では描かれている人物がいったい誰なのかを説明するのが難しい。そこで、描かれている人物は基本的にアトリビュートによって判断される。

たとえば、上でも紹介したマグダラのマリア」のアトリビュートは香油壺である。これは、彼女がイエスの足を自分の涙で洗って自分の髪の毛で拭き、香油をつけてもてなしたという逸話に由来する。ほかにも、マグダラのマリアと一緒に描かれていることの多いものには髑髏(ガイコツ)がある。なんでかというと、ガイコツは死の象徴であり、メメント・モリ(「死を忘れるな」という、西洋美術における代表的なモチーフのひとつ)に関連して「悔悛」を表現するからだ。つまり、髑髏が一緒に描かれているということは、マグダラのマリアが悔悛した人物であることを表現しているのである。

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マグダラのマリアの浄化』ホセ・デ・リベーラ(下の天使が持っているタマネギみたいなものが香油壺で、右端の天使が髑髏を頭の上に掲げている)

ほかにも、だいたい聖人たちにはこうしたアトリビュートが決まっている。下に一覧にしてみたが、もちろん、なんでこれがアトリビュートなのかという由来はそれぞれあるので、気になった人は各自調べてみるとおもしろいだろう。

モチーフだらけの絵『愛の寓意』

もちろん、アトリビュート以外にも、モノそれ自体があることを示している。おもしろいのは、『モチーフで読む美術史』に紹介されていたブロンズィーノの『愛の寓意』である。とにかくこの絵、いたるところにさまざまなモチーフが配されているので、それぞれ説明してみよう。

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順番に説明していく。まず、中央でキスをしているのは愛の女神ヴィーナス(またはアフロディーテとその息子、クピド(いわゆるキューピッド、もしくはエロス)だ。「金のリンゴ」がヴィーナスの象徴で、「弓矢」と「天使の羽」がクピドの象徴なので、この2人だとわかる。

そして次に目をつけたいのは「薔薇の花」。これは愛の象徴であり、しかもそれが友愛とか親愛ではなく、「官能的な愛」であることを表現している。ついでに、左下にひっそりといる「鳩」も同じく愛を表現しているが、鳩の場合は「平和」を象徴している場合もある。ちなみに、ヴィーナスとクピドは実の親子だが、ギリシャ神話において近親相姦は日常茶飯事なのであまり気にしてはいけない

これだけならいい絵なのだが、一般的にこの絵は「怖い絵」として知られている。なんでそういわれているのか、以下、説明していこう。

次に注目するのは左の端っこで叫んでいるおばあちゃん。これは「『嫉妬』の擬人像」である。さらに、右下にさりげなく置いてある「仮面」は「欺瞞」を表している。そして、もっとも恐ろしいのが薔薇の花びらを振りまく少年の後ろからのぞく無表情な顔だ。

これは仮面と同じく「『欺瞞』の擬人像」。顔は人間だが、よーーく見ると体は獣で、ただものではない。そして、右手と見せかけて左手に持っているのは「ハチの巣」である。ハチは「勤勉」「神の愛」の象徴とされることもあり、さらにいえばクピドのアトリビュートなのだが、同時に「愛に伴う痛み」でもある。右手で隠し持っているのは「サソリ」。こちらもハチと同様、痛みを象徴しているのだろう。

そして、後ろでなんか難しい顔をしているおじいちゃんは「時の翁」と呼ばれる人物。これはサトゥルヌス(もしくはクロノス)がモデルとされていて、「(有限の)時間」「死」のモチーフである。余談だが、時の翁のアトリビュートは「鎌(サイズ)」で、もちろん命を刈り取るためのものである(砂時計が時を表現する場合もある。見づらいが、じいちゃんの後ろにひっそりと砂時計が描かれている)。マンガとかで描かれる死神が鎌を持っているのはおそらくこの影響。有名な絵画ではシモン・ヴーエの描いた『愛と美と希望に打ち負かされる時』。足元に鎌が転がっている。じいちゃんがいじめられているようにしか見えないが……。

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話を戻そう。『愛の寓意』において、時の翁はベールを取り去ろうとしている。つまり、「時間の経過によって醜い部分が暴かれる愛」がこれによって表現されているわけだ。なによりも、接吻で気を紛らわせつつ、クピドはヴィーナスの髪飾りを盗もうとしているし、ヴィーナスもクピドの弓矢を盗もうとしてる

つまり、この絵は「一見すると美しい男女の情愛には、さまざまな危険が隠れているから気をつけなはれや!」というメッセージを描いているのだ……ということが、それぞれのモチーフが持つ意味を理解できるとわかる。

マイクロソフトのOSが「ウィンドウズ」な理由

実をいうと、こういうキリスト教ギリシャ神話などに基づいたものは西洋のあらゆる部分に浸透していて、おもしろい。たとえば、マイクロソフトが自社のOSの名前を「ウィンドウズ」にしたのかも、キリスト教が関係している。

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そもそもビル・ゲイツ氏は敬虔なキリスト教徒で、「窓」というのは絵画および神を見るためのフィルター的な役目を持っているものなのだ。本来、キリスト教カトリックとしては神様を絵として描写するのはよくないことなのだが、聖像および絵画というのは神を見るための窓に過ぎないというへ理屈によって宗教画を正当化させたという経緯がある。また、画面上のマークを「アイコン」と名付けたのも、そもそも聖像を意味する「イコン」に由来する。

なんでネロとパトラッシュが最後に見たのが『十字架降下』なのか

イギリスの作家ウィーダが生み出した童話フランダースの犬はアニメ化もされたので誰でもそのあらすじを知っていると思うが、主人公のネロとパトラッシュが命を落とすとき、彼らがルーベンスの描いた『十字架降下』の前にいたのにも作者による隠されたメッセージがある。

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これ、じつは大切なのは「梯子」だ。梯子は旧約聖書の創世記においてヤコブが見た夢の中に登場し、天国につながる階段を天使たちが上り下りしていたという描写から、「天国へとつながっている」ことの象徴でもあるわけだ。つまり、ネロとパトラッシュはこの絵の前で命を落とすわけだが、梯子が描かれた絵の前であることから、彼らの魂が無事に天国へと旅立っていったことを暗に示しているのである。

ドラコ・マルフォイは名前からして明らかに敵

また、蛇。聖書において最初の人間、アダムとイブをそそのかして知恵の実を食べさせた存在なのでもちろん「悪」の象徴なのだが、じつは同時に「賢さ」の象徴でもある。もっと純粋に悪(つまり、神の敵)を表す場合は「ドラゴン」になるが、じつはラテン語においては蛇とドラゴンはどちらも「ドラコ」という同じ単語で表現される。ハリー・ポッター』シリーズで主人公ハリーの仇敵といえば、蛇がモチーフになっているスリザリンに入ったドラコ・マルフォイだが、名前からして彼は最初から敵役であることを示されていたのである。

なお、蛇は最初っから手足がなかったわけではない。下の絵を見ればわかるように、じつはエデンの園にいたときは手足があったのだ。蛇が手足を失ったのは、人間とともに楽園を追放されたとき、神から「お前は罰として、一生地面を這ってろ!」とされたからである。

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『原罪』フーゴー・ファン・デル・グース

おわりに

いといろ取り留めもないことを語ってしまったが、とにかく「モチーフの勉強は楽しい!」ということである。あと、キリスト教も楽しい。聖書を読むのはかなりしんどいので、もうちょっと簡単な本を読んでみよう。個人的におすすめなのは『「バカダークファンタジー」としての聖書入門』である。神様がやたらめったらに人を殺しまくっていることに突っ込みつつ、いろいろと手短に聖書の内容をまとめている。

もちろん、今回紹介した『モチーフで読む美術史』もオススメだ。じつは、あとがきがかなり読む者の涙腺を刺激するものとなっている。合掌。

 

それでは、お粗末さまでした。