『ベストセラーを書く技術』(晴山陽一・著)のレビュー
私は気になる本があった場合、とりあえずAmazonの「欲しい物リスト」に放り込んでいます。
気になる本を片っ端から買っていくと、私の財布がスッカラカンになってしまうのと、置く場所がなくなるからです。
たぶんいまは200冊くらいがストックされているはずです。
「ほしいものリスト」は定期的に見直します。
あんまり読む気がなくなった本はリストから削除し、「やっぱり読んでみよう」と思った本はだいたい図書館で借ります。
図書館でも手に入らなくて、それでもどうしても読みたい本は買います。
また、図書館で読んだ本でも、やっぱり手元に置いておきたいなと思った本は、改めて買ったりします。
さて、「ほしいものリスト」が200冊くらいもあると、古いものでは「なんでこの本をリストに入れたたんだろう?」と過去の自分の行動原理がサッパリわからないものも出てきます。
この本も、そんな一冊でした。
いったいなにがきっかけでこの本を見つけ出し、なにが気になってリストに打ち込んだのか、よくわからなかったのです。
ただ、タイトルや装丁の雰囲気的に「すぐ読み終えられそうな本だなあ」と感じたので、気軽に図書館で予約して読んでみました。
すると意外や意外、思って異常に骨太な内容というか、内容がけっこう詰まっていて、特に私のようなへっぽこ編集者にはタメになるコンテンツが多かったので、これは手元に置いておこうと、読み終わったあと、あらためてAmazonで注文した次第でした。
ということで今回は、『ベストセラーを書く技術』を解剖していきます。
本書の内容はタイトルのとおりです。
著者は元編集者で、実用書作家に転身し、現在は出版コンサルティングなどを生業にしているようですね。
10年連続で10万部突破した本をつくったらしく、これはとんでもない実績です。
実際、本書の原稿はとっても読みやすいです。
しかも読みやすいだけではありません。
エモいのです。
エモいってわかるようなわからないような言葉ですが、ビジネス系のシーンで使う場合、要するに「読んだ人の感情を揺さぶる」「その気にさせる」というニュアンスだと思います。
さて、本書のなかで一編集者として参考にして真似してみたいものがあったので、そうした物を中心に抜粋していきます。
●川柳ワーク
とにかくなんでもいいから「五・七・五」のリズムにまとめてみるフレームワークです。
「五・七・五」のリズムに乗っていれば思いつきでも、支離滅裂でもなんでもかまいません。
自分の頭に思い浮かんだことを、とにかく「五・七・五」でいう。
これ、めちゃくちゃ便利だと思います。
アイディアってウンウン考えているとなかなか出てこなんですが、とりあえず最初のご文字だけを考えると、残りの「七・五」も無理やりくっつけられちゃいますよね。
アイディア出し、ネタ出しにかなり使える気がします。
●本の構造は「?」でつくる
私は仕事の半分くらいは新しい本の企画を考えて会社に提案することなんですが、企画書を作るとき、意外と苦労するのが「構成案」です。
ネタって、意外と思いつくものなんです。
著者も探せばいい感じの人はすぐ見つかります。
問題は構成案ですね。
これはしっかりリサーチをしながら、順列に沿って組み立てていかないといけないので結構たいへんです。
そこで本書が構成づくりのためにお勧めしているのが、疑問・クエスチョンをベースにして、それをブレークダウンさせていくというやり方。
そもそも実用書は何かしらの課題を解決するために存在するわけで、そうした課題は「なぜ~は~なのか?」という形に置き換えられます。
たとえば、「なぜあの人はお金持ちなのか?」という本の企画の構成案をつくろうと考えると、たとえば次のようにブレークダウンしていけますよね。
『なぜあの人はお金持ちなのか?』
第1章 なぜあの人は収入が多いのか?
第2章 なぜあの人は貯金や資産が多いのか?
第3章 なぜあの人は収入が多いのにアクセクしてないのか?
第4章 どうすればあの人のようにお金持ちになれるのか?
第5章 あの人のようにお金持ちになるためにいますぐできることはなにか?
はい、こんな感じで構成案が出来上がります。
構成案の骨格が出来上がったら、さらにそれぞれの章のなかに「なぜ~なのか?」という疑問形のコンテンツをぶっこんでいきます。
●LSD理論
これは文章を各段階のテクニックです。
200ページの本を最後まで読ませるということは、「ページを100回目暮らせることである」と著者は述べています。
これはけだし名言です。
いや、アタリマエのことを言っているだけなんですが、けっこうそういう当たり前のことを忘れがちになってしまうのです。
だって冷静に考えてみると、100回も同じ動作を相手にさせるのってかなり大変ですよね。
「このボタンを100回押してください」っていわれても、私だったらやりません。
じゃあ、どうすれば100回ページを捲らせることができるか。
そこで役立つのが「LSD理論」なのです(薬物ではありません)。
LSDとはなにか。
L:ロジック(理屈)
S:ストーリー(物語)
D:データ(事実)
この3つです。
人間はそれぞれ、このLSDのどれかをとくに重視します。
私の場合は、ロジックが好きです。
でも、もちろんストーリーが好きな人もいればデータが好きな人もいて、売れる本を作るためにはそうした人々のすべての興味を引く必要があります。
なので、このLSDのバランスを考え、原稿を作りなさいよ、ということなんですね。
パッと見た感じ、ちょっと胡散臭さも感じましたが、以外にも中身の濃い、タメになるほんでした。
後記
最近、『お金の大学』も読みまして、たいへんいい本でした。
いまいちばん売れているお金の本ではないかと思います。
ただ、網羅的な、まさに「お金の家庭の医学」的な本なので、あまりレビューであれこれ語るような本ではありません。
ただ、労働収入と資本収入の違いについてはしっかり説明されていました。
やはり、自動的にお金が入ってくるシステムを1つ持っているのは大切だよなあと実感した次第です。
んで、私もひとつちゃんとアフィリエイト収入が得られそうなブログをつくってみようということで、レンタルサーバーを契約してドメインを獲得し、新たにブログをつくってみました。
まだいろいろ試行錯誤中ですが、なかなかいい感じです。
ただ、ワードプレスのブログの方はちゃんと収益化を目指してつくっていこうとおもうので、のんべんだらりと書き綴るこちらのブログも引き続き続けていこうと思います。
まずは目指せグーグルアドセンス合格!
というわけで、今回はこんなところで。
それでは、お粗末さまでした。
『一人の力で日経平均を動かせる男の投資哲学』(cis著)のレビュー
私は、すべての活動は「投資」であると思っています。
たとえば、私が仕事の帰りにコンビニで、「青汁アイス」(税抜120円)という新商品を見つけて、買ったケースで考えてみます。
このとき、私は「この青汁アイスは120円に相当する価値がありそうだ」と思ったから、買うという行動に出たわけです。
つまり、私は青汁アイスに120円の投資をしたとも言えるわけですよね。
もし、青汁アイスがすごくおいしくて、「150円でも買っちゃうな」と私が感じたとすれば、この投資は成功です。
でも、青汁アイスが死ぬほどまずくて、「こんなのタダでもいらない」と思ったら、その投資に失敗したというわけです。
これは私の仕事である出版も同じです。
新しい本を作って発売するということは、「この本はこれだけ売れそうだ」という予測をして、そこに会社のお金を使って投資しているということです。
たとえばその本をつくるのに、さまざまな経費等もひっくるめて500万円かかるとします。
その場合、その本を発売して、500万円以上の収益があれば会社としては投資に成功したことになるし、500万円に満たなければ失敗したことになります。
お金を出していなくても、すべてのことは「投資」になります。
これはたしか、けらえいこさんのエッセーマンガにあった話だったと思うのですが、
「道に落ちている一円玉を拾うためには、1円以上のエネルギーを消費してしまうから、一円玉が落ちているのを発見しても拾わないほうがおトク」
という理論がありました。
※このあたりのどこかに一円玉のエピソードがあったはずです
体を動かしたり、頭を働かせたりすればエネルギーを使います。
それどころか、なにも活動していなくても、私たちは「時間」という限りある資源を消耗しています。
つまり私たちは毎日、エネルギーや時間という資源を投資して、快楽・満足を最大化させようとしているわけです。
あるいは、もう少し過激な言い方をすれば「すべての活動はギャンブルである」という言い方もできるかもしれません。
青汁アイスを買うのもギャンブルだし、新しい本を出版するのも出版社にとってはギャンブル、一円玉をひろうか拾わないかの意思決定もギャンブルです。
(もしかしたら、その一円玉がじつは1万円くらいの価値があるすごいレアな一円玉だった、という可能性もゼロではないですから)
ここでいうギャンブルとは、「損するか得するかわからない行為」のことだと考えてください。
人生におけるすべての意思決定は、それがプラスになるのかマイナスになるのかわかりません。
でも、絶対にどれかを選ばなければならない。
(「どれも選ばない」というのも、選択肢の1つにすぎません)
となると、私たちは、じつは思っている以上に勝ち続けている投資家やギャンブラーの人たちから学ぶことが多いのではないか、ということがいえるのです。
もちろん、投資や各種ギャンブル(カジノや麻雀、パチンコなど)は独自のルールが敷かれている世界で、細かく見ていくと、勝つための方程式が異なることは事実です。
ただ、その根底にあるセオリーや、マインドの部分を見てみるとけっこう示唆に富んでいて、勉強になります。
ということで前置きが長くなりましたが、今回紹介するのはこちらの一冊です。
「一人の力で日経平均を動かせる男」とはまたすごいパワーワードですよね。
著者のcis(シス)氏は本名非公開、メディアに顔出しもしていない個人投資家です。
2011年、かつて放送されていたフジテレビお昼のバラエティ番組『笑っていいとも』に出演されたことがあるようですが、そのときも顔は隠していたとのことです。
おもに掲示板サイト「2ちゃんねる」で積極的に活動・発言されている方のようなので、ねらーの人たちにはかなり名前が知られています。
帯にもでかでかと書かれていますが、個人資産は230億円。
アフリカのガンビア共和国の国家予算と同じくらいな感じです。
もちろん、230億円をつねに動かしているわけではないですが、それでも個人トレーダーとして数億円レベルの取引を行っているわけですから、cis氏の取引で実際に日経平均に影響を与えることも多いようです。
勘違いしている人もけっこういるのですが、これは東証一部に上場している企業のうち、有力とされる225社から算定されています。
すべての株式の平均というわけではありません。
けっこう、母数は小さいです。
東証一部に上場している全銘柄から算出されるのは「東証株価指数(TOPIX)」です。
さて、タイトルに「投資哲学」とあるように、本書は株式投資のハウツー本、マニュアル本ではありません。
もっといえば、読者に投資を勧めているわけでもありません。
cis氏がこれまでどのようなことを考えて株式投資をしてきたのか、ふだんどんな暮らしをしているのか、どんな考え方を持っているのかを赤裸々につづったエッセーのような感じだと考えていいと思います。
そもそも、一般の人はcis氏のような投資はできないと思います。
たとえばこんなエピソード。
たとえば専業トレーダーになって2年めのゴールデンウィークに妻と一緒に旅行したことがあったけれど、ゴールデンウィークの途中に平日が2日あって、その日にわざわざ相場をやるために東京に戻ってきていた。乗り物酔いするからなるべく飛行機なんて乗りたくないのに、1日だけ相場をやるために九州から東京に戻って、すぐまた九州に戻る。そのあいだ妻には一人で観光してもらっていたりした。
目の前をマンモスがいっぱい通っていくのに逃すわけにはいかないよ、みたいな感覚。
その年は20億円ほど稼いだから、時給にしたら100万円は軽く超えている。そうなると、どうしても休めなくなる。
冷静に読むと、プロフェッショナルというよりも、「株式投資依存症」の患者みたいですね。
実際、このくらいやっていたときには病院の検査で白血球が異常値を示したり、抜け毛がすごくなったり、お腹に水が溜まって胃がんの疑いをかけられたり、年間200回くらいお腹を下したりしていたそうです。
こんなのマネしようと思ってもできることではないし、マネしたいとか、羨ましいという気持ちにもならなくなってくるように思います。
本書ではこんなような感じで、あまり自分のことを美化せず、年間数十億円を稼ぐトレーダーがどんな毎日を送っているのかが垣間見えます。
たとえば
・たまたま気に入った青りんごゼリーがおいしかったので、製造元である寿スピリッツとい会社の株を買って2ちゃんねるで「寿スピリッツいいぞ」と投稿し、翌日株価をストップ高にさせる
・家の近くにコンビニがなかったので、近くのビルを買ってコンビニを入れたら楽なんじゃないかと考え、ビルを購入する
・スマホゲーム「リネージュ2 レボリューション」に9000万円課金する
・中3のころにはパチンコを攻略し、友達に打ち子(いい台を見つけて自分の代わりにパチンコをさせる)させて高校生のうちに200万円を貯める
・「1時間後に銀座に来れる人募集」と掲示板にオフ会の告知をして80人以上集まり、飲食場所代に300万円くらい払う
・「1億2000万円持ってます、彼女募集中」と掲示板に投稿して3000通以上のメールに目を通し、週3~4人のペースで会い続ける(いちいちセックスするとつかれるから本当にご飯を食べるだけ)
・ライブドアショックのときに失敗して1日に5億円の損を出したあと、2ちゃんねるに「おっすおら損五億」と書き込んでから麻雀をしにいく
こんな感じのエピソードがあります。
本の持つ魅力はいろいろあると思いますが、フィクションでもノンフィクションでも、自分がなかなか触れられない違う世界を垣間見れるのもあります。
本書はまさにそんな魅力に満ちていて、「なるほど、これが1日で数億円を稼いだりする男の生活なのか」というのを覗き見することができるのです。
さて、cis氏の投資の手法はとても凡人が真似できるものではありませんが、冒頭で長々と書いたように、私たちの日常生活のすべてが投資であると考えると、このcis氏の投資哲学から私たちが学べることはあります。
私の場合、もっとも大きな学びになったのは第1章にあるこの言葉です。
「上がり続けるものは上がり、下がり続けるものは下がる」
これは、cis氏が「何かアドバイスをください」とお願いされたとき、言うことが多い言葉だそうです。
投資の用語で「順張り」「逆張り」というのがあります。
順張りというのは、株価が上がっている会社の株式などを買うことです。
逆張りというのは、株価が下がっている会社の株式などを買うことです。
cis氏のアドバイスはいたってシンプルで、「逆張りをするな、順張りだけしろ」ということですね。
これ、すごく正しいと思うのですが、なかなか実践できる人はいないです。
私も最近になってようやく、順張りの正しさを理解できるようになってきました。
たとえば本の企画をつくるとき、以前の私だったら
・これまでにない本をつくろう
・まだ人気はないけど、新しいムーブメントを作れる本にしよう
・いまはこういう本が売れているから、それと真逆のカウンターカルチャー的な位置を狙おう
・いまは全然人気がないけど、この人はきっとこれから大物になるだろう
・いまの潮流から外れた本をつくろう
ということを考えてしまいがちでした。
これって全部、「逆張り」的な発送なんですよね。
みんながいまこうしているから、いまのメインストリームがこうなっているから、それと自分のやることを差別化させようという意識が働いています。
これを「順張り」的な発想に考えるなら
・売れている本をマネしよう
・いまのムーブメントに乗っかる本をつくろう
・いま人気がある著者さんに頼もう
ということになります。
本の文化的な価値とか、その本を作って楽しいかということは脇においておけば、明らかに、こっちの本のほうが売れます。
私たちはなんとなく「ブームに乗っかるのはかっこ悪い」「売れているものをマネするのは節操がない」「人と同じことをやってもつまらない」と考えて、なにか自分のオリジナリティを押し出そうとするのですが、そういうことをするから、商業的にうまく行かなくなってしまうわけです。
タピオカが流行っているならタピオカ店を開けばいいし、マンガを描くなら『鬼滅の刃』っぽい作品を描けばいいし、ライトノベル作家としてデビューしたいならとりあえず異世界転生モノを書けばいいのです。
……とはいえ、やっぱり順張りだけだと「おもしろくない」というのも事実ですね。
「順張り」の本だけ淡々と作るのが仕事であれば、私も編集者をやめているとおもいます。
問題はバランスです。
逆張りの売れない本ばっかりつくっていたら会社をクビになってしまいますし、順張りの本ばかりつくっていたらむなしくなる。
だから、順張りの本と逆張りの本をちょうどいい塩梅で作ればいいわけです。
個人的には順張りと逆張りで8:2くらいがいいんじゃないかなと思っています。
気を抜くとすぐに逆張りにしたくなるので。
あとは、見た目とか大部分は順張りにするけれど、その中に少しだけ逆張りの部分を入れるのもひとつのテクニックだと思います。
売れるか売れないかは客観的な事実なので自分ではコントロールしにくいところですが、「おもしろくない」とか「むなしい」というのは自分のメンタルの問題なので、自分で以下用にもコントロールできます。
要するに、逆張りの部分は自己満足でいいわけです。
こういう側面はcis氏も持っているように思います。
cis氏は株式投資を通じて自分の好きな会社を応援したいとか、社会を良くしたいとか、株主優待がほしいとか、そういう気持ちは基本的には持っていません。
ただ、株を始めた最初のころに買った松屋の株はいまも持ち続けていて、優待券を使ってたまに牛めしを食べたりするそうです。
また、旅先でたまたま見つけて気に入った青りんごゼリーがあったのですが、鳥取自体が過疎っていて大丈夫かとおもったので、そのメーカーさんの株を買って2ちゃんねるに投稿し、翌日にストップ高にもっていったこともあるみたいです。
あとは、ご自身が働いていた叔父さんの会社の取引先である会社の株も、「叔父さんの会社への注文を切らないでね」という情から持ち続けていると書いてありました。
人間誰しも、そんなふうにしてメンタル的なところのバランスを取っているのではないかなと思います。
本書は具体的な投資のエピソードとかロジック、ギャンブルの話もいろいろ書かれていますが、そういうちょっと小難しいところは適当に読み流しても、一冊の本としてなかなかおもしろいものだと思います。
後記
べつにKADOKAWAさんの回し者ではないですが、いま、私が本のレビューを投稿している「読書メーター」というサイトで、こういうキャンペーンをやっています。
読書メーターでKADOKAWAさんの本のレビューを書いたときに、最後に「#ニコカド2020」と書いておくと、100人に5000円分の「図書カードNEXTネットギフト」という、要するに電子図書カードがもらえるというキャンペーンです。
ただ、私がざざっと見た感じ、あんまり認知されていないのか、それとも面倒くさいのか、意外と読書メーターのユーザーの皆さんはこのハッシュタグつけてないなあという感じがします。
ということは、もしかしたら当選倍率が意外と低く、当たりやすいかもしれません。
(とはいっても、キャンペーン期間が2021年1月10日までとめっちゃ長いので、なんだかんだ倍率は高くなりそうですけど)
ちなみに今回紹介した『一人の力で日経平均を動かせる男の投資哲学』も版元はKADOKAWAさんなので、私はしっかりハッシュタグをつけて投稿しました。
せっかく5000円もらえるかもしれないなら、やっておいて損はないでしょう。
230億円と比べるとおそろしくスケールの小さな話で、今日は終わりにします。
今回はこんなところで。
それでは、お粗末さまでした。
『ヒポクラテスの誓い』(中山七里・著)のレビュー
私がこのブログを解説したのが2015年のことなので、かれこれ5年も!書き続けていることになります。
あんまり書く気が起きないときはサボったりもしていましたが、そうはいっても更新が滞って「1ヶ月以上更新がないブログ広告」が出てしまうのはなんだかイヤだったので、(たぶん)1ヶ月も間が空いてしまったことはないはずです。
『本のレビューの書き方』なんて記事を偉そうに書いたこともありますが、5年以上本のレビューを書き続けていても、いまだにまだあんまりうまくなっていないようにしか感じません。
とくに小説のレビューは難しいですね。
実用書の場合はトピックスがいろいろ詰め込まれているので、たとえばその一部を抜粋して紹介する手法が成り立ちますが、長編小説の場合はそれがなかなか難しかったりします。
下手に紹介するとネタバレになりますし。
で、『ヒポクラテスの誓い』という本を読みまして、まあ本もおもしろかったのですが、最後に掲載されている「解説」が秀逸だったので、小説本体よりもむしろ「解説」のほうを紹介したいなと思ってこの記事を書いてます。
そうはいっても、まずは小説の紹介をしていきましょう。
著者の中山七里さんは2009年にデビュー作である『さよならドビュッシー』が「このミステリーがすごい!大賞」を受賞し、デビューした作家さんです。
そんな中山七里さん、じつは1961年生まれで現在58歳。
つまり、48歳のときに小説家としてデビューした遅咲きの人だったのです。
もともと高校・大学時代に小説を書き続け、江戸川乱歩賞の予選を通過したことも合ったようですが、就職とともに執筆活動からは離れていました。
しかし、2006年に現代ミステリ界の巨匠・島田荘司御大のサイン会に参加したときに初めて生の小説家を目にし、「今小説を書かなければ、もう一生書かないに違いない」と思い立ち、ノートパソコンを衝動買して書き上げたのが『魔女は甦る』という作品です。
この作品は残念がら「このミス大賞」の受賞から漏れてしまいましたが、翌年に『さよならドビュッシー』でデビューとなりました。
ちなみに、ペンネームは故郷のほど近くにある岐阜県下呂市にある中山七里という公園のなかの渓谷の名前からとったようです。
さて本作『ヒポクラテスの誓い』は検視官が探偵役となり、死体からその死の真相を突き止めていく連作短編シリーズになっています。
一見するとただの病死、あるいは事故死にしか見えなかったものが、じつは死体を入念に調査していくと、隠された死の原因が見えてくるというものですね。
いわゆる法医学ミステリーとひとくくりにされるジャンルで、有名所では『チーム・バチスタの栄光』なんかも近いでしょう。
もうちょっとライトなものだと『櫻子さんの足下には死体が埋まっている』もそうですね。
私は『さよならドビュッシー』は未読でしたが、『連続殺人鬼カエル男』は読んでいました。
どうも中山センセの作品は世界観が共有されているようで、『ヒポクラテスの誓い』に登場する探偵役の法医学教授・光崎藤次郎は『連続殺人鬼カエル男』にも登場していました。
小手川刑事はいかにも刑事さんのテンプレキャラクターだったのでまったく覚えていませんでしたが、光崎藤次郎は舌鋒鋭い監察医だった印象がうっすらと頭のなかに残っていました。
さて本作は、研修医である栂野真琴が不本意ながらも法医学の研修をすることになり、光崎の助手になりながら、一見すると事件性がまったくない事故死、病死をした遺体から導き出される光崎の鮮やかな推理劇を目撃していくという連作短編集となっています。
たとえば、
第1話目は河川敷で酒をかっくらって凍死したサラリーマン。
第2話目は交通事故で死んだ女性。
第3話目はテレビで放送されていたボートレースの真っ最中に激突ししたレーサー。
第4話目はマイコプラズマ肺炎が悪化して病院で息を引き取った女性。
そして第5話目は、腹膜炎で入院していたものの急に病状が悪化してなくなった女の子
という感じです。
それぞれの物語は一話ごとに完結していますが、最後の最後、じつはすべての事件が一本の糸で繋がります。
こういう展開は個人的に好きです。
サクサクと読み進めて行けて、最後の最後にいい感じのカタルシスが得られる、上質なミステリー作品でした。
さて最初の方でも述べましたが、本書でおもしろかったのは書評家・大森望さんによる「解説」のなかの、中山七里センセの紹介文章です。
引用の引用になりますが、とある取材のインタビュー記事が、中山七里先生の異質さを端的に表現しています。
サラリーマンを二十八年やってきましたが、その中で得た知識や経験は一切書いていません。デビュー作『さよならドビュッシー』は音楽のことをたっぷり書いていますけれど、ピアノを触ったこともありません(笑)。あの小説を書こうと思ったときに初めてドビュッシーのCDを買ったくらいです。物書きが生き長らえる理由に、想像力を物語に落とし込む能力があると思います。僕が五年の間、小説を書き続けられたのは「依頼された仕事を断らない」ことと「自分が書きたいものを書いてない」からだと思います。よく「作家は書きたいことが無くなってからが勝負だ」と言われますが、それなら最初から書きたいものを書かなかったら長持ちすると考えています。僕は戦略的に「皆が読みたいものを書く」ことに特化して、編集者との打ち合わせでも、この物語がどんな読者層にどれだけの波及力、訴求力があるのかを考えています。
(〈新刊ニュース〉二〇一五年三月号)
まったくもって驚くべきことですが、中山センセは音楽や法医学の専門的なことをテーマにした小説であっても、まったく取材をすることなく、書き上げてしまうらしいです。
これには、解説を書いた大森さんも舌を巻いています。
なんとも見上げたエンターテイメント作家魂ではないか。これだけ職人に徹したうえで、なおかつハイレベルな作品を量産することに成功している作家も珍しい。
「私に支点を与えよ。そうすれば地球を動かしてみせよう」と言ったのはアルキメデスだが、中山七里の場合は「私にテーマを与えよ。そうすれば三日後に長編小説にしてみせよう」という勢い。しかも、本書を読めばわかるとおり、その小説には、解剖室のにおいまで再現するような、リアルなディテールに満ちている。頭の中だけでそれを完成させる特異な才能には脱帽するかない。
ちなみに、このような「自分が書きたいものは書かない」というスタンスは、ヒット作を輩出しているビジネス書作家の先生でも同じことが言えます。
とあるヒットメーカーの方がおっしゃっていたことですが
「自分も昔は自分が書きたいことをテーマにして本にしていたが、そういう本はだいたい売れなかった。しかし、編集者から『こういうテーマで書いてくれませんか?』という求めに従って書くようになってから、不思議とドンドン売れるようになった」
とのことです。
小説を書くにしても、ビジネス書を書くにしても、作家になる人というのはやっぱり普通の人とはどこか違う感覚を持っているものです。
つまり、本人たちがおもしろいと思ったものは、俗人にはよくわからなかったりするものなのです。
編集者はあんまり才能がいらない仕事だと思いますが、ひとつ大切な素養があるとすれば、それは俗人であること、凡人であることかもしれません。
「バカな編集者、難しい本をつくりたがり」
というのはかつての私のボスの名言です。
ヒットしたビジネス書などのAmazonレビューではだいたい「当たり前のことしか書いていない」「初歩的なことしか書かれていない」という一つ星レビューがあるものですが、これは的はずれな批評です。
なぜなら、著者も編集者も、それをわかりきって、あえてそうしているからです。
ちょっと知識がある人が読めば「当たり前のこと」でも、それをまったく知らない人にわかりやすく教えてくれる本がベストセラーになるための条件なわけですね。
その意味では、この中山七里センセは編集者にとっては非常にありがたい、稀有な作家先生といえるでしょう。
むしろ、長らくサラリーマン生活をしていたからこそ、こういう「相手のニーズに求めることに徹する」という姿勢ができたのかもしれません。
もちろん、もともと文才や発想力がずば抜けているのはあるでしょうが。
後記
編集者をしているとそれこそ年間何十本も企画書を提案されたり、会ってくれないかという連絡をいただくことがあるのですが、全部に対応しているとそれだけで仕事が終わってしまうのでだいたい無視しています。
が、それでも知り合いのつて(とくに著者先生からの頼みだっり)だと断れずに、一度はお会いしたりお話を聞いたりしないといけないこともあります。
そういう感じで、いままで本を出したいという人たちのべ2~300人くらいと会ってきたと思うのですが、だんだん「作家っぽい人」というのがわかってきます。
「作家っぽい人」というのは、「たぶんこの人は、遅かれ早かれ、どこかの出版社から本を出すだろうな」という予感させるような人です。
(その本が売れるかどうかはわかりませんが)
ぶっちゃけ、本が出るか出ないかは、企画のおもしろさはもちろんのこと、編集者との相性、出版社との相性、さらには会社の込み入った事情、編集者の忙しさの度合い、メンタルの状態などによって左右されます。
私も人間ですから、なんか疲れていて頭がいたいときに持ってこられた企画は、どうも判断がネガティブになりがちです。
でも、それは作家志望の人にはコントロールできない問題ですから、運としか言いようがありませんね。
とはいえ、「作家っぽい人」は話していると、それをすぐに感じます。
私が感じる共通点は、以下のとおりです。
(1)自分が興味、関心のあることだとめっちゃ喋る、とめどなくしゃべる(あと、すごく早口になる)
(2)関連する情報についてやたら詳しい、いろいろな情報が出てくる。それ以外のことについてはびっくりするほど無知だったりする
(3)やたら自信満々で、「自分の考えは世の中に広めるべきだと思う」という謎の責任感、使命感を持っている
とくに重要なのは(3)でしょうか。
これはビジネス書作家などに特有のことかもしれませんが、そもそも自分の考えを本にまとめて世に出そうなんて考える人はどこかしら傲岸不遜・大胆不敵な考え方の持ち主です。
でも、だからこそ物事を断定したり、説得力を持った本を書けるんだと思います。
この「説得力を持たせられる」というのがすんごーーーく大事なポイントなんですよね。
書籍はジャーナリズムではありませんから、じつは実用書であっても「それが絶対に正しい事実か」はあまり重視されません。
それはさまざまな健康本、宗教関連の本、自己啓発本なんかを見ているとわかるかと思います。
「正しいか、正しくないか」は、本の場合は問題ではないのです。
大事なのは「おもしろいか、おもしろくないか」です。
この判断基準が、新聞などの報道記者と、本の編集者の決定的な違いではないかなと思います。
たとえ倫理的にちょっとよくなかろうが、道義的に間違えていようが、事実関係が曖昧なところがあろうが、おもしろければまあ良いんじゃないかと考えてしまうのが編集者だと思います(少なくとも私は)。
たぶんこれは小説も同じじゃないでしょうか。
中山七里センセは取材などは一切しないで小説を書き上げるということですから、たとえば『ヒポクラテスの誓い』なんかも、法医学をかじったことのある人間からすれば間違いだらけ、矛盾だらけの作品なのかもしれません。
でも、べつにそれくらいいいじゃないか、ということです。
問題なのは、法医学をまったく知らない人たちが読んだときに「法医学っぽい」と感じさせることができるかどうかです。
大事なのはリアルではなく、リアリティということですね。
SFなんかでも、あまりにもリアルを追求しすぎると話が小難しくなってエンタメ性が損なわれるような気がします。
話がグネグネ蛇行しますが、要するに作家になる人間はどこか普通じゃないということですね。
今回はこんなところで。
それでは、お粗末さまでした。
『妻のトリセツ』(黒川伊保子・著)のレビュー
「男性脳」と「女性脳」の違いというテーマは、実用系の書籍では鉄板テーマのひとつです。
古いものでいえば、『話を聞かない男、地図が読めない女』という2000年に邦訳された本もベストセラーになりました。
ほかにもいろいろあります。
こういう本の場合、「男」と「女」を並列に扱うことが多いですね。
べつにこれはジェンダー云々というわけではなく、そのほうが売れやすいんじゃないかと編集者が考えるからです。
当たり前ですが、男性だけをターゲットにした本よりも、男性も女性も読んでもらえそうな本のほうが母数となる想定読者が増えるわけですから。
ただ、読者の母数が増えればそれで売れるようになるかというと、そういうわけでもないのが難しいところです。
今回紹介する『妻のトリセツ』は、タイトルやコンセプトでは男性だけを読者対象としているような一冊です。
しかも「妻」とタイトルに入れてしまっているので、必然的に既婚者だけが読者対象となります。
ところがどっこい、ほかの多くの類書を押さえ、累計発行部数45万部というモンスターヒット作になりました。
この本は新書なので、当然ながら割と年齢高めの男性がまずは買い始めたと思うのですが、話題になるにつれて女性(つまり妻)が購入して、家に置いておき、夫にさり気なく読ませようという使い方もあるみたいです。
さて、著者の黒川伊保子(くろかわいほこ)さんは何者かというと、人工知能研究者(元)です。
脳機能の知識と人工知能による分析技術を組み合わせた語感分析法「サブリミナル・インプレッション導出法」というものを編み出し、法人に提供しています。
これはなにかというと、新しい商品の名前やサービス名を考えるとき、どういうものにすればイン印象を与えられるのかを分析するものです。
サブリミナルというのは「相手の無意識にこっそり働きかけること」を意味し、インプレッションは「印象・気持ち」を意味します。
つまり、「相手の無意識にこっそり印象づけるための方法」ということですね。
黒川さんは著書も多数あり、以前から男性と女性の違いをテーマにした本も多数執筆しています。
本書のテーマは、黒川さんにとっても取り立てて目新しいテーマというわけでもなかったわけですね。
それでもやっぱり売れるというのは、もちろん内容の良さ、著者の売る力の強さも影響していると思いますが、テーマの強さが明らかにされた結果だと思います。
そういうわけなので、本書の内容はというと、じつは同じような男性脳・女性脳系の本を読んだことがある人にとっては、さほど目新しい内容はないかなと思います。
時代を経てなにかこれまでの定説が覆されるような大発見が合ったわけでもありませんし。
よくいわれるように、男性は目的思考で俯瞰的、論理的。
女性はプロセス思考で主観的、直感的……ということです。
女性の言葉の真意翻訳
個人的に本書でおもしろいと思った箇所は2つあります。
1つは、「妻の言葉の翻訳」のパートです。
これはまさに首がもげるほど首肯できるものです。
長いですが、引用しましょう。
あ行
「あっち行って!」
→あなたのせいでめちゃくちゃ傷ついたの。ちゃんと謝って、慰めて!
か行
「勝手にすれば」
→勝手になんてしたら許さないよ。私の言うことをちゃんと聞いて。「好きにすれば」は同義語。
さ行
「自分でやるからいい」
→察してやってよ。察する気がないのは愛がないってことだね。
た行
「どうしてそうなの?」
→理由なんて聞いてない。あなたの言動で、私は傷ついてるの。
な行
「なんでもない」
→私、怒ってるんですけど? 私、泣いてるんですけど? 放っておく気なの?
は行
「一人にして」
→この状況で本当に一人にしたら、絶対に許さない。
ま行
「みんな私が悪いんだよね」
→えっ? それって私が悪いの? 私のせいなの? あなたのせいでしょ。
や行
「やらなくていいよ」
→そんな嫌そうにやるならもう結構。私はあなたの何倍も家事してますけどね。
ら行
「理屈じゃないの」
→正論はもうたくさん。「愛してるから、君の言う通りでいい」って言いなさい。
わ行
「別れる」
→ここは引けないの。あなたから謝って!
これだけがわかっているだけでも、だいぶ女性とのコミュニケーションはうまく生きそうな気がします。
「完璧な夫」にはならないほうがいい
もうひとつ、これは「おわりに」の内容です。
本書は妻の言動の心理的なメカニズムを夫のほうが理解して、「いい夫」に近づくことを目指すことを目的としています。
が、その一方で、妻がまったくストレスを感じない「パーフェクトな夫」になる必要はまったくない、と言っているのです。
女性たちは、ときどき、このたまったストレスを”放電”する先を探しているのである。そんなとき、まんまと夫が何か気に障ることをしてくれると、気持ちよーく放電できる。
夫が完璧だと、その放電先が子どもになったり、自分に跳ね返ってうつに転じたりして、危なくてしょうがない。いい夫とは「おおむね優しくて頼りがいがあるが、時に下手をして、妻を逆上させる男」にほかならない。
男はたまに女性に怒られるアホなことをしでかすことで、結果的に女性の精神安定剤的な役割を果たすということですね。
あともうひとつ、妻が夫に対してアレコレ口うるさく言ったり、怒りを爆発させるのは、「一緒に暮らす気があるから」というのもうなづけるところでした。
怒りというのは、相手に対する期待があるからこそ生まれる感情です。
そもそも相手になにも期待していなければ、なにも言われないわけです。
小言を言われたり、怒られたりするうちはまだ大丈夫。
なにをやっても、奥さんからなにも言われなくなったらヤバい、ということですね。
これは仕事の関係でも同じかもしれません。
そもそも、今後一緒に仕事をする気のない相手であれば、ミスをしてもそれを咎めたりしません。
たとえば私は先日、とあるライターさんと一緒に取材に行ったのですが、そのライターさんは取材中に腕組をしたり肘をついたりしていたのが気になりました。
ライターさんのほうが自分より年上だし、キャリアも長いのでどうしようかなと思ったのですが、取材が終わったあと、軽く注意しました。
ただもし、次の取材でも同じようなことが繰り返されてしまったら、もう次からはこのライターさんにお願いするのはやめようと考えています。
同じ会社の後輩だったら何回でも注意しますが、外部の人だったらそんな義理もないですしね。
余談ですが、黒川さんの新刊で『娘のトリセツ』という本も発売されました。
こっちは小学館ですね。
普通に考えれば、これは『妻のトリセツ』『夫のトリセツ』に続くシリーズとして位置づけられるわけですから、道義的には講談社さんから出すのがいいんじゃないかなあと思いますが、まあ小学館と講談社と黒川さんの三者間でいろいろあったのでしょう。
後記
実用書系の本を読むとき「あとがき」から読む人っていますよね。
私はそういうタイプではないのですが、そういう人の気持ちがわからないでもありません。
「あとがき」から読む人は玄人だと思います。
なんでかというと、「あとがき」はその著者のホンネが書かれていることが多いからです。
私は編集者ですが、「あとがき」にはほとんど手を加えません。
これは個人的な哲学に過ぎませんが、「あとがき」はおまけであり、そこに編集者が口を挟んだり、手を加えたりするようなものではないと思うからです。
たまに、著者本人が書かず、私がほとんど書き上げるようなタイプの本をつくることもありますが、そういうときは「あとがき」を加えません。
「あとがき」で書くべき内容があるなら、それは本論のところに書けばいいのです。
だから、「あとがき」を読むと、実際のところ、著者がどういう気持でこの本を書き上げたのかなどをぶっちゃけていることがあります。
私の経験上、売れている本は「あとがき」で「いいこと」をいっています。
「いいこと」というのは、この本の趣旨とはちょっとずれていたり、高尚だったり、理想論的なことです。
『妻のトリセツ』の場合、最後の文章がよいのです。
結婚の初め、「この人がいなければ生きていけない」と思った、その気持の色合いとは全然違うけれど、私は、またあらためて「この人がいなければ生きていけない」と思っている。私の感情の露出に、まったく動じないのは、この人だけだから。思いっきり放電できて、手放しで泣いてなじって甘えられる、唯一無二の相手だから。
子育ての最中には、御多分にもれず、「一緒の部屋の空気を吸うのもいや」と思ったこともあったけれど、あのとき、手放さないで本当によかった。あのとき、見捨てないでくれて、本当によかった。
多くの結婚35年超えの妻たちが口にする実感である。夫婦の道は、照る日も曇る日も嵐の日もあるけれど、継続は力なりである。最後の峠に咲く花は、案外、優しくてふっくらしている。
これから、この道を行く多くの夫婦が、この苦難と豊穣の道を、どうか賢く切り抜けてくれますように。
勝手に深読みすると、この本は軽率な離婚によって後悔してしまう人を減らすために書かれているともいえるわけですね。
日本の離婚率は結婚者数の低下と相まって増加傾向にあります。
離婚原因の1位は「性格の不一致」だそうです。
離婚のハードルが下がることは悪いことばかりではないけれど、「性格が合わない」からということで離婚をして、後悔してしまう人は少なくないのかもしれません。
そういう意味では、社会的に世に出す意義のある本だといえますよね。
こういうことは、「はじめに」ではなかなか書けません。
「はじめに」はWeb記事で言えばリードのようなものであり、セールスプロモーションの役割を担っているからですね。
私も「はじめに」はものすごく手を加えます。
ここで著者に暴走させ、言いたいことを言わせると、本が売れなくなるからです。
ちなみに、本のタイトルも同様です。
著者にタイトルを考えさせると、だいたいロクなものになりません。
私も過去、どうしても著者の強いこだわりに抗いきれず、著者の要望に沿ったタイトルで刊行した本が何冊かありますが、そういう本はだいたい爆死しました。
このあたりは著者と編集者の力関係にも左右されるので、難しいところですが。。。
私が最近思うのは「やっぱり社会的に出す意義のある本」をつくらなきゃなあということです。
いまは本が溢れていますし、出版社も営利団体であり、編集者がそこに所属するサラリーパーソンである以上、「あんまり出さなくてもいい本」を作らざるを得ない状況もけっこうあるのですが、できるだけそういう本は減らしていきたいなあと。
結局、売れる本というのはそういうのがあると思うのです。
それが「いい本」なんじゃないのかなと。
今回はこんなところで。
それでは、お粗末さまでした。
『そこまでやるか!裏社会ビジネス 黒い欲望の掟』(丸山祐介・著)のレビュー
この間、とある出版社のマーケティング担当者の方に聞いた話なのですが、裏社会をテーマにした某マンガの売上をアップさせるため「パニックマンガとして描いてください」という要望を作者に伝えて内容を変更していってもらったところ、人気が出るようになったとういことでした。
アングラ(アンダーグラウンド)な世界というはなんとなく惹かれるものがありますが、それは一種のファンタジーというか、ホラー映画、パニック映画に似た要素があるように思います。
ホラー映画の怖さは「もしかしたら自分の身にも降りかかるかもしれない」と思うところにありますよね。
ヤクザとか闇金とか麻薬とか、そういう裏社会系の話も、一見すると自分とはまったく円のない社会のように思えるけれど、ちょっとどこかで道を踏み間違えてしまえば、いとも簡単に自分事になってしまう。
そういうところが「おもしろさ」として捉えられるんじゃないでしょうか。
ということで、今回紹介するのはこちらです。
著者の丸山祐介さんは「丸山ゴンザレス」としても活動していて、「ビジネスにも裏社会にも精通する犯罪ジャーナリスト」ということらしいです。
さて、本書で紹介するところの「裏社会」とはなにか。
そもそもなにが「表」で、なにが「裏」なのか。
単純な話で、「法律を守っているか、いないか」「違法であることを分かっていてやっているか」の問題です。
これはマンガなどを読んでいても思うところがありますが、裏社会の人たちもやっぱりいろいろ大変だなあと感じますね。
本書によれば、現在はいわゆる表と裏のボーダーレス化が起きていて、表と裏を自由に行き来するような人が増えているそうです。
表をホワイト、裏をブラックとするなら、その中間層であるグレーゾーンがどんどん拡大している印象でしょうか。
そもそも、いわゆるヤクザというのは警察が定めた「指定暴力団」のことを指します(2つ以上の都道府県にわたって組織を有する場合は「広域指定暴力団」とよばれる)。
指定暴力団になると、一定の行為に制限がかけられます。特に組員は、警察がリスト化して、住所や家族構成まで把握されることになるのです。これは、暴力団の可視化のためであり、暴対法によって、暴力団が社会悪で暴力団を排除するためには、手段を選んでいられないということでもあるのです。
さらに二〇一〇年頃に、全国的に施行の動きが広まった暴力団排除条例の締めつけによって、一般企業は暴力団との付き合いを禁じられました。
こうした暴力団の人達に代わって、現在裏社会ビジネスで台頭しているのが半グレとよばれる不良集団です。
「半グレ」とか「不良集団」というと、ヤクザよりもヌルい印象を受けるかもしれませんが、むしろ彼らは別に暴力団に指定されているわけでもない「一般人」であるため、なにか事件が起きないと警察が動かないという怖さがあるようです。
「俺らヤクザじゃないからね。いつだって堅気になれるんだ」
ものものしい言い方ですが、元関東連合を名乗る三〇代の男性(都内在住)から、こんな脅しともとれるプレッシャーを掛けられた経験のある筆者にとっては、半グレを軽んじることはできません。
なんせ、ヤクザなら堅気への接し方ひとつで即、逮捕もありえます。たとえば威圧的に名詞を渡すだけで脅しとみなされる、といった具合です。ところが半グレの人たちは、そのような暴力団扱いをされることはありません。何か事件を起こすまでは、私たちとなんら変わることのない一般市民だからです。
このように、もともと限りなくブラックに近いグレーの人たちの層が厚くなっているのが、グレーゾーン拡大のひとつの要因。
もうひとつは、インターネットの一般化などにより、普通のホワイトの領域にいた人たちが脱法ハーブの栽培、売買をしたり、違法な性風俗サービスを提供しやすくなったことが挙げられます。
あとはグローバル化の波に乗って、不良外国人が増えていることもあるみたいです。
あと、脱法ハーブ(危険ドラッグ)は相当ヤバい品のようですね。
実際にリサーチをかけてみて実感したのは、ハードドラッグ(覚せい剤などの違法薬物)をやっている人ほど、脱法ハーブの危険性について警鐘を鳴らしてきたというkとおです。薬物使用歴の長い知人の通称ジュンさん(仮名・年齢不詳ながら見た目は三〇代前半、職業は自称フリーライター)に、効き目などを聞いたときのことです。
「(脱法)ハーブについて調べてるんだけど」
「なに丸山さん、そっちに手を出すの? やめときなって」
「取材ですから」
「それならいいけど、あんなのに手を出したら人生終わりだよ」
「ジュンさんは、もうシャブ食ってますよね?(覚せい剤に手を出してますよねの意)」
「そういう効き方じゃないんだよ。俺もちょっと試してみようと思って手を出したけど、二、三口吸っただけでいきなり意識が飛んじゃってさ」
ちなみに、私がこの本を読んでいておもしろかったのは、ちょいちょい裏の世界の言葉遣いを一般人にもわかるように翻訳するとき、やたら丁寧に訳してくれるところだったりします。
「N県にいい場所があるんでクサでも育てようと思うんですよ。一枚噛みませんか?」
→「人目につきにくい場所で大麻栽培のビジネスを起業して今後、展開していくにあたり資金調達が必要なので出資していただけませんでしょうか」
「いてこましたるかいな」「いてまうぞ、われ」
→「あなたのことを痛めつけてしまいますよ」
「かたはめたろかぁ」
→「あなたのことを型枠にはめ込んでしまいますよ」
(逃げたくても逃げられないようにしてしまいますよ)
「吐いた唾は呑めぬ」「われも吐いた唾呑まんとけや!」
→「一度口にした言葉は取り消すことができませんので気をつけて発言してください」
「おどれ、チンコロしたんかい!」
→「あなた、警察に情報提供して私が逮捕されるように仕向けましたか」
まあ、他の方のレビューを読むとあんまり深いところにまでは突っ込んでいない内容のようですが、裏社会ビジネス素人さんが軽く知るにはちょうどいい感じの本ではないでしょうか。
後記
『マトリズム』をLINEマンガで読んでます。
これもまた、薬物というブラックながらも、ちょっとしたことで普通の人が触れてしまうものだから、人を惹きつけるものがあるのでしょう。
マトリとよばれる麻薬取締官が主人公で、薬物に溺れしまう人たちを描き出すヒューマンドラマですね。
『闇金ウシジマくん』の薬物バージョンみたいな感じ、と説明するのがわかりやすいでしょうか。
(もちろん、主人公は警察の人間なので、麻薬をやめさせようとしますが)
主人公はいろいろです。
DVを受けている主婦だったり、学校の先生だったり、一度は薬物依存から抜け出せたけど更生施設でまた誘惑に駆られてしまうオジサンだったり。
読者を引き込むためではありますが、私たちが普段日常的に接しているだろう、普通の人たちがどのように薬物と関わりを持ち、そして破滅していってしまうのかがけっこう淡々と描かれています。
絵柄はなんとなく『やれたかも委員会』に近いかも。
ダメになっていく人間って、親近感が湧くんですよね……。
今回はこんなところで。
それでは、お粗末さまでした。