本で死ぬ ver2.0

基本的には本の話。でもたまに別の話。

『ヒポクラテスの誓い』(中山七里・著)のレビュー

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私がこのブログを解説したのが2015年のことなので、かれこれ5年も!書き続けていることになります。

あんまり書く気が起きないときはサボったりもしていましたが、そうはいっても更新が滞って「1ヶ月以上更新がないブログ広告」が出てしまうのはなんだかイヤだったので、(たぶん)1ヶ月も間が空いてしまったことはないはずです。

 

『本のレビューの書き方』なんて記事を偉そうに書いたこともありますが、5年以上本のレビューを書き続けていても、いまだにまだあんまりうまくなっていないようにしか感じません。

 

ada-bana.hatenablog.com

 

とくに小説のレビューは難しいですね。

実用書の場合はトピックスがいろいろ詰め込まれているので、たとえばその一部を抜粋して紹介する手法が成り立ちますが、長編小説の場合はそれがなかなか難しかったりします。

下手に紹介するとネタバレになりますし。

 

で、『ヒポクラテスの誓い』という本を読みまして、まあ本もおもしろかったのですが、最後に掲載されている「解説」が秀逸だったので、小説本体よりもむしろ「解説」のほうを紹介したいなと思ってこの記事を書いてます。

 

そうはいっても、まずは小説の紹介をしていきましょう。

著者の中山七里さんは2009年にデビュー作である『さよならドビュッシー』が「このミステリーがすごい!大賞」を受賞し、デビューした作家さんです。

 

さよならドビュッシー

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さよならドビュッシー (宝島社文庫)

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そんな中山七里さん、じつは1961年生まれで現在58歳。

つまり、48歳のときに小説家としてデビューした遅咲きの人だったのです。

 

もともと高校・大学時代に小説を書き続け、江戸川乱歩賞の予選を通過したことも合ったようですが、就職とともに執筆活動からは離れていました。

しかし、2006年に現代ミステリ界の巨匠・島田荘司御大のサイン会に参加したときに初めて生の小説家を目にし、「今小説を書かなければ、もう一生書かないに違いない」と思い立ち、ノートパソコンを衝動買して書き上げたのが『魔女は甦る』という作品です。

 

魔女は甦る

魔女は甦る

 

 

この作品は残念がら「このミス大賞」の受賞から漏れてしまいましたが、翌年に『さよならドビュッシー』でデビューとなりました。

ちなみに、ペンネームは故郷のほど近くにある岐阜県下呂市にある中山七里という公園のなかの渓谷の名前からとったようです。

 

 

さて本作『ヒポクラテスの誓い』は検視官が探偵役となり、死体からその死の真相を突き止めていく連作短編シリーズになっています。

一見するとただの病死、あるいは事故死にしか見えなかったものが、じつは死体を入念に調査していくと、隠された死の原因が見えてくるというものですね。

いわゆる法医学ミステリーとひとくくりにされるジャンルで、有名所では『チーム・バチスタの栄光』なんかも近いでしょう。

 

 

もうちょっとライトなものだと『櫻子さんの足下には死体が埋まっている』もそうですね。

 

 

 

私は『さよならドビュッシー』は未読でしたが、『連続殺人鬼カエル男』は読んでいました。

 

連続殺人鬼カエル男 (宝島社文庫)

連続殺人鬼カエル男 (宝島社文庫)

 

 

どうも中山センセの作品は世界観が共有されているようで、『ヒポクラテスの誓い』に登場する探偵役の法医学教授・光崎藤次郎は『連続殺人鬼カエル男』にも登場していました。

小手川刑事はいかにも刑事さんのテンプレキャラクターだったのでまったく覚えていませんでしたが、光崎藤次郎は舌鋒鋭い監察医だった印象がうっすらと頭のなかに残っていました。

 

さて本作は、研修医である栂野真琴が不本意ながらも法医学の研修をすることになり、光崎の助手になりながら、一見すると事件性がまったくない事故死、病死をした遺体から導き出される光崎の鮮やかな推理劇を目撃していくという連作短編集となっています。

たとえば、

第1話目は河川敷で酒をかっくらって凍死したサラリーマン。

第2話目は交通事故で死んだ女性。

第3話目はテレビで放送されていたボートレースの真っ最中に激突ししたレーサー。

第4話目はマイコプラズマ肺炎が悪化して病院で息を引き取った女性。

そして第5話目は、腹膜炎で入院していたものの急に病状が悪化してなくなった女の子

という感じです。

 

それぞれの物語は一話ごとに完結していますが、最後の最後、じつはすべての事件が一本の糸で繋がります。

こういう展開は個人的に好きです。

サクサクと読み進めて行けて、最後の最後にいい感じのカタルシスが得られる、上質なミステリー作品でした。

 

さて最初の方でも述べましたが、本書でおもしろかったのは書評家・大森望さんによる「解説」のなかの、中山七里センセの紹介文章です。

 

引用の引用になりますが、とある取材のインタビュー記事が、中山七里先生の異質さを端的に表現しています。

 

サラリーマンを二十八年やってきましたが、その中で得た知識や経験は一切書いていません。デビュー作『さよならドビュッシー』は音楽のことをたっぷり書いていますけれど、ピアノを触ったこともありません(笑)。あの小説を書こうと思ったときに初めてドビュッシーのCDを買ったくらいです。物書きが生き長らえる理由に、想像力を物語に落とし込む能力があると思います。僕が五年の間、小説を書き続けられたのは「依頼された仕事を断らない」ことと「自分が書きたいものを書いてない」からだと思います。よく「作家は書きたいことが無くなってからが勝負だ」と言われますが、それなら最初から書きたいものを書かなかったら長持ちすると考えています。僕は戦略的に「皆が読みたいものを書く」ことに特化して、編集者との打ち合わせでも、この物語がどんな読者層にどれだけの波及力、訴求力があるのかを考えています。

(〈新刊ニュース〉二〇一五年三月号)

 

まったくもって驚くべきことですが、中山センセは音楽や法医学の専門的なことをテーマにした小説であっても、まったく取材をすることなく、書き上げてしまうらしいです。

これには、解説を書いた大森さんも舌を巻いています。

 

なんとも見上げたエンターテイメント作家魂ではないか。これだけ職人に徹したうえで、なおかつハイレベルな作品を量産することに成功している作家も珍しい。

「私に支点を与えよ。そうすれば地球を動かしてみせよう」と言ったのはアルキメデスだが、中山七里の場合は「私にテーマを与えよ。そうすれば三日後に長編小説にしてみせよう」という勢い。しかも、本書を読めばわかるとおり、その小説には、解剖室のにおいまで再現するような、リアルなディテールに満ちている。頭の中だけでそれを完成させる特異な才能には脱帽するかない。

 

ちなみに、このような「自分が書きたいものは書かない」というスタンスは、ヒット作を輩出しているビジネス書作家の先生でも同じことが言えます。

とあるヒットメーカーの方がおっしゃっていたことですが

「自分も昔は自分が書きたいことをテーマにして本にしていたが、そういう本はだいたい売れなかった。しかし、編集者から『こういうテーマで書いてくれませんか?』という求めに従って書くようになってから、不思議とドンドン売れるようになった」

とのことです。

 

小説を書くにしても、ビジネス書を書くにしても、作家になる人というのはやっぱり普通の人とはどこか違う感覚を持っているものです。

つまり、本人たちがおもしろいと思ったものは、俗人にはよくわからなかったりするものなのです。

編集者はあんまり才能がいらない仕事だと思いますが、ひとつ大切な素養があるとすれば、それは俗人であること、凡人であることかもしれません。

「バカな編集者、難しい本をつくりたがり」

というのはかつての私のボスの名言です。

 

ヒットしたビジネス書などのAmazonレビューではだいたい「当たり前のことしか書いていない」「初歩的なことしか書かれていない」という一つ星レビューがあるものですが、これは的はずれな批評です。

なぜなら、著者も編集者も、それをわかりきって、あえてそうしているからです。

ちょっと知識がある人が読めば「当たり前のこと」でも、それをまったく知らない人にわかりやすく教えてくれる本がベストセラーになるための条件なわけですね。

 

その意味では、この中山七里センセは編集者にとっては非常にありがたい、稀有な作家先生といえるでしょう。

むしろ、長らくサラリーマン生活をしていたからこそ、こういう「相手のニーズに求めることに徹する」という姿勢ができたのかもしれません。

もちろん、もともと文才や発想力がずば抜けているのはあるでしょうが。

 

後記

編集者をしているとそれこそ年間何十本も企画書を提案されたり、会ってくれないかという連絡をいただくことがあるのですが、全部に対応しているとそれだけで仕事が終わってしまうのでだいたい無視しています。

が、それでも知り合いのつて(とくに著者先生からの頼みだっり)だと断れずに、一度はお会いしたりお話を聞いたりしないといけないこともあります。

そういう感じで、いままで本を出したいという人たちのべ2~300人くらいと会ってきたと思うのですが、だんだん「作家っぽい人」というのがわかってきます。

 

「作家っぽい人」というのは、「たぶんこの人は、遅かれ早かれ、どこかの出版社から本を出すだろうな」という予感させるような人です。

(その本が売れるかどうかはわかりませんが)

ぶっちゃけ、本が出るか出ないかは、企画のおもしろさはもちろんのこと、編集者との相性、出版社との相性、さらには会社の込み入った事情、編集者の忙しさの度合い、メンタルの状態などによって左右されます。

私も人間ですから、なんか疲れていて頭がいたいときに持ってこられた企画は、どうも判断がネガティブになりがちです。

でも、それは作家志望の人にはコントロールできない問題ですから、運としか言いようがありませんね。

 

とはいえ、「作家っぽい人」は話していると、それをすぐに感じます。

私が感じる共通点は、以下のとおりです。

 

(1)自分が興味、関心のあることだとめっちゃ喋る、とめどなくしゃべる(あと、すごく早口になる)

(2)関連する情報についてやたら詳しい、いろいろな情報が出てくる。それ以外のことについてはびっくりするほど無知だったりする

(3)やたら自信満々で、「自分の考えは世の中に広めるべきだと思う」という謎の責任感、使命感を持っている

 

とくに重要なのは(3)でしょうか。

これはビジネス書作家などに特有のことかもしれませんが、そもそも自分の考えを本にまとめて世に出そうなんて考える人はどこかしら傲岸不遜・大胆不敵な考え方の持ち主です。

でも、だからこそ物事を断定したり、説得力を持った本を書けるんだと思います。

この「説得力を持たせられる」というのがすんごーーーく大事なポイントなんですよね。

 

書籍はジャーナリズムではありませんから、じつは実用書であっても「それが絶対に正しい事実か」はあまり重視されません。

それはさまざまな健康本、宗教関連の本、自己啓発本なんかを見ているとわかるかと思います。

「正しいか、正しくないか」は、本の場合は問題ではないのです。

大事なのは「おもしろいか、おもしろくないか」です。

この判断基準が、新聞などの報道記者と、本の編集者の決定的な違いではないかなと思います。

たとえ倫理的にちょっとよくなかろうが、道義的に間違えていようが、事実関係が曖昧なところがあろうが、おもしろければまあ良いんじゃないかと考えてしまうのが編集者だと思います(少なくとも私は)。

 

たぶんこれは小説も同じじゃないでしょうか。

中山七里センセは取材などは一切しないで小説を書き上げるということですから、たとえば『ヒポクラテスの誓い』なんかも、法医学をかじったことのある人間からすれば間違いだらけ、矛盾だらけの作品なのかもしれません。

でも、べつにそれくらいいいじゃないか、ということです。

問題なのは、法医学をまったく知らない人たちが読んだときに「法医学っぽい」と感じさせることができるかどうかです。

大事なのはリアルではなく、リアリティということですね。

SFなんかでも、あまりにもリアルを追求しすぎると話が小難しくなってエンタメ性が損なわれるような気がします。

 

話がグネグネ蛇行しますが、要するに作家になる人間はどこか普通じゃないということですね。

 

今回はこんなところで。

それでは、お粗末さまでした。