『妻のトリセツ』(黒川伊保子・著)のレビュー
「男性脳」と「女性脳」の違いというテーマは、実用系の書籍では鉄板テーマのひとつです。
古いものでいえば、『話を聞かない男、地図が読めない女』という2000年に邦訳された本もベストセラーになりました。
ほかにもいろいろあります。
こういう本の場合、「男」と「女」を並列に扱うことが多いですね。
べつにこれはジェンダー云々というわけではなく、そのほうが売れやすいんじゃないかと編集者が考えるからです。
当たり前ですが、男性だけをターゲットにした本よりも、男性も女性も読んでもらえそうな本のほうが母数となる想定読者が増えるわけですから。
ただ、読者の母数が増えればそれで売れるようになるかというと、そういうわけでもないのが難しいところです。
今回紹介する『妻のトリセツ』は、タイトルやコンセプトでは男性だけを読者対象としているような一冊です。
しかも「妻」とタイトルに入れてしまっているので、必然的に既婚者だけが読者対象となります。
ところがどっこい、ほかの多くの類書を押さえ、累計発行部数45万部というモンスターヒット作になりました。
この本は新書なので、当然ながら割と年齢高めの男性がまずは買い始めたと思うのですが、話題になるにつれて女性(つまり妻)が購入して、家に置いておき、夫にさり気なく読ませようという使い方もあるみたいです。
さて、著者の黒川伊保子(くろかわいほこ)さんは何者かというと、人工知能研究者(元)です。
脳機能の知識と人工知能による分析技術を組み合わせた語感分析法「サブリミナル・インプレッション導出法」というものを編み出し、法人に提供しています。
これはなにかというと、新しい商品の名前やサービス名を考えるとき、どういうものにすればイン印象を与えられるのかを分析するものです。
サブリミナルというのは「相手の無意識にこっそり働きかけること」を意味し、インプレッションは「印象・気持ち」を意味します。
つまり、「相手の無意識にこっそり印象づけるための方法」ということですね。
黒川さんは著書も多数あり、以前から男性と女性の違いをテーマにした本も多数執筆しています。
本書のテーマは、黒川さんにとっても取り立てて目新しいテーマというわけでもなかったわけですね。
それでもやっぱり売れるというのは、もちろん内容の良さ、著者の売る力の強さも影響していると思いますが、テーマの強さが明らかにされた結果だと思います。
そういうわけなので、本書の内容はというと、じつは同じような男性脳・女性脳系の本を読んだことがある人にとっては、さほど目新しい内容はないかなと思います。
時代を経てなにかこれまでの定説が覆されるような大発見が合ったわけでもありませんし。
よくいわれるように、男性は目的思考で俯瞰的、論理的。
女性はプロセス思考で主観的、直感的……ということです。
女性の言葉の真意翻訳
個人的に本書でおもしろいと思った箇所は2つあります。
1つは、「妻の言葉の翻訳」のパートです。
これはまさに首がもげるほど首肯できるものです。
長いですが、引用しましょう。
あ行
「あっち行って!」
→あなたのせいでめちゃくちゃ傷ついたの。ちゃんと謝って、慰めて!
か行
「勝手にすれば」
→勝手になんてしたら許さないよ。私の言うことをちゃんと聞いて。「好きにすれば」は同義語。
さ行
「自分でやるからいい」
→察してやってよ。察する気がないのは愛がないってことだね。
た行
「どうしてそうなの?」
→理由なんて聞いてない。あなたの言動で、私は傷ついてるの。
な行
「なんでもない」
→私、怒ってるんですけど? 私、泣いてるんですけど? 放っておく気なの?
は行
「一人にして」
→この状況で本当に一人にしたら、絶対に許さない。
ま行
「みんな私が悪いんだよね」
→えっ? それって私が悪いの? 私のせいなの? あなたのせいでしょ。
や行
「やらなくていいよ」
→そんな嫌そうにやるならもう結構。私はあなたの何倍も家事してますけどね。
ら行
「理屈じゃないの」
→正論はもうたくさん。「愛してるから、君の言う通りでいい」って言いなさい。
わ行
「別れる」
→ここは引けないの。あなたから謝って!
これだけがわかっているだけでも、だいぶ女性とのコミュニケーションはうまく生きそうな気がします。
「完璧な夫」にはならないほうがいい
もうひとつ、これは「おわりに」の内容です。
本書は妻の言動の心理的なメカニズムを夫のほうが理解して、「いい夫」に近づくことを目指すことを目的としています。
が、その一方で、妻がまったくストレスを感じない「パーフェクトな夫」になる必要はまったくない、と言っているのです。
女性たちは、ときどき、このたまったストレスを”放電”する先を探しているのである。そんなとき、まんまと夫が何か気に障ることをしてくれると、気持ちよーく放電できる。
夫が完璧だと、その放電先が子どもになったり、自分に跳ね返ってうつに転じたりして、危なくてしょうがない。いい夫とは「おおむね優しくて頼りがいがあるが、時に下手をして、妻を逆上させる男」にほかならない。
男はたまに女性に怒られるアホなことをしでかすことで、結果的に女性の精神安定剤的な役割を果たすということですね。
あともうひとつ、妻が夫に対してアレコレ口うるさく言ったり、怒りを爆発させるのは、「一緒に暮らす気があるから」というのもうなづけるところでした。
怒りというのは、相手に対する期待があるからこそ生まれる感情です。
そもそも相手になにも期待していなければ、なにも言われないわけです。
小言を言われたり、怒られたりするうちはまだ大丈夫。
なにをやっても、奥さんからなにも言われなくなったらヤバい、ということですね。
これは仕事の関係でも同じかもしれません。
そもそも、今後一緒に仕事をする気のない相手であれば、ミスをしてもそれを咎めたりしません。
たとえば私は先日、とあるライターさんと一緒に取材に行ったのですが、そのライターさんは取材中に腕組をしたり肘をついたりしていたのが気になりました。
ライターさんのほうが自分より年上だし、キャリアも長いのでどうしようかなと思ったのですが、取材が終わったあと、軽く注意しました。
ただもし、次の取材でも同じようなことが繰り返されてしまったら、もう次からはこのライターさんにお願いするのはやめようと考えています。
同じ会社の後輩だったら何回でも注意しますが、外部の人だったらそんな義理もないですしね。
余談ですが、黒川さんの新刊で『娘のトリセツ』という本も発売されました。
こっちは小学館ですね。
普通に考えれば、これは『妻のトリセツ』『夫のトリセツ』に続くシリーズとして位置づけられるわけですから、道義的には講談社さんから出すのがいいんじゃないかなあと思いますが、まあ小学館と講談社と黒川さんの三者間でいろいろあったのでしょう。
後記
実用書系の本を読むとき「あとがき」から読む人っていますよね。
私はそういうタイプではないのですが、そういう人の気持ちがわからないでもありません。
「あとがき」から読む人は玄人だと思います。
なんでかというと、「あとがき」はその著者のホンネが書かれていることが多いからです。
私は編集者ですが、「あとがき」にはほとんど手を加えません。
これは個人的な哲学に過ぎませんが、「あとがき」はおまけであり、そこに編集者が口を挟んだり、手を加えたりするようなものではないと思うからです。
たまに、著者本人が書かず、私がほとんど書き上げるようなタイプの本をつくることもありますが、そういうときは「あとがき」を加えません。
「あとがき」で書くべき内容があるなら、それは本論のところに書けばいいのです。
だから、「あとがき」を読むと、実際のところ、著者がどういう気持でこの本を書き上げたのかなどをぶっちゃけていることがあります。
私の経験上、売れている本は「あとがき」で「いいこと」をいっています。
「いいこと」というのは、この本の趣旨とはちょっとずれていたり、高尚だったり、理想論的なことです。
『妻のトリセツ』の場合、最後の文章がよいのです。
結婚の初め、「この人がいなければ生きていけない」と思った、その気持の色合いとは全然違うけれど、私は、またあらためて「この人がいなければ生きていけない」と思っている。私の感情の露出に、まったく動じないのは、この人だけだから。思いっきり放電できて、手放しで泣いてなじって甘えられる、唯一無二の相手だから。
子育ての最中には、御多分にもれず、「一緒の部屋の空気を吸うのもいや」と思ったこともあったけれど、あのとき、手放さないで本当によかった。あのとき、見捨てないでくれて、本当によかった。
多くの結婚35年超えの妻たちが口にする実感である。夫婦の道は、照る日も曇る日も嵐の日もあるけれど、継続は力なりである。最後の峠に咲く花は、案外、優しくてふっくらしている。
これから、この道を行く多くの夫婦が、この苦難と豊穣の道を、どうか賢く切り抜けてくれますように。
勝手に深読みすると、この本は軽率な離婚によって後悔してしまう人を減らすために書かれているともいえるわけですね。
日本の離婚率は結婚者数の低下と相まって増加傾向にあります。
離婚原因の1位は「性格の不一致」だそうです。
離婚のハードルが下がることは悪いことばかりではないけれど、「性格が合わない」からということで離婚をして、後悔してしまう人は少なくないのかもしれません。
そういう意味では、社会的に世に出す意義のある本だといえますよね。
こういうことは、「はじめに」ではなかなか書けません。
「はじめに」はWeb記事で言えばリードのようなものであり、セールスプロモーションの役割を担っているからですね。
私も「はじめに」はものすごく手を加えます。
ここで著者に暴走させ、言いたいことを言わせると、本が売れなくなるからです。
ちなみに、本のタイトルも同様です。
著者にタイトルを考えさせると、だいたいロクなものになりません。
私も過去、どうしても著者の強いこだわりに抗いきれず、著者の要望に沿ったタイトルで刊行した本が何冊かありますが、そういう本はだいたい爆死しました。
このあたりは著者と編集者の力関係にも左右されるので、難しいところですが。。。
私が最近思うのは「やっぱり社会的に出す意義のある本」をつくらなきゃなあということです。
いまは本が溢れていますし、出版社も営利団体であり、編集者がそこに所属するサラリーパーソンである以上、「あんまり出さなくてもいい本」を作らざるを得ない状況もけっこうあるのですが、できるだけそういう本は減らしていきたいなあと。
結局、売れる本というのはそういうのがあると思うのです。
それが「いい本」なんじゃないのかなと。
今回はこんなところで。
それでは、お粗末さまでした。