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本で死ぬ

基本的には本の話。でもたまに別の話。

作家による作家のための作家の物語~『ハリー・クバート事件』のレビュー

ACCAと鬼平、好きです。

あと、『エルドライブ』が後半には化けてくるんじゃないかとひっそり期待している。


もくじ

 

それはともかく、今回紹介するのはこちら。

 

ハリー・クバート事件〈上〉 (創元推理文庫)

ハリー・クバート事件〈上〉 (創元推理文庫)

 
ハリー・クバート事件〈下〉 (創元推理文庫)

ハリー・クバート事件〈下〉 (創元推理文庫)

 

 

いやあ、おもしろかった!

文庫版上下巻でなかなかのボリュームがあり、確かに途中でちょっと中だるみしたりもするのだが、終盤になると怒涛のどんでん返しが続き、アレヨアレヨと物語が終結する。その急転直下ぶりは、なかなかのおもしろさだった。

 

15歳の美少女を殺したのは誰だ?

 

あらすじは以下の通り。

 

デビュー作が大ヒットした作家マーカス・ゴールドマンは2年近く経っても満足できる作品を書くことができず、悩んでいた。そこで彼は作家としての恩師であり、『悪の起源』という名作で今も世に名をはせる大物作家、ハリー・クバートに相談を寄せる。

だがその直後、ハリーの自宅の庭から白骨化した遺体が発掘され、それが33年前に失踪した15歳の美少女ノラ・ケラーガンであると判明。しかも、遺体の傍らには『悪の起源』の原稿が残されていたのだ。

警察はハリー・クバートがノラを殺害・遺棄したとして逮捕。さらに、当時30歳を過ぎていたハリーとわずか15歳のノラが恋愛関係にあったことがわかり、アメリカ中がハリーを一斉に非難し始める。だが、師匠の無実を信じるゴールドマンは独自調査を開始し、ノラの死の真相を解明することを決意する。

 

個性的なキャラクター

 

本作は基本的に、アメリカにある架空の片田舎オーロラが舞台になる。

いわゆるオールドアメリカンなステレオタイプな人たちがいろいろ登場し、キャラクターが立っているので、そこも読んでいて楽しい。

 

個人的にお気に入りのキャラクターはペリー・ガロウッド巡査部長

彼は目つきの悪い黒人警官で、最初は独自に調査しようとするゴールドマンを鬱陶しく思っていたが、なんだかんだと捜査に協力し、最終的にはパートナー的な位置づけになる。ツンデレだ。

 

『悪の起源』に込められた意味

 

本作にはノラを殺した犯人のほか、それに付随する様々な謎が出てくる。

だが、そのなかでも最も重大なキーポイントとなるのは、ハリー・クバートが名をはせるようになった作品のタイトル『悪の起源』だ。

 

この作品は許されない仲の男女が恋に落ちるという物語で、少なくともこの物語を読んでもなぜ『悪の起源』というタイトルなのかはわからない作品である。

しかし、このタイトルに込められた本当の意味こそ、この事件の真相を見抜くために最も重要なのだ。

 

作中、主人公のゴールドマンはこのタイトルの意味を何度もハリーに尋ねる。

だが、ハリーは自分が警察に疑われてどんなに窮地に立たされても、決してその理由を語ろうとはしない。それは一見すると意味不明な行動に見えるが、恐らく作家の修正を知る人であれば、彼の行動は理解できるかもしれない。

 

「本のせいだ。きみとわたしを結びつけたのは本だ。そしてその結びつきは本によって絶たれる。これは最初から決まっていたことだ」

「決まっていた? どういうことです?」

「すべては本のなかにある……。マーカス、わたしはこのときが来ることを初めから知っていた」

 

作家のための31のルール

 

本作品は全31章で構成されている。

これは大学生だったマーカス・ゴールドマンが、当時から著名な作家だったハリー・クバートから教わった作家の心得と同じ数である。

そして、それらの心得は各章の始まりで伝えられる。

 

本作の主人公、ゴールドマンは駆け出しの作家である。

彼はヒット作を生み出したが、二作目を生み出すのに苦悩し、ハリーに助けを求める。

これはハリーの物語であるが、同時に、作家としてのゴールドマンの成長の物語でもある。この事件を越えて、ゴールドマンは“作家”になる。

 

では作家とはなんなのか?

実際、よく言われているのは「作家はデビューしてからが本当の勝負」というものだ。

だからこそ、本書は「作家による、作家のための、作家の物語」なのだ。

 

いくつか、本書に出てくる心得を抜粋しよう。

「それで登場人物は? 先生はどこからヒントを得るんですか?」

「あらゆる人だ。友人も、家政婦も、銀行の窓口係も、誰でもモデルになる。だが勘違いするなよ。モデルになるのは彼らそのものではなく、行動だ。彼らがどういうときにどう振る舞うか、それが登場人物の行動のヒントになる。(以下略)」

「文章を書くにも、ボクシングの試合のように準備が必要だぞ。試合前の数日は練習を七〇パーセント程度に抑えて闘志を溜め込み、それがちょうど試合で爆発するようにもっていくだろう?」

「それを書くことに置き換えると?」

「アイディアが浮かんでもすぐ形にしないことだ。そのまま形にすると、きみが校内誌に載せていたような読むに堪えない作品になってしまう。アイディアはいったん頭の奥にしまって熟すのを待つ。すぐにでも使いたいだろうが、それをこらえ、時が熟すまで大きく育てること……これは何条になるかな?」

「どうですか?」

「悪くない。だが、言葉に頼りすぎている」

「言葉に? でも、小説を書く上で言葉は大事ですよね」

「いや、言葉自体より、言葉の意味のほうが大事だ」

「どういうことですか?」

「言葉は言葉にすぎないし、それは万人のものだ。つまり言葉を選ぶだけなら誰にでもできる。辞書を開いてひとつ選べばいいだけだ。だがそこからが問題だ。きみはその言葉に特別な意味を与えられるかね?」

「どういうふうに?」

「ある言葉を選び、作品のなかで繰り返し使うとする。なんでもいいんだ。たとえば“カモメ”だとしよう。するときみのことをこう言うやつが出てくる。『ゴールドマンって知ってるだろ? ほら、カモメのことを書いてるやつ』その人々はカモメを見ると君のことを思い出すようになる。あのしゃがれ声の鳥たちを見て、『ゴールドマンはカモメになにを見ているんだろう?』と考えるようになる。そして“カモメ”と“ゴールドマン”を重ねる。彼らにとってカモメはもはや以前のカモメではなくなる。そうなって初めて、きみが言葉を自分のものにできることが人々に理解されたとき、初めて言葉はきみのものになる。それができるのが作家だ。(以下略)」

 

叙述トリックじゃないよ

 

とはいうものの、私は下巻の途中あたりを読んでいて、嫌な予感が去来するようになった。

そもそも本作はノラ・ケラーガンの遺体が発見されて事件が明るみになった2008年と、彼女が殺害された1975年の描写が交互に繰り返される形で展開する。

しかも、その合間合間に事件が解決した後の描写とか、ケラーガン事件の真相を追った末にゴールドマンが上梓した作中の『ハリー・クバート事件』の一節とか、そういうのが出てくるので混乱しやすいのだ。

 

で、途中からハリーが『作家の天国』などというものを言い始め、それらの描写のなかにハリーの空想めいたものが混じりだしたところから、私は嫌な予感がし始めた。

というのも、私は頭の中で、もしかするとこの作品が最終的に「叙述トリック」で幕を下ろすのではないかという考えが浮かんできたからだ。

 

だが、そうではなかった。ので私は安心した。

 

本作品は読みやすい

 

さて、本作は2008年と1975年という2つの時間軸が交錯するなかで展開していくと説明し、同時に「混乱しやすい」と述べたが、その割には非常に読みやすくなっているのではないかと思う。

その要因はいくつか考えられる。

 

●文章そのものが読みやすい(原文が分かりやすいのか、翻訳がうまいのかはわからない)

●時代が変わるたびに「2008年」とか、表記してくれている

●必然的にさまざまな登場人物が出てくるが、それぞれのキャラクターのアクが強いため、割とそれぞれの登場人物の役回りが覚えやすい

 

これは個人的な考え方だが、とくにキャラクターが大勢出てくる場合、キャラクターの名前はあまり凝ったものにしないほうがいいと思う。

ぶっちゃけ、読者は登場人物の名前がかっこいいかどうかなんて、あまり気にしないような気がするのだ。

極端なことを述べれば、個人的にはマンガ『ワンピース』のネーミングセンスはステキだと思う。基本的には日本語をベースに、そのキャラクターを端的に表せるような名前を付けているので、登場人物が星の数ほどになってもわりと、名前を聞くとそのキャラクターの名前が頭に思い浮かべやすいのだ。

 

おわりに

 

編集者というのも難儀な生き物だが、それと同じくらい、文章を書くことによって銭を稼ぐ作家という生き物も難儀である。

 

そもそも、本というのは不思議なものだ。

これらは商業的なアイテムであると同時に、文化的なものでもある。

商業的なアイテムであるのなら、それは消費者のニーズに徹底的に答えなければならない。だが、本の場合、ときとして消費者のニーズを無視して、作り手である作家の意向だけが強く反映されることがある。

だが、それを実行することで結局売れない本になったとしても、だからといってそれが「悪い本」だといえないのが本の難しいところである。

 

良い本が売れるかどうかはわからないが、売れた本はいい本である。

というのは、現在の資本主義社会においては真理だと思う。

しかし、重要なのは前半なのだ。本というのはお金だけによっては図ることができない場合もあって、そういう厄介な一面を持っているからこそ、それに携わっている作家だの編集者だのという生き物は難儀な生き方をせざるを得ないのだろうなぁと、私はぼんやり考えている。

 

ハリー・クバート事件〈上〉 (創元推理文庫)

ハリー・クバート事件〈上〉 (創元推理文庫)

 
ハリー・クバート事件〈下〉 (創元推理文庫)

ハリー・クバート事件〈下〉 (創元推理文庫)

 

 

今回はこんなところで。

それでは、お粗末さまでした。