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本で死ぬ

基本的には本の話。でもたまに別の話。

キリスト教の変人たち~『美術で読み解く聖人伝説』のレビュー~

美術

f:id:Ada_bana:20161102235245j:plain『聖ゲオルギオスとドラゴン』ラファエロ・サンティ

 

先日、おそらく生きてきた中で一番ひどい悪夢を見た徒花です。

 

もくじ

 

いろいろ調べてみると、悪夢は人に話したほうが現実にならない……らしい(反対に、良い夢は人に話してしまうと現実にならなくなってしまう)ので、この場で簡単に話してしまおうと思う。他人が見た夢の話ほどつまらないものはないが、、、。

なにしろあまりの悪夢に私はマジで飛び起き、しばらく心臓が信じられないくらいバクバクと鳴っていた。一瞬目を見開いたのだが、とても暗い部屋の中を見る気になれず、体一つ動かすこともできず、とにかくベッドの中で体を硬直させたまま、ひたすらもう一度眠れるのを待った。本当に怖かった。

 

で、どういう夢だったのかというと、詳細はよく覚えていたいのだが、とにかくなにか、体育館みたいな場所にいて、なにかがポトリと落ちてくるのだ。落ちてくるものを直接見たわけではないが、それは明らかに生首だった。そして、私は直感で「あれにぶつかったら死ぬ!」と思ったのである。実際、体育館のような場所には私以外の人間もいたのだが、当たった人は死んでいった。

生首は何個も落ちてくるわけではないのだが、落ちると床でボールのように弾む。そして私は、あれだけ触ってはいけないと考えていたにもかかわらず、ついに逃げ切れなくなってその生首にぶつかってしまうのだ。その瞬間、私は「死んだ」。そして目を覚ましたのである。

フロイト先生はどういう風に判断するのだろう。こわいこわい。

 

『美術で読み解く聖人伝説』

 

それはさておき、今回紹介するのはこちら。

 

 

以前、こんな記事を書いた。

 


このなかで徒花氏は、「西洋美術を鑑賞するときは、キリスト教の知識があると楽しめるヨ」と語っている。そうだな。

まあその考えは未だに変わっていないわけだが、それと同時に「やはり絵画は理解するようなものではないような気がする」とも思うのだが、そのスタンスは近代以前と行こうでは変わるような気がする。

 

ルネサンス以前の作品を見るなら知識があったほうがいい

 

たとえばサルバドール・ダリの作品を見る場合、じつはそこに描かれているものの意味を理解する必要はないし、理解したからといってより深くその作品を楽しめるというわけでもないと思う。

 

ただ、ルネサンス以前の作品については、やはり当時の時代背景とか、キリスト教とか、文化とか政治情勢とかを理解したほうが楽しめる。それは近代以前の美術が美術的価値に加えて「歴史的価値」も同時に持っているからだろう。

歴史というものは、やはり知識があったほうが楽しめるものなのだ。

 

「聖人」とはなんぞや?

 

また前置きが長くなってしまったが、とにかく本書は近代以前の西洋絵画でよくモチーフとなって登場するキリスト教の聖人たちについて、実際に描かれた絵画を取り上げつつ紹介する一冊である。

 

聖人というのは、要するに「殉教した人」と言い換えても差し支えない。異教徒どもにキリスト教を布教する過程で迫害されて処刑されたりしたら「エライ!」と聖人に列せられるのである。

 

意外とユーモアにあふれた一冊

 

さて本書には良い点と悪い点がある。良い点は、「かなり文体がフランクで読みやすい」ということだ。

 

なにしろレーベルが「ちくま学芸文庫」なのでこれだけでもう小難しそうな印象を受けるし、冒頭ではこの本のベースになっているヤコブス・デ・ウォラギネの『聖人伝説』についての解説文があるので、ここでくじけてしまいがちになる。

 

 

だが、そこを乗り越えて本文に突き進んでいくと、意外や意外、かなり砕けた語り口調とユーモアが織り交ぜてあって、なかなか楽しみながら読むことができるのである。

 

ちょっと引用してみよう。以下の文章はキリストの弟子である12使徒のひとりであるトマスについて語っているところである。トマスは一言で説明すれば、使徒の中でも「疑り深いキャラ」だったらしい。

 

ヨハネ福音書十四・六によれば、イエスはあるとき「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとへ行くことができない」と言ったそうです。

これはたいそうな大口ですが、この言葉をイエスの口から引き出したのは、トマスのすっとぼけた問い「主よ。どこに行かれるのか、わたしたちには分かりません」でした。同じヨハネ福音書二十・二四以下によれば、復活したイエスについて、それを見たと申したてる仲間の者たちに向かってトマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れて見なければ、また、この手をその脇腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言ったそうです。

(中略)

前回の講義でベツレヘムの洞窟で処女出産をしたマリアを取り上げ、そのときそんな出産などあり得ないとしたサロメが自分のひとさし指をマリアの膣に入れた話を紹介しましたが、彼女はトマスの女性版です。あちらの物語はこちらの「不信のトマス」の物語を下敷きにして作られた下ネタ版なのです。「不信」の活用法もエロエロ、いや、いろいろあるのです。

 

いろいろな人が描いているが、その中のひとり、ヘンドリック・テル・ブルッヘンが描いた『疑う使徒トマス』の絵がこれ。

 

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復活したイエスが本当にゴルゴタの丘ロンギヌスの槍に貫かれて死んだあのイエスと同一人物なのか、突っつかれた脇腹に指を差し込んで確かめている図である。「ちょっ、やめろよ!」と嫌そうな顔をしているイエスが印象深い。

 

こういう絵は、そもそもトマスという人物や、彼がどういうキャラクターで、聖書のどういう場面を描いたのかを知らなければ、単に「傷口に指を突っ込んでじゃれあっている変なオッチャン達」の絵にしか見えないだろう。知識は重要である。

 

じつは、著者はユダヤ教の肩を持っている

 

じつは、この本の著者が飢えに引用した文章のように、キリスト教に登場する人物を茶化して書くのは理由がある。

じつは、著者である秦剛平氏はキリスト教の研修者ではないのだ。秦氏はヘレニズム・ユダヤ教部会運営委員会の会員であり、じつはどちらかというとユダヤ教の肩を持つ立場に立っているのである。

 

中世におけるキリスト教ではユダヤ教徒が邪険にされがちで、秦氏によれば、そのようにユダヤ教徒(ユダヤ人)が迫害されてきた大きな理由のひとつだといっているのが、前述したヤコブス・デ・ウォラギネの『聖人伝説』であるという。

ウォラギネはアンチ・ユダヤ教だったので、聖書の中でも「カネに汚いユダヤ人がキリスト教徒に改宗する」物語をいくつも取り上げており、それが反ユダヤ主義の思想形成に大きく寄与していると述べる。

そのため、本書の中ではウォラギネのテキトーさについても割と辛辣に述べられており、冒頭でも『聖人伝説』に批判的な目を自分はむけてこの本を書いた、と明言している。

 

本書の残念な点

 

私も別にキリスト教徒ではないので、このようにフランクにキリスト教について学べる本はおもしろい。ので、良い点として認識した。

 

では、本書の良くない点はどこなのか。それは、せっかく実際に描かれた絵画を取り上げながら説明しているにもかかわらず、「本が文庫サイズ」&「全ページモノクロ」であるがために、肝心の絵画がすんごくわかりにくいところである。

しかも、1ページに複数の絵を挿入したりしているので、必然的に個々の絵が小さくなってしまい、さらに見づらい。文章中ではかなり細かい部分について指摘していたりするのだが、このサイズだとそれを確認することができないことも多いのだ。

そのうえ、けっこうマイナーな絵を取り上げていることも多いため、ネットで検索してもなかなか出てこないことがある。これはちょっと困った点だ。

 

幸いなことに、取り上げられている絵はいずれも古いものばかりで、ネットではWikiなどで探せば著作権フリーパブリックドメインの状態で置いてあることがある。ので、せっかくだからいくつかここで紹介してみよう。

 

怪光線を吐き出す神

 

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これは初期フランドル派の画家メルキオール・ブルーデルラムが描いた「受胎告知」「聖母のエリザベト訪問」である(絵の左側が「受胎告知」で、右側が「聖母のエリザベト訪問」)

左側は聖母マリアが処女のままイエスを身ごもったことを大天使ガブリエルから伝えられるシーンである。受胎したことを示すのは「ハト」などを使うことも多いが、古い絵だと神様が登場して“霊波”を発していることがある。この絵画だと、左上にいるのが神様である。

アップにしてみよう。

 

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うーん、キモい。どう見ても怪しい光線を口から放っているへんなオッサンである。

しかも、実はこの絵をよく見るとわかるのだが、このオッサンは頭に三重冠をかぶっている。これは教皇の証であり、このころのキリスト教会は神と教皇を同列視していたことを表しているのである。そもそも神様を描くことも本来ならばありえないのだが、なかなか傲岸不遜だ。

 

皮をはがされてる男がいたら、だいたいバルトロマイ

 

続いては、誰もが知っているルネサンス期の雄、ミケランジェロの大作最後の審判

 

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もうとにかくいろいろな聖人が描かれているのでどこから見たらいいのかわからなくなる絵だが、ここで注目したいのは上部中央ちょい右寄りに描かれているこの人物。

 

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右手に持っているのはナイフで、左手で持っているのは自分の生皮である。この人は、インドで宣教している時に王の怒りを買い、全身の生皮をはがされたという逸話が残っているのだ。本書のその部分がなかなか皮肉が効いていておもしろいので、引用してみよう。

 

ウォラギネは、バルトロマイがインドで宣教中に、土地の偶像に跪拝するのを拒否したため王の怒りを買い、そのため棍棒で打ちのめされ、その生皮を剥がされた話を伝えると同時に、彼の最期に関してはいろいろな意見があると断った上で、十字架に架けられてたという説、十字架に逆さ吊りにされたという説、単独で首をはねられたという説などを紹介し、「そこで、はじめに十字架につけられ、ついでまだ生きているうちに十字架から降ろされて、苦痛をさらに大きくするために生皮を剥がされ、最後に首を刎ねられたと理解すれば、これらの不一致を解消することができよう」と述べます。意見の不一致の見事な解決法です。

※太字は徒花

 

バルトロマイもなかなか大変である。しかし、とりあえず西洋のキリスト絵画で、生皮を持っている気持ち悪いオッチャンがいたら、まず十中八九「こいつはバルトロマイだな」と理解すれば間違いない。

 

自分のおっぱいをお盆に乗っける女性は……

 

続いてはバロック期のフランシスコ・デ・スルバランが描いたこちら。

 

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女性が手に持っているお盆の上に載っているのは、肉まんではなく自分の乳房である。この女性は聖アガタで、異教徒の愛人にされそうになったのを拒んだためにさまざまな拷問に遭い、自分の乳房を切り取られてしまったのだが、そこで「あーら不思議」現象が起こり、おっぱいが元に戻ったというエピソードがある。

 

このエピソードを知らないと、「なんでこの女の人はお盆の上に桃まんじゅうを2つ乗っけてるんだろう?」と不思議に思うだろうが、知っていればニヤニヤしながらしたり顔で鑑賞できるわけだ。

 

おわりに

 

ほかにもいろいろ紹介したいのだが、始めるときりがないのでこのあたりにしておこう。より詳しく知りたい方は、ぜひ本書を読んでみて欲しい。

 

 

今回はこんなところで。

それでは、お粗末さまでした。