本で死ぬ

基本的には本の話。でもたまに別の話。

構造主義についてがんばって書いた ~『寝ながら学べる構造主義』のレビュー~

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学問は最近のものになるほど難しくなっていく。

 

もくじ

 

考えてみればそれは当然の話で、学問は積み上げていくものだから、すでに先人によって積み上げられているものがたくさんある場合、それらを土台に新しいことを考えているが現在の人々だからだ。

 

近代哲学が難しい理由

 

哲学も同じで、たとえば古代ギリシャアリストテレスとかプラトンの考え方は、まだ非常に理解しやすい。

 

が、そこから時代を経てフッサールとかハイデガーとかサルトルなんかになってくると、いきなり「コイツ何言ってんだ」状態になってしまうのは、彼らがそれまでの哲学知識があることを常識としながら、さらに込み入ったことを考えているからである。

 

構造主義はかなり新しいから、かなり難しい

 

で、構造主義である。構造主義は1960年代ころに生まれたごくごく最近の哲学なので、その考え方は難解だ。ということで、今回は構造主義について、自分の復習もかねて簡単にまとめていく。

 

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寝ながら学べる構造主義 *3

 

 

この本は内田樹御大が書いた本で、非常に読みやすかった。私はかつてちくま新書の『レヴィ=ストロース入門』も読んだのだが、その100倍くらいは読みやすいし、わかりやすい

 

レヴィ=ストロース入門 (ちくま新書)

レヴィ=ストロース入門 (ちくま新書)

 

 

ただし! わかりやすいといっても、あくまで「比較的」であることは留意したい。やっぱりある程度の哲学の知識というか、「哲学の文章」みたいなものになれている人のほうが読みやすいと思う。

 

じつはあなたも、「構造主義」的な考え方をしている

 

さてまずこの本では、現代社会はポスト構造主義である」と述べている。ただし、これは別に構造主義が終焉したことを意味しているのではない。引用しよう。

 

ポスト構造主義」というのは、構造主義の思考方法があまりにも深く私たちのものの考え方や感じ方の中に浸透してしまったために、あらためて構造主義者の書物を読んだり、その思想を勉強したりしなくても、その発想方法そのものが私たちにとって「自明なもの」になってしまった時代(そして、いささか気ぜわしい人たちが「構造主義の終焉」を語り始めた時代)だというふうに私は考えています。

 

この本が出版されたのは2002年ともはや15年以上前なので、現在も同じ状況かどうかはわからない。実際、Wikipediaで「ポスト構造主義」のページを見てみると、すでに現在はリチャード・ドーキンスが提唱したミームなど、従来の哲学モデルを提唱しない新しいパラダイムに入っているなどと書かれている。

 

利己的な遺伝子 <増補新装版>

利己的な遺伝子 <増補新装版>

 

 

ただし、この本の続きを読むと、現代に生きる一般的な人々は、やっぱりまだ「構造主義的な思考法」のなかで生きているのだろうと考えざるを得ない。また引用しよう。

 

ポスト構造主義期」を生きている私たちは、「構造主義を『常識』とみなす思想史上の奇習の時代」を生きているということになります。

そのような時代は(あとで見るように)比較的最近始まったものであり、当然、いずれ終りが来ます。しかし、私たちはいまのところは「構造主義が常識である時代」にとどまっており、そこからの決定的な踏み出しは未だなされてはいません。

なぜでしょう。

それは、いま私がしているような「問題の立て方」そのものが「構造主義的な」問題の立て方以外の何ものでもないからです。(話がややこしくて、すみません。)

ご説明しましょう。

「私たちはつねにあるイデオロギーが『常識』として支配している、『偏見の時代』を生きている」という発想法そのものが、構造主義がもたらした、もっとも重要な「切り口」だからなのです。

 

たとえば、私たちは裸同然で暮らすアフリカの原住民族をテレビとかで見て「レベルが低い、劣った生活だから、彼らに日本のハイテク製品をバンバン送ってもっと文明的な生活をさせてあげなければ」とはあまり考えないと思う(頭の中でそう感じていても、そのことを公言するのははばかられる社会の雰囲気がある)

でも、たとえば大航海時代の人々は、こんな考え方を持ち、文明や宗教(キリスト教)で正しく教育してあげなければならないと真剣に考えていたわけだ。

 

差別しない=構造主義

 

なぜ私たちが裸同然で暮らしている人々を「日本国民より下」だと考えないのかというと、「彼らの社会には彼らのルール(構造)があって、それは自分たちの社会と単純に比べられるものじゃないよね」という共通認識がなんとなくあるからだ。

 

ここで引用の文章に戻ると、「私たちが生きている時代の考え方は、長ーいスパンで見るとごく一時期だけに流行したユニークな考え方で、でもそれは過去や未来の哲学と単純比較できるものじゃないよね」ということを考えてしまう。

 

じつはこの考え方に私たちはいつの間にか支配されていて、これが正しいと思っている時点で、十分に構造主義的な思想の持ち主なのである。

 

構造主義というのは、ひとことで言ってしまえば、次のような考え方のことです。

私たちはつねにある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。だから、私たちは自分が思っているほど、自由に、あるいは主体的にものを見ているわけではない。むしろ私たちは、ほとんどの場合、自分の属する社会集団が受け容れたものだけを選択的に「見せられ」「感じさせられ」「考えさせられている」。そして自分の属する社会集団が無意識的に排除してしまったものは、そもそも私たちの視界に入ることがなく、それゆえ、私たちの感受性に触れることも、私たちの思索の主題となることもない。

私たちは自分では判断や行動の「自律的な主体」であると信じているけれども、実は、その自由や自律性はかなり限定的なものである、という事実を徹底的に掘り下げたことが構造主義という方法の功績なのです。

 

人の思考は所属する社会の影響を受ける

 

つまり、私(徒花)が考えていることは日本という国や、東京という地域、もしくは編集者という職業の枠組みにとらわれているため、それを逸脱した思考なんてそもそもできないんだよ……というある意味絶望的なものでもあるし、だからこそ、この構造主義的な思考から抜け出すことができないのである。

 

本書はこの後、このような構造主義がどのような哲学の歴史の中から誕生してきたのかということを述べていくが、それを説明していくとそれこそブログでは伝えきれないので、ぜひ読んでみて欲しい。

 

ただ、最後に、構造主義を作り上げた「四銃士」について簡単に説明しておく。かなり乱暴にまとめたけど、そんなに間違ってない……はず。

 

構造主義四銃士

 

ミシェル・フーコー

狂気や芸術など、いつの時代でも不変だと人々が思ってしまうものは不変ではない。それは「いま、ここにいる自分」こそが改良され続けてきた歴史の頂点にいるという人間主義的な考え方であり、歴史が川の流れのように一直線に進んできたと考えるのは間違っている……などと述べた人。

今の基準でなんでも判断しちゃだめだよ、ってこと。

 

ロラン・バルト

ソシュール言語学の流れを受け、私たちが当然のその意味を認識している「文字」をはじめとしたあらゆる文化的な現象は、ただその社会で定められたルールに従う「記号」でしかないと説明した人。

つまり、同じ現象を目にしていても、物語的な流れや状況によってその記号から受け取る意味は変わり得るよってこと。ある本を一度目に読んだときと、二度目に読んだときではなにか気づく箇所が変わるのも、このテクストや主体の変化が影響している。

 

クロード・レヴィ=ストロース

いわゆる「未開人」の生活をフィールドワークによって調査し、そもそも「文明人」と「未開人」の思考はどちらが上か下かなどが判断できるものではなく、比較して優劣をつけることに意味はないとした人。

だが、ついつい「どちらが上か」を考えてしまうのは、人々は「自分の考えは客観的だが、他人の考えは主観的で信用ならない」と考えてしまうせいであるとも述べている。

 

ジャック・ラカン

一番言ってることが難しい。フロイトの流れをくみ、人間の精神がどのように形成されるのかを述べた人。

そこで重要な役割を果たすのが「鏡」である。赤ちゃんは鏡に映っているものが「自分だ」と見立てることで自分を確立させていくのだが、実際には鏡のなかのそれは自分自身ではないので、人間はそもそも自我を確立した瞬間から「私」の原点を自身の中に持っていない不安定で危うい存在であるとしている。

つまり、自我というのはそもそもそのように生まれたものだから、記憶とは過去の真実であるわけではない

 

こんな感じで、後半になるとどうしても難しくなってしまうのだが、おそらく構造主義を学ぶ上ではかなりわかりやすい部類に入る本なので、気になる人はぜひ一度読んでみて欲しい。

 

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寝ながら学べる構造主義 *6

 

 

今日の一首

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60.

大江山 いく野の道の 遠ければ

まだ文も見ず 天の橋だて

小式部内侍

 

現代語訳:

大江山を越えて生野を通る道は遠いので、

まだ手紙も見ていませんし、天橋立に行ったこともありません。

 

解説:

小式部内侍の母親は女流歌人として有名な和泉式部だったので、彼女は「じつは母親が歌をつくっているのではないか」と陰口をたたかれていた。ある日、和泉式部丹後国天橋立がある)に行っているときに歌合せが開かれた際、藤原定頼が彼女に「単語にいる母君に代作のお願いをする文は送りましたか?」と嫌味を言われたので、その場ですぐに詠んだのがこの歌だそう。

まず「いく野」は地名の「生野」と「行く野」をかけていて、「ふみ」は「文(手紙)」と「踏み」をかけている。さらに「大江山」「生野」「天橋立」という3つの歌枕を一首に入れているかなり技巧派な歌。

 

後記

リメンバー・ミー』を見に行った。

 


映画『リメンバー・ミー』日本版予告編

 

控えめに言ってクソよかった。泣いた。とくに、親族を亡くした経験のある大人はまず確実に泣く。

 

ぶっちゃけ、ストーリーは見え透いている。「あー、たぶんこういう展開なんだろうな」という予想通りに物語が進むし、実際にその通りだ。しかし、個人的に、意外過ぎるとあまり感動が生まれない。

 

ホラーでもお涙頂戴ものでも、「あ、これはそろそろクルな」という心の準備をある程度観客にさせておかないと、ビビらせたり感動させたりするのは難しくなるんじゃないかと思うのだ。その意味で、感動させたいなら変に奇をてらったりせずに、王道的な物語が一番強いのだろう。

 

会社の人なども評判が良かったので、見に行って正解だった。吹き替えで見たが、楽曲がいいので、字幕版のほうがいいかもしれない。

 

 

今回はこんなところで。

それでは、お粗末さまでした。

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