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本で死ぬ

基本的には本の話。でもたまに別の話。

『だまされない<議論力>』のレビュー~自らの言葉を持たない者は他者に利用される~

ビジネス

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長らくGillette Fusionを使っていたのだが、いいかげん本体がボロボロになってきたので今度はSchickを購入して、ハイドロ5を使ってみた。

もくじ

――のだけど、これが最悪だ。

シック ハイドロ5 クラブパック(本体+替刃9コ付)

シック ハイドロ5 クラブパック(本体+替刃9コ付)

 

刃のそばにローションがついていて肌を優しく守りつつ保湿もしてくれる・・・・・・というのがこのカミソリの特徴だが、いかんせんローションが強力すぎる!!! ヌルヌルベタベタしたローションが口の周りにまとわりついて、ぜんぜんヒゲが剃れない。しかも、手もヌルヌルだから触っても剃れているか確認しづらく、水で流して初めて「まだザリザリしてる・・・・・・」と気づく次第。

たしかに肌には優しいかもしれないけど、本来の目的である「ヒゲを剃る」という行為が十分にできないのは本末転倒だ。替え刃を8つも買ってしまって、どうしようかと途方にくれている。使う前に水で入念に洗って、ローションを落としてから使おうかしら。。やれやれ。

前置きはこれくらいにして、本題に入ろう。

『だまされない<議論力>』について

今回紹介するのはこちら。

だまされない〈議論力〉 (講談社現代新書)

だまされない〈議論力〉 (講談社現代新書)

 

著者の吉岡友治氏は東京大学社会科学部を卒業後、アメリカのシカゴ大学人文学科修士課程を修了し、代々木ゼミナールの講師などを経てから「神保町vocabow」というインターネット講座で、ロースクールMBAを勉強している人々を対象に小論文などを教えている。サイトは2昔前くらいのデザインで、極めてダサい。

なお、今年の7月30日から開催される『「法化大学院 小論文」夏のセミナー』は全10回の講義で税込み10万8,000円となかなかのお値段だ。著書はいくつか出版しており、基本的には「文章の書き方」「議論方法」「読書術」などをテーマにすえている。 

あなたの話が伝わらないのは、論理的思考が欠けているからだ

あなたの話が伝わらないのは、論理的思考が欠けているからだ

 
東大入試に学ぶロジカルライティング (ちくま新書)

東大入試に学ぶロジカルライティング (ちくま新書)

 

徒花は吉岡氏の著書を初めて読んだが、率直に感じたところを言うと「バシバシものをいう人だなぁ」と思った。とくに本書の場合、「世の中にあふれている偉そうな文章だって一皮向けばぜんぜん論理的じゃないんだから、そういうのに騙されてはいけない!」というメッセージがメインなので、実際の新聞記事や著名人などのコラムなどをそこかしこに引用し、これでもかとこき下ろしているのだ。ネット講座で生計を立てているという立場上、あまりそういうマスメディアとか言論界としがらみがないからこそ、できる書き方なのかもしれないと思ったりした。

そして、そうした率直な物言いこそが本書の最大の魅力なのではなかろうか。ほかの論理的思考や文章術、議論をテーマにした本を読むと、個別のテクニックを詳細に紹介したり、原理原則の説明に終始したりと、どうしても内容が抽象的になりがちだ。それに比べて、本書は先に述べたように具体的事例を数多く提示しながら「この文章のどこがダメか」というのを簡明な言葉で断言してくれる。非常にわかりやすい。

また、本書では読者の頭を使わせるトレーニングも時折交えている。実際に大学入試で使われた小論文の問題などを掲示し、読者にその答えを考えさせるのだ。その一方で、コンテンツごとに最後にポイントを3つ程度に絞ってまとめてくれているので、そのつど頭の中を整理できる。いい本だ。

本書は単に詭弁の暴き方や議論の方法を伝える本ではなく、むしろ、論理的に考える方法を伝えている本だ。いろいろなトピックスが盛りだくさんなのだが、そのなかからいくつか紹介していこう。

民主主義と功利主義

日本は民主主義だが、民主主義とは功利主義的な考え方に基づく政治体制だ。つまり、「物事を多数決で決める」のが原則となっている。いわゆる「最大多数の最大幸福」というやつだ。対比されるのは全体主義共産主義だ。これらの政治体制に比べれば民主主義は優れた制度に思えるが、もろ手を挙げて賛同もしかねる。

ウィンストン・チャーチルも言っている。

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「民主主義は最悪の政治といえる。これまで試みられてきた、民主主義以外の全ての政治体制を除けばだが」

その理由は、功利主義の負の側面を考えればわかる。トロリー問題のように、単純に物事のよしあしを「数」だけで判断しようとすると、たとえば「健康な若者ひとりが死んで臓器を提供すれば3人の人間が助かる。正義だ」という論説がまかり通ってしまう可能性があるからだ。もしくは、少数のユダヤ人を迫害することでその他のドイツ人が幸福になるのならば、それは是であるという理論にもたどり着きかねない。

そうした民主主義の暴走を抑える役目として本書で紹介されているのが立憲主義である。法律は「国家が国民を縛るもの」だが、憲法は「国民が国家を縛るもの」だ。つまり、いくら民主主義であろうとも、憲法に「政府は自国民を殺してはならない生存権の保障)」が定められていれば、それに反する「民主的な決定」は退けられるというわけだ。

自らの言葉を持たない者は他者に利用される

まず、次の新聞記事。

少年の凶悪事件多発
上半期747人を検挙
警察庁によると、今年上半期(1~6月)に刑法犯で逮捕されるなどした少年は5万8795人(前年同期比6%減)で、そのうち中学生は1万7912人だった。成人を含めた刑法犯検挙者に占める少年の割合は約31.4%で、統計が残っている79年以降では最低となっている。しかし、少子化の影響で、全体に占める刑法犯少年の割合は戦後最悪だった75年ごろと同程度の水準という。
少年犯罪は減少しているものの、凶悪事件を起こす少年は少なくない。過去10年間は1千人程度で推移している。今年上半期は747人にのぼり、罪名別では殺人32人、強盗601人、放火48人、強姦66人だった。(朝日新聞2005年8月24日)

いろいろ突っ込みどころ満載だが、そうしたちぐはぐさを吉岡氏が気持ちよく説明してくれるので、ちょっと長いが、引用しよう。(ちなみに、本書ではなぜか朝日新聞がけっこう槍玉に挙げられる)(太字は徒花)

まず、この記事を読んだとき、読者の視線はどこに行くか。もちろん、大見出し「少年の凶悪事件多発」である。それから小見出しの「上半期747人を検挙」に行くだろう。(中略)半年で747人、すごく多い! と。ところが、中身を読むとその印象はあっという間に裏切られる。

まず「刑法犯検挙者に占める少年の割合は・・・・・・最低」とあり、少年の検挙者の数は実は減っていることがわかる。これはおかしい。なぜ少年犯罪の凶悪事件は増えているのに、凶悪犯罪における少年の割合が「最低」なのだろうか? 増えているなら、当然「最高」となっていい。それとも、大人の凶悪事件がそれ以上に増加したのか?

その先を読むと、「少子化の影響で、全体に占める刑法犯少年の割合は戦後最悪」と続ける。なるほど、やっぱり「最悪」なんだ、と読者は納得する。しかし、よく考えてみるとこれにも疑問が出てくる。この「全体」とは何だろう? もちろん「成人を含めた刑法犯検挙者」ではない。それとの割合は前の文で「最低」だと言われている。少子化で減ったのは子供の数だから、この「全体」は「少年全体」または「子供全体」しか指さないはずだ。少子化のおかげで、子供全体の中で刑法犯少年の占める割合が増えた、というのである。たしかにそう言われれば、「少年犯罪は増えて」いそうである。

しかし、「約6%減」というのだから、少年全体の人数も六%以上減っていなければならない。少子化が激しいとは聞いていたが、そんあに子供の人数が前年から減っているのだろうか? どうもおかしいと思って次の段落に進むと、「少年事件は減少している」と書いてある。じゃ、やっぱり「減少」が正しいのか? しかし、それでも「凶悪事件を起こす少年は少なくない」と続ける。増加と減少のどちらが正しいのか、一行ごとに入れ替わる。ほとんど支離滅裂だ。委細かまわず「過去10年間は1千人程度・・・・・・今年上半期は747人・・・・・・殺人32人・・・・・・」と具体的な人数を挙げる。この辺で読者は考えるのをストップする。「まあいいや。とにかく少年犯罪は増えているのだろう・・・・・・」

ここでこの新聞記事を提示したのは「見出しが印象を操作する」ことを説明するだけだが、本トピックスの結論はそれだけにとどまらない。社会的な議論においては、「反論できない者を利用する戦略」が至る所で横行していることを示しているのだ。

この新聞記事の場合、「反論できない者」というのは少年――すなわち未成年である。彼らは基本的に声を大にして社会にメッセージを発信したりしないので、大人たちが自由勝手に彼らをラベリングできる。悪者にしたいときは勝手に悪者にするし、正義にしたいときは勝手に正義にする。

こういう人々はサバルタンと呼ばれる。「権力構造から社会的、政治的、地理的に疎外された人々」を指していて、子どもや女性、障害者、あまり教養のない低所得者などが当たる。

「考えは人それぞれだから」というコミュニケーションの拒絶

議論(もしくは意見の言い合い)をすると、たまに「まぁ、考えは人それぞれだから」といって議論を終了させてしまう人がいる。もちろん、社会的な問題・・・・・・たとえば原発再稼動の可否とか、TPP加盟の是非とか、の場合にはそんな意見がばかばかしいことは誰にでもわかると思う。

しかし問題は個人的な趣味志向・・・・・・たとえば食べ物の好みとかだったら別にそれでも問題はないか、ということだ。たとえば、一緒に映画を見て、次のような会話があったとする。

A:おもしろい映画だった!
B:そうかな? 私はあまりおもしろいとは感じなかった。ちょっとストーリーがありきたりに感じたかな。あなたはなんでおもしろかったの?
A:とにかくおもしろかったんだよ。感想は人それぞれなんだから、それでいいじゃないか

Bさんは議論を避け、「人それぞれ」という伝家の宝刀を繰り出して会話を強制終了させた。これは相手の意見を尊重する優しさのようにも見えるが、「私は自分の意見を変えるつもりはないし、あなたに理解してもらおうとも思わない。そして、私はあなたの意見を理解するつもりもない」というメッセージを発していることになる。

これは「議論=ケンカ」だと思っている人がよく使う言葉だ。そしてこういう言葉を使うと、相手とのコミュニケーション(つまり相互理解)を拒絶する結果になる。個人的に「議論=ケンカ」だと思ってしまう人は、「議論=相手の矛盾を指摘する(つまり相手を攻撃する)」ことだと思っているのではないかと思う。たしかに、相手から攻撃されるのは気持ちのいいものではない。

しかしそうではなく、議論の本質は「自分の正しさを証明して、相手にもそれに気づいてもらう」だ。必ずしも相手の言っていることにケチをつける必要はないのだ。

難しい論説は簡単に読解できる

次は、あるエッセイの引用を本書から引用するので、この文章が結局何を伝えたいのか考えてみてもらいたい。ひとつヒントを出すと、この文章は喜多川歌麿の『物思恋』という絵画の感想をつづったものである。

f:id:Ada_bana:20160506121407j:plain喜多川歌麿の『物思恋』

①「短い不在は恋を活気づけるが、長い不在は恋をしぼませる」という気のきいたアフォリズムは、たしかフランス革命で一役を演じた政治家が残したものであったと記憶するが、そんな言葉を、ぼくは喜多川歌麿の『物思恋』を眺めながら、ふと唐突に思い出したりするのだ。
②・・・・・・しかし、そうした背景や内実の共通点の穿鑿には大して意味はないだろう。ぼくが言いたいことは、要するに、『物思恋』以上に、対象の短い不在にうっとりとなった女の愛の姿は、なかなか眺められないだろうということである。・・・・・・
③生活にわずらいがないように見える中年の女性の、脂ののりかかった、しなやかな充実。大首絵という枠は、そうした豊かさの醸しだす粘っこい情念を、実に瀟洒に切り取っているようだ。と言うのも、そこでは、問題が、情念が実現される行為にあるのではなく、情念が保留される想像にあるからである。・・・・・・額は広く、剃り落とされた眉の下には、やや釣りあがった細い眼。小さな受け口。すんなりとした鼻。それらは、しばらく眺めていると、恐ろしいほどに無表情である。放心に近い、不在の対象への想像が、それらの内面で静かに旋回しているのだ。・・・・・・
④そして、最高に素晴らしいものは、言うまでもなく、右手の表情である。右の耳の頤のへんに、普通の頬杖のように掌ではなく、手の甲あるいは脂の背の方を軽くあてて、親指と人差し指は輪をつくり、小指はなかばたわんで、それらの中間で中指と薬指は、深く内側に折り込まれている。――この手の表情にはふしぎなポエジーがある。・・・・・・とにかく、そのように優れたレアリテを感じさせる歌麿の女性の手が、『物思恋』の場合はことのほか特殊な状況におかれるため、先ほど触れたようなふしぎなポエジーの火花を散らすのである。つまり、対象の短い不在によって刺戟された愛の想像とは、一種の無為であり、そうした意味における限りは生活の否定なのである。・・・・・・それは、本来行為すべき運命にある弾力的な手が経験している快い皮肉・・・・・・である。(清岡卓行『手の変幻』)

アフォリズムだのポエジーだのレアリテだの、ちょっと意味が直感的にわかりにくいカタカナ語を使ったりしてああだこうだ言っているが、この文章が言いたいのは結局のところ「女が恋人を想像するときの、何もしていない手の表情が色っぽくて美しい」ということである。

なお、文章中に番号が振ってあるのは文章の構造を示すために著者が便宜的につけたもので、以下のようになっている。

①~② 薀蓄+恋人がしばらくいないので彼のことを想像している
=(繰り返し)
③絵の描写
④手の表情が素晴らしい(主張)
↑(その理由)
手は本来生活の用を足すためにある/今は何もしていない/その実用から離れた様子が美しい

論説の場合、じつはその構造を分解して読み解いていくと、じつは同じことを何度も繰り返していたり、あんまり主張とは関係のない細かいことに言及しているだけであることが多々ある。文章に読みなれてくると「どこがこの文章の肝なのか?」ということが感覚的にわかるようになり、あまり必要ではない場所が自然と読み飛ばせるようになるのだが、慣れないうちは気をつけなければならない。

なぜ、人を殺してはいけないのか?

これはある子どもが発した質問で、それに対していろいろな意見(「新しいナショナリズム」だとか「実在の問題」だとか)を本書では紹介しているのだが、結局のところ、本書でもそれに対する解答は書かれていない。

だが、私がこのあたりを読んでいていて思ったのは、「人」という言葉の定義がちょっとあいまいなんじゃないだろうか、ということだった。「人」と文中に現れた場合、多くの人は「人類」――すなわち生物としてのヒトと認識する。すると、ウシやブタを殺しても罰を受けないのに、なぜヒトを殺すと罰を受けるのか、という矛盾が報じてしまうわけだ。

しかし、私はこういう疑問の場合、「人」が指しているのはヒトではないように思う。じつは、「人」という言葉の中には「仲間」という意味が内包されていて、質問者も回答者も人が「ヒト」なのか「仲間」なのか、混同したまま受け答えしてしまっているのではないのだろうか。

つまり、冒頭の質問を言い換えると「なぜ、仲間を殺してはいけないのか?」という質問に言い換えられる。この言い方になると、いろいろとその理由が思いつくだろう。ナショナリズムだとか実在だとか、そういう難しい問題ではなく、「仲間を殺すと仲間はずれにされて、あなたがほかの仲間に殺される」「仲間が仲間を殺すと社会が崩壊する」などだ。

そして同時に、次のように言える。

「仲間は殺してはいけないが、ヒトは、時と場合によっては殺してもいい」

たとえば戦争で相手の国の軍人を殺すのは許される。なぜなら、彼(もしくは彼女)は「仲間」ではないからだ(もちろん、戦争状態ではない国の人間は同じ国民より広い範囲で「仲間」なので、やはり殺すことは許されないが)

そして、凶悪犯罪を犯した罪人を政府が死刑に処すことも許される。なぜなら、彼(もしくは彼女)はみんなで決めたルールを破って多大な迷惑をかけ、もう「仲間」ではないからだ。こう考えると、死刑というのは「究極的な仲間はずれ」だといえる。軽微な犯罪ならちょっと懲罰房に入れて、しばらくたったら仲間に戻してくれるが、死刑はもう仲間には戻してくれないわけだ。

おわりに

本書ではこのエントリーで紹介した以外にも、「データやグラフを使ったトリック」「権威主義」「ダブル・バインドの罠」「出羽守(海外では・・・・・・)などのロジックを多用するヒトを揶揄する言葉)、「弁証法などいろいろとおもしろい内容が盛りだくさんとなっている。

論理的な考え方を学んだり、難しい文章を理解できるようになりたいと考えているなら、一読するのがおススメだ。うーん、顎がザリザリする

こんなところで。

それでは、お粗末さまでした。