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本で死ぬ

基本的には本の話。でもたまに別の話。

『イーハトーブ乱入記』のレビュー~宮沢賢治は猫が嫌いだったのか?~

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先日、なぜか左腕が痛くなった。

もくじ

記憶を掘り起こしてみると、その前日に、バッティングセンターでバットをぶんぶん振り回していたのだ(半分以上は空振りだった)。高校生のときは近所のバッティングセンターにたま~に行ったりしていたが、10年以上ぶりだったので、普段使わない筋肉が酷使されたのだろう。

ちなみに、神宮球場のバッティングセンターは1回20球410円。たしかにプロの画面から球が放られるので高性能だし、友人曰く「球筋のブレが小さい」とのことだが、ちょっと高い。

ますむら・ひろしについて

この本を読んだ。ので、今回はそのレビュー。

イーハトーブ乱入記―僕の宮沢賢治体験 (ちくま新書)

イーハトーブ乱入記―僕の宮沢賢治体験 (ちくま新書)

 

端的に感想を述べると、なかなかおもしろかった。とくに、宮沢賢治の代表作『銀河鉄道の夜』に対する考察が述べられていて、作品の中に隠された要素に次第に気づいていく過程がおもしろい。とりあえず、著者の紹介から。

著者のますむら・ひろし氏はマンガ家。1952年、山形県米沢市生まれ。21歳のとき、宮沢賢治の作品に感動して筆を執った作品『霧にむせぶ夜』が少年ジャンプ手塚治虫賞に入選し、デビューを果たす。以後は『月刊ガロ』『MOE』『コミックバーガー』『マンガ少年』『コミックフラッパー』にていくつもの作品を連載し、現在に至っている。

ますむら氏といえば外せないのは宮沢賢治。同氏は宮沢賢治作品のマンガ化を数多く手がけている。一番の代表作はやはり銀河鉄道の夜だろう。

特徴的なのは、主人公のジョバンニもカムパネルラも(他の登場人物も全員)、猫の姿で描いている点。この作品は1985年にアニメ映画化され、毎日映画コンクール・大藤信郎賞を受賞した。本書ではこのときの苦労なども語られているが、そのことはのちほど述べていく。

銀河鉄道の夜 [DVD]

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BSアニメ夜話 「銀河鉄道の夜」 杉井ギサブロー (2007年)

その後、この映画の監督を務めた杉井ギサブロー監督は、やはりますむら氏がマンガ化したグスコーブドリの伝記を制作し、こちらは2012年に公開。当然ながら、グスコーブドリを始めとする登場人物たちはみんな猫だ。

グスコーブドリの伝記―猫の事務所・どんぐりと山猫 (ますむら・ひろし賢治シリーズ)
 

 

 

映画『グスコーブドリの伝記』予告編映像

余談だが、じつはこの作品は1994年にも賢治の没後60周年を祝してアニメ映画が製作・公開されている。残念ながら、こちらはまだ見たことがないが……。

グスコーブドリの伝記 [VHS]

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ライフワーク作品「アタゴオルシリーズ」

このように、ますむら氏の作品の大きな特徴のひとつは、擬人化した猫が主人公である作品が多い、という点である。なかでも代表的なのは、アタゴオルシリーズ」と呼ばれるもので、ヨネザアド大陸のどこかにあるアタゴオルという地域で、人語を解する猫と人間が暮らす日常を描いている。ちなみに、猫は人間と同じ大きさだ。

このシリーズは1976年に始まったアタゴオル物語』からアタゴオル玉手箱』『アタゴオル』『アタゴオルは猫の森などに連なっている。

アタゴオル玉手箱 (1) (偕成社ファンタジーコミックス)

アタゴオル玉手箱 (1) (偕成社ファンタジーコミックス)

 

主人公はデブ猫のヒデヨシ。大食漢で怠け者、強欲な食い逃げの常習犯である。卑怯で、倫理意識に乏しく、自己中心的で自制心というものを知らない。しかし、ある意味で邪気はまったくなく、生物としてとんでもない強さを持っている(戦闘力もそこそこ高い)。だいたいは、そんなヒデヨシが巻き起こすトラブルに、周囲の仲間たちが巻き込まれていくストーリーだ。(とはいえ、登場当初はこんなにめちゃくちゃなキャラではなく、ニコニコと「イツモシヅカニワラッテヰル」猫だった)

基本的には1話完結だが、たまに連続して話が続く。その場合、サブタイトルがつく。たとえば「星街編」「タルダリ大帝編」「キリエラ戦記」「波動王海談記」などなど。基本的にはほのぼのだが、ときどきバトルものになったり、感動系の話になったりする。

そしてこのヒデヨシくんも、しっかり映画化している。アタゴオルシリーズの外伝的作品『ギルドマ』を原作にした2006年公開のCGアニメーション映画アタゴオルは猫の森があるのだ。興味があったら一度見てみそ。

 

アタゴオルは猫の森 DVD

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名前は洒落を利かせて??

さて、宮沢賢治岩手県出身の作家だが、そんな岩手歴史的仮名遣いだと「いはて」)を元にした造語、イーハトーブが有名だ。これは宮沢賢治の心象世界における理想郷とされていて、賢治が作り出した言葉のなかでも群を抜いて知名度が高い。そして、ますむら氏が生み出した「ヨネザアド」「アタゴオル」もこれと同じである。前者はもちろん、ますむら氏の出身地である米沢市、そしてアタゴオルはますむら氏が当時暮らしていた千葉県野田市にある東武野田線愛宕駅からとったらしい。

ちなみに、ヒデヨシというキャラクターの名前は大河ドラマ国盗り物語で好演した火野正平の演じた豊臣秀吉から。親友の人間、テンプラはますむら氏自身を投影したキャラクターで、自分が上がり症なので「上がる=揚がる」からテンプラと名づけたらしい。かわいそうなのは、同じくなじみのメンバーである聡明かつクールな性格の猫のヤニ・パンツくんだ。初登場した作品でフルチンだったため、ますむら氏が「パンツはいてないこいつの名前は何にしよう」と妻に聞いたところ、「パンツ」と命名されたというのだ。そしていつもタバコやパイプをふかしているから、おそらく苗字?はヤニになったのだろう。安直である。

NHK大河ドラマ総集編DVDシリーズ 国盗り物語

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キャラクターを猫にした理由

本を読んでいて初めて知ったのだが、ますむら氏はもともと犬も猫も嫌いだったらしい『長靴をはいた猫』のイメージがあったためか、どこかずる賢そうなところが好きになれなかったようだ。しかし、妹が猫を飼い始め、その姿を間近で見るようになると、だんだん猫こそが自分の意識そのものではないかと思い始めたそうだ。

長靴をはいた猫 (河出文庫)

長靴をはいた猫 (河出文庫)

 

そして具体的な契機となったのは、公害の水俣病が話題になっていたころ、テレビで水俣病の症状を調べるために猫に水銀汚染した魚を食べさせる実験を目にしたことだったという。このとき、ますむら氏には沸々と怒りがわいてきたのだ(このときにはすでに、かなりの猫好きになっていたのだろう)

そのため、デビュー作である『霧にむせぶ夜』をはじめ、初期の作品では「猫(自然)vs人間」という構造が際立っている。猫の描写も、現在のような愛らしいものではなく、野生の鋭さを持った恐ろしい猫を描いていたのだ。ちなみに、『霧にむせぶ夜』の評価は審査員の間でイマイチだったらしいが、唯一、筒井康隆が強く推薦したことで佳作になったという。

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しかし、そうした猫たちを描いているうちに、ますむら氏はだんだん、自分が「争いを描くのが生理的に嫌」なのだということに気付く。そして、次第に作品の中では人間と人語を解する猫が「ノペーッ」と暮らす世界になっていったのである。

宮沢賢治は猫が嫌いだったのか?

さて、そんなますむら氏が初めて宮沢賢治作品のコミック化をしたのは、銀河鉄道の夜である。以下、そのときのことの引用。太字は徒花。

その前年の秋、編集者の口からもれた「賢治童話を描かないか」という打ち合わせの時、僕は「うーむ」と考えたすえ、「よし、やりましょう」と決心した瞬間、編集者は涼しそうな声でサラッと言った。

「登場人物は、みんな猫でな。」

「ええ!、猫で……」僕は驚いた。すると追い打ちをかけるように冷たい声。

「ああ、猫でだよ。だいたいお前、人間を描くのがヘタだろう。猫で行けよ、猫。」

(中略)

「よし、猫でいいですよ。でも、あとでもめるかも知れないよ」と僕が言うと、

「もめる?」と、編集者が不思議そうに言った。

「賢治の初期作品に『猫』という短編があるんだけど、そこに<私は、猫が嫌いだ>というフレーズがあるんですよ。」

「へえ、宮沢賢治は、猫が嫌いなのか?」

このように、猫で描くことはますむら氏も当初は困惑したようだが、すぐに猫で描くことの意義を見出した。当然ながら、小説に登場人物の顔はない。ジョバンニやカムパネルラというキャラクターに対し、百人の読者は百人の顔を思い浮かべているわけだ。つまり、人間で描いても、どこかのだれかにとっては「イメージと異なる顔」になり、幻滅を招いてしまうのである。であれば、いっそのこと人間でなくしてしまえば、下手にそうしたイメージを損ねることがなくなるかもしれないのである。

ただし、ここでますむら氏自身も危惧しているが、宮沢賢治の作品を猫のキャラクターで表現することは、もしかすると賢治ファンの逆鱗に触れることかもしれないのだ。幸いにも、マンガ化した際にはそうした声はなかったらしいが、アニメ映画化するとなったとき、賢治研究家の人々から待ったがかかったというのだ。

じつは『猫』以外でも、セロ弾きのゴーシュ』でも、賢治の猫に対する扱いはきつい。最初の夜、ゴーシュの元には猫がやってきてシューマントロイメライをリクエストするのだが、ゴーシュはそれにイラつき、わざと「印度の虎狩」という激しい曲を弾き、猫をびっくりさせるのである。さらに、猫に舌を出させ、その舌先でマッチを擦るのだ。なかなか非道である。

セロひきのゴーシュ (福音館創作童話シリーズ)

セロひきのゴーシュ (福音館創作童話シリーズ)

 

ただし、こうした声に対し、ますむら氏は反論している。というのも、ますむら氏にとってかなりお気に入りの猫だったのが、『猫の事務所』という作品に出てくる「釜猫」だったからだ。この作品はなにかの作業をしている猫ばかりが働く事務所で、一匹だけ薄汚れた毛並みをしている釜猫がいじめられるという話である。その作品を読んだますむら氏は、とてもこの釜猫というキャラクターを、猫嫌いな人間が描けるとは思えないと考えているのである。とくに、ますむら氏がじーんときたのは、次の部分だ。

やっぱり僕が悪いんだ仕方ないなあと釜猫は考えてなみだをまん円な眼一杯にためました。けれども事務長さんがあんなに親切にして下さるんだ。それに釜猫の仲間のみんながあんなに僕の事務所に居るのを名誉に思ってよろこんでいるんだ。どんなにつらくても僕はやめないぞ。きっとこらえるぞと釜猫は泣きながらにぎりこぶしを握りました。

猫の事務所 (日本の童話名作選)

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そして具体的に、『猫』や『セロ弾きのゴーシュ』に登場する猫に重ね合わせられている存在について考察を述べている。その考察自体をただでさえ長くて辟易とする私のブログがさらに長くなるので、ここでは割愛する。

また、賢治は犬には一言も台詞を与えず、擬人化したりもしなかったのに、猫だけは様々な作品で個性的なキャラクターとして登場させている。ますむら氏自身も、猫を主役にした作品を描き続けながら、それでもやはり猫が嫌いな部分があるという。猫という存在は単純に好き嫌いの感情で判断されるような存在ではないのかもしれないのだ。だからこそ、「賢治は猫が嫌いなのだ」という反対派の主張はあまりにも表層的で薄っぺらいものに感じてしまったというのである。

銀河鉄道の夜』は4つある

さて、本書の後半はおもに自らがマンガ化した名作『銀河鉄道の夜』の考察に費やされているわけだが、そもそも『銀河鉄道の夜』は一筋縄ではいかない作品である。なぜなら、この作品は賢治自身が世に発表したものではなく、彼の死後、発掘されたものだからだ。そのため、じつは第1稿~第4稿まで、『銀河鉄道の夜』には4つのバージョンが存在するのだ。ただし、現在では基本的に最終的な第4稿が広く世に出回っている。

新編 銀河鉄道の夜 (新潮文庫)

新編 銀河鉄道の夜 (新潮文庫)

 

いろいろと細かい違いはあるものの、一番の違いはブルカニロ博士が登場するか否か」だろう。第1~第3項まででは、物語の終盤で突如(声だけは作中にも登場している)、ブルカニロと名乗る博士が登場し、ジョバンニの経験は博士が仕組んだ実験であったかのような描写がされている。それが、第4稿になると突如としてブルカニロ博士は姿を消し、代わりに物語の冒頭部分で、学校の先生が銀河について生徒たちに教える授業のシーンを加えているのである。

なぜ、ブルカニロ博士は消え、先生による授業の話が加わったのか? この疑問に対し、ブルカニロ博士の消失については述べられていないが、先生の問いかけをますむら氏は非常に重視している。以下引用。

「ではみなさんは、そういうふうに川だと云われたり、乳の流れたあとだと云われたりしていたこのぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか。」

この先生の問いに対する答えはもちろん「星」である。だが、質問されたジョバンニは、もちろん「星」だとわかっていながら、それを答えることができなかった。そして、ますむら氏が銀河鉄道の旅をマンガで表現したときに気付いたのは、作中に一切、車窓から見えるはずの星々の描写がなかった、という点なのである。

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なぜ、賢治はキラキラかがやく星々を描かなかったのか? 調べていくうち、ますむら氏は賢治はちゃんと星を(正確には星の光を)三角標として描いていたのだという答えにたどり着くのだが、問題は、いわゆる宇宙に浮かぶ星々の姿で描写しなかった堅持の姿勢である。(さらに、現実の町では「銀河」という言葉が使われているのに、鉄道に乗って以降、作中では「天の川」という「川」的なもので表現されるようになる)

ますむら氏が指摘するのは、あまりにも科学的な視点で物事をとらえることの陳腐さだ。空の星々を見て「川」「乳が流れたあと」と表現するかつての人々の想像力がいかに尊いのか、賢治はそれをもっとも大きなメッセージとして伝えているというのである。冒頭の先生が問いかける<ほんとうは何か>という質問は、まさに読者に向けられたものなのだ。

おわりに

本書では銀河鉄道の夜」の中身がいつの時期なのかについても考察が行われている。作中の星座の描写から、星座早見表を使っていつの時期かを調べてみると、8月23日、つまりお盆の時期であることが導き出せるのだ。

宮沢賢治はかなり勉強家で、作品を書く際、かなり入念に調べる。とりわけ「未完」とも言われるこの作品は宗教的な意味合いも含まれ、研究すればするほど賢治が暗にばらまいたメッセージが発見できる作品なのだ。しかし、そうした緻密な積み重ねの上に、最終的に賢治が伝える内容が「空想の尊さ」であるというのはなかなか示唆的である。

本書を読んで個人的に感じるのは、文章を絵で表現することがいかに難しいか、という点だ。「絵にする」という意識をもって作品を読むと、ただ読むだけでは気づけない点が次々と発見される。そして、あのマンガを描くためにこれだけの試行錯誤を重ねたのかという点で、まったく頭が下がる思いである。

ぶっちゃけ、徒花は『銀河鉄道の夜』はきちんと読んでいない。実際、かなりわかりにくい話なのだ。しかし、ますむら・ひろし氏のマンガ版は、これまでのエントリーの内容でもわかるように、かなり賢治のメッセージを調べ尽くし、凝縮して描かれている。マンガ版の『銀河鉄道の夜』も、かなりオススメな一冊だ。本書を読む場合は、そのほうが楽しめる気がする。

ちなみに、ますむら氏はブルカニロ博士編のマンガ版も刊行している。現在は最終稿のバージョンとブルカニロ博士が登場するパターン、どちらも収録した本があるので、こちらもおススメ。

 

それでは、お粗末さまでした。