『アメリカの老富豪が贈る超・処世訓』のレビューじゃない
私は基本的に自分がおもしろいと思った本しかこのブログでは紹介しないようにしている。
もくじ
なぜなら、つまらない本を紹介しても仕方ないからだ。んで、今回紹介するのはこちらの本なのだが、
ハッキリ言って、この本はおもしろくないし、タメにはならない(というか、もっとタメになる本がいくらでもあるから、わざわざこの本を読むためにお金や時間を割く必要はない)。じゃあなんで紹介するのかというと、単純な話で、あるエピソードが私の笑いのつぼにクリティカルヒットしたからだ。
気に入った逸話
以下、該当部分を引用しよう。
日曜日の朝、ジョセフは山に登って祈った。
「神様。心から感謝しています。生まれて初めてのお願いを聞いてください。神様、どうか宝くじに当選させてください」
帰宅して待った。翌週の日曜日の朝、ふたたび重い足取りで山に登り、祈った。
「神様。心から感謝しています。先週まで、お願いをしたことなどありませんでした。私は職を失い、子どもたちの食べ物もなくなりそうです。どうか神様、宝くじに当選させてください」
また帰宅して待った。さらに翌週の日曜日の朝、トボトボと3度目の山登りをした。
「神様。心から感謝しています。先々週まで、お願いをしたことなどありませんでした。でも職を失い、子どもたちは3日間、何も食べていません。妻は病気で薬が必要なのですが、私には買えません。どうか神様、家族のために、宝くじに当選させてください」
すると稲光とともに大雨が降り出し、空から驚くような大声が聞こえた。
「ジョセフ、とりあえず宝くじを買いなさい」
これは笑った。しかし、同時になかなか笑えない。じつは世の中には、ジョセフと同じようなことをしている人がたくさんいる。そして私も、ときとしてそうした愚かな人間のひとりになる。
たとえば、死ぬ気になって勉強したわけでもないのに神社で合格祈願をする学生。たとえば、恋人が欲しいと嘆きながら新しい出会いの場にでかけない男女。たとえば、招き猫に商売繁盛を願う割には店の中が汚い飲食店……などなど。
七夕の短冊
マンガ家・ますむらひろし氏が描いた『夢降るラビットタウン』という作品に、印象深いエピソードがある。
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何巻目かは忘れたが、ラビットタウンで七夕祭りが開催される話だ。
住民たちはいろいろな願いを短冊に書いて笹に吊り下げるのだが、お祭り当日になって、いきなりヘンな男が現れ、短冊を次から次へと剥ぎ取ってしまう。そして、男はいう(うろ覚えなので大筋しか合っていない)。
「テストで100点を取りたいとか、世界平和とか、本人たちが努力すればかなうことをいちいち神様に願うな!」
読んだのは中学生だか高校生のときだったかと思うが、なるほどもっともだと思ったものである。「人事を尽くして天命を待つ」という格言もあるが、順番を間違えてはいけない。必ず、「人事を尽くして」から「天命を待つ」のが大切なのだ。
那須与一のことを思い出した
こんなことを書いていたら、フッと那須与一のことが思い出された。那須与一といえば源平合戦で活躍した源義経の配下で、弓の名手として有名な人物である。
八島の合戦の折、平家軍が戦の勝利を占う(と同時に、源氏をバカにする)ために、小船の上で扇を掲げ、「我こそはという者は弓矢で扇を射落としてみろ」と義経たちを挑発した。そこで指名されたのが那須与一なわけだが、強風&波&馬に乗ったまま&小さい的という難易度G級のシチュエーションで与一にのしかかるプレッシャーは並大抵ではない。
ということで、那須与一は弓を構える前に、次のような祈りを捧げたとされている。
南無八幡大菩薩、とりわけわが国の神々、日光権現、宇都宮、那須温泉大明神、願わくはあの扇の真ん中を射させてくれ給え。これを射損じる位ならば、弓切り折り自害して、人に二度と顔を向けられず。今一度本国へ向かへんと思し召さば、この矢外させ給うな
要約すると「とにかくいろんな神様仏様、どうかあの扇に私の矢を命中させてください。外れたらマジで切腹しなきゃいけないし、まわりの人に顔向けできない。もう一度故郷の土を踏ませてやろうとお考えなら、絶対に外させないで!」という意味。『平家物語』によれば、この直後ちょっと風が収まって、与一は見事に扇に弓矢を当てて海に落としたとされる。
神が助けてくれたのかどうかは知らないが、ある意味、神頼みというのはこれくらいギリギリに追い詰められて、死をも覚悟し、もう自分の努力だけではどうしようもないような状況でないと効力を発揮しないものなのかもしれない。
おわりに
ということを考えると、ある意味で神様や仏様に死後の行く末や来世のことをお願いする、というのは理にかなった行為なのかもしれない。なにしろ、天国(涅槃)に行くのか地獄に行くのかは、自分の努力ではなかなかどうにもならないもののひとつといえるからだ(教義にもよるけど)。
では最後に、ベンジャミン・フランクリンが「貧しきリチャードの暦」のなかで謳った格言のひとつをご紹介して、いつにも増してまとまりのないこのエントリーを終わりとする。
天は自ら助くる者を助く
それでは、お粗末さまでした。