袋とじは読者の驕慢を叩き潰す ~『生者と死者』のレビュー~
私たちは、本が普通に読めることに慣れすぎてしまったのではないか。
もくじ
夜中に腹が減ればいつでもコンビニで食べ物が買えるのと同様に、金を出して本を手に入れれば、なんの苦労もなく次のページをめくれることを、さも読者として当然の権利と考え、驕りたかぶっているのではないだろうか。
そのような驕慢な読者の鼻先に突きつけられるのは、「袋とじ」という怪物である。
袋とじが人体に及ぼす影響
これは、本来製本の段階でノド(背表紙のほう)に持ってくる袋の部分を、あえて小口(本のページをめくるほう)に持ってきて作られるページのことだ。内側を読むには、読者が自分でハサミなりカッターなりで切り開かなければならない。袋とじは、「金を出した読者なんだから、何の苦労もなくすべてのページが読めて当然だ」という読者の傲慢さを粉々に打ち砕く。
すると、こんな疑問がわく。「そんな面倒くさい袋とじの本なんて買わなければいいじゃないか」と。だが、それはできない。
なぜなら、私たち(とくに日本人男子)のDNAには「袋とじのなかにはイイモノがある」というメッセージが深く刻み込まれているからだ。
袋とじを見ると潜在意識から命令が送られ、アドレナリンが分泌されて瞳孔が開き、筋肉が収縮して呼吸が早まる。場合によっては発汗・動悸・のどの渇き・空腹感・掻痒・眠気・倦怠感・のどの痛み・咳・くしゃみ・頭痛・発熱・下痢・嘔吐などの症状も出るかもしれない。
『生者と死者』
それはともかく、『生者と死者』を読んだ。
酩探偵ヨギガンジーという、金に汚い胡散臭いオッサンが不思議な事件を解決するミステリーだ。著者の泡坂妻夫氏は自分が奇術師でもあるので、作中でも奇術のトリックを暴く物語が多い。イメージ的には、ドラマ『TRICK』である。
最近この本が書店で並んでいるのは、どうも人気テレビ番組『アメトーク!』でメイプル超合金のカズレーザーさんが取り上げたことが要因らしい。同様に、筒井康孝氏の『残像に口紅を』もいま売れている。私は見ていなかったので詳しくは知らない。
全編が袋とじという奇書
『生者と死者』の魅力は、ミステリーのトリックでもドラマでもキャラクターでもない。紙の本そのものに仕掛けられたギミックこそ、この作品の最大の魅力であり、しかも、1冊の本で基本的に1度しか体験できないものになっているのだ。
どういうことかというと、この本は全編が細かい袋とじのページで構成されている。そして、最初に袋とじを切らずに読むと、短編小説として成立するのだ。その後、袋とじをぜんぶ切って読み進めると、今度は長編小説になるという代物で、キャッチ文にもあるように「消える短編小説」入りというのが売りになっている。
ただ、あまり期待しすぎてはいけない。
というのも、少なくとも私が読んだ限り、短編小説はほとんど小説としての体をなしていないからだ。辛口になるが、短編小説のほうが「文章としてギリギリ意味が通る……かな?」というレベルで、起承転結もなにもあったものではない。
出版されたのは1994年
しかし、このアイディアを思いつき、実現させてしまう著者の気力には脱帽するしかない。ヨギガンジーシリーズには『しあわせの書』という本もある。
こちらも、本自体にあるギミックが施されている(これはギミックそのものがものすごいネタバレになる)。しかし、こちらのギミックと比べても、この『生者と死者』のギミックははるかに手間がかかるものだったろう。
※ただ、本としてはこっちのほうがおもしろい。
しかもこの『生者と死者』、出版されたのが1994年なので、おそらく泡坂氏はこの原稿を手書き(もしくはワープロ?)で書いているはずなのだ。恐れ入る。
長編小説もイマイチ
さて短編小説は散々だが、では『生者と死者』の長編小説のほうは傑作なのかというと、そうでもない。やはり、同時に短編小説を作らなければならないという縛りがあるせいか、登場キャラクターが無駄に多くて把握しきれないし、トリックもお粗末だ。純粋に推理小説としては、あまり芳しい評価はできない。
これこそ袋とじの魔力である。
多くの男性諸氏はご経験があると思うが、袋とじというのは開ける前の期待感を上回るような中身が入っていることがまずない。
その魅力は「袋とじがある」という事実と、それを切り開くために道具を探す焦燥感、そしてきれいに切り開くために自分の指先に全神経を集中させる緊迫感、そして直前の期待感こそがすべてであって、開いた習慣にもう祭りは終わりなのである。
世界でひとつだけの『生者と死者』
ちなみに私は基本的に雑な性格である上、手先が死ぬほど不器用なので、恐ろしくボッロボロの本になってしまったが、これはこれで味がある。(※個人的にはカッターを使うよりもハサミのほうが切りやすかった)
つまりこの本は世界にひとつだけの花。読者の数だけ『生者と死者』があるのだ。電子書籍や図書館本では味わえない快楽が、そこにはある!
でもやっぱり、泡坂妻夫だったら、個人的には「亜愛一郎シリーズ」をおススメしたい。短編で読みやすいよ!
今日の一首
6.
鵲の 渡せる橋に おく霜の
白きを見れば 夜ぞ更けにける
中納言家持
現代語訳:
七夕のときにかささぎが天の川に渡す橋のように、
宮中(天上)の御殿に通じる階段に積もった白い雪を見ると、すっかり夜も更けたと感じるなぁ。
解説:
かささぎは七夕のとき、織姫を彦星のところに渡す橋になる。そして、宮中は「天上」ともよばれるため、雪が降り積もった宮中への階段をそのかささぎの橋にたとえている。さらに、きらめく白さと七夕にたとえたところから、その夜は星が無数にきらめく美しい星空だったこともうかがわせる。
著者は大伴家持のこと。万葉集をまとめた中心的人物であり、三十六歌仙のひとりでもあるため、教養と情緒があふれた歌になっている。
後記
先日鑑賞した『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』は、調布に新しくできたイオンシネマのシアタス調布まで行ってきたのだが、この劇場の印象はあまりよろしくない。
スクリーンは11あり、4DXやULTIRA、さらにプレミアムなシートなどもあるのだが、いかんせん、フロントロビーが狭すぎる。調布という土地柄、お客さんは小さい子どものいる家族連れが多いのだが、非常に込み合っていて、ジュースを買うのも一苦労だった。
また、最悪なのが、作品が上絵される前に流される劇場CMである。
まず、長い。測ってみたら、計25分くらいも延々とCMが続いた。しかも、このCMの質が低い。新作映画のプロモーションムービーならまだ見ていられるのだが、普通のテレビCMの割合が多い。それだけではない。
たとえば今度公開される邦画『8年越しの花嫁』のCMも流れたのだが、そのあとに、舞台となった岡山県のPRビデオも流れるのだ。それがクソダサい。うんざりする。
あと、まったく意味不明だったのが、『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』の直前に、なぜか『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』の劇場用CMが流れることだ。なぜ、すでにチケットを購入して鑑賞しようとしている映画のプロモーションを改めて見なければならないのか? シアタス調布の人はこの事態に何の疑問も抱かず、誰も指摘しないのか、総じてポンコツなんじゃないかと疑ってしまう。
一応、別の映画でもう一度だけ行ってみるが、もし同じような低品質で冗長な劇場CMが流れるようだったら、もう二度とシアタス調布には行かず、映画を見るときは新宿まで出ようかと考えている。3度目はないぞ!
というわけで、今回はこんなところで。
それでは、お粗末さまでした。