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本で死ぬ

基本的には本の話。でもたまに別の話。

ダリ展に行く前に知っておいた方がいいような知識について

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美術館に行くとたいてい音声ガイドを購入する徒花です。

 

もくじ

 

音声ガイドにタレントを使うのをやめてほしい

 

しかし最近困りものなのが、「タレントがやってる音声ガイド」が増えてきたということだ。それでもたとえば北大路欣也さんとか竹野内豊さんとか、渋くて落ち着いた声の人ならいいのだが、なんか……明らかに美術館のガイドには向いてない人も多い。

 

で、ダリ展に行ったら、その音声ガイドが竹中直人さんだった……。

 

いやべつに竹中直人さんもいい声の持ち主だから悪いとは言わないけれど、案の定聞いていたらあのふざけた調子がふんだんに盛り込まれていて、聞いていてげんなりした。

 

個人的にはもっと誰だかわからなくて、とにかく落ち着いた声で話してほしい。日曜美術館みたいな感じが希望だ。

 

ダリの著作権は切れてないよ

 

というわけでダリ展に行ってきたから今回はその話をするわけだが、残念ながらダリは1984年に亡くなった最近の画家さんなので、著作権が切れていない(だから、下手に使うと危険)

のだが、幸い、ダリ展のホームページにいくつかの絵画が画像付きで紹介されているので、そこからいくつかとってきて紹介しようと思う。

 

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30代のダリ。イケメン!

 

有名な絵はなかった

 

ダリといったら時計がとろけた『記憶の固執』とか、タイトルの割にはキリンがちっちゃい『燃えるキリン』とか、タイトル通りにベーコンで自分の顔を描いた『焼いたベーコンのある自画像』とかが有名だ。

だが、残念ながら今回の展覧会ではそうした有名な絵はない。

 

かろうじて有名なのはダリの奥さんガラを聖母マリアのモデルにして描いた晩年の大作ポルト・リガトの聖母』だろうか。

 

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ダリ展 | 京都市美術館 | 国立新美術館より

 

ただこれ、じつは所蔵しているのは福岡市美術館なので、福岡に行けばいつでも見られるのだが……。

 

ダリの絵は理解する必要はない……けど

 

先日のブログ記事も書いたが、ダリの絵は基本的に「何が描いてあるのか?」「何を伝えたいのか?」「どういう意味があるのか?」というのを理解する必要はない。

 


しかし、知っておくとより楽しめる知識がいくつかある。ので、今回はそれを紹介していこうと思う。

 

形態学的なこだま

 

まずそのひとつは「形態学的こだま」である。

これはなにかというと、1枚の絵画の中で同じような形のものを繰り返し使う技法である。たとえば下の絵を見て欲しい。

 

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ダリ展 | 京都市美術館 | 国立新美術館より

 

これは『奇妙なものたち』というタイトルの絵だが、右側に立っている人物の下半身のシルエットと左側にあるファスナーつきのドアの波うち具合が似たような形状になっている。

「だからなんだ」と言われれば、とくにそれ以上の意味はない。

のだが、とりあえずこれがダリの絵のひとつの特徴なのだ。また、この同じシルエットの繰り返しが不思議な雰囲気を形成しているともいえる。

 

ちなみに、そのまんま『形態学的なこだま』という名前の作品もあるのだが、こちらは公式ホームページに載っていないのでここでは紹介しない。ぜひ実際に展覧会に行って鑑賞してみていただきたい。

 

ダリのお気に入りモチーフ

 

あと、これはダリに限った話ではないが、その画家固有の「お気に入りモチーフ」というのが存在する。

たとえば上の絵ではソファが人の形に沈んでいて、まるで透明人間が座っているようである。このモチーフはいくつかの絵でも流用されている。

 

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ダリ展 | 京都市美術館 | 国立新美術館より

 

この絵画のタイトルはそのまんま『見えない人物たちのいるシュルレアリスム的構成』である。

あと、『奇妙なものたち』をよく見ればわかるが、「溶けた時計」や「地平線」「岩」「引き出し」など、ダリが好んだモチーフがそこかしこに見られる。引き出しだと、こんな作品も展示されていた。

 

f:id:Ada_bana:20161123222222j:plain『引出しのあるミロのヴィーナス』

ダリ展 | 京都市美術館 | 国立新美術館より

 

なんでダリは溶けた時計を描いたのか?

 

蛇足ながら個人的な考えを述べておきたいと思う。以下の記事も参考にされたし。

 



まずひとつ留意していただきたいのはシュールレアリスムというものが「現実と非現実を同時に描き出す手法」であるという点だ。

本来であれば溶けることのない時計という「非現実」が絵がれている一方で、背景などはしっかり描かれていて、非常にリアリティがある。だから、見ているとまるで世界のどこかにある本物の風景のようにも見え、それが不可思議さを生み出しているのである。

 

もうひとつは、ダリが時間経過による物体の変化というものに興味があったということだ。

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ダリ展 | 京都市美術館 | 国立新美術館より

 

こちらは今回の展覧会の目玉のひとつであり、ポスターにも使われている作品で、タイトルは『子ども、女への壮大な記念碑』という。ちょっと展覧会の説明を引用しよう。

 

時間の経過による物体の腐敗に関心を抱いていたダリは、映画「アンダルシアの犬」(1929年)で、腐ったロバを登場させました。1929年から30年にかけて、ダリは絵画作品でもこの腐敗のイメージを積極的に描きました。本作品では、人間の頭部や手、ナポレオン、モナリザなど、様々なものが朽ちるかのように溶け合った巨大な塔が圧倒的な存在感を示しています。また、画面右上ではダリにとっての恐怖の対象であるライオンが牙をむいています。

 

とろけさせる対象が時計であった点は興味深い。時計はもちろん「時の流れ」を表す者であり、それそのものが溶けることにより、本来の形を失いつつあること示しているのではないかとも思えるわけだ。

「だからなんだ」と言われれば、とくにそれ以上の意味はない。

 

原子への興味

 

あと晩年、ダリは原子に興味を持っていた。広島に原爆が投下されたことにも大きな衝撃を受けたらしい。

そのため、展覧会の後半の絵では、あからさまに原子をモチーフにした絵画がいくつも紹介されている。

 

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ダリ展 | 京都市美術館 | 国立新美術館より

 

これなんかは、中央部分に戦闘機が描かれていて、いかにもな一枚だ。タイトルはウラニウムと原子による憂鬱な牧歌』である。

 

ただ、個人的に気に入ったのは以下の一枚。

 

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ダリ展 | 京都市美術館 | 国立新美術館より

 

こちらは『素早く動いている静物』

静物画というのは本来、机の上においてあるフルーツなどを描写するものだが、ダリの手にかかるとそうした静物たちが元気よく飛び回る。

これは「原子は常に動き続けている」ということを表現しているのだ。見た目には静かにとどまっているように見える物体も、じつは原子レベルでは活発に動き回っていることをこの絵で表しているのである。いかにもシュールな一枚だ。

 

また、ダリは原子などの先端科学と宗教を結びつけていた。

それがわかるのがこちら。

 

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ダリ展 | 京都市美術館 | 国立新美術館より

 

タイトルはラファエロの聖母の最高速度』

ダリは古典絵画に対して非常に強い崇拝の念を抱いていて、こちらも名匠ラファエロのタッチをモチーフにして、それを原子的に表現した。

ちなみに、上で紹介した『ポルト・リガトの聖母』も、柱の継ぎ目がきっちりくっついていないが、これも原子同士が一定の距離を持ってくっついていないという理論に従っているためである。

 

ちなみに、ダリが好んだモチーフのもう一つが「サイの角(つまり円柱)」であり、コチラの絵も大部分が円柱によって構成されている。ポルト・リガトの聖母』にも左下に小さいサイがいることに注目していただきたい。

「だからなんだ」と言われれば、とくにそれ以上の意味はない。

 

ダリについでの勝手な考察

 

さて作品についての紹介は以上だが、ここからは徒花が考えるサルバトール・ダリという人物と、彼の描く作品の魅力について語っていきたい。

 

ダリはホントは常識的な人物

 

ダリは彼の生み出す作品とともに、自身の奇行が目立っていた人物だが、それらはすべて「演出」である。あの曲った髭も、目を見開いた表情も、「こうすれば変だろ?」というのを世間にアピールしているのだ。

 

実際のところ、彼は非常に温和で常識的な人物だったという。そしてその理性的な奇抜さこそが、私はダリの最大の魅力なのだと思うのだ。

ダリの絵は緻密である。展覧会に行ってみると驚くが、じつはけっこう小さい絵が多い。そこにこまかーくいろいろなものが描かれているのだ。これはルネ・マグリットも近いものがある。

 

ダリと真逆だと思う画家=ゴッホ

 

個人的にダリと真逆な絵だと思うのがゴッホである。彼も奇妙な絵を描くが、ゴッホの場合はダリのような計算はない。

つまり、「こうすればこう見えるだろう」という意図がなく、ただ自分の内なる衝動に従って絵を描いている感じなのだ。

 

それはそれでエネルギッシュなのだが、それでも私はダリの絵の方が好きだ。それはおそらく、ダリの絵は「鑑賞者」を必要とする絵画だからだと思う。

ダリの絵はそれを鑑賞して、首をひねるような受け手を必要とする。ゴッホの絵にはそんな感じがしない。

ゴッホの絵画は、描かれた時点で完成してしまうのである。(だからこそゴッホは、生きている間に評価されなかったんじゃないかとも思うが)

 

受け手を必要とするか、しないか

 

これは完全に徒花の個人的な趣向だが、私は「意図」が感じられる作品が好きなのだ。

だから私は、じつは自然の美しさにはあまり心を動かされない。

満開の桜や紅葉、初日の出などは確かにきれいだとは思うが、そこにはそれ以上のものを感じない。

なぜなら、自然が作り出すものは(当然だが)受け手を必要としないからだ。桜は人間に鑑賞されるために咲くのではない。

 

だが人間が作り出すもののなかには、それが自己満足で終わるものもあれば、明らかに完成のために「受け手」の存在が不可欠なものが多い。

私はそういう「作り手の意図」を感じられる作品が好きなのだろう。

 

受け手第一主義ではない

 

ここで誤解してはいけないのは、「受け手の存在を必要とする作品=受け手第一主義」ではないということだ。ここらへんが、ゲージツ作品とほかの商品が異なる点である。

たとえばハサミを作る場合、これは完全に受け手第一主義で作るものだから、作り手の「こうしたい」という意図はなく、ただ受け手(消費者、使い手)の利便性だけを追求して作品(ハサミ)が作られる。

 

そうではなくて、作品に作り手のメッセージが込められていることが大切なのだ。

メッセージは相手に届くことで意味を持つものだから、たとえそれが万人に受け入れられないものであっても、なにがしかを「伝えたい」という意思が感じられるか否かが大切なのだと思う。

 

書籍もこれに近い

 

これは書籍に近いものかもしれない。

私は「本は読者に読まれることで完成する」ものだと思っている。

しかし、本に書かれている内容は基本的には著者の「ひとりよがりな考え」だ。

その意味で、書籍はハサミと同じような商品でありながら、受け手第一主義にはなりにくい性質を持っている。と思う。

そして実際、著者の中には読者のことなんかこれっぽっちも考えずに書く人もいるだろう。

 

編集者というのは演出家である。

当然ながら著者が伝えたいメッセージを捻じ曲げてはいけないが、「この著者のメッセージを、読者こんな風にとらえて欲しい」ということを考え、表現方法やパッケージング、装丁などを考えるのがお仕事なのだ。

売れることを期待していないのなら、そんな本は最初から世に出さないほうがいい。

 

バランス感覚に優れた画家、ダリ

 

話がずれたが、つまりダリは「自分の伝えたいメッセージ」を持っているとともに、「鑑賞者にこう受け取ってほしい」という思いを持っていて、そこら辺のバランスを自分一人で取れる人物だったのだ。と思う。

だからこそ、生きている間に社会に評価されるような人物になったのだろうし、私も惹きつけられるのだろう。

絵画の世界には編集者のようにバランスを代わりに取ってくれるような人物がいないので、画家が自分でなんとかするしかない。(ちなみに、ピカソもダリと同じように自分でバランスが取れる人物だったと思う)

 

おわりに

 

思えばこのブログもそれに近いのかもしれない。

私は基本的に「書きたいから書きたいことを書きたいとき書いている」のだが、それでもやっぱり文章を書いていると「読みやすくしよう」とかを考える。

それはつまり、読み手に「こう伝わってほしい」という意図があるからだ。

 

もし本当に「書いただけで完結」するのであれば、ネット上に公開する必要などなく、ノートにこっそり書けばいい話である。

こんな駄文をわざわざ誰にでも見れるように公開するというのは、じつはこのブログ自体も「読まれることで完結する」存在であることを私自身が願っていることの証左であるかもしれない。(だからこそ、私の意図とは違う伝わり方をしていると私は自分の未熟さを実感するのだが)

 

私は天邪鬼なので読者に感謝することなどないが、それでもこの文章をいま、この瞬間に読んでいるあなたこそがこのブログを本当の意味で完成させているのだ、ということは伝えておくべき価値があるとひっそり考えている。

このブログの記事も200を超え、1年以上継続しているので、とりあえずもうしばらくは続けていきたい。

 

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『降りてくる夜の影』

ダリ展 | 京都市美術館 | 国立新美術館より

 

今回はこんなところで。

それでは、お粗末さまでした。