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本で死ぬ

基本的には本の話。でもたまに別の話。

『あした死ぬかもよ?』のレビュー~死を思い出せ~

生き方 ノンフィクション

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memento moriメメント・モリ)」という言葉がある。

もくじ

ラテン語で、「死を思い出せ」という意味だ。Wikipediaによれば、古代ローマの時代、戦争の将軍が凱旋したとき、その側近がいう言葉だったらしい。つまり、「いまは戦いに勝って絶頂にあるが、明日は負けて死ぬかもしれない」と、買っても調子に乗らないように諌める言葉である。

その後、キリスト教が広まるとこの言葉は「現世でいくら金を稼いでも、天国には持っていけない。死後の世界での安寧を思い、規律に従って生きなさい」という、説教くさい、おもしろみに欠けるものになった。

というわけで、今回は「死」をテーマに。

『あした死ぬかもよ?』のレビュー

あした死ぬかもよ?

あした死ぬかもよ?

 

著者のひすいこたろう氏は新潟県出身自己啓発作家で、日本メンタルヘルス協会の衛藤信之氏から心理学を学び心理カウンセラー資格を取得した人物。プロフィールなどを見ると「天才コピーライター」などとも呼ばれているので、もしかすると広告代理店などで働いていた人物なのかもしれない(詳細な経歴は明かされていないのでよくわからない)。いくつもの自己啓発本を執筆しているが、本書はその中でもとくに売れているだろう書籍である。

内容はまさに「メメント・モリ」の重要性を伝えるもの。つまり、「明日死ぬかもしれないと考えていれば、今日という一日を後悔しないように全力で生きていこうと思えるよ」ということだ。とはいえ、単にこのようにメッセージだけを伝えても人々の心には届かないので、古今東西の著名人の「死」にまつわるエピソードや名言などを紹介したり、ひすい氏が編み出した「死を意識するための方法」を伝授したりして、できるだけ読者が「死」を意識できるような一冊になっている。

長らくアメーバブログを続けていたこともあってか、文章は非常に読みやすい。観念的なことを日常生活に例え、ときには冗談を交えつつ、「うんうん、そうだよな」と読みながら納得できる内容になっているのは筆力があるからだろう。以下、本書で書かれていたエピソードをひとつ、紹介しよう。

孫正義氏のメメント・モリ

いまでこそソフトバンクの創始者として有名になり、日本を代表する億万長者のひとりになっている孫正義氏だが、じつは、孫氏は会社を立ち上げてすぐの1983年、慢性肝炎の診断を受けて、余命5年と宣告された。孫氏は病室で独り、メソメソと泣いたという。

なにしろ、立ち上げたばかりの会社は業績が絶好調。自分には幼い子どももいて、将来には明るいことしか待っていないような状況なのに、自分はあと5年で死ぬといわれてしまったのだから、その絶望感たるや筆舌には尽くしがたい。

しかし、そこで孫氏は考えを切り替える。「逆に、あと5年でなにができるだろうか?」ということを考えたわけだ。そこで彼は病室のベッドの上で3000~4000冊にものぼる本を読み続け、部下を遠隔操作して会社を経営する手法や『孫子の兵法』の言葉にオリジナルの言葉を加えた「孫の二乗兵法」を編み出したりした。

まあ結局、5年たつと孫氏の病気の新たな治療法が見つかり、彼は生きながらえることができたわけだが、おそらく、この時の経験はいまでも孫氏のなかに生きている。

武道の達人の「決死の覚悟」

ついでにもうひとつ。これは本書の中に書いてあったことではなく、徒花がとある武道の先生と話をしていた時に聞いたものだ。

その先生は世界的に活躍していて、各地で教室を開いたりしている。そして、アメリカやヨーロッパなどで講演をしたりパフォーマンスをしたりすると、地元の若者に絡まれることが多いのだそうだ。「へいジャップ! おまえメチャクチャ強いんだろ? だったら俺たちをボコボコにしてみろよ」という感じ。

※ちなみに先生は身長150センチくらいで、やせていて、おじいちゃんである。普通に話しているとたいへん柔和かつお茶目で、どうみても武道の達人には見えない。だから、なんとなくそういう人たちが茶化そうとするのもわかる。

もちろん、先生は達人なので、素人相手にほいほい闘ったりはしない。下手にけがをさせたりするのもイヤなので、先生は断って早く立ち去るようにしていた。しかし、そういうのが何回も続くようになるうち、先生の中にある思いがわき出るようになる。

「自分がバカにされるのはかまわないが、あまりにも逃げてばかりいるのでは日本の武道そのものがなめられることになるのではないか? それは、武道にかかわる人すべてに迷惑をかけることになるのではないか?」

ということで、以降、先生はひとつのルールを決めたという。「3回までは断る。しかし、4度目になってもまだしつこく絡んでくるようだったら、その挑発を受けてしまおう」

しかし結果として、そういうルールを決めてから、実際に闘うことになった例はひとつもないという。なぜなら、先生がその気になって相対した瞬間、すべての相手はビビりだすからだ。「イヤイヤイヤイヤイヤイヤ! そんなマジになるなよ……。ちょっとからかってみただけだって…。ごめんなさい」こんな感じ。

なぜ、若者たちが急にビビりだすのかというと、それは闘いに臨む「覚悟の差」だという。いざ闘うとき、先生は一瞬で「死の覚悟」を決めるのだ。

「相手は自分よりもずっと体格がいいし、人数も多い。ナイフや拳銃を持っている可能性だってあるから、自分はここで死ぬかもしれない。でも、それでもかまわない。もう自分はここで死のう

そういう決死の思いを持って相手をにらむと、たぶん、それが相手にも伝わるのだ。もちろん絡んできた若者たちはそんな覚悟は持っていないが、「こいつはヤバい」ということが本能的にわかるようだ。

「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」

さて、日本の武術と「死」に対する考え方といえばこの言葉が有名だ。徒花は新渡戸稲造『武士道』あたりに出てくる言葉なのかと思っていたが、違った。

武士道 (PHP文庫)

武士道 (PHP文庫)

 

こちらの原点は肥前国佐賀鍋島藩士・山本常朝が著した葉隠に出てくる言葉らしい(忍者とはたぶん関係ない)。なお、下で紹介しているのは小説家の三島由紀夫が書いたもので、『葉隠』の入門書らしい。

葉隠入門 (新潮文庫)

葉隠入門 (新潮文庫)

 

真意はよくわからないが、とにかくこの言葉がのちに独り歩きし、太平洋戦争における特攻隊などの士気を挙げるためなどに使われたようだ。ただ、徒花が思うのは、この言葉が持つのは「主や国のために命を落とすことこそが武士の務めである」という意味ではなく、「つねに死ぬつもりで物事に取り組むところに武士の強さがある」というような意味合いではないかと思う。

現在の日本社会では「死」がフィクションの世界だけの事柄で、自分には関係のないものだという思いを抱きがちだが、戦国時代や幕末、そして戦争の時などはまさに「明日、死ぬかもしれない」というのがリアリティを以て感じられたのだろう。茶道でいう「一期一会」という言葉も、そもそもが「この出会いが今生の別れかもしれない」という思いで相手をもてなしなさい、という意味だ。

江頭2:50は現代の武士かもしれない

では、こうした武士道に近い思いを持っている人は現代では孫さん以外に誰かいないのかと探してみると、ひとり見つかった。それが、あのエガちゃんだ。

f:id:Ada_bana:20160424150000j:plain江頭2:50 | プロフィール | 大川豊興業より

ネット上にはエガちゃんの様々な名言があって、そのひとつが以下のものだ。

「これをやったら次回でられなくなるんじゃないか」 なんて考えないようにしている。人間いつ死ぬか分からないから 、 その時の全てを出し切りたいんだ。

俺はいつ死ぬか分からないし、 見てくれる人だっていつ死ぬかわからない。 視聴者が最後に見た江頭が、 手抜きの江頭だったら申し訳ないだろう?

心に刻め!!かっこいい江頭2:50の名言集 - NAVER まとめ

もちろん、ネットの名言の中には往々にしてガセが入っているので、この言葉も本当にエガちゃんが言ったものなのかはよくわからない。しかし、「1クールのレギュラーより1回の伝説」を標榜に掲げ、「次回」を考えずにその瞬間の全力を出し切るエガちゃんらしい言葉ではある。

そして、改めてこの言葉をかみしめてみると、もしかするとこれこそが「武士道精神」なんじゃないかと思えてくるから不思議だ。

「俺たちの仕事は、とんでもないミスをしても、誰かが死ぬわけじゃない」

もうひとつ、「死」に関連して徒花の記憶にあるのは、前に勤めていた会社の社長がよく発言していた言葉である。

そこは編集プロダクションで、様々な出版社から本の制作を請け負って、鬼のようなスケジュールのなか、朝から晩まで死ぬほど働いた。そういうやり方をしていると、当たり前だがミスが出る。誤植はダメだし、間違った情報を載せて出版したりしたらどこかから訴えられる可能性もある。スケジュールに間に合わなければ発売が延期になったり、著者や監修者の機嫌を損ねれば企画そのものがポシャることもある。そういう状況で本当にせっぱつまったとき、社長は次のように言った。

「まあ、迷惑をかけるのはよくないけど、俺たちがやってる仕事は、別にとんでもないミスをしたからって誰かがすぐ死ぬわけじゃないんだ。気楽にやろう」

当時は「なにアホなことをいってるんだ?」と思ったが、いまにすればけだし名言である。たしかに、ちゃんと仕事ができなくて本が出版されなかったり、誰かに訴えられたりするのは大問題だが、別にそれで人生がすべて終わるわけじゃない。そもそも本なんてなくても、深刻に困る人なんていないのだ。とすれば、まあ、若干気分は楽になる。

と同時に、徒花としては、お医者さんとかパイロットとかとび職の人とか消防士さんとかはすごいなぁとしみじみ思ってしまう。彼らは、自分のちょっとした判断ミスで誰かの命を奪ったり、自分が命を落としてしまうリスクを毎日抱えながら仕事をしているのだ。たいしたもんである。

そして、ここに大切なポイントがある(気がする)

「死ぬことを意識することは大切だが、深刻に考えすぎるのはよくない」ということだ。そもそも「気に病む」という行為は、全力でやっていなかったからこそ発生する感情なのではないかとも思える。自分にできることはすべて全力でやりきったのであれば、そこでなにか問題が発生したとしても、もう開き直れるような気がするのだ。悩みというのは、自分が過去、どこかで手を抜いてしまったから起こることなのかもしれない。

おわりに

本エントリーは『あした死ぬかもよ?』のレビューから始めているが、実はそもそも、私はこのレビューを書くつもりはなかった。たしかにいい本ではあるが、ブログで書くほどじゃないかなぁとか、考えていた。しかし、ちょっとあることが起きて、気持ちが変わった。

先週、私は3年ほど付き合って結婚を考えている彼女さんの父君が膵臓がんになったという知らせを受けた。膵臓がんというのは早期発見が非常に難しい病気で、父君もすでに手術すら受けられない状況であるという。余命がどのくらいなのかわからないが、話を聞いている限りでは、半年とか一年とか、そのくらいであるようだ。彼女はまだ24歳、父君も60代で、まだ気持ちを受け止めきれていない。だがやはり、「死」はかなり強烈だ。連絡を受けたその日、私は仕事でちょっと問題を抱えてウグウグうめいていたのだが、そうした問題が一気に些末なことのように思えた。

完全に余談だが、膵臓といったら、まず思い起こしたのはこの本である。本書では「膵臓の病気」としか書かれていないので、膵臓がんなのかはよくわからないが。

そしてこのことを受けて、私はある友人を思い出した。私は大学生のころ、友人をひとり亡くしている。交通事故だとか、自殺だとか、いろいろささやかれたが、真相はよくわからない。ただ、私はその死の知らせを受ける1週間ほど前にその友人とふたりで秋葉原に遊びに行き、なぜかファミレスで3時間ほど粘って将棋を指していた。しばらく忘れていたが、ふと彼のことを思い出した。

また、私は4人の祖父母のうち、すでに3人を亡くしている。うち2人は私が物心つく前に他界していたのでとくに感慨はないのだが、3人目の祖父(母方)が死んだのは私が高校生の時だった。悲しかった記憶はあまりないが、火葬場で祖父の遺体が運ばれていくとき、ふと脇に立つ母が涙を流していたのが印象深かった。普段は飄々としていて、ドラマなどのお涙ちょうだいストーリーを毛嫌いしている母ではあったが、「そうか、やっぱりこの人も泣くんだな」とぼんやり思ったのを覚えている。

こんな風に淡々とブログを書いている私も、いざ母が死んで火葬場に行くときには泣くのだろうか? それはそのときにならないとよくわからない。そして、いろいろと偉そうなことを書いている私は、「もしかしたら明日、死ぬかもしれない」と本気で考えて、今日を生きているのだろうか?

私にはまだまだまわからないことがたくさんある。

 

今日はこんなところで。

お粗末さまでした。