勉強をすると人はキモくなる ~『勉強の哲学』のレビュー
私はもっと「ユーモア」のある文章を書きたいと思っている。
もくじ
いろいろとブログや本を読んでいると、ちょこちょこおもしろい文章を書く人がいる。
そういう人たちは別にすごい経験をしているわけではなくて、だれもが日常生活で経験しているようなことを、アクロバティックな比喩表現を使ったり、拡大解釈して主語をやたら大きくするなどして笑えるように工夫している。
自分もそういう文章を書けるようになりたいなーと思うのだけど、ここで私は「そもそもユーモアとはなにか」「どんなところで人は笑いを誘われるのか」というのを考えてしまいがちだ。
なんだかそれってユーモアの感性から遠いような気がしていたのだけど、そうでもないのかもしれない……と思えたのは、この本を読んだからである。
本質的な勉強(ラディカル・ラーニング)
千葉雅也氏は1978年生まれの、若手の哲学者である。
本人の写真が帯袖に乗っているが、前髪が長い。
タイトルは「勉強の哲学」ではあるが、ここで述べられている「勉強」はいわゆる学校や資格試験など世間一般でいう「勉強」のことではない。
むしろ「教養」といったほうがしっくりくるかもしれない。
つまり、新しい知識を得て自分の見識や思考の幅を広げたりしたいなあと思っている人に向けて、より「本質的な勉強(ラディカル・ラーニング)」について一度しっかり考えてみようと提案する一冊なのだ。
著者は哲学者であるがゆえに、どうしても言葉遣いは観念的で、哲学系の本を読みなれていない人にはぜんぜん頭のなかに内容が入ってこないことがあるかもしれない。
たとえば、こんな感じだ。
環境的な制約=他者関係による制約から離れて生きることはできません。
環境のなかで、何をするべきかの優先順位がつく。環境の求めに従って、次に「すべき」ことが他のことを押しのけて浮上する。もし「完全に自由にしてよい」となったら、次の行動を決められない、何もできないでしょう。環境依存的に不自由だから、行為ができるのです。
「何でも自由なのではない、可能性が限られている」ということを、ここまで「不自由性」ということを、ここまで「不自由」と言ってきましたが、今後は、哲学的に「有限性」と言うことにしましょう。逆に、「何でも自由」というのは、可能性が「無限」だということです。
勉強をすると人はノリが悪くなる
ただ、本書の場合、著者が比較的若いこともあるし、いちおう一般の人に向けて書かれた一冊なので、適度にキーワードをネットスラングや日常会話で使うような言葉に翻訳してくれている。
たとえば本書の場合、本質的な勉強を進めていくと、自分が普段いる環境のコードから逸脱し、言語をアイロニー・ユーモア的に自由に使うようになることで、場にコミットしないようになる……という主張が繰り広げられる。
これだと意味プーなので、千葉氏はこれについて
「勉強をするとノリが悪くなる。キモくなる」
と表現する。
どんな人の周りにも、こういう人はいると思う。
たとえば適当な世間話をしているはずなのに「ある話題」になるといきなり専門的なことをまくしたててしゃべり始める人。
たとえばみんなが楽しくしゃべっているのに「そもそもそれって必要?」などと、場をしらけさせるようなKYな発言をしてしまう人。
こういう人たちは、ある意味では「勉強している人」という表現もできる。
本書に従って解説するなら、前者は「縮減的ユーモア」に陥っているし、後者は「アイロニーによって場のコードを転覆させてしまう人」である。
アイロニーとは「ツッコミ」である
私はどちらかというと「アイロニー(皮肉)」の性質が強いタイプで、子どものころは親から「おまえは人の言葉の上げ足ばかりとる!」と怒られていた。
本書では
アイロニー=ツッコミ(環境のコードを疑って批判するタイプ)
ユーモア=ボケ(環境のコードに対する見方を変えて話をすり替えるタイプ)
という表現をしている。
アイロニー的な性質が強い私はまさに「その言葉って、そもそもどういう意味?」などと人の発言にツッコミを入れたくなるタイプなので、よくわかる。
問題は「ユーモア」についてだ。
アイロニカルな意識、つまり「外に出よう」という意識をもちながら、究極の外=現実それ自体は目指さずに、言語は環境からは離れては存在しないということ、「言語の環境依存性」を認める。ある環境の外には、別の環境があるだけなので、このスタンスは、「環境の依存性=言語の複数性」を認めることです。さまざまな環境のあいだを、「諸言語」のあいだを行ったり来たりする。これは、旅人のようなあり方でしょう。これが、第一段階の、ある環境に縛られた保守的状態から脱し、「一周回って」環境依存性を認めることなのです。
アイロニーによって言語の破棄に至ることなく、「諸言語の旅」へと向かう。
この転回が、ユーモアへの転回なのです。
ここでこの記事の冒頭の話に戻るのだが、厳密には私が目指すユーモアと、本書で言う「ユーモア」は一致していない。
なのでこの本を読んでもべつにおもしろい文章を書いたり、おもしろい話ができるようになるわけではないのだが、ふと読んでいて思ったのは「ツッコミどころをつくる」ということの大切さだった。
ふと思ったのは、論理的な文章というのは、書かれていることが地続きであることだ。
ユーモアとは非論理的なことであり、つまり論理の飛躍や拡大解釈を意図的に行い、そのギャップを呼んだ人に感じさせることであるような気がする。
ただ、このあたりのことはまだ私も完全に理解しきれていない。まだまだユーモアのある文章への道は遠い。
ユーモアについて興味がある方は、この本もおもしろいかもしれない。
今日の一首
24.
このたびは ぬさも取りあへず 手向山
紅葉のにしき 神のまにまに
菅家
現代語訳:
今回の旅はあわただしかったので、お供えの幣を持ち合わせていません。
代わりに錦織のような手向山の紅葉を、神の御心のままにお受け取りください。
解説:
菅家というのは菅原道真のこと。宇多上皇のたびにお供したとき、一行は旅の安全を祈るためのお供え物である幣(ぬさ:色とりどりの布や紙を切ったもの)を忘れてしまった。そこでなんとかしろと無茶振りされた道真が詠んだのがこの歌。「このたび」は「この度」「この旅」がかけてあるし、「取りあえず」は「ささげられない」「さしあたって」というダブルミーニング。要するに神様に対する言い訳の歌なのだけど、機転とセンスが光る。
後記
Kindleのプライムリーディングのラインナップが一気に拡充してきた感じがある。
とくに文響社さんの本が一気に放出されている。
この会社の本はビジネス実用系がメインだけど、わかりやすくておもしろい本が多いので、ありがたい。このあたりがまあ良かった。
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ただ、一度に10冊までしかダウンロードできず、11冊目を借りるにはどれかを返却しなければならない。
それで、空いた時間で一気に読み進めたんだけど、やっぱり一気に大量に読むと読み方が雑になってしまうような気がする。