本当はすごくマジメで努力家なバッタ博士の珍道中 ~『バッタを倒しにアフリカへ』のレビュー
本日紹介するのは、新書対象2018に選ばれたこちらの一冊。
「新書大賞」というのは中央公論新社が開催しているもので、独自にその年の「最高の一冊」を勝手に選んでランキングするという、まあ端的に言えば「話題作りのための賞」だ。
もくじ
この本は表紙のインパクトや著者の変人性も相まってけっこうテレビに紹介もされていたから知っている人も多いと思う。
著者の前野ウルド浩太郎氏は生粋の日本人であるが、バッタ好きが高じてアフリカの国モーリタニアに旅立ち、そこで彼は現地の人に気に入られて「ウルド」というミドルネームを名乗ることを許可されたのだった。
この「ウルド(Ould)」とは、モーリタニアで最高に敬意を払われるミドルネームで、「○○の子孫」という意味がある。ババ所長の本名は、モハメッド・アブダライ・ウルド・ババだ。私は、バッタ研究者になれなかったら大恥をかくのを百も承知の上で、研究者名を「前野ウルド浩太郎」と改名することにした(戸籍上は前野浩太郎のまま。研究者の中にはペンネームを使用している人もいる)。この先、昆虫学者を目指す道には多くの困難が待ち受けているはずだ。
この人自身、夢が
「バッタに食べられること」
だと公言している(しかも本人はバッタアレルギー)あたり頭のねじが数本ぶっ飛んでいることがうかがい知れるが、それにも増してすごいのは卓越した文章センスである。
単純に、この本は読んでいるだけでおもしろい。
おもしろい文章はたゆまぬ努力の結晶なのだ
もちろん、よくわからないアフリカの国に単身飛び込んで砂漠をかけまぐってバッタを追い回すという、これだけ破天荒な出来事を経験していればどんな人でもおもしろく書けそうな気もする。
が、やっぱり読んでいるだけで臨場感を感じて、笑ってしまう文章というのは誰にでも書けるものではない。
思いを巡らし、ひらめいた。本だ! 本を書こう! ちょうど東海大学出版部から、若手研究者がフィールドでの研究記を綴る「フィールドの生物学」シリーズの執筆のお誘いを受けていた。今一度自分を見つめ直すのにもちょうどよい。ただ、「フィールド」なのに、手持ちの研究内容は実験室のものだけで、趣旨に沿ってない。そうだ、現在執筆中のフィールドワークに関する論文の話を盛り込めばいいではないか。
この一年間、ブログを使って文章のトレーニングをしていた。ブログは、一日に何人が閲覧したかがわかる。面白い記事を書けば、ツイッターなどのSNSを介して人が人を呼び、大勢の人たちが訪れてくれる。ちょうど、読者に好まれる文章や内容の感覚がつかめてきていた。その成果を試すなら今だ。
バッタの論文を投稿し、続いてゴミダマの論文も投稿した。経験上、査読には早くとも1カ月、遅いと3カ月はかかる。先に時間のかかるものを仕込んでおき、査読結果を待つ間に本を書くことにした。
バッタ博士は現在もコツコツとブログを続けている。
そしてそこでしっかりアクセス数をカウントし、どういうことを、どういう文章で書けば一般の人が喜んでくれるのかをちゃんと分析しているのだ。
見た目や目立つ部分だけを見ているとバッタ博士はただの頭のおかしな人に見えるが、そこは一応研究者なので、考える部分は考えている。
そしてコツコツ努力をしている。そのあたりの姿勢は本書を読んでみるとさらによくわかるだろう。
バッタの格好をしている本当の理由
彼はだれよりも本気でバッタについて研究したいと考えているからこそ、こういう本を書いたり、あの格好をしたりしているのである。
バッタさえ大発生していたら……、手柄さえ立てていれば……、今ここで「たられば」を言おうが、弱者は実力社会では消え去る運命。自然も世間も甘くはない。ただそれだけのことだ。どこかによい研究ポジションの募集が出ていないかチェックはしていたが、ここぞというところを見つけることができず、また、手当り次第申請書を送ることもしておらず、結局は一つも応募していなかった。
今後、私がとるべき道は二つ。日本に帰って給料をもらいながら別の昆虫を研究するか、もしくは、このまま無収入になってもアフリカに残ってバッタ研究を続けるか。決断のときが迫っていた。
蝗害(バッタの大群による作物の被害)がまずない日本では彼の研究の認知度は低く、それは世界的に見ても同じだ。
深刻に受け止められるのは、アフリカのごく一部の国と、バッタのことをよく知っている変な研究者ばかりである。
だからこそ、著者はバッタの研究の重要性を訴えたいのだ。
しかし、ただ真正面からド直球に「アフリカではバッタの被害が深刻なんです」と伝えても、だれも興味を持ってくれない。
だから自分がバッタ博士となり、おもしろい文章を書いてまずは多くの人に興味を持ってもらい、そして本を読んでもらうなかで自分がやっている研究の重要性をアピールしようというマーケティング戦略なのである。
ババ所長は、私の行く末をずっと気にかけてくださっていた。
「なぜ日本はコータローを支援しないんだ? こんなにヤル気があり、しかも論文もたくさんもっていて就職できないなんて。バッタの被害が出たとき、日本政府は数億円も援助してくれるのに、なぜ日本の若い研究者には支援しないのか? 何も数億円を支援しろと言っているわけじゃなくて、その十分の一だけでもコータローの研究費に回ったら、どれだけ進展するのか。コータローの価値をわかってないのか?」
大げさに評価してくれているのはわかっていたが、自分の存在価値を見出してくれる人が一人でもいてくれることは、大きな救いになった。
「私がサバクトビバッタにこだわらなければ、もしかしたら今頃就職できていたかもしれません。日本には研究者が外国で長期にわたり研究できるようなポジションがほとんどなく、応募する機会すらありませんでした。もし自分が大学とかに就職すると、アフリカにはなかなか来られなくなってしまいます。今、バッタ研究に求められているのは、私のようなフィールドワーカーが現地に長期滞在し研究することで、その価値は決して低くないと信じています。我々の研究が成就したら、一体どれだけ多くの人々が救われることか。
日本にいる同期の研究者たちは着実に論文を発表し、続々と就職を決めています。研究者ではない友人たちは結婚し、子供が生まれて人生をエンジョイしています。もちろんそういう人生も送ってはみたいですが、私はどうしてもバッタの研究を続けたい。おこがましいですが、こんなにも楽しんでバッタ研究をやれて、しかもこの若さで研究者としてのバックグラウンドを兼ね備えた者は二度と現れないかもしれない。私が人類にとってラストチャンスになるかもしれないのです。研究所に大きな予算を持ってこられず申し訳ないのですが、どうか今年も研究所に置かせてください」
もしもこの本が、ただ単にちょっと頭のねじがぶっ飛んだ研究者がアフリカのバッタ事情について面白おかしく書いただけのものだったら、いくら話題作りのためのものとはいえ、新書大賞に選ばれることはなかっただろう。
前野氏はたしかにバッタを愛している。そしてバッタの被害をこの世からなくしたがっている。そこに純粋に邁進している姿は文章からも伝わってくる。
編集者みょうりに尽きる著者
編集者の私が思うのは、前野ウルド浩太郎さんのような人がいるからこそ、編集者やメディアはまだ存在価値があるのだと信じられる部分にある。
世の中にはまだあまり一般的な知名度が高くないけれど、じつはけっこうすごいことをやっている人たちがたくさんいて、そしてお金がなくて困っているケースもある。
出版というものはそういう人たちにとって知名度を上げ、さらに安定的な印税収入をもたらす手段になりうる。
研究者界隈ではメディアに出演する研究者に冷ややかな目を向ける風潮もあるようだが、象牙の塔に閉じこもっていることが果たして正解なのかはわからない。
もちろん、あまりにメディアへの露出が増えてタレント化してしまう研究者の姿は目に余るが、やはり編集者の醍醐味というのは、こういう人を見つけて世の中にアピールする部分にこそあるんじゃないか。
「売れる本」をつくることはもちろん大事なんだけど、もっと突き詰めて考えると、「なぜ売れる本にする必要があるのか」というより遠大な目的があったほうが、著者も編集者も、携わるすべての人がモチベーションを高められる。
ちなみに、前野氏が研究しているバッタの相変異と大発生については、こちらのほうがより詳しく書かれている。
孤独なバッタが群れるとき―サバクトビバッタの相変異と大発生 (フィールドの生物学)
- 作者: 前野ウルド浩太郎
- 出版社/メーカー: 東海大学出版会
- 発売日: 2012/11/01
- メディア: 単行本
- 購入: 31人 クリック: 976回
- この商品を含むブログ (28件) を見る
単純に頭のねじがぶっ飛んで卓越した文章センスの持ち主という意味であれば、こちらの野グソ研究家の本もべらぼうにおもしろい。
今日の一首
28.
山里は 冬ぞ寂しさ まさりける
人めも草も かれぬと思へば
現代語訳:
山里は冬になると淋しさがより感じられます。
人も来なくなり、草木も枯れてしまうと思うとね。
解説:
倒置法で詠まれた一首。当時、貴族の間では都を離れて山の中の別荘で暮らすことがはやっていたらしい。ちなみに「冬ぞ」の「ぞ」は強調表現なので、「どの季節も寂しいんだけど」という気持ちが込められている。
後記
『時計じかけのオレンジ』を見た。
監督は『2001年宇宙の旅』などで有名なスタンリー・キューブリック氏。
もともとはSF小説が原作なんだけど、以前から気になっていた。
時計じかけのオレンジ 完全版 (ハヤカワepi文庫 ハ 1-1)
- 作者: アントニイ・バージェス,乾信一郎
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2008/09/05
- メディア: ペーパーバック
- 購入: 6人 クリック: 132回
- この商品を含むブログ (76件) を見る
未来を描いたディストピアもので、原作では物語が違うらしいが、以下では映画版のを紹介する。
不良少年のアレックスは強盗に入ったところで警察に捕まり、刑務所に収監される。しかし、そこで新たな精神矯正方法「ルドヴィコ療法」の被験者に志願し、早く世の中に出ることを画策する。
治療は成功し、これまで暴力や凌辱に快感を見出していたアレックスの歓声は激変する。これですっかり相手に反抗することができなくなったアレックスは、出所した後にかつての自分の犯罪の被害者や仲間たちから報復を受ける。やがて、耐えきれなくなったアレックスは自殺を決行するのだが……
けっこう古い映画なので若干物語全体のテンポが遅いし、描かれている近未来のイメージにも古めかしさを感じる。また、けっこう性描写や暴力の描写が露骨なのでそういうのが苦手な人は注意したほうがいいかもしれない。
映画の最大のポイントは、未来の若者たちが使っている独特の若者言葉にあふれている点。「ナッドサット言葉」と呼ばれていて、たとえばかわいい女の子は「デボチカ」、レイプするのは「フィリー」と表現したりする。
日本語では字幕がついているためにすぐにどういう意味なのかがわかるが、英語圏の人が鑑賞しても意味不明な言葉の羅列(作品内でさりげなく解説されるのでいみはぼんやりわかるようになっているらしい)でしかないので、そこでむしろ不思議な未来館を感じられる作品となっている。残念ながら、日本人の私はその独特の感覚を体感することはできないが。
また、作品内は小道具や衣装などにこだわりがあり、ここでも独特の未来世界が描かれている。決して人気の作品ではないが、『ブレードランナー』のようにカルト的な人気を誇る作品だ。しかし、ブレードランナーよりはシナリオがわかりやすいと思う。
まあおもしろいっちゃおもしろいけど、文芸的な色合いが強いので、あまり万人にお勧めできる作品ではない。興味がある人は見てみてもいいかも。
今回はこんなところで。
それでは、お粗末さまでした。