本で死ぬ ver2.0

基本的には本の話。でもたまに別の話。

タイトルは陳腐だけどおもしろかった『外資系コンサルの知的生産術』のレビュー

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外資系コンサル」という響きには、多くのビジネスパーソンをひきつける魔力がある。

 

もくじ

 

外資系コンサルって言葉について

 

まず「外資系」というのが魅力的だ。グローバルである。

 

偏見に満ち満ちているが、たとえば「楽天に勤めてます」というよりも「Amazonの日本法人で働いています」のほうがカッコよく思えるし、「武田薬品」よりも「ノバルティスファーマ」のほうが響きがカッコいい。「野村證券でバリバリ営業やってます」より「メリルリンチで法人営業してます」のほうがカッコいい。

 

これは仕方ないことだ。管理職より「エグゼクティブ」のほうがカッコよく見えるのと同じだろう。

 

あと、外資系のほうが「頭がよさそう」だ。日本の企業の場合、たとえ日本を代表する大企業であっても、根性と根性(サビ残、休日出勤、徹夜)で頑張れそうな感じがする。あんまり役に立ってなくても、勤続年数が長いだけでそれなりの給料をくれそうだ。

 

しかし、外資系企業だと努力や根性なんてクソの役にも立たなそうである。どれだけ協調性ゼロで人格が破たんしているサイコパスであっても、結果が出ていればすべて報われる。

 

逆に言えば、キャリアがあっても速攻でクビになるような厳しそうな世界だから、当然ながらそこで働いている人はコスパ最強で最小の手まで最高の成果が出る鬼効率な仕事の仕方をしてそうな気がする。


次に「コンサル」というのもビジネスパーソンのキラーワードのひとつである。その実態がまったくわからないのに、なんとなく「しゅごそう」という印象を抱かせてしまうのだから大したものである。

 

※ただし、フリーランスで「○○コンサルタント」を名乗っている人ほど胡散臭く感じるものはない。仕事柄、そういう人とよく会う。このように、コンサルというのは便利な言葉なのである。


とにかく「外資系コンサル」というのはその言葉だけでビジネスパーソンたちを「しゅごひ」と思わせてくれるので、ビジネス書ではよく使われる。

 

ただ、もう使われすぎていて陳腐化しているので、私も最初にAmazonのPrime Readingでこの本を見つけたとき、「うわー、ありがちなタイトルだなあ」と思った。

  

※「外資系コンサル」といったらそんなに数がないのだが、とにかくマッキンゼーが有名だ。ただ、この著者の場合は勤務していたのが「ボストン・コンサルティング・グループ(BCG)」と「A.T.カーニー」だったので、その名前を表紙に出しても分かる人がいないだろうから、ちょっと陳腐でもわかりやすい「外資系コンサル」という言葉を選んだのだろうな、というのは理解できる。

 

 
ただ、軽い気持ちで読んでみたら、思ったよりもいいことが分かりやすく書いてあった。Amaoznのプライム会員なら無料で読めるので、読んでみてもいいかもしれない。

 

ここでは内容の一部を抜粋しつつ、思ったことを書いていく。


仮説を信用しすぎない

20.仮説は捨てるつもりで作る

現地現物を現地見物にしないためには「仮説」が重要といっておきながら、こんなことを指摘すると混乱させるかも知れませんが、現場を観察する際には、仮説に囚われすぎないようにするということもまた重要です。
(中略)
知的生産のプロセスにおいて、初期仮説を持つことの重要性は、特にコンサルタントを中心にさまざまな論者が指摘しています。
しかし一方で、仮説を持つことの危険性について言及している人がほとんどいないのは本当に不思議なことです。なぜかというと仮説というものは知的生産をスポイルする最大要因の一つだからです。

 
著者が述べるように「仮説の危険性」について多くの書物が言及されていないのは、その理由の一つとして「読者のレベルに合わせている」のがあるのだろう。

 

仮説の危険性を知れというのは、すでに仮説を持って仕事に取り組んでいる人にとって有用なアドバイスなのであって、仮説を持つ習慣すら持っていない人にとっては、著者も書いている通り「余計な混乱」を巻き起こすことになる。

 

知識とは行動である

 

知的生産というのは結局のところ「行動の集積」にすぎません。その上で、さらにいえば、情報収集の成否は「腰の軽さ」で勝負が決まる

 

これはホリエモンの提唱した『多動力』に近いかもしれない。結局のところ、机上の空論のままでは結論が出ないので、「とりあえずやってみる」「行ってみる」「聞いてみる」という行動に移した人だけが結果を出せるのだ。

 

多動力 (NewsPicks Book)

多動力 (NewsPicks Book)

 

  

ただし、これも何の考えもなくやみくもに行動しても意味がない。そこで大切なのが「仮説」であり、仮説が正しいのか確認するために行動するから意味があるのだ。

 

インプットと学習効率のあいだには収穫逓減の法則が働く

 

知的生産において、一般に情報はあればあるほどよい、と考えられがちですが、多すぎる情報は学習効率の低下を招くので注意が必要です。インプットの量と学習効果のあいだには収穫逓減の関係が成立します

 

これも興味深いし、言われてみれば確かにそうだなと思った。

 

「専門書は2~3冊読めばそれで十分」ということだ。それ以上同じような本を読んでも、新たに得られるのは細かい情報だけで、それにかけた時間や労力のほうがマイナスになってしまう。

 

しかもなお悪いことに、情報収集とは楽な作業であるし、「次のステップに進まない言い訳」にもなってしまう。これが行動量を落とす原因になりかねない。

 

言葉の選び方によくよく注意する

 

参謀:「一億玉砕の魁となってくれるか?」

長官:「何をかいわんや。よく了解した」

で終わった実際の会話も

参謀:「無茶な突撃やって全滅してほしいんだよ」

長官:「嫌だよ、ふざけんな」

 

ここは本書で一番笑ったところ。

 

要するに、同じ内容でも、情緒的な言い方にしたりすると、意味のないことやバカみたいなことがさも説得力ありげに聞こえてしまうから気をつけようね、ということだ。これは自分が話をするときもそうだし、誰かのプレゼンを聞くときも同様である。

 

相手の質問に答えてはいけない

 

「質問に答えてはいけない」とアドバイスすると驚かれるかも知れませんが、筆者はよく若手にそうアドバイスしています。  

理由は単純で、顧客が質問をするとき、それが本当の意味で質問であることは滅多にないからです。相手が質問をしているとき、それは質問という名を借りた反対意見や懸念の表明であるケースがほとんどなのです。

 

ビジネスシーンにおいて相手が何かしらの質問をしてきているときとは、ほとんどの場合「何かしらの懸念」「不安」「胸騒ぎ」「納得できない部分」を感じている。だから、単純に質問に答えるだけだと、そうした相手の気付きを殺してしまう可能性があるわけだ。

 

相手が質問をしてきている場合は逆に質問で返すことで、相手の「気づき」を可視化し、自分が気づいていない問題点やリスクを浮き彫りにできる可能性がある。これもおもしろい。

 

常識を疑うのではなく、見極める

 

重要なのは、よくいわれるような「常識を疑う」という態度を身につけることではなく、「見送っていい常識」と「疑うべき常識」を見極める選球眼を持つということです。そしてこの選球眼を与えてくれるのがまさに「厚いストック」なのです。

 

自己啓発系の本なんかでは「常識を疑え、打破しろ」などというメッセージがつづられているが、実際のところ、常識というのは社会をスムーズに動かすためのアルゴリズムの一種であり、最適な場合も少なくないので、疑ったり抗ったりするのはハイコストで結果が得にくい。

 

もう少し説明すれば、常識には「ある特定の場所や人間の間だけで通用する常識」と「広く世界で通用する常識」があり、いわゆる常識が前者と校舎のどちらかであるかを選別し、前者だけを疑ったりして見ることが必要なのだ、ということである。「厚いストック」については本書を参照のこと。

 

様々な立場の人を尊重するのは、究極の知的怠慢である

 

文化相対主義者を気取って「いろいろあるよね」と知ったかぶりに語れば一見リベラルなインテリに見えるかも知れません。しかし、この態度は究極の知的怠慢だということを忘れてはなりません。私たちが本当にやらなければならないのは、表面的な差異を文化相対主義の名の下に全肯定してサラリと受け流してしまうということではなく、差異を見いだし、その差異を生み出す構造的な要因まで踏み込んで理解した上で、その違いをリスペクトしつつ全肯定するということです。

 

「知的怠慢」というのはちょっと攻撃的な物言いだが、要するに「深く考えずに、自分の立場をコミットメントもせずに済ませてしまう思考」を糾弾しているわけなのである。私は誰かと争うのが面倒に感じるので、けっこうこの知的怠慢な態度をとってしまうので反省したい。

 

ここでするべきは、自分と相手で思考・思想の相違があった場合、その差異はどこにあり、例えば自分は相手の言い分のどこがなぜ気に入らないのかなどを深く考えることだ。

 自分と相手との違いを正確に認識たうえで相手の在り方を肯定するか判断し、意見を表明することこそが真に相手を認めることであって、そのプロセスを経ないまま「まあ、人それぞれだよね」と結論付けるのは、思考停止により差異そのものを全否定することと同義であるというのは肝に銘じておきたい部分だ。

 

今日の一首

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7.

天の原 ふりさけ見れば 春日なる

三笠の山に 出でし月かも

安倍仲麿 

 

現代語訳:

広々とした空をはるかに見上げると(月が見える)

(ふるさとである)春日の三笠山に出ていた月と同じなんだなあと思うことよ。

 

解説:

遣唐使として唐に渡った安倍仲麿が、中国の月を見て日本の故郷を懐かしんでいる歌。彼はうっかり唐の皇帝にかわいがられてしまったがゆえに30年も滞在させられた。しかも、ようやく帰れるはずだった船は嵐にあい、泣く泣く中国に戻って結局そこで一生を終えることになったとか。どうやってこの歌だけが日本に戻り、小倉百人一首に選らばれることになったのか、その経緯がちょっと気になるところ。

 

後記

 

意外と知らない人も多いけれど、Kindleでマーカーを引いた部分はコピペできる。ただし、Kindleアプリ上ではなく、こちらのサイトで。

 

https://read.amazon.co.jp/notebook

 

便利。

 

 

今回はこんなところで。

それでは、お粗末さまでした。